「明けない夜」 (3)

2017-08-23 22:02:22 | 「明けない夜」1~6
           「明けない夜」
 
            (3)
 
 
 契約社員としての警備員の仕事はその日その月を凌ぐだけで精一
 
杯だったが、協働で作業しなければならない仕事よりはうんと気が
 
楽だった。とは言っても、例えば交通誘導員の仕事は逐一無線で相
 
方の指示に従わなければならないし、何よりも勝手に持ち場を離れ
 
るわけにはいかなかったので生理現象が催してきた時には困った。
 
仕方なく衆人の眼の届くところで用を足したこともある。主に野外
 
での任務がほとんどで、穏やかな日ばかりではなく、猛暑や酷寒の
 
日でも、そして雨が降ろうが槍が降ろうが旗を振らなければならか
 
った。つまり、人への気遣いから解放されたからといっても決して
 
楽な仕事とは言えなかった。始業前にラジオ体操が始まり朝礼が終
 
わって持ち場に着くと、その場を離れられない現実に拘束された自
 
由意思は思索へ遁れようとした。赤い旗を上げろとか白を下げろと
 
かの指示に体は無意識に反応しても、頭の中は作業とはまったく関
 
係のない想念で満たされた。仮に、それらすべての想念を文字化し
 
て記述できたとしても、たぶん仕事に関する一言の言葉も見当たら
 
なかっただろう。つまり、彼もまたその仕事に対して使命感を持て
 
なかった。
 
 「どうして自分はこんな境遇に陥ってしまったのか?」
 
と、寛は紅白の旗を上げ下げしながら考えた。それまでにも不採用
 
通知が届く度に自分の不甲斐なさに落ち込んだが、しかし彼ひとり
 
だけが就職できなかったわけではなかった。実際、希望する会社に
 
上手く就職できた者など自分の周りでも限られていたし、また、希
 
望する会社に就職したはずの先輩たちの話を聴いても将来の明るい
 
見通しを口にする者などいなかった。それどころか会社に馴染めず
 
既に辞めてしまった者さえいた。それらの情報に接して次第に自分
 
だけが著しく劣っているわけではないと自らを慰めた。やはり、長
 
引く経済成長の停滞によって社会に歪みが生じ、そのしわ寄せが「
 
ロスジェネ」を生み、さらにグローバル経済によって「失われた二
 
十年」へと継がれて今に至っているのだ。そして、多分それは一時
 
的な停滞だとは思えなかった。これまでの国家間格差がグローバル
 
化によって国境の壁が低くなったために国内格差へと移行し、どこ
 
の国でも貧富の格差が拡大している。これまで一人に一個のリンゴ
 
が分け与えられてきたとすれば、これからは一個のリンゴを二人で
 
、否もっと多くの人と分かち合わなければならなくなるだろう。だ
 
とすれば、われわれはこれまで望んでいた豊かさを見直すかそれと
 
も分かち合うべき豊かさを他人から奪い取るかしか残されていない
 
。彼は、奪い合うこと、つまり本来の目的を見失う競い合いからい
 
つも身を引いてしまうので、いま身を置く境遇を甘んじて受け入れ
 
るほかないと悟った。そして、これまで斯くあるべきと望んでいた
 
理想を見直して、いま在ることの中から喜びを見つけ出すしかない
 
と思った。 
                        (つづく)
 

「明けない夜」(4)

2017-08-23 22:00:38 | 「明けない夜」1~6
        「明けない夜」
 
          (4)
 
 
 
 道路工事につき合って交通規制をしていると、何もわざわざ道路
 
の真下に上下水道のヒューム管を埋設しなくたっていいのじゃない
 
かと思えてくる。あっ、「ヒューム管」とは土管のことで、何でも
 
オーストラリアのヒューム兄弟が円筒形の型枠を回転させ遠心力に
 
よって強度を高める製造方法を考案したことからそう呼ばれてて「
 
何だ人の名前だったのか」と思ったが、どうせ今埋め戻している道
 
路もまたすぐに掘り返すことになるだろうという思いが継ぎ接ぎだ
 
らけのアスファルトを見ていると予測できる。たぶん、土地の所有
 
権とかがあって埋設できるのは道路の下しか残されていないからだ
 
ろうが、それならもっと弄りやすい路側帯か歩道の下に敷けばい
 
いのにと思いながら、通行規制の停止線で止まっている先頭の車に
 
白旗を上げて発進を促すと、ドライバーはスマホに夢中でまったく
 
気付かない。スマホが出てから誰もが現実から遁れて架空の世界
 
へ逃げ込む。「ロマンチシズム」を現実逃避と訳するなら、ネット文
 
化とはロマンチシズムそのものだ。スマホは退屈な現実からワンタ
 
ッチで「ここ以外の何処かへ」誘ってくれる夢の装置なのだ。遂に人
 
間は「退屈」を克服したのだ、ただ、目の前の現実を犠牲にして。仕
 
方なく先頭の車に注意しようと車の運転席側へ近寄ると、後ろの車
 
がクラクションを鳴らした。運転手はすぐに気がついて車を急発進さ
 
せた。そして目の前に居る私に気付くと咄嗟にハンドルを切った。
 
すると進入を防ぐために並べてあるカラーコーンに接触して5本ほど
 
なぎ倒して、それでもスピードを落とさずに走り去った。幸いにもコー
 
ンは工事車線に飛び散ったので後続車の妨げにはならかった。すぐ
 
に無線で相方に連絡して止めさせようとしたが、
 
「ああ、今走って行ったわ」
 
間に合わなかった。相方は、
 
「そんなことより、監督が今日はもう終わりだってよ」
 
「えっ、何で?」
 
「そんなこといちいち教えてくれないさ」
 
「何かあったのかな?」
 
「そうに決まってるだろ。5時までの予定だったんだから」
 
「またですか」
 
2週間前から始まった工事はこれまでにも二度途中で中止になった
 
。一度は測量ミスが原因でもう一度は何か教えてくれなかった。相
 
方は多分事故に違いないと言った。どの作業者もその原因について
 
口を開かなかったから、隠そうとするのは事故以外考えられないと言
 
った。
 
「いいじゃねえか、日当分は出るんだから」
 
「まあそうですけど」
 
「じゃあ午前12時から全面規制解除して本日の作業終了。会社の
 
方には俺が連絡しておく、以上」
 
「はい、了解しました」
 
おそらく三十はすでに超えていると思われる相方は、この仕事に就
 
く前は自衛隊にいたらしい。朝礼の前に少し話すだけでそれ以上の
 
ことは知らなかったし、知りたくもなかった。駐車場の片隅で制服
 
から私服に着替えてると、相方は、
 
「一杯付き合わないか、奢るよ」
 
「いやあ、自転車なんで」
 
「いいじゃないか、自転車なら。車じゃないんだし」
 
そこから自分の部屋までは自転車で優に一時間は掛った。そ
 
れに、見知らぬ街並みを自転車で走ることは決して嫌いではな
 
かった。だから覚束ない意識でペダルを踏みたくはなかった。誘
 
いを断ると、
 
「なんだ、付き合いの悪い奴だな」
 
「すみません」
 
実際、他人と付き合うことが鬱陶しかった。それどころか毎日
 
のニュースでさえも見出しが目に入ってもまったく関心が湧か
 
なくって記事を読む気にならなかった。いつの間にか自分だけ
 
が置いてけぼりにされたような、社会を共有しているという実感
 
がまるでなかった。だったら、いまさら社会に従って自己変革を
 
迫られて自己喪失するよりも、自己本位に従って自己満足して
 
いる方がずっと健全だ、と思った。 
                      (つづく)
 

「明けない夜」 (5)

2017-08-23 21:59:07 | 「明けない夜」1~6
             「明けない夜」
 
               (5)
 
 
 自転車で街の中を駆け抜ける爽快さは、街や通行人を置き去りに
 
して走り去る快感だ。それなら車やバイクの方がもっと速く走り去
 
ることができると言うかもしれないが、それらは自らの運動によっ
 
て車を走らせているのではないから実感が湧かないし、一瞬で通り
 
過ぎるために周りと間に感情の摩擦が生じない。摩擦のないものを
 
置き去りにすることはできない、ただ通過するだけだ。ドライバー
 
はドアを閉めた瞬間に周りから隔てられて世界を共有できなくなる
 
。たとえば、自転車を漕いで10キロ走った時の実感は、車で10
 
0キロ走ったとしても決して得られないだろう。諸々の感情は運動
 
からもたらされるのだ。運動と繋がっていないスピードに実感が追
 
い付かない。例えば、新幹線の駅のホームで通過する「のぞみ」を
 
見ても、「のぞみ」は一瞬で消え去って感情の取り付く「暇」がな
 
い。だから「のぞみ」を待つ人々は押し並べて言葉少なで、仮に個
 
人的な話でもしようものなら場違いに気付いて「空気を読んで」口
 
を噤む。すでに東京は到る所が所謂「近代社会」を象徴する都市化
 
が進んで、そして新幹線の駅のホームのようなよそよそしい場所ば
 
かりになってしまった。人々は動かなければならない「不自由」を
 
奪われてしまい、つまり感性を奪われて、所作をなくして理性に身
 
を委ねるしか術がなくなり、気分に従って道草を食ったり目的以外
 
のことに関心を寄せたりすることが無意味に思えてくる。すでにわ
 
れわれ自身も自動化された社会の中を流れる規格化された人格で個
 
性を矯められて画一化を迫られ、そして規格からハズレた者はハネ
 
られる。こうして、近代都市東京では「完璧で決定的な蟻塚のよう
 
な社会が奇跡的に到来しているのを目の当たりに」できる。(ポー
 
ル・ヴァレリー「精神の危機」より引用)
 
 その日暮らしの切り詰めた生活をしていると不安が先立つ。彼も
 
「何とかして貯蓄を残しておかないと」と思い、家賃の安い部屋に引
 
越すつもりでいた。だから自転車で走っていても途中の街の様子だ
 
ったり「空室あり」と貼紙されたアパートに目がいった。それどころか
 
、もしも失職して収入が途絶えた時のことまで想定して、かねてより
 
寝袋を買っておこうと思っていたので、時間があったのでホームセン
 
ターに立ち寄って、さんざん迷って一番高価なものを買った。実際、
 
家賃の振込が遅れて何度か督促されて、ホームレスになってしまう
 
不安を感じたこともあった。そんな時に、たとえば自分が女で、身を
 
任せることにさえ耐えれば何カ月分かの生活費を手にすることがで
 
きるとすれば、後々の後悔など犠牲にすることにそれほど迷わなか
 
っただろう。
 
 途中でラーメン屋が目に入って空腹を覚えたのでペダルを漕ぐの
 
を止めた。特別にラーメンが好きというわけではなかったが、何よ
 
りも早く食えるのでこの頃はラーメンばかり食っていた。東京はや
 
たらラーメン屋が増えたが、ただラーメンが美味しいからという理
 
由よりも気軽に「早く」食えることから人気があるのじゃないだろう
 
か。つまり麺類は日本に古くからある食べる者にとっての「ファスト
 
」フードなのだ。だからラーメンを並んでまでして食べたいとはまっ
 
たく思わなかった。もしも、味覚というものが口の中で咀嚼すること
 
から生まれるとすれば、たぶんラーメン好きの者は味覚オンチに違
 
いない。何しろ咀嚼などせずに一瞬で呑み込むのだから味なんて覚
 
えない、ただ通過させるだけだ。その店もかつては行列ができるほ
 
どの人気店だったが、最近では次々に現れる新しい店に客足を奪わ
 
れて落着いてしまった。昼時が過ぎて客も疎らになった店内に入って
 
カウンター席に座ると、応対してくれた店員に見覚えがあった。その男
 
の顔を見ながら「誰だったかな」と思い出そうとしていると、相手も同じ
 
ように自分の顔をじっと見て、
 
「高橋?」
 
と、寛の名前を言った。するとすぐに寛も、
 
「もしかして大島?」
 
と彼の名前を思い出した。彼とは経済学部の同期生で一時期よく話をし
 
たが、寛が転部してからは会わなくなり、留年してすっかり忘れてしまっ
 
た。ただ、彼の方は二年前に卒業してリクルーターが羨む大手商社に就
 
職したと人の口から聞いていた。だから寛は、
 
「何で、こんなとこに?」
 
と言ってしまった。彼は笑いながら「ああ」と言って、会社を辞め
 
てしまったことを打ち明けた。そして、
 
「簡単に言ってしまえばさ、世の中って搾取する者と搾取される者
 
がいるだけなんだ。もちろん何をするかもあるけどさ」
 
「じゃ、搾取する側になるためにラーメン屋を選んだのか?」
 
「って言うか、もうそういうのにうんざりして、独りでも食ってい
 
ける仕事を探してたんだ」
 
奥で腕を組んでいた店長と思しき中年の男が、
 
「おい、大島!余計なことばかり言ってねえでさっさと注文訊かね
 
えか」
 
と怒鳴った。彼は首を竦めて、いずれ独立して自分の店を始める
 
つもりだ、と小さな声で寛に言った。
                        (つづく)
 

「明けない夜」(6)

2017-08-23 21:57:15 | 「明けない夜」1~6
         「明けない夜」
 
           (6)
 
 
 寛は、部屋に着くとさっそく寝袋に入ってみた。ポリエステルの
 
冷たくてツルっとした感触が気持ちよかった。人工羽毛のクセのな
 
い匂いが新鮮だった。横になって丸まると胎内で産まれ堕ちる時を
 
俟ち続けた記憶なのか、なんとも言えない懐かしさを感じた。いっ
 
たい自分はまだ見ぬ世界にどんな夢を思い描いていたのだろうか。
 
思い描いていた夢を汚されていく現実に絶望して、いつの間にか眠
 
ってしまった。
 
「君はどういう仕事を望んでいるの?」
 
そう問い掛けるのは大学で学生の就職を支援する担当者だ。
 
「先生、ぼくは荒野を目指したいんです」
 
「えっ!コウヤ?」
 
「ええ、荒野です」
 
「それは、農業関係とかってこと?」
 
「じゃなくて、誰もやってないことをやりたいんです」
 
「たとえば?」
 
「それが、よくわからないんです」
 
「なんだ、今頃そんなことを言ってるようじゃダメだよ」
 
「まあそうなんですけど」
 
「それに、もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
 
「えっ」
 
「だってグローバル化ってそういうことでしょ。すでに北極だって
 
領土化されようとしているんだし」
 
「そうですね」
 
「すでに地球は人類によって征服されたんだよ、高橋君」
 
「なるほど、先生のおっしゃる通りかもしれません」
 
 夢から覚めた寛は、自ら寝袋を開いて現実の世界に戻ったが、
 
からだの重さだけが感じられてしばらく動くことができなかった。
 
「もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
 
夢の中で就職担当者の言った言葉が頭から離れなかった。確かに、
 
すでに地上は人間の靴に踏まれない場所などどこにも残されていな
 
いのだ。アフリカのジャングルもアマゾンの密林の奥地にも舗装道
 
路が敷かれ、その傍らにはエヤコンが完備された宿泊施設の看板が
 
立っていることだろう。そして近代文明に接した未開の人々が何を
 
望むかは明白だ。つまり、世界中の人々が風土や環境を無視して同
 
じ快適な暮らしを望んでいる。世界中がネットで繋がり近代化の波
 
は自然との共生に自足していた人々の足元を洗い流す。70億を超
 
える人々が情報を共有し自然環境に逆らった「人工の楽園」で暮ら
 
したいと思っている。しかし、荒野を失った世界とは余白を失くし
 
た世界である。世界という紙面は近代化という画一的な言葉で隙間
 
なく埋められて、もはや如何なる反論も読み取れなくなってしまっ
 
た。たぶん世界は、白紙に戻すことよりも黒く塗りつぶしてしまう
 
方が手間が掛らないだろう。では、黒く塗りつぶすとはいったい?
 
 体の重さに慣れて起き上がると、寛は机のパソコンを起動させた
 
。それは卒論を書き上げるために提出期限まで日夜向き合ってきた
 
デスクトップだった。転部を繰り返したためにファイルに保管され
 
た資料や論文の量も膨大で、卒業したからといって消去する気には
 
ならなかった。いや、それどころか卒業した後もそのテーマが頭か
 
ら離れなかった。そこで、自分の考えを何とかして発表する方法は
 
ないかと思ってブログを立ち上げた。タイトルは「社会を捉えなお
 
す」。それは、生命科学者である清水博氏の著書「生命を捉えなお
 
す――生きている状態とは何か」(中央公論社 中公新書, 1978年)
 
に感銘してそれからパクッた。
 
 以下は寛のブログ「社会を捉えなおす」から、全部は載せられな
 
いのでテーマである「社会を捉えなおす」だけを抜粋して載せます。
 
 
 
      *      *     *
 
 
 
 
           「社会を捉えなおす」
 
 
 
 人間以外の生命体を観察していると、たとえ微小生物であっても
 
、それらは生存を存続させるためだけに命懸けで生きている。仮に
 
、彼らに「何のために生きているのか?」と問えば、もちろんそん
 
な迷い言を聞く耳など持たないが、きっと「生きるため」と答える
 
に違いない。つまり、生命体は死の恐怖に怯えながらも命を繋いで
 
子孫を残すこと以外に生きる目的など知らない。ただ理性を弄ぶ人
 
間だけが生きることだけでは飽き足らなくなって「意味」を求める
 
。「意味」は生存を目的から手段に転化させて、かつては乏しい知
 
識から神を「創造」したが、いまやサイエンス(知識)という手段を
 
手に入れて目的(=欲望)を満たす。もはや人間は生存するためにだ
 
け生きているのではない。欲望が満たされなければ、つまり幸福で
 
なければ生きる意味がない。生きる意味を欲望を満たすことに求め
 
た人間は、生きることから逃れるために科学技術を駆使して拠って
 
立つべき自然環境を凄まじい勢いで破壊して再生の連鎖を断ち切っ
 
てしまった。近代化のレシピは世界各国に伝えられてエネルギー資
 
源に依存した近代社会が世界中に生まれようとしている。グローバ
 
ル化した近代社会では電気のない生活は考えられないが、しかし、
 
空気や水が汚染された環境を何故か真剣に考えようともしない。間
 
もなく、近代人で溢れ返った世界は、資源の枯渇と環境の変化が限
 
界に達して、後戻りのできないわれわれは文明の終焉を迎えること
 
だろう。たとえば自動車会社は、それまで車など買えなかった人に
 
売って急成長したが、誰もが車を持つようになってしまうと新たな
 
需要は減る。もちろん買い換える人も居るだろうが当初ほどの需要
 
を生まれない。国内での販売が頭打ちになって成長が見込めなくな
 
ると勝ち残った企業は海外に市場を求めるが、やがて世界中の人々
 
が車を持つようになると再び売れなくなる。残念ながら今のところ
 
地球以外に人は存在しない。そこで買い換えたくなるようなハイブ
 
リッド車を開発して技術革新によって需要を生もうとするが、それ
 
とても石油がなければ走らない。このようにグローバリズムが行き
 
渡ると資源の膨大な消費による枯渇、環境汚染の拡大とともに地球
 
の資源を資本とする世界経済も成長の限界を迎える。つまり、グロ
 
ーバル経済は世界資本主義の限界に近付いたのだ。では、その後世
 
界はどうなるのか?資本主義経済は自由経済を前提とするが、自由
 
な経済活動が営まれるためには製品を産む原材料が無尽蔵になけれ
 
ばならない。たとえば、モータリゼーションをもたらしたのは技術
 
力に由るよりも無尽蔵に埋蔵する石油に依っている。さらに言えば、
 
排出ガスによる汚染が無視できるほど無尽蔵の大気がなければなら
 
ない。石油が枯渇すれば車社会はたちどころに立ち止まり、CO2
 
排出による地球温暖化問題はすでに国際会議の場で話し合われてい
 
る。自由主義経済はグローバル化によって資源の枯渇、環境の変化
 
、そして人口爆発をもたらし、やがて限界に達すると経済活動の自
 
由度が失われて行き詰る。すると世界経済は秩序を求めてエネルギ
 
ー資源の公平な配給に移行せざるを得なくなる。荒唐無稽だと思わ
 
れるかもしれないが、実は地球温暖化防止のためにCO2排出量の
 
削減目標を各国に割当てた京都議定書とは、もちろん自由な経済活
 
動までも規制していないが、しかし排出量の規制とは、即ち自由経
 
済の制限に他ならない。
 
 グローバル経済は、行き詰った世界経済の市場を拡大するために
 
国境を取っ払って自由経済は拡がったが、一方で地球資本の限界も
 
見えてきた。グローバル企業は国家間の経済格差を利用して利ざや
 
を稼いできたが、すでに新興国では物価上昇に伴って労働コストが
 
上昇し利益が見込めなくなっている。いずれ途上国もそうなること
 
はまず間違いない。やがて国家間の賃金格差は平坦化し、もちろん
 
業種間の格差は残っても世界同一賃金に限りなく近付くのかもしれ
 
ない。新聞のインタビューでグローバル展開するアパレル企業のオ
 
ーナーが世界同一賃金に言及したのにはそれなりの確信があっての
 
ことに違いない。「世界同一賃金」、一体これは何を意味するのだ
 
ろうか?たとえば、日本とタイの自動車会社の従業員が団結して賃
 
上げ交渉に臨むことさえも起こり得るのかもしれない。まず経済の
 
グローバル化を求めたのは資本家だったが、次に世界の労働者が連
 
帯してグローバル経済の下で待遇改善を求めて運動すれば国際的な
 
労働者運動、つまり、インターナショナルな社会主義運動が起こる
 
。それは、かつてコミュニストたちが思い描いた世界同時革命では
 
ないか。もう私が何を言いたいのかお解りでしょう。つまり、やが
 
てグローバル経済は「世界限界論」に阻まれて行き場を失い自由主
 
義経済が制限され、再び、社会主義経済が見直されるだろう。
 
 ただ、それは自由主義経済の限界による体制転換であってこれま
 
でのようなイデオロギー対立を生まない。もはや、自由主義か社会
 
主義かの選択は残されていない。そして対立のないところに革命や
 
闘争は生まれない。もちろん自由主義を棄てることなど出来ないと
 
思う人が殆どだろうが、やがて現実が転向させるに違いない。世界
 
経済は限られた地球資本を共有していくほか生きる道はないのだ。
 
そして、共有社会は武力闘争によって築くことなどできないので、
 
次第に北欧のような社会民主主義に近付くのではないか。自由は規
 
制の中でしか認められない。それは国際的な規制であって、たとえ
 
ば、京都議定書のようにどこかの国だけが批准しないというわけに
 
はいかなくなる。またそのような時代に、なお「近代国家」という
 
枠組みが存続していると考えるのは疑わしい。経済のグローバル化
 
が更に進めば政治や行政に対しても世界の干渉を受けるのは明らか
 
である。やがて、資源の枯渇、環境の悪化、人権問題などを理由に
 
国際的な規制が徐々に強まり、自由主義経済は規制に縛られて自由
 
を奪われる。たとえば、水産資源の漁獲規制を考えると解り易い。
 
反対したところで実際にクロマグロの生息数は激減しやがて獲れな
 
くなってしまう。唯一、残された道は養殖技術の開発しかない。つ
 
まり、自由主義経済の限界を回避する方法は技術革新しか残されて
 
いない。このように、地球温暖化をもたらす温室効果ガスの排出量
 
規制や天然資源に対する規制は、近代社会の継続を望む限り、その
 
限界点から遡って今現在をどうするべきかを考えなくてはならなく
 
なる。それは、これまで近代文明がひたすらフロンティアを拓いて
 
繁栄してきた流れとは正反対の流れである。グローバリズムの波が
 
世界の限界に突き当って跳ね返ってきた波だ。そして、近代文明が
 
世界の限界に近付けば近付くほどその波はさらに大きくなって、遂
 
にはわれわれを呑み込んでしまうだろう。
 
 カール・マルクスは「資本論」の中でこう述べてます。
 
「資本主義社会の経済構造は、封建社会の経済構造から生まれた。
 
後者の解体が前者の要素を解放させたのである」と。つまり資本主
 
義社会とは、封建地主が資本家に取って代わられただけのことで、
 
搾取者が入れ代っただけで経済構造そのものが変わったわけではな
 
いと言うのだ。もちろん、封建主義を解体させ資本主義を解放させ
 
る契機をもたらしたのは科学技術だった。機械化によって労働経費
 
が減る一方で生産性が飛躍的に向上して剰余価値を生んだ。やがて
 
需要が減ると資本家は新しい市場を求めて海外進出した。こうして
 
資本主義経済は科学技術によって発展し、新しい市場を求めて拡大
 
膨張してきた。つまり、資本主義経済を支えているのは技術革新と
 
新しい市場である。しかし「世界限界論」の下ではそのような経済
 
構造そのものが成り立たなくなる。世界中が近代化してしまえばや
 
がて新しい市場は無くなるだろう。それよりも先ず資源の枯渇と環
 
境の悪化によってこれまでのような経済活動が出来なくなる。金魚
 
鉢の中の金魚は金魚鉢よりも大きくなることなど出来ない。すでに
 
我々は自ら排出した汚物によって生存が脅かされ始めている。
 
 では、資本主義社会の経済構造の解体から如何なる要素が解放さ
 
れるのだろうか?その解体の契機をもたらすのは「世界限界論」だ
 
が、ただ明解な線引きが難しい。経済が停滞すればそこに成長の余
 
白が新たに生まれるからだ。こうして近代社会は経済成長を求めて
 
逆流に押し戻されながら戻りつ行きつを繰り返すことだろう。つま
 
り「『資本主義』の終わり」の始まりである。たとえば中国やイン
 
ドのような超大国が日本のような近代社会にまで発展するにはとて
 
も地球資本だけで賄いきれない。余りにも金魚鉢(globe)は小さす
 
ぎる。しかし、近代化に洗脳された人々に欲望を諦めるように説得
 
するのは不可能であるし、国民の誰もが今よりももっと豊かになり
 
得ると信じている社会で、格差社会を是正しようという議論は生ま
 
れない。何故なら、格差の是正とは既得権益を得ている富裕層から
 
富を奪うこと以外に方法がないからだ。「上を下げずに下を上げる
 
」などと馬鹿なことを言う評論家が居たが、金魚鉢は大きくならな
 
いのにそんなことが出来るはずがない。そんなことができるならそ
 
もそも格差問題など生まれない。やがて富裕層と貧困層の格差が更
 
に拡大し国内紛争が頻発するようになる。すると国家は、国内問題
 
の解決を国外に求め、領土、資源、環境を巡って近隣国との間に摩
 
擦が起こる。こうして世界各地で格差問題に端を発した紛争が頻発
 
するようになるだろう。70億の近代人の膨れ上がった欲望を地球
 
資本は充たすことなど出来ないので、個人であれ国家であれ既存の
 
富を奪い合うしかない。
 
 資本主義社会の経済構造の解体から新しい時代に引き継がれる要
 
素を考えてみようと記しながら、話が逸れてしまいましたが、とい
 
うのも、どうしてもすんなりと時代転換されるとは思えなくて、た
 
とえば原発の是非についてさえも国民の意見が真っ二つに分かれて
 
認識を共有できないのに、社会民主主義に体制転換されるなどと言
 
えばどれほど反発されるかは想像に難くない。しかし、「世界限界
 
論」に立って現在を振り返ればそれらがどれほど子供じみた対立で
 
あるかが見えてくる。一つしかないリンゴをみんなで奪い合うより
 
も、人数分に切ってそれぞれが分かち合うことが限界を避けようと
 
する分別のある大人のやり方ではないか。そうであるなら、仮に温
 
室効果ガスの排出量規制のように、やがてエネルギー資源の消費量
 
も規制され、ガソリンが配給制になったとしても、「世界の終わり
 
」よりも「資本主義の終わり」を甘んじて受け入れることが、生存
 
を存続させて命を繋いでいく宿命を担った生命体の分別のある選択
 
ではないだろうか。われわれの理性という鏡はいつも本質を逆さに
 
映す。生命体は、欲望を充たすために生きているのではない、生き
 
るために欲望を充たすのだ。たとえば、われわれが不可逆的な感情
 
をのちに「愛」と表現すれば、理性は「愛」と叫べば失われた感情
 
が甦ると思っている。しかし、鏡の中の世界は虚像なのだ。
 
 人間が近代科学によって地球全体を把握することが出来るように
 
なったことはスゴイことだ。それまでは謎だらけだった世界に少な
 
くとも脅威を感じる怪物などは存在しないことが判った。つまり人
 
間が一番凶暴だった。その人間が「世界限界論」に追い詰められて
 
残されたリンゴを巡って愚かな争いを繰り返す時代、尖閣諸島や竹
 
島を巡る対立はすでに「世界限界論」に撥ね返された逆流によって
 
時代が後戻りし始めているのかもしれない、そんな忌わしい時代を
 
繰り返さずに世界を共有することが出来るのだろうか?たとえば、
 
欧州連合(EU)の試みは注目に値する。構想は戦争の最中に生まれ
 
た。二度と戦争を起こさないためには国家という枠組みを取っ払う
 
しかないと考えた。民族や文化を超えて統合を可能にした根底には
 
、キリスト教文化という共通の精神風土があったにしろ、統合が武
 
力に依らずに民主的な話し合いで成し遂げられたことだ。それは戦
 
争を回避するための賢い方法ではないか。グローバル経済によって
 
「世界限界論」に行き着いた自由主義経済は成長を阻まれて衰退し
 
、やがて資本主義社会の経済構造が解体され、つまり、資本主義国
 
家が解体され、グローバル経済によって育まれたグローバリズムの
 
理念が解放される。
 
 今の日本でこんなことを言ってもたぶん誰も耳を傾けてはくれな
 
いだろうが、しかし、かつてはわが国も欧米資本主義国家の進出に
 
対抗するために、「アジアは一つ」を掲げて「大東亜共栄圏」を構
 
想して、武力を背景に近隣諸国に併合を迫った経緯があったのだ。
 
もちろん、そのような支配による統合が上手くいくはずはなかった
 
が、つまり、如何に高邁な目的を掲げてもその手段が理念と背理し
 
ていれば目的そのものが疑われる。われわれは、時として理念を見
 
失い掲げた名目だけを追い求める。しかし、そもそも目標やノルマ
 
は理念に基づいて目的化されたのであって、敢えて言えば手段こそ
 
が重要なのだ。武力や権力を手段にしてアジアが一つになったとし
 
ても決して「共栄圏」は築けない。民族や文化を超えて「アジアは
 
一つ」を実現するためには理念が共有されなければならないが、ア
 
ジアには国家主義を超越した共通の理念と呼べるものがない。そん
 
なものは願い下げだと言うかもしれないが、猫の目のように変わる
 
対韓感情を覚えているだろうか。そんなムードというのはすぐに一
 
変してしまうだろう。われわれは「ハリネズミの友情」のように、
 
友情を温めようとして近付けば近付くほど相手の針が体に突き刺さ
 
って憎しみに変わる。こうしてアジアは精々経済関係だけでしか繋
 
がることしか出来ないのだ。しかし「世界限界論」はエネルギー資
 
源の枯渇による高騰、それよりも多分温室効果ガスの規制強化によ
 
る負担が重く圧し掛かり、さらに途上国の経済成長によって国家間
 
格差が埋まり差益が見込めなくなりそう遠くない将来にグローバル
 
経済は行き詰るだろう。そして、グローバル経済に頼っていたわが
 
国が何時までも経済大国で居られる保証はない。やがて食うに困っ
 
ても、近隣諸国は奇跡的な復興の後に呆気なく衰退していく隣国を
 
黙って見守っているだけだろう。
 
 私は、何も今の近隣諸国の政治体制をそのまま受け入れてAU(
 
アジア連合)が生まれるとは思っていない。少なくとも民主社会主
 
共栄圏でなければならないとすれば、まずそれらの国々が民主主義
 
の根幹である国民主権を認め、公正な選挙によって国民の意志を代
 
表する指導者が選ばれる民主主義国家でなければならない。つまり
 
、AUが共有すべき理念は民主主義でなければならない。そもそも
 
彼の共産主義国家は共産党特権階級による独裁国家であって、本来
 
のコミュニズム(共有主義)とはまったくかけ離れた政治体制である
 
。政治的自由を奪われた人民は、膨張する経済の中で辛うじて幸運
 
が訪れる夢を見ることも出来るかもしれないが、経済成長が停滞す
 
ればたちまち矛盾が噴き出して、現政権は旧ソ連のように呆気なく
 
崩壊するだろう。それは歴史の必然である。ひとたび檻の扉を開か
 
れて自由の空気を吸った人間が、ふたたび元の檻に戻って来て自ら
 
扉を閉めようとは思わない。それは、たぶんそんなに遠い話ではな
 
いと思う。                    (つづく)
 
 

「明けない夜」 (7)

2017-08-23 21:52:54 | 「明けない夜」7~⑪
           「明けない夜」
 
             (7)
 
         「社会を捉えなおす」②
 
 
 そもそも資本主義経済とは剰余価値を生むための仕組みです。マ
 
ルクスによると、剰余価値は生産過程で労働者の剰余労働から生ま
 
れるが、労働者にはその対価が支払われず資本に留保される。そし
 
て剰余価値は再び生産過程に投資され、この運動を何度も繰り返し
 
て資本は増殖する。人間以外の自然と共生して生きるほとんどの生
 
物は、本能的なナワバリ意識はあっても剰余価値を求めたりはしな
 
い。ただ彼らにとって命を繋ぐために子孫を生むことこそが唯一の
 
価値の創造である。私の勝手な想像だが、それは彼らが死を情報と
 
して本能的に知っているからではないだろうか?そもそも死とは生
 
の最終態であって、死の対極にあるのは過程である生ではなく始ま
 
り、即ち誕生ではないか。だとすれば「なぜ死ぬのか?」を知るに
 
は、「なぜ生まれるのか?」を知らなければならない。では、生命
 
体はどうして新たな命を生むことができるのだろう。旧約聖書の「
 
創世記」には「初めに、神は天地を創造された」から始まるように
 
、原始地球に於いてもまず生命体の生存環境が整ってから様々な生
 
命体が生まれた。つまり、生命体は地球環境によってもたらされた
 
。まさに母なる地球である。しかし、生まれ出でては呆気なく絶え
 
た数多の生命体が存在したに違いない。やがて突然変異によって生
 
存適性を得た生命体だけが厳しい自然淘汰を克服して種を繋いで生
 
き延び、そして子孫を増やした。もしも、生命体が子孫を増殖させ
 
ることが剰余価値を生むことだとしたら、天地創造の始まりより、
 
人間だけにあらず、すべての生きとし生けるものは死滅を乗り越
 
えて地球資本主義の下で生存競争を闘ってきたのだ。つまり、資
 
本主義社会は何も近代になってから生まれたわけではない。
 
                         (つづく)