10年近くの仙台赴任を終え、2015年5月から大阪へ赴任中のオヤジの日記です。
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よっぱのときどき日記



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先日母が亡くなりました(その3)

 

今回はその続きです。

 

自宅で見送られた母。

ここからがまたちょっと他の一般的なお宅とは違いまして…

 

我が父母は(特に母の意向が強く)母が半身不随になるずっと前から終いの準備をしていました。

年齢を重ねると、父の実家の墓がある丹波篠山にはなかなか行けなくなる⇒随分前に永代供養料を支払い、自分たちの戒名も先に貰っていた。(墓終いの準備)

母自身はそのお墓には入りたくない(これは若い時から言っていた)⇒夫婦とも遺体は献体に回す⇒(多分)40代の頃には契約(?)完了⇒お骨は引き取らず、滋賀医大に献体された方々と共にそちらの納骨堂に納骨するよう息子にも周知。

 

というような取り決めもあり…

 

一旦葬儀社に来てもらったものの、

検体するので、現在のコロナ禍では遺体のみしか連れていけない。

自宅で一旦棺桶に入れてもお花や飾り、着物などは全ておいていかなくてはならないため、一般人では処分が出来ないと思われる(普通に葬儀⇒火葬の場合はまとめて一緒に燃やしちゃうから問題ない。葬儀社も引き取りは出来ないとのこと⇒使いまわしできないから)

戒名なども付けられないなら、お経読むだけならお寺さんも儲けにならないので…

などなどの理由により

「わたくし共でお手伝いできることはないようなので…」

と引き上げていきました。

コロナになる前は、連絡すれば医大から献体用の棺桶を持ってきてくれて、普通に飾ったり着物着せたりして葬儀した後出棺とともに医大に向かうという方法だったようですが、一時期の献体受付中止から、現在の方法で受付が開始されたそうです。

 

そんなこんながありまして、1月28日の夜は、父と妻と3人で母を見送りながら夜遅くまで食事をし、翌29日の午後には献体引き取り業者が母を連れに来たのでした。

 

父も背中が曲がったりでかなり縮みましたが、母も最期はかなり身長も縮み、体重は29.5kgと本当に小さくなっていました。



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今回はその続きです。
2017年頃に腹膜透析を始めることになった昭和14年2月生まれの母を介護するのは、昭和13年11月生まれの当時79歳の父でした。
正に老々介護。
父はもともと腰が悪かったのですが、確かこの後、背骨の圧迫骨折だか、変形性脊椎症の酷いのだかで背中も曲がっていしまいました。
そんな体で、半身不随で第一級要介護認定の、わがままな奥さんの介護を続けていたのです。

最初の半年~1年くらいは2週間に一度くらいずつは顔を出したりしていたのですが、
当初は僕たちが来るとそれをダシに何か美味しいものを買ってこさせて食べようと目論んでいてそれがうまくいってたものの、続くとやはりだんだん厳しくなってきたことで、
行った直後は喜んでいるものの、数十分も経てば、
「どうせ、来たって何ができる訳ではなし、いつ帰るんや?そろそろ帰ったら?」
などと言う事が多くなり、
(もともとそれほど親子仲が密接だったわけでもなく)こちらとしても売り言葉に買い言葉のような気分で、あんまり顔を出さなくなりました。
そうこうしているうちにコロナ禍も始まり、出張も多かった僕は万が一のことも考えてこの2年間は余計に顔を出さなくなっていました。
そんな訳で、ケアマネージャーさんやヘルパーさんの力を借りながら約5年間、一人で介護を続けていたのです。
仲が良かった夫婦とは言え、「老々介護で疲れて(または相手に楽にしてほしいと頼まれて)殺人」というようなニュースを見るたび、
「あぁ、うちのオヤジじゃなくてよかった…」と胸をなでおろしたものです。
本当なら心臓の手術もしなくてはならなかったはずの父は
「俺が入院したらみてくれる人がいない。」
「もしも俺が先に死んだら…」
と常に母のことを第一優先で考えて自分のことは先送りにしながらいました。
そんな父に介護され見守られ、自宅で見送られた母の晩年は病気に苦しみはしたと思いますが、かなり幸せだったのだと思います。

父も今年84歳になります。
そろそろ母を起こしたり動かしたりすることも限界に近づいていました。
本当にお疲れさまでした。

そして、親不孝な一人息子で申し訳ありませんでした。
冥福を祈ります。



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今回はその続きになります。

東大阪を2時頃に出発して彦根に着いたのは4時ちょっと前でした。
母は13時36分に自宅で亡くなりましたので、まだ介護用のベッドに横たわったままの状態でした。
苦しんだようなかをしていなかったので、少しホッとしました。
聞くところによると、年明けにショートステイに言った頃から体調が良くなくなってきて、当日の朝方から相当危ない状況となってきたそうです。

昭和14年生まれの母は後1週間ほど生きていたら83歳でした。
元々毎日数回の血糖値検査とインシュリンを打たなければならないほどの糖尿病を持っていたり、高血圧だったり、肝臓が弱かったりと色々あったのですが、2014年の晩秋に股関節の骨折が完治した後、僕が住んでいた仙台へ多分最後の遠出旅行になるだろうとやってきた初日の夜、心筋梗塞になりました。
幸い救急車で運ばれたのが2014年11月1日に新築移転したばかりの仙台市立病院で、心臓の専門医がちょうど宿直だったこともあり大事には至りませんでしたが、1ヶ月半ほど入院しました。
その時も、父は毎週~2週間に一度2泊3日で滋賀県から仙台まで見舞いに通っていました。
彦根まで帰れるくらいに回復した時点で滋賀県長浜市の赤十字病院へ転院しましたが、この頃から次々と病気を重ねるようになりました。
僕は知らされていませんでしたが、数年間の間に滋賀医大などで2度ほど心臓の手術もしていました。
僕が大阪に転勤してきた2015年は大きな病気はありませんでしたが、2016年の3月頃に脳溢血を発症。以後は半身不随状態で父が老々介護を受け持つこととなりました。

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その少し後には、糖尿病になっても節制が不足していたためにどんどん悪くなった腎臓が完全にダメになってしまったため、透析が必要になりました。
脳の血管も切れるほど血管も弱っていたり、半身不随状態の母を2~3日おきに人工透析が可能な病院へ連れていくことも無理であろうと、血管にシャントを縫い付けるのではなく『腹膜透析』という方法を取れることになりました。この腹膜透析は彦根周辺では長浜の赤十字病院のみでしか対応できていなかったようなので、すでに何度もかかって入院もしていたことが幸いだったのかもしれません。
(続く)


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1月28日の朝10時頃に父から電話がありました。
「母さんの状態が良くないので、早めに実家に来て欲しい。」
というような内容でした。
金曜日だったし、既に仕事の打合せで出かけていたので
「明日の朝行こうか。それとも早退してすぐに行った方が良い?」
と聞くと、
「できるだけ早い方が良いので早退して来てくれないか。」
ということでした。
僕は一旦事務所に戻り、それ以降の予定をキャンセルして早退する旨を上司に告げて、午前中一杯で退社しました。
奥さんにも連絡して、もしかしたら泊まりになるかもしれないと、色んな準備を整えてそろそろ出発しようとした1時半過ぎに再び父からの電話。
「母さん、今息を引き取ったよ。間に合わなかった。」
という事でした。
滅多に電話などかけてこない父からの電話だったので、母の死が間近だとは頭によぎっていなかったわけではありませんが、縁起も良くないので喪服は準備していませんでしたので、再び部屋に戻って喪服などを準備し直して2時過ぎに東大阪から彦根市を目指して出発しました。
(続く)


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