ちょうど一年前の今日南相馬から避難しました。
14日の夜、「警戒区域」(その頃は太田川が警戒区域の境界になっていた)の方から「避難してください」との広報が聞こえてきていた。「早く避難しろ」と電話もひっきりなしにかかってきていた。
テレビ局のアナウンサーで以前交流のあった人からも電話があった。「避難したんですか?」と聞かれたので、「いや、家でビール飲んでる」と答えると怒られてしまった。みんな必死に避難しているのに不謹慎なのかな?
天気予報で風向きを見ていると西か北西の風が吹いているので安心している俺は変だったのかな?。
そんな姿を見て俺の親たちは息子を当てにできないと判断したんだろう。「俺たちは明日避難する」と言い出した。
実は俺も避難したいのは山々だったけど、車が津波にやられていたので、みんなで避難するだけの車とガソリンがなかった。
15日
何とか農機具のガソリンをかき集め親の車を満タンにした。「自分たちだけで大丈夫だから」と言って聞かないが心配なので、姉の家族も福島のホテルに避難すると聞いていたからそちらにお願いすることにした。
俺たち夫婦の車にはガソリンが半分しかない。津波の被害に遭った俺の車にはほぼ満タンにガソリンが入っていたので、とりあえず会社に行って車からガソリンを抜いてみることにした。
会社に行き俺の車を見るとすでにガソリンの給油口がこじ開けられガソリンが抜き取られていた。数10台の被災車があったがほぼ盗難にあっていた。「ひどすぎる!!」 よく見ると荒らされている車が多くあった。
仕方がないのであきらめて家に帰り避難の準備をした。
娘や孫、妻の実家の家族と合流し郡山の叔母のところにとりあえずお世話になることにしたので、食料になるものをかき集めて、おにぎりを大量に作り出発した。
南相馬から脱出する車が福島方面に続いていたのを覚えている。
「これからどうしよう」とばかり考えながら運転していたような気がする。
郡山の総合体育館で雨に濡れ、寒さに震えながらスクリーニングの順番を待っていたっけ。
その夜から叔母さんの家のこたつに8人で3日間寝ました。
次の日から凍えそうになりながらガソリンを確保するのに並んだっけ。
これまでの人生50数年で、これだけ大変な仕打ちを受けたことはなかったような気がする。
あれから一年、今は思い出となりつつあるがこれからの人生で忘れることができない数日間だったと思う。
これからもこの思い出を笑って話せることはないような気がする。