『東京五輪の開催可否「10月ごろ評価」される筈だったが』

2020-11-16 04:38:44 | 従って、本来の「ブログ」

      『東京五輪の開催可否「10月ごろ評価」される筈だったが』
   https://www.asahi.com/articles/ASN5Q3VZQN5QUHBI019.html


 東京五輪の準備状況を監督する国際オリンピック委員会(IOC)
のジョン・コーツ調整委員長は、来年に開催ができるかどうかを評
価する時期が10月ごろになるとの考えを示した。コーツ氏の地元、
豪州のオーストラリアン紙が22日、報じた。
 コーツ氏は「五輪は2021年のみ開催される」と延期の選択肢はな
いとも明言。選手団やメディア、ボランティアら数万人が世界中か
ら集まる五輪では、新型コロナウイルスのワクチンが開発されても
、十分な量が量が世界中で確保できなければ、開催は難しいとの見
方を示した。シドニー=小暮哲夫2020年5月22日 12時08分


       *       *        *


 新型コロナウィルスのパンデミックによる東京オリンピックの開

催が一年延期されたことから、今年5月22日の時点では、来年の

開催の可否を「10月ごろに評価」する筈だったが、もうすでに1

1月の半ばになっているのに、開催されるという評価は報じられて

いない。これは評価を先延ばししているからで、もちろんそれはパ

ンデミックの終息が見込めず、いやそれどころかヨーロッパでは二

度目のロックダウンを余儀なくされている国さえあり、日本でさえ

も第3波が襲来していて、このままではとても開催できる状況では

ないことは誰の目にも明らかである。望みはワクチンの開発だが、

「十分な量が世界中で確保できなければ、開催は難しいとの見方を

示した。」であれば万策尽きたと言わざるを得ない。

 遅ればせながら今になってジョン・コーツ調整委員長ではなく、

IOCバッハ会長自らが来日したが、これはより深刻な決断を伝え

るためではないだろうか。もちろん彼は「中止」などとは一言も言

っていないが。

                         (おわり)


「真理とは幻想である」(5)

2020-11-15 13:01:21 | 「ハイデガーへの回帰」

        「真理とは幻想である」

 

            (5)


 ニーチェは、西欧形而上学(metaphysica メタフィジカ)とは、ま

ず、「存在とは何であるか?」という理性による問いかけから、プ

ラトン=アリストテレスによって、存在が本質存在と事実存在に二

分され、事実存在とは遷り変る仮象の世界でしかなく、本質存在こ

そが永遠不変の真の世界であると考え、プラトンはそれをイデアの

世界と呼び、またキリスト教世界観の下では永遠不変の神の世界と

して説かれた。しかし「もしも世界が不断に変遷する無常なもので

あるとすれば」、永遠不変の真理としてのイデアも神も、いや、そ

れどころか永遠不変の真理を追い求める理性そのものさえも本質存

在を問う能力を持ち合わせていないことになる。われわれの理性は

本質存在よりもむしろ事実存在としての「仮象の真理」を解き明か

すことに適っている。事実存在としての世界は理性、つまり科学的

認識能力によって凡その世界観を構築することができたが、果たし

てそれら事実存在としての存在者の存在意義とは「何であるか?」

の答えは見当たらない。なぜなら、「真理とは幻想である」からな

のだ。

ところで「存在とは何であるか?」の答えが「真理とは幻想である」

とすれば、《真理》は理性によって規定されるのであるから、それ

は理性の限界にほかならない。理性の限界とは、科学的実証が可能

な事実存在《仮象》について認識できても、そもそも存在者の「存

在とは何であるか?」という本質存在《真理》には的中できない。

ニーチェは、理性による形而上学的思惟はニヒリズムに陥ると言い、

そして「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である」、或

は「芸術は真理よりも多くの価値がある」と説き、芸術、つまり創

作への陶酔こそがニヒリズムから遁れる唯一の方法であると語る。

ところで、理性によって規定される《真理》の定義とは絶対不変の

堅固な表象であるとすれば、無常に遷り変る生成の世界を読み解く

ことはできない。つまり、もはや理性はわれわれの存在目的を思考

するための手段としては無価値でしかない。

                         (つづく)

 


「あほリズム」(779)

2020-11-13 08:08:07 | アフォリズム(箴言)ではありません

        「あほリズム」

 

          (779)

 

 もしも、単純に100年前に起こったカタストロフィ―が再び

繰り返されるとすれば、残されているのは関東大震災と経済恐慌、

そして戦争である。それらはまんざら荒唐無稽だとは思えないほ

どに、誰もが起こり得るかもしれないという「ぼんやりした不安」

を抱えている。