2月27日『大日本史』の編纂
1657(明暦3)年 の今日(2月27日)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した。
大日本史は、神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を紀伝体で記した日本の歴史書。江戸時代に水戸藩主徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には、水戸藩及び水戸徳川家の事業として、近世・近代という二つの時代を通じて執筆・校訂が継続され、完成されたのは250年後の1906(明治39)年 のことである。本紀(君主=皇帝、天皇)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻の大部である。
しかし、1つの書物の編纂事業に、250年もの歳月をかけて行ったのには一体どのような意味があるのだろうか。
16世紀に形成された新しい近世の社会は、17世紀を通じて、順調な発展を続けようやく成熟の段階に達しようとしていた。発展には限界があり、社会的な矛盾も顕在化し始めてはいたが、まだ、危機の時代には至っていなかった。しかし、この歴史的な時代は、その成熟した生活意識に自覚の光をあて、自己が生きていることの意義を認識する、いわば、アイデンティティ(自己確認)を求めていた時期ではないだろうか。それが、元禄文化を生み出したともいえる。この時代に活躍した人には、芭蕉や西鶴、近松などの芸術だけでなく学問の面でも新井白石や貝原益軒、他にも儒学では荻生徂徠、国学では契沖、など実に多彩な顔ぶれが見られるが、水戸藩における『大日本史』の編纂事業が軌道に乗るなど歴史の研究が活発になったのもこの頃といわれる。
歴史の転換期に際して、それ以前の長い歴史の過程を振り返ってみることにより、現在の自己がおかれている位置を確認しようとする関心が生まれるのは自然であり、「愚管抄」(1220年慈円)や「神皇正統記」(1339年北畠親房)はまさにそのような歴史の転換期の産物であった。しかし、これらの2書は個人の私的な著述であるのに対し、17世紀には幕府による「本朝通鑑(ほんちょうつがん)』や水戸藩の『大日本史』のように、公的な政府の事業として、古代以来の日本の歴史を全体として叙述した大部の書物が編纂されていることに特色がある。これに類似した政府あるいはその代表者の意思に基づくものとしては、7世紀末の「古事記」と「日本書紀」の編纂が見られるが,7世紀末は、まさに古代国家の完成期に当たっていた。17世紀における武家の為政者たちの間にも同様に新しい国家体制が完成の段階にたっしていたとする意識があったのではないかと想像されている。「記」「紀」の歴史観が、古代国家の成立に正当な根拠を与える意味を担っていたと同様に、近世の新しい国家体制にとっても、それが歴史の流れの結果として必然的に成立したもので嗚呼タコとが示されるなら、その存在にっ正当な根拠が与えられると考えたのではないか・・・。
「本朝通鑑」は林羅山が三代将軍家光の命を受けて編集に着手し、子の鵞峯(がほう)が継承して4代家綱の1670(寛文10)年に完成したもので、310巻の大部の書で、内容は漢文で編成体による、神代から1611(慶長16)年までの通史である。これに対し、水戸藩の第2代の藩主徳川光圀(1628年~1700年)が『大日本史』編纂を企画したのは、さらに本格的な漢文の歴史書を作ろうとする意図に基づくもので、本書では『史記』『漢書』以来の中国での歴史の正史の体裁である紀伝体が採用されている。紀伝体とは、本紀、列伝、志、表の四部で構成される歴史叙述の方式で、編年体よりも多角的な視点から歴史が捉えられるという。それだけに、編纂が困難を極め、最終的に397巻の大著が完成させるのに250年の時を要したのである。
紀伝体では、本紀では、正当と認められた君主の事跡を記述し、列伝ではどのグループに入れられるかによって、人物評価を示すが、本紀にも列伝にも、論賛と呼ばれる批評の文章が加えられ、それぞれの人物の功罪が明らかにされているのだそうだ。その評価基準は、儒教の道徳に置かれ、その基準に照らして正しいものは栄え、不正な者は亡びるという、一種の合理的な法則として、中国の歴史観である「天」の応報が、人々の運命を支配するとする考えがとられている。
本紀について、光圀が特に重視したのが、いわゆる「三大特筆」で、その一つが「南朝正統論」であり、南朝を正統とするとともにその終末まで本書は完結している。そこには、中国の歴史が、「史記」以外は、亡びた王朝の歴史を、次の王朝で編纂するという原則に則り、この場合でも、南朝が亡びるとともに天皇を君主とする古代以来の国家そのものが滅亡したと考え、それに代わったのが武家を主権者とする国家であり、江戸幕府にいたって、その国家の体制が完成されたとする歴史観からのものであろう。神戸の湊川神社には光圀の建てた楠木正成の墓碑がある。光圀の南朝正統論は湊川への楠公墓碑の建立と相俟って、後世の志士を感奮させ、王政復古の運動を導く大きな役割を果たしたともいえる。
(画像は、湊川神社の「光圀像」)
参考:
大日本史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
大日本史概要
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/dainihoshi.htm
水戸学について
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/page008.html
元禄文化
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F354R100.HTM
愚管抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E8%8F%85%E6%8A%84
神皇正統記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
古事記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
日本書紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
国立国会図書館貴重書展:展示No.60 本朝編年録
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c060.html
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
湊川神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
1657(明暦3)年 の今日(2月27日)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した。
大日本史は、神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を紀伝体で記した日本の歴史書。江戸時代に水戸藩主徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には、水戸藩及び水戸徳川家の事業として、近世・近代という二つの時代を通じて執筆・校訂が継続され、完成されたのは250年後の1906(明治39)年 のことである。本紀(君主=皇帝、天皇)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻の大部である。
しかし、1つの書物の編纂事業に、250年もの歳月をかけて行ったのには一体どのような意味があるのだろうか。
16世紀に形成された新しい近世の社会は、17世紀を通じて、順調な発展を続けようやく成熟の段階に達しようとしていた。発展には限界があり、社会的な矛盾も顕在化し始めてはいたが、まだ、危機の時代には至っていなかった。しかし、この歴史的な時代は、その成熟した生活意識に自覚の光をあて、自己が生きていることの意義を認識する、いわば、アイデンティティ(自己確認)を求めていた時期ではないだろうか。それが、元禄文化を生み出したともいえる。この時代に活躍した人には、芭蕉や西鶴、近松などの芸術だけでなく学問の面でも新井白石や貝原益軒、他にも儒学では荻生徂徠、国学では契沖、など実に多彩な顔ぶれが見られるが、水戸藩における『大日本史』の編纂事業が軌道に乗るなど歴史の研究が活発になったのもこの頃といわれる。
歴史の転換期に際して、それ以前の長い歴史の過程を振り返ってみることにより、現在の自己がおかれている位置を確認しようとする関心が生まれるのは自然であり、「愚管抄」(1220年慈円)や「神皇正統記」(1339年北畠親房)はまさにそのような歴史の転換期の産物であった。しかし、これらの2書は個人の私的な著述であるのに対し、17世紀には幕府による「本朝通鑑(ほんちょうつがん)』や水戸藩の『大日本史』のように、公的な政府の事業として、古代以来の日本の歴史を全体として叙述した大部の書物が編纂されていることに特色がある。これに類似した政府あるいはその代表者の意思に基づくものとしては、7世紀末の「古事記」と「日本書紀」の編纂が見られるが,7世紀末は、まさに古代国家の完成期に当たっていた。17世紀における武家の為政者たちの間にも同様に新しい国家体制が完成の段階にたっしていたとする意識があったのではないかと想像されている。「記」「紀」の歴史観が、古代国家の成立に正当な根拠を与える意味を担っていたと同様に、近世の新しい国家体制にとっても、それが歴史の流れの結果として必然的に成立したもので嗚呼タコとが示されるなら、その存在にっ正当な根拠が与えられると考えたのではないか・・・。
「本朝通鑑」は林羅山が三代将軍家光の命を受けて編集に着手し、子の鵞峯(がほう)が継承して4代家綱の1670(寛文10)年に完成したもので、310巻の大部の書で、内容は漢文で編成体による、神代から1611(慶長16)年までの通史である。これに対し、水戸藩の第2代の藩主徳川光圀(1628年~1700年)が『大日本史』編纂を企画したのは、さらに本格的な漢文の歴史書を作ろうとする意図に基づくもので、本書では『史記』『漢書』以来の中国での歴史の正史の体裁である紀伝体が採用されている。紀伝体とは、本紀、列伝、志、表の四部で構成される歴史叙述の方式で、編年体よりも多角的な視点から歴史が捉えられるという。それだけに、編纂が困難を極め、最終的に397巻の大著が完成させるのに250年の時を要したのである。
紀伝体では、本紀では、正当と認められた君主の事跡を記述し、列伝ではどのグループに入れられるかによって、人物評価を示すが、本紀にも列伝にも、論賛と呼ばれる批評の文章が加えられ、それぞれの人物の功罪が明らかにされているのだそうだ。その評価基準は、儒教の道徳に置かれ、その基準に照らして正しいものは栄え、不正な者は亡びるという、一種の合理的な法則として、中国の歴史観である「天」の応報が、人々の運命を支配するとする考えがとられている。
本紀について、光圀が特に重視したのが、いわゆる「三大特筆」で、その一つが「南朝正統論」であり、南朝を正統とするとともにその終末まで本書は完結している。そこには、中国の歴史が、「史記」以外は、亡びた王朝の歴史を、次の王朝で編纂するという原則に則り、この場合でも、南朝が亡びるとともに天皇を君主とする古代以来の国家そのものが滅亡したと考え、それに代わったのが武家を主権者とする国家であり、江戸幕府にいたって、その国家の体制が完成されたとする歴史観からのものであろう。神戸の湊川神社には光圀の建てた楠木正成の墓碑がある。光圀の南朝正統論は湊川への楠公墓碑の建立と相俟って、後世の志士を感奮させ、王政復古の運動を導く大きな役割を果たしたともいえる。
(画像は、湊川神社の「光圀像」)
参考:
大日本史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
大日本史概要
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/dainihoshi.htm
水戸学について
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/page008.html
元禄文化
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F354R100.HTM
愚管抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E8%8F%85%E6%8A%84
神皇正統記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
古事記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
日本書紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
国立国会図書館貴重書展:展示No.60 本朝編年録
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c060.html
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
湊川神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE