「無題」 (五)―②

2012-05-26 16:28:05 | 小説「無題」 (一) ― (五)


          「無題」

        
          (五)―②


 清算を済まして改札を抜け、土産物店が並ぶ駅前の商店街を少し

歩いたが、まったく日本の駅前は何者かによって規制されているか

のように何処も彼処も似たり寄ったりですぐに飽いてしまい、確か

公共浴場があったことを思い出してそっちへ向かった。私は温泉は

好きでも、いわゆるスーパー銭湯は嫌いで、券売機が置いてあって、

百円が戻ってくるロッカーがあって、更に浴室が直線で仕切られた

タイル張りの湯舟だったりすると普段の生活を引きずってしまい、

湯に浸かっても寛ぐことができず、何か無駄をしているように思え

てきて躰を洗った後はさっさと湯に浸かって上がりたくなる。それ

は入浴であって湯浴みではない。そういう浴場では見知らぬ者同士

がことばを交わすことも憚られ、誰もがただ淡々と作業をこなす。

つまり、裸同士の付き合いが生まれない。更に言えば、浴場からは

時計もテレビも隠しておいてもらいたいものだ。

 などと思いながら浴場に着くと、さっそく番台の人に「先に券売

機で券を買って下さい」と言われた。仕方なく言われた通りにして

脱衣場ののれんを破ると壁際の「百円は戻ってきます」と注意書き

されたロッカーに服を投げ込んで浴場の引戸を開けた。真っ直ぐに

敷かれたタイル張りの湯舟から流れ落ちる源泉が掛け流されて溢れ、

湯面を揺らして天窓から差し込む日差しを煌めかせていた。開いて

間なしのこともあって洗い場にたったひとりだけ老人が居るきりだ

った。掛け湯をして六畳間ほどの浴槽に入ると思ったよりも深かっ

た。縁には中程に足置きの段差が設えてあったが躰を湯に浸けるに

は立っていなければならなかった。中腰になって肩まで浸かってい

ると、ハテ、自分は何でこんなことをしているのだろうかと落ち着

かなかった。早々に入浴を切り上げて上がろうとした時、洗い場か

ら老人が近付いてきて、

「見んお方ですな」

と、声を掛けてきた。ずいぶん高齢に見えたが言葉ははっきりして

いたし何よりも気概があった。痩せてはいたが無駄のない引き締ま

った躰だった。私は足場の段差に腰を置いて、

「ええ、東京から来ました」

「それはそれは。お仕事かなんかで?」

「えっ、まあ、そんなところです」

そのあと、老人はここの一番風呂に入るのが日課であるということ

を話し始めて、今は引退してしまったがずっと漁師をしていたこと、

ところが、二人いる息子は後を継がないで一人は陸に上がって農業

をやっていて、もう一人は東京で会社員だとか、そして、

「東京のどちらですか、おたくは?」

私が答えると、

「そうですか」

と言っただけで、どうも息子が暮らす馴染の土地と違ったようでそ

れにはそれ以上触れずに、

「まあ、漁師も稼ぎにならんですから仕方ないですけど」

と言いながら、面白いように獲れたという昔ばなしを話し終わると、

湯舟から上がってタイル張りの地べたに座って、今度は聞いてばか

りいた私に、

「あなたはどんなお仕事をされているんですか」

と、応分の身元を明かすように迫ってきた。私は、

「スーパーに勤めてます」

と答えると、

「それはいいところに勤めてらっしゃる」

と、知るはずもないのに持ち上げて、分ってはいても私もつい乗せ

られて、

「いやあ、時間ばっかり長くって」

「何でも、東京じゃスーパーも夜中までやってるんでしょ」

「競争ですからね」

「ふーん、そりゃあたいへんだね」

と水を向けられると、その場限りの気兼ねのない相手に、今度は私

が日頃の鬱憤を愚痴った。すると老人は、私の嘆きに同感するよう

に、

「わしらもずーっと働いてばっかりだった」

「ええ」

「どうしても家族を食わせないといかんからね」

私はそのことばに、これまで自分のしてきたことが間違いじゃなか

ったと認められた思いがして癒された。老人は、

「働いて、働いて、働いて、それで死んでいくんだ。はっはっはぁ

ー」

そのことばには重い実感がこもっていて、身につまされた。それで

も、悔しさは微塵も感じられなかった。他人が何と言おうとそうす

る他なかった現実の、迷いのない諦めのような自信に頭が下がった。

家族を養うために「働いて働いて働いて」そして「死ぬ」、何が間

違っているというのか。私は、それ以上のことを言えなくて黙った。

まもなく、老人とはなじみの数人の客が入ってきて、ふたりの会話

は途切れ、日課のように繰り返されていたにちがいない世間話に話

題は移った。

                                  (つづく)  

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村



「無題」 (五)―③

2012-05-25 11:13:50 | 小説「無題」 (一) ― (五)
 



          「無題」


           (五)―③



 私は、老人の知人たちがやって来て水を差されたので湯から上が

った。その老人とは一期一会に終わった。身支度をしてネクタイは

せずに背広のポケットに入れた。

「あっ!」

今これを書いていて気付いたんだが、ロッカーのカギを開けた時に

戻ってくる百円硬貨を取るのを忘れていた。

「くそーっ!」

だからあのロッカーは嫌いなんだ。それにしてもいったい何のため

に百円硬貨を入れなきゃなんないんだ?却ってくるなら入れなくた

ってよさそうなものじゃないか。

 外へ出て駅へ向かった。家に帰ろうと思ったが、駅まで来るとな

ぜか心変わりしてしまった。そして、並んでるタクシーに乗り込ん

だ。

「どちらへ?」

実は、知り合いがペンションを営んでいたが、いつも家族で予約を

入れて宿泊していたのでひとりで更に飛び込みで行くには洋風だっ

たが「敷居が高かった」。

「お客さん、どうしました?」

ドライバーは決して愛想の悪い人物ではなかったが、急かされると

こっちの愛想が悪くなった。

「とりあえず山の方へ行って」

「やっ、山って、どこぉ?」

「だから海の方じゃなく山の方へ」

「ええっ?」

「あっ、美術館があったよね、ほら、何とか美術館」

彼は思い当たる美術館の名を言った。私は思い当たらなかったが、

「ああ、それそれ」

すると、何も言わずにギヤーを入れハンドルを切った。海岸線沿い

に走る道路は潮の香りが漂い鼻孔を刺激したが、気持ちのいい風が

湯上りの火照った躰をくすぐりすぐにそれを忘れさせた。道はまも

なく上り坂になって四方をうす緑いろの若葉を付けた樹木に囲まれ、

草花の混じり合った匂いがそれに替わった。私は、ガラスを降ろし

た窓からその景色を眺めながら、

「もう春だね」

と呟くと、ドライバーはしばらく間を置いてから、

「そうですね」

とだけ答えたっきりだった。車の中の沈黙を鴬の覚束ない初音が破っ

た。まだ稽古中で人には聴かれたくないのか辺りの様子を窺いながら

忘れた頃に囀った。私は、

「運転手さん、ここで止めて」

「えっ?」

「ここで降りる」

「こんなとこで降りても何もないですよ」

「うん。しばらく山の中を歩きたいんだ、ここでいい」

私はメーターを見て紙幣を出して釣りは要らないと言うと、ドライ

バーは急に私の身を案じ始めて、

「こんなとこで降りたら、帰りのタクシー拾えませんよ」

そう言って一枚の名刺を差し出した。

「もしも、困ったらデンワして下さい。何時でも迎えに来ますから」

私は、

「ありがとう」

と言ってその名刺を受け取って車を降りた。すると、運転手は車を

Uターンさせて私の傍らへ止めてから、

「あのー、差し出がましいことを言いますが・・・」

「はあ?」

「お客さん、決して早まっちゃぁいけませんで」

私は、彼が何を憂慮しているのか判ったので、

「はっははっ」

と一笑に付して、ドライバーをからかうつもりで、

「あっ!しまった、ロープを持って来るの忘れた」

と言いながら背広のポケットに手を突っ込んで、何気なく中のモノ

を引っ張り出すと、ズルズルとネクタイが出てきた。


                                 (つづく)        
にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

「無題」 (五)―④

2012-05-22 19:55:39 | 小説「無題」 (一) ― (五)



          「無題」


           (五)―④


 サラリーマンが首に締めるネクタイは、もしも仕事で取り返しの

つかない失態を犯した時に自ら身を処すために予め用意されたア

イテムなのかもしれない、などと思いながら春の風を満身に浴びて

腕をのばして伸びをした。山の斜面を垂直に切り取って舗装された

道路からは遥か霞の向こうに大海原が一望でき、絶景の先に斜め

に傾いた水平線が見渡せた。その水平線を眺めていると、自分がい

ま立っている道路が傾斜しているのに気付いた。上空では鴬が近く

で囀ったと思ったらしばらくして彼方の方から声が聴こえてきたり

した。しかし、どうもその鳴き声が何時まで経っても鴬本来の鳴き

声には到らなかった。否、そもそも本来の鳴き方などというものを

彼らは持っているのだろうか?我々が地方によって方言が違うよう

に、彼らも自分たちの鳴き方こそが正調だと思っていても全然おか

しくはないではないか。例に日本中の鴬の鳴き声を集めて聴き比べ

てみれば、それこそ様々な個性の鳴き方があることに気付かされる

のかもしれない。まるで私に付き纏うように囀り、私はその声に励

まされて黙々と歩いて喉が渇いてしかたなかった。

「しまった、街で飲み物を買っておけばよかった」

と悔やんでいると、はるか前方の片隅にポツンと自動販売機が置か

れていた。まさか、砂漠にオアシスの蜃気楼を見るように幻ではな

いかと疑いながら近付くと、古い自販機だがちゃんと無駄な光を点

滅させてスポーツドリンクさえ用意されていた。「おお、さすが日本!」

と、思いながらズボンのポケットに小銭を探ったが運悪く五十円硬貨

と後は十円硬貨ばかりで百円硬貨の持ち合わせがなかった。

「しまった!」

そうだ、さっきタクシーを降りる時にお釣をもらえばよかったと思

い返しても後の祭りだった。しかも、ロッカーの百円を忘れずに取

っておれば何のことはなかったのに。私は、仕方なく内ポケットか

ら財布を取り出して千円札を投入する決心をした。ただ、それは結

構勇気のいることだった。実際デンキが点滅しているが、置かれた

場所や使われた形跡からして正しく作動してくれるかどうか甚だ心

許なかった。仮に、百五十円を投じて水泡に帰してもまあ諦めがつ

くが千円札を賭けるのは博打だった。私は、恐る恐る紙幣投入口へ

千円札をあてがった。すると、私の思いなど気付かう様子も見せず

に飢えたウワバミが獲物を一飲みするようにスッと吸い込んだ。しば

らく固唾さえ飲み込まずに様子を見ていたが何の変化も起こらない。

仕方なく「返却ボタン」を押してみたがまったく吐き出す気配もない。

「あああ、やってもうた」

不安は実現した。

                                  (つづく)

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

「無題」 (五)―⑤

2012-05-20 06:19:20 | 小説「無題」 (一) ― (五)


           「無題」


            (五)―⑤


 「押す」と書かれたボタンを片っ端から押しまくっても自販機は

云とも寸とも言わなかった。喉の渇きに加えて気持ちまで渇いてき

た。遂には収まりがつかずに叩いたり蹴ったりしたがどうにもなら

ない。すると、黙って堪えていた自販機が、

「どうかしましたか?」

と喋った。そんな馬鹿なと思いながら裏側を覗くと、道路下の斜面

の樹木に埋まるようにして民家の瓦屋根が見えた。こんなとこに家

があったのかとその時まで気づかなかったが、その家の者と思われ

る男が玄関先からこっちを見上げながら両手を口に当てがって叫ん

でいた。

「どうしました?」

私は、

「ジュースが出ない!」

と、その男を見下ろしながら言った。男は道路へ通じる脇道をゆっ

くりと大股で上って来ながら、

「それ、千円札は使えませんよ」

私は、それなら始めから断り書きをしておけと思いながら、

「あっ、千円札入れました」

と答えると、

「貼り紙がしてあったでしょ」

「いいえ」

「あれ?」

彼は到着すると自販機を点検して、

「あ、剥がれたんだ」

そう言って鍵を使って中を開けた。そして、ウワバミの喉元に詰ま

った千円札を取って私に返した。

「すみませんでした。で、何を買うつもりでしたか?」

「あ、スポーツドリンクを」

と言うと、その中からスポーツドリンクを取って差し出した。私が、

小銭は持っていないと言うと、迷惑をかけたから要らないと言った。

彼は、私と同じ年恰好だったが明らかに勤め人ではなかった。まる

でゴルフにでも行くような恰好で真っ赤なポロシャツを着て、白い

タオルを首に巻き、イルカのマークが付いた紺色の帽子を被り、た

だゴム長を履いていた。何よりもそう思わせたのは日焼けした顔だ

った。まだ春になったばかりでこんなに焼けるものなのか。それに

無精からなのか敢て中途半端に揃えているのか、白いものも目立つ

髭をはやしていた。もし、彼が東京の如何なる場所に現れても間違

いなく怪しい人物と警戒されるだろう。ちょっと前に流行ったいわ

ゆるチョイ悪親父風だった。私はこの手の人間が元来苦手だった。

若い頃はきっとシティーボーイを気取っていたに違いない、そして

こう吐いていたに違いない、

「世の中は男と女だけなんだからさ、もっと楽しく生きなきゃ」

って、おまえがそのことしか考えてないだけじゃないか。

「どうしました?」

「あっ!いやぁ、よく焼けてますね」

「ああ、百姓ですから」

「あっ、農家の方ですか」

そう言って真っ赤なポロシャツに眼をやると、彼も気づいて、

「あっ、これ。ほら、畑に出るとどこに居るかわからないでしょ、

家の者が見つけやすいように」

「なるほど」

どうやら私は勝手な先入観に囚われていたようだ。不審な身形なら

その場所でははるかに私の方が相応しくなかった。くたびれたスー

ツに革靴で山の中をとぼとぼと一人歩いているのだから。

「おひとりですか?」

彼への詮索はすぐに反射して自分に返ってきた。私は、余計なこと

を聞かなきゃよかったと思いながら、何故自分がこんな身形でこん

なとこにに居るのかを説明するのがめんどくさくなったので、適当

な方便を探した。

「ちょっと失礼」

そう言ってペットボトルの栓を捩じると歯軋りのような音がした。

「あ、どうぞ」

そして横を向いてラッパ飲みでスポーツドリンクを喉に流し込んで

から、

「ほら、この先に美術館があるでしょ」

「ええ、あります」

「私はどうもそっちはレイマンでして、連れが何時までも観るもん

ですから、それよりも山を見ていた方がいいって言って飛び出して

来たんですよ」

「レイマン?」

「あ、失礼。素人ってことです」

私は優越感を隠して物静かに言った。すると、

「ああ、なるほど。あれ?でも今日は何曜日でしたっけ」

「えーっと、確か水曜日ですね」

「そうですよね。美術館って休みじゃなかったですか?」

私は焦ってその質問は無視して、

「あっ、そろそろ戻らないと連れが待ってますので。色々ご面倒を

お掛けしました。それじゃあ」

頭を下げて冷や汗を掻きながら足早にその場を立ち去った。


                              (つづく)

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村