ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)

2019-05-27 04:35:48 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

     ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


 この本 (ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ) はすでにこのブログで何

度も取り上げましたが、実は難解すぎてよく分からずに引用ばかりして

投稿していましたが、もちろん読み終えた今もほとんどチンプンカンプ

ンなんですが、しかし、いまやグローバル経済の下で「成長の限界」を

迎え行き詰まりにきているこの時代にこれからどう生きるべきかを教え

てくれる貴重な哲学書だと信じて已(や)みません。以下は私がニーチェ

=ハイデガーが残した命題を手引きにして、稚拙ではありますが、行き

詰まりの近代社会を転換させることができるヒントがあるのではないか

と、極力引用を用いずに分かり易く記してみたいと思います。

 まずニーチェは、世界とは「生成」であると言います。そして「生成」

とは変遷流転する世界であり、そこでは「真らしきもの」は必然として

求められても絶対不変である「真理」そのものは幻想であると言うので

す。つまり変動する「生成」の世界では堅固に固定化された「真理」も

絶対ではないのです。では、「真理」とは何であるか?われわれの理性

が創り上げた認識である。たとえば、ここに書かれた文章は私の理性が

創作した認識であるが、これらは固定化された文章と今現在の認識であ

り、いずれ「生成」変化する社会にそぐわなくなる。過去に書き残した

文章を改めて読み返してみた時に、現在の自分の感想の違いに思わず恥

ずかしくなる。それは、われわれの理性が創り出すものは固定化したも

ので、それらはいずれ変遷流転する「生成」の世界にそぐわなくなるか

らだ。では、われわれが創作した様々なもの、それはかつては絶対的な

宗教もそうだったが、今や堅固に固定化された科学製品も劣化の果てに

「生成」の世界とそぐわなくなる。いや、すでに科学物質は、「生成」

の循環再生を阻害して、様々な自然環境の変化をもたらしている。

 そもそも形而上学《Meta-physics》とは、存在者(事実存在)として

の存在(本質存在)とは何であるかを思惟する学問で、それは古代ギリシ

ャのプラトン・アリストテレスから始まった。プラトンは、「生成」と

しての存在はいずれ消え去る不完全な仮象の存在でしかなく、完全な理

想の存在こそが真の存在であると言い、それを「イデア」と言った。こ

うして世界は事実存在としての仮象の世界と、本質存在としての「イデ

ア」の世界に二分され、「イデア」の世界は後にキリスト教世界観へと

引き継がれ、形而上学による「真理」の追求はやがて科学知識をもたら

した。しかしニーチェが言うように、世界とは変遷流転する「生成」で

あるとすれば、「真理」もまた固定化したものではなく、「真らしきも

の」として必然性はあっても真理そのものは「幻想」でしかない。あの

ー、今さら改めて言うのも何ですが、「変遷流転する真理」というのは

そもそも矛盾律ですから、当然「真理は一つで不変」でなければならな

いのですが、「生成」の世界にそぐわない固定化した「真理」は科学を

生み、科学知識は固定化した科学物質を創出し、変遷流転する「生成」

の世界で「永劫に回帰する」自然循環を妨げ再生を滞らせ「生成」のし

くみを破壊する。つまり、自然と科学の対立は、簡単に言ってしまえば

、生成変化する自然(生成)に固定化した科学(真理)がそぐわないことか

ら生まれる。ニーチェが言うように世界とは変遷流転する「生成」であ

るとすれば、固定化した科学技術は「生成」の進化をも妨げる。たとえ

ば、科学文明社会で暮らすわれわれの視力はすでに科学技術の補助「メ

ガネ」なしでは生活できないほどにまで退化している。いずれ人類は「

メガネを付けた生物」と定義する日が来るに違いない。こうして、科学

技術の進化への依存は身体的「退化」を加速させる。すでに我々は死だ

けでなく誕生でさえも科学技術の介入によって「生成」が人為的に歪め

られようとしている。ところで、科学技術によって人為的に管理された

生命とは「家畜」にほかならない。

 「真理とは幻想なり」であるとすれば、われわれの認識は「真理」に

 的中せずに世界は意味を失い「ニヒリズム(虚無主義)」へ陥る。真の世

 界(イデア)の頽落は同時に仮象の世界(現実)を無価値化する。「ニヒリ

 ズム」から脱け出すためにわれわれに求められるのは新しい価値の設定

 である。かつて、われわれは「神は死んだ」と聞いて、人間中心主義(

 ヒューマニズム)に価値を見い出し、科学技術によって「生成」の世界を

 作り変えてきた。しかし今や科学技術がもたらす環境破壊は「生成」の

 循環再生が妨げられ、グローバリゼーションの下ですでに限界を越えて

 、「生成」としての世界の持続可能性が危ぶまれている。地球温暖化が

 もたらす異常気象、自然破壊による環境変化、そして人口爆発などなど

 、いずれも限界に達した地球環境の下で、これまでは世界内存在(ハイ

デガー)として「正義」のお墨付きを与えてきた「ヒューマニズム」が

その価値を失うのもそう先の話ではないのかもしれない。いや、もっと

はっきり言おう、ヒューマニズムが蔑ろにされる最大の出来事とは戦争

である。「成長の限界」に達した世界経済の下では経済成長は「ゼロサ

ム」化して、たとえば、中国の利益はアメリカの損失になるだけで、世

界の生産量そのものは変わらない。だが、経済成長の奪い合いは次第に

熾烈になってやがて戦争へと至る。そして戦争はヒューマニズムを喪失

させニヒリズムを生む。  

 固定化した科学知識から作られた機械や科学物質はゴミにな っても「

生成」へは回帰せずに世界にとどまる。「生成」は材料として人間中心

主義の下に固定化した人工物質に造り変えられて持続可能性(サステイナ

ブ ル)を失い再生されなくなる。限界に達した近代社会は、行き過ぎた科

学主義を見直して「生成」としての世界に回帰しなければならない。「生

成 」への回帰はヒューマニズムの放棄にほかならないが、世界内存在とし

て「生成」の世界に依存しなければ生きていけないヒューマン(人間)にと

って仕方のないことだと思う。なぜなら、世界が終わっても、それでも人

間だけが残っていることなど起こり得ないからだ。気持ちは分かるが「人

命は地球より重い」訳がない。限界に達した近代社会を見直して、新しい

社会的価値を見い出すには大きな価値の転換が求められる。新しい価値定

立は、限界に達した科学主義をまずは「断念」する「覚悟」が求められる

。何故なら科学主義的視点からいくら新しい価値の創出を試みてもそれは

従来の延長線上の付け足しでしかなく、価値転換は起こらない。自動車に

乗って舗装された道路を走りながら前人未踏の世界を探しても見つかるわ

けがない。価値転換はまず意識転換から始まる。たとえば、地球温暖化問

題への危機感を共有し、いち早く対応した西欧諸国では官民を挙げて規模

の大小を問わずに継続して取り込んでいる。ところが地球温暖化問題を疑

うアメリカに依存するわが国は、かつては京都で開催された「COP3」

で環境意識が高まったがその時だけで終わってしまった。西欧諸国は日本

の環境技術へ期待を寄せていたが、われわれは従米主義から自立すること

ができなかった。つまり、われわれは未来よりも今を選んだ。

 

                           (つづく)