10年近くの仙台赴任を終え、2015年5月から大阪へ赴任中のオヤジの日記です。
2014年以前のカテゴリは整理中です。
よっぱのときどき日記



離婚のことに関しての前の記事

今さらながら… ですが、続きを綴っていきたいと思います。



平成26年9月の2日に第1回目の調停が始まりました。
8年以上前の出来事なので、少し記憶があいましになっているところもありますが、頑張って書き進めたいと思います。

基本的には調停に向けての打ち合わせに、仙台から東京へ月に1回ほど弁護士さんの事務所に行きます。
そして、さいたま市の家庭裁判所から弁護士事務所に調停の日時が連絡くると、その日で大丈夫かどうかの確認がきます。
こちらからの申し立てに対し、先方からの抗弁書は一部分は認めるものの、おおむね証拠もないであろうとタカを括っていたのか、

1.離婚を申し入れられたことは今までにない
2.福岡への単身赴任時も私宛に10万円振り込んでいたので生活費が足りず、クレジットカードを使ったが限度額まで使ったようなことはない
3.仙台赴任後も、当然負担すべき婚姻費用を全く支払わず、振り込まれていた15万円もローンの返済と管理費ですべて消えており、10年間の間に1度だけ50万円を貸し付けという形で負担しただけであるので、裁判所から婚姻費用の負担するように指導して頂きたい。
4.男女での同室出張は何のわだかまりもないので問題ない。
5.私の親と仲が悪く「僕のことも全く愛していないし、親の面倒も一切見るつもりもない」といった事実はない
6.僕が自動車にはねられて1か月近く休んでいた時期があるのだが、その翌日に見舞いに来たところ看護などは必要な状態ではなく、遠方の女の家に転がり込んでいた(実際には膝の骨折しており事故から2週間程はタクシーで病院に通っていたし、ほぼ毎日血を抜きに病院に通っていたし、翌日からうろうろできるわけないんですけどね)

7.いつ別れてもいいが云々などといった事実はない
8.お金を貸してもらったのも、自分が失業中に生活に困窮しての1回だけ


などの事が書かれており、これに対する反証を僕の方がかなり細かく用意したので(相手からのメールの控えや、預金口座のお金の流れ、手紙等々)月に1度の調停のたびに相手は不利になっていったのです。

この記事は2020年の10月13日に記しかけたものに少々加筆したものです。

(不定期に続く)


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1つ前はこちら

1つ前のお話で、日本政策金融公庫の借金踏み倒しの件、

その少し前のお話で、家族カードを廃止し忘れていたら使うだけ使って踏み倒してカードストップからの放ったらかしの件などを書きましたが、

丁度1つ前のお話の途中での、日本政策金融公庫の担当者と元妻の連絡係のようなことをしている頃ですが、

このままでは埒が明かない…
そのうちえらいことになりそうだ…


と思って、仙台で仲良くなったニコ兄さんやMさん夫妻に相談をしていました。


これはもう、しっかりと弁護士を立てて離婚調停に持ち込んだ方が良いのではないかとのことになりました。
Mさんご夫婦の奥さんに知り合いの弁護士さんがいるという事で、調停を進めてもらえないかと相談をお願いしてもらいました。


弁護士さん曰く、

さいたま市の嘉永裁判所に調停の申し立てをせねばならないので、自分が担当すると仙台=浦和の交通費なども支払ってもらわなくてはならないので高くついてしまうから、自分が知っている東京の弁護士さんを紹介するのでそちらで担当してもらった方が負担が少ないですよ。

と優しいお言葉。


東京の弁護士さんに相談に行き、7月に委任契約を締結してさいたま市家庭裁判所に離婚調停の申し立てをしていただきました。








なんとそちらの弁護士事務所はお二人でやっておられ、連名での契約となりましたので弁護団がついた感じになりました(笑)


7月に調停の申し立てをし、9月から調停が始まりました。






(不定期に続く)


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1つ前はこちら

前回のお話の中で、別れた妻が以前居た会社が吸収合併されるのを機に、辞めた何人かで会社を立ち上げたという事を書きました。
別れた妻が代表取締役、仲間が共同経営者となっていたようです。

何かの代理店になって展示会に出展したりチラシを作ったりするのにお金が必要だという事で、日本政策金融公庫から100万円の融資を受けるのに連帯保証人になって欲しいと言ってきました。
共同経営者では会社が駄目になった時(お金が返せなくなった時)に支払いが期待出来ないので、代表取締役の配偶者であり、長年1つの会社に勤めている僕に連帯保証人になってもらう事が日本政策金融公庫の融資条件だったのです。


相手方から言ってきた条件は

1.絶対に迷惑はかけない。
2.子供が高校を出たら、ちゃんと離婚に応じる

などでした。他にも何か言っていましたが、僕にはその2点が最重要の事でした。

それから1年半か2年くらい経って、順調にその借金を返済しており、事業拡大のために追加融資を受けて前の融資は全額返金するので、再度連帯保証人になって欲しいとの依頼がありました。

しばらく無視していると、日本政策金融公庫の担当者からもなんとか連帯保証人になってあげて下さいなどの電話も入りました。

条件は前と同じ2点を確約していました。

それからまた2年ほどが経ち、日本政策金融公庫の担当者から連絡が来ます。
返済が滞り、債務者にいくら連絡しても返答もないし、誠意がないので連帯保証人の僕から連絡を入れて欲しいとの事です。

こちらから相手方にメールを入れて連絡するように促すと
「わかりました。迷惑かけてすみません。対応します。仕事が忙しくて行き違いになっただけで、無視していたわけではありません。」
との回答が。

日本政策金融公庫の担当者と別れた妻との間でこんなやり取りを何度もしました。

それから数ヶ月経ったある日、突然さいたま地方裁判所から訴状が届きます。





結局、のらりくらりと鐚一文返済せずにダラダラと逃げ回っていた訳です。

答弁書を作成して裁判所に送り、それを元に日本政策金融公庫と和解が成立すれば出頭はしなくても良いとの事。
僕は、答弁書を作成して送付し、書類が届いた確認もしました。



日本政策金融公庫からも電話があり、
僕としては、債務者(複数の共同経営者がいるはずだし)が自身の(会社の)備品なり車なりを売却してできる限りの返済をし、それでも残ってしまった分は、騙されたとはいえ連帯保証人としてハンコを押してしまった以上、返済に協力するという話をしました。

公判の日、何と相手方達は法廷に出廷しませんでした!
聞いてみると、答弁書も出さず放ったらかしだったようですです。
本人は送ったと言いますが、訴えられた本人以外が作って送った書類など受理されなかったようですし、そもそも指定の日付までに送っていないようでした。

こういう時、どういうことになるかご存知ですか?


まさに逃げ得‼︎
返済が足りない場合には、僕も協力するという事が和解事項となり、出廷も何も義務を果たさなかった者はお咎めなしで、和解をしてしまった僕が全額(約200万円)と延滞損害金、分割払いの場合はかなりの高利率の利子を払え。
全く知りませんでした。
こんな事なら和解などしない方が良かった‼︎とも思いました。
年利16.5%の利子ですから他のローンの関係もあって25,000円程度の分割払いだとかなりの支払額となります。
それから数年間にわたり、このお金を分割で支払っていき、ある程度貯金もできた2017年(平成29年)6月(丁度1年前ですね)に残っていた100万円弱をまとめて返済して、ようやくこの問題から縁を切る事が出来ました。



1度目の赴任の際の数100万、貸してくれと言って来た合わせて100万ほど、日本政策金融公庫の借金と損害金300万円弱、僕の家族カード解約忘れ分を使って放ったらかしにした60万円程の550万円位の損害を受けた上に、カードは新しく作れないわ、ローンも組めないわという何とも不都合な人間にされてしまったのです。

この辺で遂に、いくら待ってもこんな奴相手では話が決まる訳がないと弁護士に調停のお願いをする事になっていくのです。

(不定期に続く)


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別れた元妻が数年前に僕の本籍地を勝手に変えてていた話をついこの間書きましたが、さらに困ったことになりました。


ローンが組めない身の上の僕ですが、何とか今回車屋さんには現金払いの形を取ることができたので登録関連はうまく進みました。



さて廃車の手続きに関することですが…

1.仙台に転勤して最初に借りた若林区倭町でアパートの結露がひどくカビが生えたりするので


2.2008年の5月に仙台市若林区中倉へ引っ越しました。


3.今回の買い替えで、廃車にしたい車を購入したのが、平成22年(2010年)8月でした。

4.その時に住んでいた家が東日本大震災で全壊となったために仙台市若林区蒲町に引っ越しをしたのが、平成23年(2011年)3月。

5.それから約4年が経って平成27年4月に東大阪市に転勤してきました。


そう、(仙台若林区中倉在住時の)仙台ナンバーのまま。


それから3年が経って、今回車を乗り換えることにした訳です。


現在の住所への転出元が蒲町なので、今の住民票には仙台市中倉に住んでいたという表示が記載されていませ。

その為戸籍の附表を取り寄せてくれとの依頼が来て、さいたま市の郵送センターへ発行依頼書と現金書留で速達の返送用切手を貼った封筒も入れて送りました。


さいたま市から電話。


「よっぱさんは平成24年に他所から転籍されて来られてますので、戸籍の附表には『仙台市若林区蒲町』と現在の住所の二つしか記載がありません。以前戸籍があった役所へ附表の手配をしていただくしかありません。」


との事。(これはこの前書きましたね)


今度は名古屋市の書式をダウンロードして、定額小為替を発行し、またもや速達の返送用切手を貼った封筒も入れて送りました。



名古屋市の郵送処理センターから電話。



「よっぱさんは平成24年にこちらを除籍されておりまして、附表等の戸籍に関する書類の保存期間が5年間であるため名古屋市北区には、よっぱさんがどこに住んでいたかの記録は残っていません。」


とのこと。



中倉に住んでいたことを証明する公的な書類が無ければ廃車できないという役所と、保存期間が過ぎて何の照明もできませんという役所。
既に平成30年の自動車税は払い込んであり、こうやっているうちにも2か月分が過ぎていきました。
この後どうなることやら…


とはいえ、一番悪いのは…

当時夫とはいえ、何の相談もなく戸籍抄本などの取り寄せが面倒だという理由(恐らく日本政策金融公庫の借金をするためだったのではないかと…?)で人の戸籍を簡単に変えてしまう奴が一番悪いんですけどね。




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1つ前はこちら

相手方との修復はまったく考えられず、レオパレスでの1人暮らしを始めて暫く後の平成17年5月末に仙台へと再びの単身赴任開始。

相手方の顔を見る事もなくなり、単身赴任手当と家賃補助が出た為に生活はかなり楽になりました。
引き続き、マンションのローン口座への振込は毎月15万円ずつ。その内訳は以前にも書いたので割愛しますが、ローンを払っても充分に残る金額です。

相手方はその内部長にも昇進し、かなりの給料をもらっていたはずです。たまに娘などに連絡すると、ほとんど外食だったり、カラオケに行ったとか買い物に行ったという話も多く、たまに家に寄るとテレビやテーブルが新しくなっていたり、車にナビやアルミホイルが付いたりと羽振りが良いようでした。

離婚の申し入れを続けても、「子供が高校を出るまで我慢してこのままでお願いします。」の一点張り。

その内、勤めていた会社が違う所に吸収合併されるとのことになり、そのまま残るように依頼もあったようですが、元の会社の仲間と新しく会社を作ってやっていくことになったようです。
僕にとってはどうでも良い話ですが、1年ほど経ってから息子に聞きました。


その内に、「息子が美大に入りたいとのことで、予備校の夏合宿に入りたいので50万貸してください。」という話も来たり、入学金から授業料など当然親の勤めとして払って下さいとか。(ま、これは当然と言えば当然と思っていたので、半年に100万ずつの授業料も何とかして工面していました。)

そうこうしていると、仕事がどうしても苦しいので必ず返しますから50万円貸してください。なんて話も来たり…
これは今でも後悔しているのですが、こちらから申し入れている別れ話が有利に進むようなどと思って貸してしまいました。

このお金も当然、一切返って来ませんでした。

その後、もっとひどい事が起こります。

その後の借金関連のうちの1つはこちら

(不定期に続く)

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別れた嫁が数年前に僕の本籍を勝手に変えていたのです。
移した先はさいたま市。
「戸籍謄本などを取るのに楽だから 」という理由…

お陰で、自動車の廃車をするにもあっちやこっちへ郵送請求しなくてはなりません。
面倒で迷惑な話です。

(車検証に載っている住所で東日本大震災を被災して全壊だったので、引っ越した為に今の住所に繋がりがなく、戸籍の附表というのが必要となり、さいたま市に郵送請求したら、「その住所は附表に載っていません。」との事。どうやら、平成24年に転籍しているらしいのですが、車を買ったのはその前の平成23年だったからのようです。)

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昔の(当時はまだ籍は入っていました)妻が、数年前に僕が解約し忘れていたクレジットカードの家族カードを使って

ガソリンを入れ、
買い物をし、
キャッシングをして、

引き落とし口座(当時、毎月15万円ずつ振り込んでいた共有名義のマンションのローンが落ちる口座で当然僕名義)で支払不能を何度もやってカード差止めになっていたのです。
(入った15万円から下ろして生活に回し、戻すつもりが戻し忘れたり、戻せなかったり…)

引き落とし口座への振込額の15万円の内訳は、当時のローン支払額が7万円代と管理費(積立金含む)が毎月3万円強だったと思います。
半々の共有名義で、相手方も会社員時代は営業所長から部長職までなり、遂には会社経営者で代表取締役になりましたので、一時は僕より稼ぎが良かったですから家の経費11万円弱の半分の55,000円と2人の子供の養育費として1人5万円弱で合計15万円としていました。

僕は随分前に以前のカード問題でほとんどのクレジットカードは破棄(契約解除)して使わないように処理したつもりになっていたのですが、1枚だけあちらの手元にあるのを失念していたのです。

クレジット会社から見た僕は、ほぼ満額まで使って滞納し督促状や度重なる請求なども無視し続けたブラック野郎な訳です。

離婚の調停中に、相手方が持っていた自分の通帳のコピーがようやく手に入り、

ん? UFJニコス? 何これ?

と記憶にない引き落としを発見。

恐る恐る、カード会社に電話をして話をしてみると前述の通りで、ほぼ満額までキャッシングなどを繰り返して放ったらかしになっているとのこと。


担当の人に事実を詳しく話し、知らなかったとはいえ自分がメインの名義のクレジットカードであるので責任を持って支払う事にしました。
他の借金などもあって、離婚の調停中でもありましたのでまとめて支払う事は出来ないが分割でなんとか返済したい旨をお願いすると「条件緩和契約」というのを提案されました。
「金利も放ったらかしにしているよりは安くするので、毎月引き落としをしましょう」
というものです。

安くするとはいえ、まあまあのの金利ですが文句を言える立場ではありません。
毎月9,000円ずつ支払うことになりました。
毎月9,000円引き落とされて、減っていく元金は6,000円強でしょうか。

それから色々ありましたが(またそのうちに書きます)、数年間毎月焦げ付かせることなく支払い、別枠でコツコツ積み立てていた貯金もまあまあの金額になったので、今年のGW明けにUFJニコスに電話をかけて一括清算を申し出ました。
いつの間にか(いや、確かめればいつでもわかることなんですが…(汗))あと24万円弱の元金となっている事が分かりましたので、すぐに下ろしてUFJ銀行から振り込みました。


『お前もいい歳なんだから数十万円の借金なんてしないでパッパと払っちゃえよ情けねぇな!』

なんて声が聞こえて来そうですが、恥ずかしながらあれやこれやで結構一杯一杯なんですよ。
突然の出費にもある程度備えておかないといけませんし…

でもまぁ 1つは肩の荷が降りたって事で^ ^

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ひとつ前はこちら

平成14年10月21日付で発令された九州での単身赴任中は、会社から支払われる単身赴任手当の2万円の他に給料から3万円と仕事で出かけると支払われる手当の合計約7万円から9万円で暮らしており、家族への入金額は赴任前から3万円だけは減らした状況でした。

一年後、九州への単身赴任を終えて埼玉に帰ってきたとき、家の中は殆ど片づけられておらず、ゴミ屋敷に近いよう様な状況でした。
ただ、テレビやテーブルなどは新しいものに変わっており、妻の車には新しいカーナビが付いていたり…

さぞかし仕事もうまくいって稼ぎもよくなっていたんだろうと思ったのもつかの間…

私のクレジットカードの家族カードを2~3枚持たしておりましたが、すべてのカードが満額まで使われており、銀行のカードローンも満額。
支払いが滞り気味ですよというような案内も来ていますし、駐車場や共益費の支払いもろくにしていなくて督促状が…

相手方はどうやら自分の仕事が忙しく昇進もして給料もよくなっていたようですが、、ご飯を作る時間もないので毎日のように外食し、休みの日は(主に)娘と買い物に出かけカラオケなどにも出かけて楽しく一年間暮らしていたようで、段々お金が回らなくなったようdした。


慌てふためいた僕は、子供たちの進学用にと給料から引き落としで毎月貯金していた財形貯蓄を全額引き出し、定期預金を解約し、足りない分は武蔵野銀行から100万円借りて、すべての支払いをしたのでした。
持っている家族カードを取り上げたのは言うまでもありませんし、その後のお金の管理(私の給料分)はこちらで管理することにしました。

埼玉に戻った平成15年~16年の手取り給料は、昇給はしましたが単身赴任手当の2万円がなくなり265,000円弱。
その給料を武蔵野銀行へと振り込んで、そこから住宅ローンや管理費、駐車場の代金等をおろして埼玉りそな銀行に入金して支払うようにしていたのです。
武蔵野銀行に毎月3万円強を返済しながら、当時まあまあ良かったボーナスと報奨金のほとんどを定期預金にしていきましたが、一旦は定期預金になるもののすぐに生活にと自動借入となってしまい、本当の貯金は少しずつしか増えていきませんでした。

また、営業所長だの課長などに昇格していた相手方は毎日のように帰りが遅く、営業の割に比較的当時は早帰りや定時直後に一旦抜けることが可能だった僕は一度家に帰って子供たちの食事を作り、また出かけるという事もちょくちょくありました。
ついでだからと一応相手方の分も作っておいてあったものをそのまま捨ててあったり、食べてあったり。

これらにも相当イライラが募っていましたが、
そんな生活を1年ほど続けているうちに相手方がまたやらかしました。

僕は当時もいまも日曜日は休みで土曜日もまあまあの確率でお休みでしたが、相手方は勧誘の関連や企画の旅行だの、その下見だのと言う理由で土日も出かけていることが多かったのです。
あまりに汚い家を掃除していると相手方のカバンがゴロッとひっくり返り中身がバサッと放り出されました。


その中には、ホテルの領収書。
二人一部屋で冷蔵庫のビールも数本。


相手方の言い訳は、「会社の経費削減で男も女も関係なく上司の男性と二人一部屋で旅行の下見に行くのが普通」なんだとか。
会社の出張で男女が同室で泊まるような会社ありますか?

おまけに部下が領収書を持っていて宛名も会社あてでなく、普通なら会社で精算してお金をもらうはずがかなり前の日付…


誰がどう考えたっておかしいです。
完全に僕の気持ちは相手方との修復を望まず、別れる事しか考えられなくなりました。


それから1ヶ月少々が過ぎて、僕はレオパレスの大宮事務所に行き、会社の近くにロフト付の1部屋を借りたのでした。
子供たちには仕事がとても忙しくてなかなか家に帰れないと説明し、ご飯を作りに帰っては自分の部屋に戻るという生活が中心になりました。
また、土日は引き続きカヤックの仲間たちに会いに川へとせっせと出かけていました。ときに子供たちを連れて。
この頃の年間テント(または車)での河原泊はかなりの泊数(40泊以上)になった筈です。


相手方とはたまに顔を合わすと
「別れてほしい。」と頼んでいましたが、
「子供が高校を出るまでは何とかこの形でお願いします。」ばかりの返事です。


そうこうしている内に、平成17年5月にまたまたの仙台赴任が決まったのです。
15年10月21日付の辞令から約1年半後の出来事です。
この時はGW明けに今の常務から電話が来て、5月21日に辞令を出すので、6月1日には仙台に赴任して欲しいという少し時期外れの急な人事異動でした。(例年は4月20日付)

(不定期に続く)

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一つ前はこちら

相手方は職場を変え葬祭業に就きました、
葬祭業と行っても、会社全体が葬祭業を営んでいますが、最初の仕事は互助会の勧誘という感じの営業職でした。
元々外面の良い人でしたし、明るくもあり、あっという間に仕事に馴染んでいったようです。

私の方は、ちょっと前の出来事に何の決着もついていない事もあって、「別れて欲しい」と話し合いの場を持とうとしていました。
ただ、子供の前でけんかしたり別れ話をしたりをしたくないというのは双方の思いでしたので、子供たちが寝るまでは今まで通りの夫婦、寝た後で話を始めたいという感じでしたので、既に小学校に入っていた長女を寝かしつけるという名目で長女の部屋に行き、そのまま寝てしまうという形でほとんどの日を逃げられてしまっていたのです。
また、相手方の仕事がすこぶる順調でどんどん帰りも遅くなり、あっという間に所長になって土日も仕事(私と向き合うのがいやというのもあったんでしょう)
私の方も段々話し合う事にあきらめムードになってきて、毎週末は泊まりで趣味のカヤック遊びに出かけ(行きたいと言えば子供たちも一緒に連れて行っていましたね)、すれ違いの生活を2年程続けていたでしょうか。
そうこうしている内に私の方に転勤の命令が出ました。

そのため、もう一度現実に向き合おうと二人の今後について話し合う事にしました。
私の良い分は、「ちょうどいい機会だから離婚してお互い人生をやり直そう。」という事でしたが、
相手方は
「貴男は、あの誤解があるからカッカしているだけ。子供たちの事もあるし(当時長男が中学2年生)遠くに単身赴任すれば、私の顔も見なくてすむんだから別居生活と同じ。会社から手当も出るのでしょうからお互いの生活は随分楽なので、どうかこのままの状態で転勤して下さい。それが子供たちのためになります。離婚については将来は必ず貴男のお願い通りにします。私も、将来貴男のお母さんの面倒を見る気は全くないし。」
という答の一点張りで平行線でまとまりません。
転勤命令から実際の異動までは1ヶ月もありませんので結局相手方の言う通りに籍は入れたまま、子供たちには何も言わず九州に単身赴任して行ったのでした。


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一つ前はこちら

「もうこの家を出て行け!」と爆発した後の相手方の言い分は
「誤解です。 仲が良い職場の同僚同士の言葉遊びです。」
とのこと。
誰が信じます?そんな話。

そうこうしている内に、遂に相手にあって欲しいという申し入れがきました。
雁首そろえてお詫びして、離婚の話に進むんだろうと少しホッとして会う事にしました。

何と往生際の悪い、呼び出されたファミリーレストランで二人そろって
「誤解です。 仲が良い職場の同僚同士の言葉遊びです。」
の繰り返しです。
やってられません。5分か10分居て二人を残してその場を立ち去りました。


その後二人の関係は今まで以上に冷えに冷えきっていきます。

それより随分以前から私たちは世間で言うところのセックスレスでした。
理由は、長男のお産がとても難産だった事から、辛いのを思いだしたくなくて長女の出産に向けては覚悟を決めてがんばったが、これ以上は…とか
元々好きではないけど子供が出来るまでの責は果たしたとか…
時間が合わないとか…
こちらとしてはまだまだ30代の中盤から後半にかけての頃の話、この辺りも鬱憤のもととなっていました。
しかし、僕もそれほど執着する方ではなかったので仕事と趣味に逃げる時間がどんどん多くなって行っていた頃なのでした。
ま、セックスレスには相手だけではなく、こちらにも色々原因があったのだと思いますが、その頃はそんな風には考えられませんでした。

そのうち相手方が突然仕事を辞めてきました。
以前からやりたい仕事があったのでそちらに就くとの事でした。
その仕事は、突然家族もびっくりの葬祭関係の仕事でした。
実際は、浮気がばれた相手とも気まずくなって会社を辞めたくなったんでしょうね。

(不定期に続く)
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当時僕は埼玉勤めで早く帰れる日も多くなっていた時期でした。以前は埼玉から東京に仕事に通ったりしていて朝は6時前に家を出て、帰りは夜中の12時1時というのがほとんど毎日続いていて土日以外は家庭のことは放ったらかしという典型的なサラリーマンでした。

その頃(13年ほど前)、ウチの妻はとある企業で働いていました。その会社はやたらと飲み会があり、週に3~4日は外へ飲みに行ってました。
かなり小さな企業でしたが、割と独自のものを生産している会社で結構景気がよく、やれ社長が何チャラとかやれ部長がどうのこうのとか… 以前の僕と入れ替わって、妻が帰ってくるのは12時ころが多く遅いと2時過ぎなんてこともしょっちゅうでした。
フルタイムで働いており給料もそこそこいいものをもらっていましたし、マンションも買って2年ほどが経過して、共稼ぎでなければとても無理な状況でしたので、景気が良い会社で社長や専務、部長にかわいがられ飲み会に連れて行って貰えているなら
「ま、しょうがないか…」
と取り立てて文句も言わず割と自由にさせていました。
それまで僕もそういう状態が少なくなかったので罪滅ぼしという訳ではありませんが…

それもだんだんエスカレートしてきて…
当時PHSを持たせ始めたところでしたが、帰ってきてもずっとメールをしているような状況でした。

どう考えても異常ですよね。


今は成人していますが、当時小学校2年生くらいの娘が「うちにはお母さんが居ないね。お父さんが二人みたいなもんだね。」なんて言っていたことを思い出します。(もう覚えてないいんだろうな…)

当時私は一旦早めに家に帰り、子供たちのご飯を作って再び会社に戻るというようなことも少なからずありました。
それはあくまでの子供のためのことでしたが、ついでに妻の分も作り置きしておいたものです。
翌朝、ごみ箱にそのまま捨てられていることも少なくありませんでした。


そうこうしているうちにこちらも爆発します。
PHSを取り上げ、中身を強引に見ます。
「愛してる」
だの
「今夜は楽しかった」
だのという誰が見ても、主婦が夜中にやり取りするメールではありません。

普通に「もうこの家を出ていけ!」という怒声も飛び出そうというもんです。



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