村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

稲むらの火

2012年02月06日 18時48分06秒 | 震災・放射能

大津波が襲い掛かったあの日から間もなく11か月を迎えます。

我々はあの大津波のことをもう昔のことのように思ってはいないだろか?

相馬太田神社から頂いた「神社暦」の巻末に「稲むらの火」という戦前の国定教科書に掲載された物語が載っていました。

安政元年(1854年)に発生した安政南海地震により紀州藩広村を襲った大津波から人々を救った偉人「濱口儀兵衛」の逸話を物語にしたものだそうです。皇后陛下が誕生日の記者会見で「子供のころ教科書に、確か「稲むらの火」と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残ったことでしたが、津波であれ、洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で具体的に教えられた一つの例として思い出されます。と述べられていたそうです。

知らなかった!!

私らが小学校の時に確か道徳という教科があり、その中で色々な社会常識のようなことを学んだような記憶がありますが、現在の小学校とかではそういう授業は行われているんでしょうかね?

せっかくですので戦前の教科書に使われていた物語を全文載せてみたいと思います。

稲むらの火

 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、年老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

 「大変だ、津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。

 このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。

 「よし」と叫んで、家に駆けこんだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。

 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。

 こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。

 山寺ではこの火を見て早鐘を突き出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駈け出した。続いて、老人も、子供も、若者の後を追うように駈け出した。

 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、駆け上がってきた。彼らは、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。

 「うっちゃっておけー。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

 村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。

 「見ろ。やってきたぞ」

 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

 「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷が一時に落ちたようなとどろきをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又燃え上がり、夕やみに包まれてあたりを明るくした。

 はじめて我に返った村人は、この火によって救われたのだと気が付くと、無言のまま五兵衛の前にひざまついてしまった。

以上が全文ですが、「稲むらの火」は濱口儀兵衛の史実に基づいて作られた物語で実際とは異なる部分があります。

でも、我々もこの物語にあるような体験をしました。先人の方々で大津波を体験した方は何らかの方法で我々に警告を残してくれています。それを無視してしまったことから大被害をこうむってしまったのではないでしょうか。

私も、津波に襲われた時にはコンクリートの建物の中にいたので助かりましたが、津波の引いていくあの恐ろしい光景はいまだに頭の中に刻まれています。

大きな被害をこうむってしまいましたが、それを教訓としてやはり後世に伝えて行かなければなりません。そして、今の技術で津波が襲い掛かっても安心していられるような対策をしなくてはなりませんね。