1869年 (明治2)年2月12日(グレゴリオ暦1869年3月24日) 大阪造幣局への業務移管に伴い、江戸幕府の貨幣鋳造所だった金座・銀座を廃止 。
今から約400年前の江戸時代の銀座や金座(今はない)は、今のような町としてではなく、江戸幕府の命令で金貨や銀貨を造っている場所であった。この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより「座」の名が付けられた。日本の貨幣は、唐の開元通宝を手本に鋳造された和同開珎に始まる。平安末期から江戸時代まで無鋳銭時代が続き、多種の輸入銭と私鋳銭が市場に流通してた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦に勝利し、事実上の覇者となった徳川家康は、幕府の安定した政権(幕藩体制)を強固なものにし、経済的にも全国支配を確かなものにしようと考えた。そのためには、貨幣制度の統一が必要であった。以降、江戸幕府は金貨・銀貨・銭貨の3種の貨幣を定め、全国通用貨幣の発行権を独占することとなる。
先ず、1601(慶長6)年、京都の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、慶長金銀貨を発行し、貨幣制度を統一しようとした。しかし、旧来の極印銭(ごくいんせん=銀の裏に、紋、人名、地名などを刻印したもの)が多く出回っていたため幕府の貨幣に統一されるまでには更に時間が経過し、ほぼその姿が消えるのは元禄の頃となる。一方、銅銭に関しては、幕府は暫くは渡来船を公認していたが、1636(寛永13)年、公鋳通過として寛永通宝を発行した。幕府の金・銀・銭(銅)の三貨はこれをもって出揃い、いわゆる三貨制度が名実ともに成立した。
この制度では、幕府自身が直接貨幣を鋳造、発行したわけではなかった。幕府は金座、銀座、銭座とよばれる貨幣鋳造機関を設立し、それぞれの座にそれぞれの貨幣を鋳造させたのである。鋳造された貨幣はすべて幕府へ上納させ、幕府は諸費用の支払いや改鋳によって必要となる新旧貨幣の引替え等を通じて、これら貨幣の発行を図った。
江戸幕府の小判・一分判鋳造所を金座。二朱銀・一朱銀・一分銀など小額貨幣の鋳造所を銀座。大判の制作は大判座が分担していた。
金座は、元禄期(17世紀末)までの間は、江戸、京都、駿河小判座、佐渡小判所に分かれていたが、1695(元禄8)年以降は江戸常磐橋門外に集中された。金貨の鋳造を一手に引き受けた金座は、ほかの座と比べて幕府から非常に厳しい管理、統制を受けていた。具体的には、貨幣鋳造工程における複数の作業者による相互監視体制、職員の採用時における誓約書の提出の義務づけ、高位役職へ就任できる家柄を限定するなどである。この御金改役所は後藤庄三郎家が代々世襲していた。金座は、1869(明治2)年2月に造幣局が設置されたため、廃止になった。跡地は日本銀行本店になり現在に至っている。
銀座は、始めは京都・駿府・大阪など各地にあったが、駿府の銀座が江戸の京橋に移されて後に、日本橋の蠣殻(かきがら)町に移された。銀座は、大黒作兵衛常是が代々世襲していくことになった。
銭座は、幕府が1637(寛永14)年に、寛永通宝を全国に広めるために、全国各地に設置したもの。金座・銀座と同じく幕府の支配下にあったが、その多くは役所ではなく、民間の請負事業であった。江戸の銭座では寛永年間の寛永通宝の鋳銭が浅草と芝で行われ、その後は本所や深川にも銭座が作られた。需要の多い銭座であったが、18世紀の中頃からは民間の請負事業ではなく、金座・銀座の事務の中に組み込まれた。
しかし、この三貨制度は、金貨、銀貨、銭(銅)貨といった、単位も性格も異なる貨幣を併存させた貨幣制度であった。
金貨は戦国時代の武田氏の甲州金にならったもので、小判1枚の1両を基準に額面金額と枚数で価値を表す計数貨幣であった。銀貨は、重さが貨幣の価値を表し、匁(=3.75g)という重さの単位により価値を示す秤量貨幣。銭貨は、寛永通宝1個が1文の計数貨幣というようにそれぞれ別個の価値体系をもっていた。そして、各貨幣相互間の交換(両替)にはその時々の相場が用いられた。 江戸時代に、商業の発祥の地である上方では、主として銀貨が使われる一方、江戸では金貨が使われた。江戸で金貨が使われたのは、武家社会の中心である幕府が江戸にあったからであろう。賃銀という言葉は、銀を使った上方方面で、給金という言葉は金を使った江戸地域で生じた言葉だといわれている。ちなみに両替商の店先には、分銅を型取ったマークが掲げられていた。これは銀を分銅で量った事に由来しており、この分銅型の記号は、今でも銀行の地図マークになっている。
この三つは、各々独立した通貨で、幕府は、金一両=銀五十匁=銭四貫文という希望公定価格を定めていたが、実際は、日々の相場に変動があった。
大岡忠相が江戸町奉行になった翌年の1718(享保3)年、それまで、なんとか一両=六十匁で安定していた金相場が、五十匁、四十匁と銀が急騰し、江戸の消費物価が高騰した。忠相は両替商に対し、六十匁に近づけるよう支持したが、両替商はそれを不服として店を閉めるというような事件もあった。忠相の完敗である。結局成り行きに任せることになった。その5年後にも、物価上昇があり、忠相と両替商の間で対立があり今度は、忠相も強硬であり、従がわない両替商を伝馬町の牢に入れた。これに対して、両替商は全店休業で対抗する。そんな中、忠相は、町奉行から、寺社奉行に役替えとなり、入牢していた両替商は、忠相に代わって事件担当となった稲生正武に「今後こんなことのないように」との厳重注意を受けて釈放されている。役職上は、町奉行より、寺社奉行が形式的に上だが、実務権限では町奉行が上、結局「敬して遠ざけられた」ことになる。その後も、銀相場は上昇し、安永期、田沼意次が通貨の一元化を行おうとしたが、両替商の反発により失敗している。。幕府は18世紀以降、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって財政を持ち直そうとしたが失敗に終わる。 近代に入り、初期の明治政府は、通貨制度を整備する余裕はなかったため、幕府時代と同形の少額貨幣や太政官札などの紙幣を発行した。当時幕府発行の旧貨幣や藩札も同時に流通し、ことに廃藩置県以前は、幕末期にまして藩札類が発行されたので経済は混乱を極めた。この混乱を打開すべく、1869(明治2)2月に造幣局が設置され、金座・銀座が廃止された。1871(明治4)年、新貨条例を設定し、金1.5グラムを1円とする「円」を誕生させた。新金銀貨の製造はされたが、銅貨については1874(明治7)年まで遅れた為、幕府時代の銭貨が新貨幣の金額に蘇られて通用していた。1882(明治15)年に日本銀行設立、1885(明治18)年に日本銀行券が発行され今日に至っている。
(画像は、金座絵巻。江戸金座における小判の製造の様子を描いた絵巻物。以下参考の日本銀行金融研究所 貨幣博物館 より)
参考:
貨幣博物館へようこそ /日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
江戸時代の金座・銀座
http://www.wako.ac.jp/icc/icceduweb/fukasawa_01/fukasawa_01_rep07.htm
雑学の間:お金を扱うのになぜ銀行と言うの?(貨幣の歴史と現在の通貨)
http://homepage3.nifty.com/m_sada/TEAROOM/GELD.html
GINZA STORY
http://www.ginza.jp/story/yurai.html
今から約400年前の江戸時代の銀座や金座(今はない)は、今のような町としてではなく、江戸幕府の命令で金貨や銀貨を造っている場所であった。この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより「座」の名が付けられた。日本の貨幣は、唐の開元通宝を手本に鋳造された和同開珎に始まる。平安末期から江戸時代まで無鋳銭時代が続き、多種の輸入銭と私鋳銭が市場に流通してた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦に勝利し、事実上の覇者となった徳川家康は、幕府の安定した政権(幕藩体制)を強固なものにし、経済的にも全国支配を確かなものにしようと考えた。そのためには、貨幣制度の統一が必要であった。以降、江戸幕府は金貨・銀貨・銭貨の3種の貨幣を定め、全国通用貨幣の発行権を独占することとなる。
先ず、1601(慶長6)年、京都の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、慶長金銀貨を発行し、貨幣制度を統一しようとした。しかし、旧来の極印銭(ごくいんせん=銀の裏に、紋、人名、地名などを刻印したもの)が多く出回っていたため幕府の貨幣に統一されるまでには更に時間が経過し、ほぼその姿が消えるのは元禄の頃となる。一方、銅銭に関しては、幕府は暫くは渡来船を公認していたが、1636(寛永13)年、公鋳通過として寛永通宝を発行した。幕府の金・銀・銭(銅)の三貨はこれをもって出揃い、いわゆる三貨制度が名実ともに成立した。
この制度では、幕府自身が直接貨幣を鋳造、発行したわけではなかった。幕府は金座、銀座、銭座とよばれる貨幣鋳造機関を設立し、それぞれの座にそれぞれの貨幣を鋳造させたのである。鋳造された貨幣はすべて幕府へ上納させ、幕府は諸費用の支払いや改鋳によって必要となる新旧貨幣の引替え等を通じて、これら貨幣の発行を図った。
江戸幕府の小判・一分判鋳造所を金座。二朱銀・一朱銀・一分銀など小額貨幣の鋳造所を銀座。大判の制作は大判座が分担していた。
金座は、元禄期(17世紀末)までの間は、江戸、京都、駿河小判座、佐渡小判所に分かれていたが、1695(元禄8)年以降は江戸常磐橋門外に集中された。金貨の鋳造を一手に引き受けた金座は、ほかの座と比べて幕府から非常に厳しい管理、統制を受けていた。具体的には、貨幣鋳造工程における複数の作業者による相互監視体制、職員の採用時における誓約書の提出の義務づけ、高位役職へ就任できる家柄を限定するなどである。この御金改役所は後藤庄三郎家が代々世襲していた。金座は、1869(明治2)年2月に造幣局が設置されたため、廃止になった。跡地は日本銀行本店になり現在に至っている。
銀座は、始めは京都・駿府・大阪など各地にあったが、駿府の銀座が江戸の京橋に移されて後に、日本橋の蠣殻(かきがら)町に移された。銀座は、大黒作兵衛常是が代々世襲していくことになった。
銭座は、幕府が1637(寛永14)年に、寛永通宝を全国に広めるために、全国各地に設置したもの。金座・銀座と同じく幕府の支配下にあったが、その多くは役所ではなく、民間の請負事業であった。江戸の銭座では寛永年間の寛永通宝の鋳銭が浅草と芝で行われ、その後は本所や深川にも銭座が作られた。需要の多い銭座であったが、18世紀の中頃からは民間の請負事業ではなく、金座・銀座の事務の中に組み込まれた。
しかし、この三貨制度は、金貨、銀貨、銭(銅)貨といった、単位も性格も異なる貨幣を併存させた貨幣制度であった。
金貨は戦国時代の武田氏の甲州金にならったもので、小判1枚の1両を基準に額面金額と枚数で価値を表す計数貨幣であった。銀貨は、重さが貨幣の価値を表し、匁(=3.75g)という重さの単位により価値を示す秤量貨幣。銭貨は、寛永通宝1個が1文の計数貨幣というようにそれぞれ別個の価値体系をもっていた。そして、各貨幣相互間の交換(両替)にはその時々の相場が用いられた。 江戸時代に、商業の発祥の地である上方では、主として銀貨が使われる一方、江戸では金貨が使われた。江戸で金貨が使われたのは、武家社会の中心である幕府が江戸にあったからであろう。賃銀という言葉は、銀を使った上方方面で、給金という言葉は金を使った江戸地域で生じた言葉だといわれている。ちなみに両替商の店先には、分銅を型取ったマークが掲げられていた。これは銀を分銅で量った事に由来しており、この分銅型の記号は、今でも銀行の地図マークになっている。
この三つは、各々独立した通貨で、幕府は、金一両=銀五十匁=銭四貫文という希望公定価格を定めていたが、実際は、日々の相場に変動があった。
大岡忠相が江戸町奉行になった翌年の1718(享保3)年、それまで、なんとか一両=六十匁で安定していた金相場が、五十匁、四十匁と銀が急騰し、江戸の消費物価が高騰した。忠相は両替商に対し、六十匁に近づけるよう支持したが、両替商はそれを不服として店を閉めるというような事件もあった。忠相の完敗である。結局成り行きに任せることになった。その5年後にも、物価上昇があり、忠相と両替商の間で対立があり今度は、忠相も強硬であり、従がわない両替商を伝馬町の牢に入れた。これに対して、両替商は全店休業で対抗する。そんな中、忠相は、町奉行から、寺社奉行に役替えとなり、入牢していた両替商は、忠相に代わって事件担当となった稲生正武に「今後こんなことのないように」との厳重注意を受けて釈放されている。役職上は、町奉行より、寺社奉行が形式的に上だが、実務権限では町奉行が上、結局「敬して遠ざけられた」ことになる。その後も、銀相場は上昇し、安永期、田沼意次が通貨の一元化を行おうとしたが、両替商の反発により失敗している。。幕府は18世紀以降、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって財政を持ち直そうとしたが失敗に終わる。 近代に入り、初期の明治政府は、通貨制度を整備する余裕はなかったため、幕府時代と同形の少額貨幣や太政官札などの紙幣を発行した。当時幕府発行の旧貨幣や藩札も同時に流通し、ことに廃藩置県以前は、幕末期にまして藩札類が発行されたので経済は混乱を極めた。この混乱を打開すべく、1869(明治2)2月に造幣局が設置され、金座・銀座が廃止された。1871(明治4)年、新貨条例を設定し、金1.5グラムを1円とする「円」を誕生させた。新金銀貨の製造はされたが、銅貨については1874(明治7)年まで遅れた為、幕府時代の銭貨が新貨幣の金額に蘇られて通用していた。1882(明治15)年に日本銀行設立、1885(明治18)年に日本銀行券が発行され今日に至っている。
(画像は、金座絵巻。江戸金座における小判の製造の様子を描いた絵巻物。以下参考の日本銀行金融研究所 貨幣博物館 より)
参考:
貨幣博物館へようこそ /日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
江戸時代の金座・銀座
http://www.wako.ac.jp/icc/icceduweb/fukasawa_01/fukasawa_01_rep07.htm
雑学の間:お金を扱うのになぜ銀行と言うの?(貨幣の歴史と現在の通貨)
http://homepage3.nifty.com/m_sada/TEAROOM/GELD.html
GINZA STORY
http://www.ginza.jp/story/yurai.html