今日(4月5日)は、「横町の日」
「よ(4)こ(5)ちょう」の語呂合せ。
よこちょうは、「横町」「横丁」と書くが、表通りから横に入った細い道。よこまちをいう。
関西人の場合は、横町と聞くと、大阪・南の「法善寺横町」が浮かんでくる。
庖丁一本 晒にまいて
旅へでるのも 板場の修業
待ってて こいさん 哀しいだろが
ああ 若い二人の 想い出にじむ法善寺
月も未練な十三夜
1960(昭和35)年、藤島桓夫の唄で大ヒットした曲「月の法善寺横町」(作詞:十二村哲、作曲:飯田景応)。
道頓堀の南側の小さな路地の中にある。入り口の「法善寺横町」の看板の文字は、あの故藤山寛美さん直筆のものである。ここにかかっている看板は「横町」の字が「横丁」となっている。又、「月の法善寺横町」の歌碑が横丁のほぼ中心に立っている。「町」でも「丁」でもどちらでも同じことだが、私は、「横丁」の方が好きだ。
”こいさんが私を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上がった晩やった・・・”と唄の中のせりふにもある。
この法善寺横丁と言えば、織田作之助原作の「夫婦善哉」、売れっ 妓の芸者として知られる蝶子と化粧問屋の放蕩息子柳吉との人情喜劇、恋物語も有名である。この「夫婦善哉」のことは、以前に私のブログ「今日(11月13日 )は豊田四郎 (映画監督『夫婦善哉』)の忌日」でも書いたので、興味のある方は見てね。「月の法善寺横町」がヒットした頃は、神戸に住んでいる私が大阪で仕事を始めて間もない頃であった。先輩に初めて法善寺横丁へつれていって貰って、こんな情緒のある場所があるのかと一度で気に入ってしまった。それから、のん兵衛の私の行きつけの場所となってしまった。
法善寺横丁のよさは、字の通り、「横丁」の良さである。有名な石畳の路地の両側に、小料理屋、バーなど小さな店がひしめきあって軒を並べている。
道頓堀の町と違って、その狭さが一種独特の浪花情緒あふれる一角にしている。2002年の旧中座火災、そして、翌2003年と、立て続けに火災を起こしたが、今もなんとか旧景観を取り戻している。(建築基準法では、道路は4メートル幅以上。以前の町並みに戻すため、法善寺横丁一帯を、ひとつの敷地とみなし、路地を「通路」と考え2.7メートル幅を実現)。
最近は、消防法の問題で、どこの商店も通路が広くなった。しかし、私の見る限り、寂れた商店街の道路だけが、ただ、だだっ広くなって、余計に閑散とした感じになったところが多く、良くなったと思われるところは少ない。町家でも、私達が子どもの頃には、路地があり、夏などは、そこに将棋を出して、団扇で蚊を追いながら縁台将棋をしている大人達がいた。子供達も近所の人が見守る中、路地の中を走り回って遊んでいた。そして、横丁には、必ず1人や2人の世話焼きな御隠居さん(第一線を退いた老人)がいて、困った人の相談にのったりしていた。今思えば、懐かしい光景である。
飲食街でも、法善寺横丁に似た、表通りからは少し外れた路地に、小さな飲食店が集まり、庶民の憩いの場となっていた。しかし、経済成長とともに、車社会が訪れ、街の道路や通路はどこもどんどん広がり、飲食店も立派な店構えの大きな店になった。住宅街もマンションや戸建の家でも、庭付き一戸建て、そして、門を構えたよそよそしい家ばかりとなった。私も今は、同様の庭つき、門構えの1戸建に住んでいるが、年齢とともに子どもの頃に住んでいた路地のある町が懐かしくって仕方がない。何時だったか何かの本で、旅をするなら裏通りを歩けとあった。裏通りにこそ、その街の文化が息づいていると書いてあった。私は、現役時代、仕事で出張ばかりしていたが、それ以来、出張するとその街の裏通りを歩くことにしていた。確かに、、表の繁華街から外れた今は人通りもすくなくなった裏通りに、その街の古い時代からの文化が漂っている。もう、表通りは、日本中、どこも同じで、地域の特徴など全くない。
最近、京都の裏通りの町家に人気が出てきたり、○○横丁などといった名前の人工的なごちゃごちゃとした暖簾街のような飲食店街づくりがはやっているようである。やはり、狭い、人と人とが触れ合うような場所にこそ温かみが感じられる。
少し、良き時代の法善寺の雰囲気を「月の法善寺横町」の曲で味わってみますか。曲はここ。
(画像は、藤山寛美さん「直筆の法善寺横丁」入り口看板)
参考:
月の法善寺横町
http://www.uchiyama.info/oriori/sonota/uta/houzenji/
主人公が見た風景
http://qho.cc-net.or.jp/9803/syuzinkou.html
「よ(4)こ(5)ちょう」の語呂合せ。
よこちょうは、「横町」「横丁」と書くが、表通りから横に入った細い道。よこまちをいう。
関西人の場合は、横町と聞くと、大阪・南の「法善寺横町」が浮かんでくる。
庖丁一本 晒にまいて
旅へでるのも 板場の修業
待ってて こいさん 哀しいだろが
ああ 若い二人の 想い出にじむ法善寺
月も未練な十三夜
1960(昭和35)年、藤島桓夫の唄で大ヒットした曲「月の法善寺横町」(作詞:十二村哲、作曲:飯田景応)。
道頓堀の南側の小さな路地の中にある。入り口の「法善寺横町」の看板の文字は、あの故藤山寛美さん直筆のものである。ここにかかっている看板は「横町」の字が「横丁」となっている。又、「月の法善寺横町」の歌碑が横丁のほぼ中心に立っている。「町」でも「丁」でもどちらでも同じことだが、私は、「横丁」の方が好きだ。
”こいさんが私を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上がった晩やった・・・”と唄の中のせりふにもある。
この法善寺横丁と言えば、織田作之助原作の「夫婦善哉」、売れっ 妓の芸者として知られる蝶子と化粧問屋の放蕩息子柳吉との人情喜劇、恋物語も有名である。この「夫婦善哉」のことは、以前に私のブログ「今日(11月13日 )は豊田四郎 (映画監督『夫婦善哉』)の忌日」でも書いたので、興味のある方は見てね。「月の法善寺横町」がヒットした頃は、神戸に住んでいる私が大阪で仕事を始めて間もない頃であった。先輩に初めて法善寺横丁へつれていって貰って、こんな情緒のある場所があるのかと一度で気に入ってしまった。それから、のん兵衛の私の行きつけの場所となってしまった。
法善寺横丁のよさは、字の通り、「横丁」の良さである。有名な石畳の路地の両側に、小料理屋、バーなど小さな店がひしめきあって軒を並べている。
道頓堀の町と違って、その狭さが一種独特の浪花情緒あふれる一角にしている。2002年の旧中座火災、そして、翌2003年と、立て続けに火災を起こしたが、今もなんとか旧景観を取り戻している。(建築基準法では、道路は4メートル幅以上。以前の町並みに戻すため、法善寺横丁一帯を、ひとつの敷地とみなし、路地を「通路」と考え2.7メートル幅を実現)。
最近は、消防法の問題で、どこの商店も通路が広くなった。しかし、私の見る限り、寂れた商店街の道路だけが、ただ、だだっ広くなって、余計に閑散とした感じになったところが多く、良くなったと思われるところは少ない。町家でも、私達が子どもの頃には、路地があり、夏などは、そこに将棋を出して、団扇で蚊を追いながら縁台将棋をしている大人達がいた。子供達も近所の人が見守る中、路地の中を走り回って遊んでいた。そして、横丁には、必ず1人や2人の世話焼きな御隠居さん(第一線を退いた老人)がいて、困った人の相談にのったりしていた。今思えば、懐かしい光景である。
飲食街でも、法善寺横丁に似た、表通りからは少し外れた路地に、小さな飲食店が集まり、庶民の憩いの場となっていた。しかし、経済成長とともに、車社会が訪れ、街の道路や通路はどこもどんどん広がり、飲食店も立派な店構えの大きな店になった。住宅街もマンションや戸建の家でも、庭付き一戸建て、そして、門を構えたよそよそしい家ばかりとなった。私も今は、同様の庭つき、門構えの1戸建に住んでいるが、年齢とともに子どもの頃に住んでいた路地のある町が懐かしくって仕方がない。何時だったか何かの本で、旅をするなら裏通りを歩けとあった。裏通りにこそ、その街の文化が息づいていると書いてあった。私は、現役時代、仕事で出張ばかりしていたが、それ以来、出張するとその街の裏通りを歩くことにしていた。確かに、、表の繁華街から外れた今は人通りもすくなくなった裏通りに、その街の古い時代からの文化が漂っている。もう、表通りは、日本中、どこも同じで、地域の特徴など全くない。
最近、京都の裏通りの町家に人気が出てきたり、○○横丁などといった名前の人工的なごちゃごちゃとした暖簾街のような飲食店街づくりがはやっているようである。やはり、狭い、人と人とが触れ合うような場所にこそ温かみが感じられる。
少し、良き時代の法善寺の雰囲気を「月の法善寺横町」の曲で味わってみますか。曲はここ。
(画像は、藤山寛美さん「直筆の法善寺横丁」入り口看板)
参考:
月の法善寺横町
http://www.uchiyama.info/oriori/sonota/uta/houzenji/
主人公が見た風景
http://qho.cc-net.or.jp/9803/syuzinkou.html