「アース・オーバーシュート・デー」改稿

2017-09-07 06:18:04 | 「パラダイムシフト」

        「アース・オーバーシュート・デー」改稿


 国際シンクタンク「グローバル・フットプリント・ネットワーク

(GFN)」は、2017年8月2日が、2017年の「アース・

オーバーシュート・デー」であると発表しました。これは、人類に

よる自然資源の消費が、地球が持つ一年分の資源の再生産量とCO2

吸収量を超えた日を意味します。つまり、この日以降の2017年の

残された日々を、人類は地球の生態系サービスの「原資」に手を付け

ながら、「赤字状態」で生活していくことになります。

[https://www.wwf.or.jp/activities/2017/08/1378201.html]

 


 われわれが追い求める幸福な暮らしは地球環境を貧しくして成り立

っています。そして、われわれが消費したり排出したりして失わせた

地球の再生能力はそのまま未来の地球環境の貧しさになります。すで

に地球環境は再生可能な自然循環システムが賄い切れないほどの自然

破壊や温室効果ガスの排出によってその裂け目は年々大きくなってい

ます。年単位で見ると8月2日以降の地球環境の再生能力は未来の地

球環境を取り崩して使っているのです。つまり、こんな生活がいつま

でも続くはずはありません。すでに地球温暖化がもたらす気候変動に

よって異常気象などの様々な弊害がニュースによって伝えられその限

界を教えてくれています。近代文明が永続性のない繁栄であるとする

ならそれは人類進化の傍流に過ぎません。今の日本の暮らしを世界中

の国が望めば地球がもう一つあっても賄いきれません。やがてその傍

流は行き止まりゲームオーバーを迎えるに違いない。すでに新興国だ

けでなく途上国でさえも全速で近代化を進めているからです。つまり

、一つしかない地球の上でわれわれの欲望はもっと多くの地球を求め

ているのです。フランスの思想家サルトルはかつてこう言いました

「我々はつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそう

したら、どんなことになるだろうと。」

 近代科学文明はその局面に於いては自然を支配することができまし

たが、しかし永続的な持続性はありません。自然循環は回帰と生成に

よって再生されてその循環は謂わば永久運動ですが、科学技術の生ん

だ動力エンジンが排出するガスが再びオイルに再生されることはあり

ません。循環性を持たない科学技術が自然循環に繋がって、閉じてい

た系が寸断され循環が崩れようとしています。しかし、われわれは自

然環境が破壊されればまず生存そのものが危ぶまれる自然内存在であ

るということを改めて認識しなければなりません。そして、どうして

も近視的にならざるを得ない科学技術を、もう一度グローバルな視点

から見直さなければならい。 

                          (おわり)


「世界限界論」―①

2016-04-13 22:05:25 | 「パラダイムシフト」

         「世界限界論」


 アメリカ大統領選挙の予備選挙が始まって、民主党の本命と目されて

いたヒラリー・クリントンは、自らを「民主社会主義者」と公言して憚

らないバーニー・サンダース上院議員が若者たちの支持を得て躍進した

ことによって、初戦のアイオワ州では僅差で勝利したものの、続くニュ

ーハンプシャー州では敗れて思わぬ苦戦を強いられている。いまや世界

経済はグローバル化によって余白を埋め尽くされフロンティアを失った

近代資本主義は停滞を余儀なくして、ひとりアメリカだけがITイノベ

ーションがもたらした「アメリカン・ドリーム」に酔い痴れているもの

とばかり思っていたが、そもそもIT技術とはこれまで労働が担ってき

た情報伝達手段を省力化させて情報産業から労働者を追い出し、代わっ

てIT利権に与るごく少数の者だけが巨万の富を手にしたが、一方で大

多数は仕事を失い今をどうするかに悩まされて、いつかの夢を追い求め

る余裕などないのかもしれない。それはわが国における経済格差問題と

同じで、否たぶんそれ以上に違いないが、すでに近代文明が産み出す夢

も底を突き「アメリカン・ドリーム」から覚めた若者たちが政治に対し

て「寡なきを患えずして、均しからずを患う」声が上がるのは自由の国

アメリカと雖も「世界限界論」の下では至極当然のことだと思う。否、

それどころか「世界限界論」、それは近代科学文明のグローバル化がも

たらす人口爆発、それに伴って生じる資源枯渇や環境破壊などの限界が

グローバル化して、まず近代科学文明の総本山であるアメリカこそが最

大の影響を被るのは明白である。70億の人間が近代的な生活を望むには

地球はあまりにも小さすぎるか、或いは我々が大き過ぎるか多過ぎるの

だ。つまり「世界限界論」とは地球の限界がもたらす「成長の限界」で

あり、経済成長の限界とは資本主義経済の限界であり、それは取りも直

さず「アメリカン・ドリームの終焉」に他ならない。

                          (つづく)


「世界限界論」―②

2016-04-13 22:04:16 | 「パラダイムシフト」

 

       「世界限界論」―②


 次期アメリカ大統領候補の有力者たちの顔ぶれを見ていると、今のア

メリカが行き詰った状況に置かれていることを窺い知ることができる。

順当なら民主党のヒラリー・クリントンが優勢のまま決まりのはずだが

、もちろん彼女が依然最有力候補であることに間違いはないが、ところ

が彼女に対抗する候補者といえば、上述のバーニー・サンダース上院議

員や、共和党では実業家で人種差別的な暴言を繰り返す国家主義者ドナ

ルド・トランプ氏が支持を集めている。過去のアメリカ大統領選挙なら

多分どちらも早々と撤退せざるを得なかったはずだが、どうした訳か支

持を増している。その背景には「チェンジ!」と訴えながら何も変えら

れなかったオバマ政権に対する国民の不満が高まっているのかもしれな

いが、私は決してオバマ大統領が無策だったとは思っていない。と言う

のも「世界限界論」の下では流動性が失われて経済成長が止まり、とこ

ろが政治がやれることは知れていて精々現状を維持させることくらいが

限界で、どこかの国のように金融政策によって実体経済を動かそうすれ

ば、何れそのツケは国民が負わされることになるだろう。

 先ごろ日銀はマイナス金利の導入を決めたが、すでに複数の国家で導

入されているが、それはまさに資本主義経済の終焉の始まりに他ならな

い。かつて、どこか北欧の高福祉国家を取り上げたテレビ番組で、当局

が移民者に生活費を渡す際に「貯蓄せずに全部使い切って下さい」と断

っていたのを観て驚いたが、そもそも通貨は流通させてこその「通貨」

であって、流通しない通貨は何の価値も生まない。資本は生産に投資さ

れて余剰価値を生み、もちろん生まない場合だってあるが、しかし投資

されない限り価値を増大させることはできない。グローバル経済の下で

安価な労働コストの国に生産を奪われた資本は金融市場に投機され価値

を生まないマネーゲームで貨幣価値を増やそうとした。マイナス金利と

は価値を生まないマネーゲームから資本を締め出して実体経済へ向かわ

せるための手段であるが、そもそも生産によって収益が見込めない実体

経済に戻っても経済成長は見込めない。資本は投資先を求めて株式市場

へ流れるが実体経済からかけ離れた投資は再びバブル経済をもたらす。

多分それが巨額の負債を抱える政府の狙いだと思うが、しかし「成長の

限界」を迎えた世界経済の下でバブル崩壊後の日本経済を再生させるこ

とはまず不可能に違いない。そして再びデフレスパイラルの轍に舞い戻

るのか、或はハイパーインフレに見舞われるのか、それはまったく正反対

と思われるかもしれないが、例えば走行中の自動車が障害を避けるため

に急ブレーキを踏んで避けるのか、或いはアクセルを踏み込んで走り抜け

て避けるのか、または急ハンドルを右に切って避けるのか左に切るのか

程度の差に過ぎない。どちらにしろ経済危機は避けられない。

                        (つづく)

 

 


 


「世界限界論」―③

2016-04-13 22:01:28 | 「パラダイムシフト」

          「世界限界論」―③


 アメリカ大統領選挙のことから日本経済へと話が逸れてしまったが、

そもそもアメリカ経済が行き詰って日本経済がその影響を免れることな

どないはずで、先ごろアメリカでは奴隷の子孫でも大統領になれると発

言して非難された議員は、それは参議院憲法審査会の場で日本がアメリ

カの51番目の州になった場合に如何なる憲法上の問題が生じるのかを参

考人に質問した時の発言だが、それにしても日本がアメリカに併合され

た場合を国会議員が口にしたことに驚かされたが、つまりそれほどまで

に日本は政治も経済もアメリカに依存していて、アメリカ経済を脇に置

いて日本経済やさらには世界経済を語ったところで意味がない。さて、

その資本主義経済の総本山アメリカでは格差社会が極限まで達し、「ア

メリカン・ドリーム」から目が覚めた若者たちは「均しからずを患」い

て民主社会主義者バーニー・サンダースを支持している。グローバル経

済によって近代文明が世界を覆い尽くし「成長の限界」に達した世界経

済の中で、その優位性が失われ始めたアメリカは果たして自由主義経済

を改めるのだろうか。「世界限界論」とはグローバル経済がもたらした

近代文明の限界であり、ゼロサム社会の下で更なる豊かさを求める者は

他者と奪い合うか、そうでなければ等しく分け合うしかない。「世界限

界論」の下で他者と争って「成長の余地」を奪い合うことが認められな

いとすれば、つまり争いは避けなければならないとすれば、社会秩序を

維持するためには民主的な社会主義社会へ向かわざるを得ないと思う。

そして上述の国会議員の言を借りて言えば、アメリカは「奴隷が大統領に

なれるほどのダイナミックな変革をする国」であるなら、「世界限界論」の

下で宗旨替えをして、資本主義経済をあさっり棄てて社会主義国家へと

変貌することだってありうるのかもしれない。

                       (おわり)


「インターネットと儒教文化」

2013-05-27 06:35:33 | 「パラダイムシフト」



      「インターネットと儒教文化」


 丸山真男は、自身の著書「日本の思想」(岩波新書C39) の中

で、社会文化の組織形態を二つに分けて「ササラ型」と「タコツボ

型」と図式化し、先の原発事故でマスコミにも散々叩かれた「原子

力村」のような既得権益に群がり、しかし、組織がそれぞれ孤立し

てタコツボが並列している形態をタコツボ型とし、それに対して個

人は孤立していても共通の社会基盤の下に繋がっている形態をササ

ラ型と分類した。そして、日本社会はタコツボ型だと言っている。

 さて、情報技術の更なる発達によって高度化したネット社会の下

で、これまで組織、地域、国家といったカテゴリーの中だけで共有

されていた内輪だけの論理が好むと好まざるに係わらずそれらの壁

を簡単にすり抜けて情報化され誰もが知ることになり、タコツボ型

組織の論理が批判の的にされているが、しかし、そもそもインター

ネットとは個人主義を重んじる西洋文化のササラ型社会からもたら

された技術で、「寄らしむべし知らしめべからず」を旨とする儒教

文化の下で、情報は個人には与えず「黙って従え」と命じるタコツ

ボ型社会の下で新しい発想が生まれなかったのは宜(むべ)なるかな

である。われわれがネット上でもタコツボ的繋がりを求めるのに比べ

て、彼らは早くからパソコンをケイタイ電話のように外で持ち歩きたい

と願っていたのではないだろうか。つまり、インターネットとはタコツ

ボ型文化では無用のササラ型文化のツールであり、それは、丸山真

男が図式化した「ササラ型」そのものではないか。

 かつて、松下電工の社長だった松下幸之助氏は「コンピューター

はやらない」と言ったが、そもそも孤立した組織が並列しているタ

コツボ型の社会では、たとえ、それぞれの企業は独自の優れた技術

を持っていてもそれぞれの技術を晒して統一された規格を共有す

るなどということが困難に思われたからに違いない。そして、何よ

りも終身雇用を約束して忠義を求めるタコツボ組織にとって、IT

革命が果たした情報化社会は必要が認められなかっただけでなく

儒教文化と相容れない好ましからざる道具だった。わたしは、日本

のIT革命への対応が後手後手を踏んだのは縦社会のタコツボ型

社会と、それを転換させることを望まなかった電器産業界のカリス

マであり、晩年は企業家というよりもむしろヒエラルキーに守られ

た宗教家と言った方が相応しい松下幸之助氏の一言によって、それ

まで世界の電気機器の技術革新を先駆けてきた日本の電器産業界が

その時だけは足並みを揃えて二の足を踏み、更に優れた技術者たち

も自らの自立心を頼まずタコツボに留まり、ところが、存亡が危ぶ

まれ終身雇用が崩れるとあっさり新興国の誘いに寝返ってその技術

を投げ売り、遂には母国の電器産業を脅かしていることが笑い話に

しか聞こえない。パナソニックやシャープ、ソニーといったかつて

のこの国を代表する企業が、最先端の技術力を有しながらIT革命

をリードすることができなかったのは、縦社会のタコツボから抜け

出すことができなかったからではないだろうか。

 しかし、いくらこの国の伝統文化を守ろうとしても、情報だけで

なく経済までもグローバル化した世界の潮流は国境の堰を切って水

平を求めて押し寄せてくる。やがて、グローバリズムの波はナショ

ナリズムを呑み込んでしまうだろう。われわれが苦労して「修正し

た文化」を守ろうとしても、情報のグローバル化は労せずに検閲を

必要としない「無修正の文化」を送り届けてくるのだ。何もわたし

はこの国の伝統文化を蔑(なみ)するつもりはない。だからと言って

極端な原理主義への回帰を主張するナショナリストの意見には首肯

できない。文化とは伝統の上にしか築かれないというのは首肯して

も、伝統さえ守れば新しい文化が生まれるとは思えない。過去ばか

り見ていては未来は見えない。ただ、忘れてはならないのは、グロ

ーバリズムでさえも文明史の一つの通過点であるということだ。


                                   (おわり)