今日(2月24日)は、「鉄道ストの日」
1898(明治31)年、日本初の鉄道ストライキが実施された日。
日本鉄道会社の機関士ら400人がストライキに突入し、上野~青森の列車が運休した。
18世紀イギリスで始まった産業革命は、単に工業上の変革だけではなく、それによってもたらされた、運河の改良、汽船や汽車によてもたらされた大量の貨物・旅客の輸送などの交通革命もそのひとつである。我が国の場合も近代的交通手段の発達と資本主義の発展とは不可分に、結びついていた。明治政府は、統一国家形成という政治目的からも、国内治安維持という警察的対策からも、交通革命を必要としたし、大陸侵略を目指した兵員輸送という軍事的動機にもかられていた。その結果、日本では、産業の発展を背景に民間資本が運輸・通信業等を営んだイギリスと異なり、国家資本による官営と政府から特別の保護を受けた政商資本がこれらの部門を独占することとなる。
1872(明治5)年9月13日、新橋ー横浜間の鉄道が営業を開始した。もともと、政府部内で、鉄道建設を決意したのは、民部大輔大隈重信、同少輔伊藤博文であった。二人は、東京ー横浜間をはじめとして、全国各地に鉄道を建設することによって、封建的割拠の体制を打破し、中央集権制を強化出来ると考えた。
明治政府は、鉄道の原則国有を主張していたが、明治政府の黎明期でもあり資金が集まらず、又、当時アジアでは日本やタイ王国等の一部を除いて欧米列強諸国による植民地化が進んでおり、政府は、これらの惨状を勘案し外資の参入を阻んだこともあり、財政資金の不足から行き詰まりつつあった。その上、その後の西南戦争の戦費支出後はインフレーションをも招いた。
これからの鉄道整備が進まない事が予想されたことから、政府は、鉄道の官設官営の方針を転換し、華士族の秩禄(ちつろく)公債による投資を含む半官半民の会社として「日本鉄道会社」の創立を認めた。これが、日本初の私鉄の創業であり、1881年(明治14年)8月1日のことであった。陸軍は、西南戦争の際、鉄道が軍隊の輸送にその機能を発揮したことから、鉄道を軍事目的に利用することを考えた。また、当時防ぎようもないほど高まりつつある自由民権運動の波を見た彼らは、何時起こるか予期できない「不穏」な事態を鎮圧するために軍隊・警察の機動性の高い輸送手段として鉄道網の整備を痛感していた。事実、明治17年の秩父事件に際して上野ー高崎間に開通したばかりの日本鉄道は、東京から憲兵や警察官を輸送し大きな効果を挙げている。だから、日本鉄道会社に対する免許を決めた特約条約書には、政府・軍部の必要に応じて輸送命令に服することが義務付けられており、明治20年5月18日公布の私設鉄道条例が、私設鉄道の線路・施設の規格を規制し、軍事輸送業務への従事を義務付けた。そして、私鉄鉄道といっても、日本鉄道はその建設・営業を鉄道局に委託していた。したがって、初期の段階では資金を集めるだけの企業といった性格が強かった。政府は、1885(明治18)年から、翌年にかけて、軍部の戦略はそれまでの防備戦略から、朝鮮・清国に対する進行戦略に転換。急速に鉄道が整備され、路線は拡張していくことになる。
日本鉄道は、1883年(明治16)7月には上野―熊谷間が開通し、1884年(明治17)には前橋まで開通、1886年(明治19)6月、大宮―宇都宮間も開通、そして1891年(明治24)9月、盛岡―青森間の開通により、上野―青森間が全通した。その後,現在の水戸線・両毛線・常磐線を買収あるいは建設した。営業成績は良好であり、これが私鉄経営に刺激を与え,以後各地に続々と私鉄が建設されていった。そして、1889(明治22)年、7月、新橋ー神戸間の東海道線が全通した。その前年には、山陽鉄道会社が設立され、鐡道は神戸以西にも延びていった。
明治のこの時期、このような国家主導による資本主義化の中で、軍工廟・製鉄所・鉄道・電信電話といった官営企業などの巨大化、さらに、港湾・道路橋梁など社会資本に対する国家の財政投資も膨大であった。国家資本に次ぐ財閥資本は政府の保護の下、国家権力と癒着しながら鉱工業や金融・商業部門にも進出し財閥を形成した。そしてこれらに従事する膨大な賃金労働者郡が生み出されることとなる。しかし、これらの労働者の多くは小作貧農の子女の出稼ぎや没落農民の流出者であった。彼らの賃金は極端に低く、労働条件は劣悪を極め、身分的な拘束さえうけていた。やがて、低賃金や劣悪な労働条件に抗議する声が高まる。ストライキが頻発する中で、鉄道業でも、1898(明治31)年、日本鉄道の機関士らが待遇改善期成同盟会を結成、弾圧を跳ね除けて、400人がストを決行し、要求を貫徹した。これが、日本初の鉄道ストである。政府は、その後、鉄道網を延伸した後に1906年(明治39年)鉄道国有法を公布し民間鉄道を買収した。日本鉄道も、同年11月1日には国有化され,東北本線・高崎線などになっていった。
この、日本鉄道がストを起こしたころ、こんな歌が流行っていた。
なにをくよくよ 川端柳
焦がるる なんとしょ
川の流れを 見て暮らす
東雲の ストライキ
さりとはつらいね てなこと
おっしゃいましたかね
この歌は年配の人なら知っていると思うが、明治後期の流行歌で「ストライキ節(東雲節)」といわれるものだが、名古屋旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれたともいわれているが、正確なことはよくわからないらしい。元唄は高杉晋作の作った都々逸とも言われるがこれもわからない。当時、演歌師によって全国に広まったといわれている。
面白い歌なので、聞いてみては・・・・・・→ ストライキ節
日本鉄道や日本鉄道のストのことなら以下参考の「日本鉄道会社」「社長を退陣させた日本初の鉄道スト」が詳しいよ。
(画像は、鉄道労働者のスト「労働界」第8号、明治31年3月15日。週刊朝日百科・日本の歴史に掲載のもの)
参考:
日本鉄道会社
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O042L100.HTM
社長を退陣させた日本初の鉄道スト
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji32q.htm
日本国有鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93
東雲節(しののめぶし)考
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
日本国有鉄道の歴史
http://page.freett.com/anotoki_kokutetu/motto/shikenkokutetu/shikenkokuteuindex.html
1898(明治31)年、日本初の鉄道ストライキが実施された日。
日本鉄道会社の機関士ら400人がストライキに突入し、上野~青森の列車が運休した。
18世紀イギリスで始まった産業革命は、単に工業上の変革だけではなく、それによってもたらされた、運河の改良、汽船や汽車によてもたらされた大量の貨物・旅客の輸送などの交通革命もそのひとつである。我が国の場合も近代的交通手段の発達と資本主義の発展とは不可分に、結びついていた。明治政府は、統一国家形成という政治目的からも、国内治安維持という警察的対策からも、交通革命を必要としたし、大陸侵略を目指した兵員輸送という軍事的動機にもかられていた。その結果、日本では、産業の発展を背景に民間資本が運輸・通信業等を営んだイギリスと異なり、国家資本による官営と政府から特別の保護を受けた政商資本がこれらの部門を独占することとなる。
1872(明治5)年9月13日、新橋ー横浜間の鉄道が営業を開始した。もともと、政府部内で、鉄道建設を決意したのは、民部大輔大隈重信、同少輔伊藤博文であった。二人は、東京ー横浜間をはじめとして、全国各地に鉄道を建設することによって、封建的割拠の体制を打破し、中央集権制を強化出来ると考えた。
明治政府は、鉄道の原則国有を主張していたが、明治政府の黎明期でもあり資金が集まらず、又、当時アジアでは日本やタイ王国等の一部を除いて欧米列強諸国による植民地化が進んでおり、政府は、これらの惨状を勘案し外資の参入を阻んだこともあり、財政資金の不足から行き詰まりつつあった。その上、その後の西南戦争の戦費支出後はインフレーションをも招いた。
これからの鉄道整備が進まない事が予想されたことから、政府は、鉄道の官設官営の方針を転換し、華士族の秩禄(ちつろく)公債による投資を含む半官半民の会社として「日本鉄道会社」の創立を認めた。これが、日本初の私鉄の創業であり、1881年(明治14年)8月1日のことであった。陸軍は、西南戦争の際、鉄道が軍隊の輸送にその機能を発揮したことから、鉄道を軍事目的に利用することを考えた。また、当時防ぎようもないほど高まりつつある自由民権運動の波を見た彼らは、何時起こるか予期できない「不穏」な事態を鎮圧するために軍隊・警察の機動性の高い輸送手段として鉄道網の整備を痛感していた。事実、明治17年の秩父事件に際して上野ー高崎間に開通したばかりの日本鉄道は、東京から憲兵や警察官を輸送し大きな効果を挙げている。だから、日本鉄道会社に対する免許を決めた特約条約書には、政府・軍部の必要に応じて輸送命令に服することが義務付けられており、明治20年5月18日公布の私設鉄道条例が、私設鉄道の線路・施設の規格を規制し、軍事輸送業務への従事を義務付けた。そして、私鉄鉄道といっても、日本鉄道はその建設・営業を鉄道局に委託していた。したがって、初期の段階では資金を集めるだけの企業といった性格が強かった。政府は、1885(明治18)年から、翌年にかけて、軍部の戦略はそれまでの防備戦略から、朝鮮・清国に対する進行戦略に転換。急速に鉄道が整備され、路線は拡張していくことになる。
日本鉄道は、1883年(明治16)7月には上野―熊谷間が開通し、1884年(明治17)には前橋まで開通、1886年(明治19)6月、大宮―宇都宮間も開通、そして1891年(明治24)9月、盛岡―青森間の開通により、上野―青森間が全通した。その後,現在の水戸線・両毛線・常磐線を買収あるいは建設した。営業成績は良好であり、これが私鉄経営に刺激を与え,以後各地に続々と私鉄が建設されていった。そして、1889(明治22)年、7月、新橋ー神戸間の東海道線が全通した。その前年には、山陽鉄道会社が設立され、鐡道は神戸以西にも延びていった。
明治のこの時期、このような国家主導による資本主義化の中で、軍工廟・製鉄所・鉄道・電信電話といった官営企業などの巨大化、さらに、港湾・道路橋梁など社会資本に対する国家の財政投資も膨大であった。国家資本に次ぐ財閥資本は政府の保護の下、国家権力と癒着しながら鉱工業や金融・商業部門にも進出し財閥を形成した。そしてこれらに従事する膨大な賃金労働者郡が生み出されることとなる。しかし、これらの労働者の多くは小作貧農の子女の出稼ぎや没落農民の流出者であった。彼らの賃金は極端に低く、労働条件は劣悪を極め、身分的な拘束さえうけていた。やがて、低賃金や劣悪な労働条件に抗議する声が高まる。ストライキが頻発する中で、鉄道業でも、1898(明治31)年、日本鉄道の機関士らが待遇改善期成同盟会を結成、弾圧を跳ね除けて、400人がストを決行し、要求を貫徹した。これが、日本初の鉄道ストである。政府は、その後、鉄道網を延伸した後に1906年(明治39年)鉄道国有法を公布し民間鉄道を買収した。日本鉄道も、同年11月1日には国有化され,東北本線・高崎線などになっていった。
この、日本鉄道がストを起こしたころ、こんな歌が流行っていた。
なにをくよくよ 川端柳
焦がるる なんとしょ
川の流れを 見て暮らす
東雲の ストライキ
さりとはつらいね てなこと
おっしゃいましたかね
この歌は年配の人なら知っていると思うが、明治後期の流行歌で「ストライキ節(東雲節)」といわれるものだが、名古屋旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれたともいわれているが、正確なことはよくわからないらしい。元唄は高杉晋作の作った都々逸とも言われるがこれもわからない。当時、演歌師によって全国に広まったといわれている。
面白い歌なので、聞いてみては・・・・・・→ ストライキ節
日本鉄道や日本鉄道のストのことなら以下参考の「日本鉄道会社」「社長を退陣させた日本初の鉄道スト」が詳しいよ。
(画像は、鉄道労働者のスト「労働界」第8号、明治31年3月15日。週刊朝日百科・日本の歴史に掲載のもの)
参考:
日本鉄道会社
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O042L100.HTM
社長を退陣させた日本初の鉄道スト
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji32q.htm
日本国有鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93
東雲節(しののめぶし)考
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
日本国有鉄道の歴史
http://page.freett.com/anotoki_kokutetu/motto/shikenkokutetu/shikenkokuteuindex.html