「あほリズム」
(345)
人はそれぞれの視力によって対象を捉える。つまり、同じものを視て
も視力の違いによって捉え方は異なる。たとえば、玉ねぎを見ても色や
形といった表象に頼って認識するが、中が腐っているかどうかまでは判
らない。たぶん、玉ねぎを専門に扱っている者なら表象だけで中まで判
るかもしれないが、それさえも長年の経験によって培われた知識による
もので、決して中まで視えているからではない。誰もすべて見通す視力
などは持ち合わせていない。さて、世界情勢の変化によって国の在り方
を改めなければならなくなった時に、その変化を如何に捉えるかはそれ
ぞれの視え方の違いによって認識が異なる。ひたすら軍事力を増強し領
土拡張を目指す隣国をつぶさに視てきた専門家や政治家たちにとっては
、憲法に戦争の放棄を掲げるわが国はあまりにも無防備に映ることだろ
う。戦争放棄とは「我々は戦わない」ということだから、戦いを挑んで
くる相手からは逃げるか殺られるか、或は戦わずに降伏して相手の言い
成りになるしか道はないが、領土を棄てて逃げることは国家そのものを
失うことなので、殺られるか若しくは言い成りになるかしか道は残され
ていない。どちらも受け入れられないと言うならば、ただただ敵を作ら
ないことに尽きるが、もちろんそれさえも相手国に委ねられている。と
ころが戦犯を合祀する靖国神社へ首相が参拝して以来、かつて中国の周
恩来首相は日中共同声明の席上で「日本人民は軍国主義者の犠牲になっ
た被害者だ」と日本国民を擁護したにも拘らず、その軍国主義者が祀ら
れている靖国神社に日本人民を代表する首相が参拝したことに憎しみが
再燃し、日本軍による侵略の凌辱を受けた近隣諸国からすれば、他国に
対しては未来志向を求めながら過去の過ちを矮小化して歴史を歪曲しよ
うとしているのは他ならぬ日本政府であると映ったとしてもそれほど穿
った見方とは言えないのではないか。われわれは侵略された国の視点か
ら見て、自らの犯した過ちが彼らにどれほどの憎しみをもたらしたのか
を知らなければ憎しみの連鎖を絶つことはできない。近隣諸国の憎しみ
を鎮めることすらできずに戦争放棄を掲げても理解を得られるはずがな
い。こうしてわれわれは「戦争放棄」の放棄を模索し始めている。
話は視力から随分逸れてしまったが、われわれはそれぞれの視点から
物を見て判断するが、たとえばそれが玉ねぎなら訳けなく認識を共有す
ることもできるが、目に見えない対象、たとえば思想や考え方を共有す
るのはなかなか難しい。憲法論議などを聴いていてもそれぞれが自らの
立場からの意見を述べるばかりで、さながら互いに檻の中から吠えあっ
ているばかりで決して相手の意見を聞こうとはしない。それぞれの主義
主張がそれぞれの視点の違いからもたらされるとすれば、それは思想な
んかではなく「思い」でしかない。たとえば、私がこの国で生まれ育ち
この国のことばを話しこの国で生活していることが私がこの国を愛する
原因だとすれば、私の愛国心は何もこの国でなければならいとは言えな
い。仮に、私が中国で育ち中国の言葉を話し中国で生活していれば、た
ぶん中国に対する愛国心が芽生えたに違いない。つまり、それぞれが身
を寄せる国家と言う枠組みの中でそれぞれが「思い」を育み愛国心を芽
生えさせ愛国主義者へ到るとすれば、果たして枠組みに依拠した主義を
思想と呼べるのだろうか?いや、仮に思想と呼んだにせよ思想とはそれ
ぞれの立場からもたらされるとすれば、たぶん我々は思想を語っている
のではない、ただ自らの立場を語っているに過ぎない。
、