今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

決闘の日

2006-04-13 | 記念日
今日(4月13日)は「決闘の日」。
巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた日である。
1612(慶長17)年4月13日 、美作の浪人・宮本武蔵と細川家指南役・佐々木小次郎の決闘が、豊前小倉沖の無人島・巌流島(舟島)で行われた。
決闘の日、武蔵は約束の時間を1刻(今の約2時間)遅れて小船で姿を現す。
「武蔵か」巌流から呼びかけた。武蔵は、先を越して、水際に立ちはだかった。
小次郎は約束の時間を大きく遅れた武蔵を罵倒し、物干竿を抜き放ち、鞘を海に投げ捨てる。と、武蔵がいう。「小次郎っ、負けたり!」
「なにっ」「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ」
「だまれっ。なにをもって」
「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。鞘は、汝の天命を投げ捨てた」
真空のようになった戦いの場で、無念無想で対峙する武蔵と小次郎。武蔵は海を背に動かなかった。真昼の太陽を反射した海水は強く光輝き、それに向かっている小次郎にとっては、精神も目も武蔵より数段疲労が溜まってきたときだった。
武蔵は・・・正眼に寄ってきたのである。その無造作に、巌流が、はっと詰足(つめあし)を止めた時、武蔵の姿を見失いかけた。櫂(かい)の木剣が、ぶんと上がったのである、六尺ぢかい武蔵の身体が、4尺ぐらいに縮まってみえた。足が地をはなれると、その姿は、宙のものだった。「-アツつ」巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。・・・・然(しか)し、その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。(吉川英治『宮本武蔵』)・・・その後、横たわっている小次郎にまだかすかに息が残っているのを確かめた武蔵は、小次郎と立会人に一礼すると、乗ってきた小船に乗りいずこえともなく去っていった。
慶長17年4月13日、関門海峡の小さな島で、役人立会いのもとおこなわれた、武蔵・小次郎(巌流)の試合。巌流・佐々木小次郎は秘剣燕返しの名手、片や二刀流の宮本武蔵、天下無双の剣術家として知られる両雄の生死を賭けた真剣勝負の結果は武蔵が勝利し、小次郎が敗れた。
多くの船が休むことなく行き交う関門海峡。下関側の唐戸と門司側の門司港の間は、船で7,8分で行き来できる狭い海峡である。その海峡の間に周囲約1.6㎞の舟島が浮かんでいる。巌流島の決闘は、この砂洲で行われたようだ。小次郎は、小倉の長浜から船で舟島にむかった。彦島に弟子待という地名があるそうだが、小次郎の弟子たちが、ここで小次郎が帰ってくるのを待っていたことに由来しているという。一方、武蔵は壇の浦からむかった。当時の小さな島・船島は、小次郎と武蔵の決闘以後は「巌流島」と呼ばれるようになった。明治時代までの巌流島は、現在の3分の1ほどの大きさで、彦島との間に砂洲があり、干潮になると中洲があらわれた。大正時代から砂洲の埋め立てを行い、巌流島は現在の大きさになったそうだ。現在は無人島だが人が住んでいたこともあるという。
しかし、それにしても、勝者の武蔵ではなく、なぜか敗者であるはずの小次郎の流派が島の名前とされたのは何故だろう・・・?。
巌流島の決闘以降、武蔵はその戦いについてほとんど口を開かなかったといわれており、武蔵にとって小次郎との決闘は、生涯で最も大きな出来事だったと思われるが、なぜか「五輪書」にも、小次郎の名は記されていないという。武蔵には何か書きたくない理由があったのだろうか・・・これも大きな謎ではある。
この巌流島の決闘は、そもそも、武蔵・小次郎の門弟同士の争いから互いの腕を試すことになったというが、公式な文書が存在しているわけではなく、正確なところは謎となっている。しかし、当時から大きな関心事であったことから、時を経て語り継がれ諸説が存在している。武蔵の死後半世紀も経ってから、武蔵が晩年を過ごした肥後藩(現在の熊本県)の士・豊田又四郎正剛とその子・彦兵衛正脩、孫の左近右衛門景英ら3代の手を経て、宝暦5年(1755年)に完成した「二天記」では、遅れてくる武蔵にいらだつ小次郎の様子や、「小次郎負けたり。勝者なんぞそのさやを捨てん」と武蔵が大声を発する場面などが登場し、これら、「二天記」を史料とした吉川英治の小説や映画でおなじみのものである。
「二天記」に登場する佐々木小次郎も年齢的なものから、その人物像は曖昧。他の小次郎に関する資料も乏しく小次郎のはっきりとしたことはわかっていない。小説「宮本武蔵」の中では、山口県岩国市出身で、錦帯橋のほとりにある柳の枝を相手に秘剣・ツバメ返しを会得するという設定が登場するが、これも、吉川英治の創作の域を出ていない。
北九州市小倉北区手向け山の「武蔵の碑」は、巌流島の決闘から45年後に、武蔵の養子で小笠原藩家老職の宮本伊織によって建立されたもので、武蔵が二刀流を編み出した工夫、巌流島の佐々木小次郎との決戦までの状況などが書かれ、剣聖・宮本武蔵をたたえている。小説などでは、巌流島の決闘に際して、武蔵は約束の時間を1刻(今の約2時間)も遅れてきたことになっているが、「武蔵の碑」には、小次郎と武蔵「両雄同時に相会す」と書かれており、武蔵が遅刻したとは書かれていないが、これも、武蔵の養子である伊織により建てられた碑なのだから、まるまる信じるわけにもゆかないだろう。何しろ、武蔵は遅刻の常習犯なのだから。又、同碑には「巌流三尺の白刃を手にしてきたり」と書かれていることから、小次郎の物干し竿といわれる長刀は、刃長だけでも90cm強だったことになり、普通の刀が60~70cmだろうから、確かに長い。「二天記」などには物干し竿は備前長船長光であったとの記述があるそうで、このような長刀を振り回すことは並みの剣士には出来ないだろう。しかし、これに対して、武蔵は、櫂を削った木剣で戦っている。その木剣の長さは130cmもある。この木刀を片手で振舞わしたという宮本武蔵の身の丈は6尺(約1.8m)と言うから、当時としては相当な大男だった。小次郎がどんな人物かは定かでないが、大男の武蔵が剣よりも扱いやすく、物干し竿より長い木刀で、しかも、遅刻をして、相手をじらせ、一瞬を突いて木刀で一撃したのだろう。
以下参考の「考証 巌流佐々木小次郎」にある「沼田家記」によると、小次郎は当初の約束どおりに一人で巌流島へと来たが、武蔵側は、武蔵の思惑はともかくとして、武蔵の弟子達は巌流島に来て隠れていて、決闘によって昏倒した小次郎が目を覚ますと、隠れていた武蔵の弟子が襲って殺したというのだ。これを知った小次郎の多くの弟子達は怒りにふるえて武蔵を追撃した。そして、困った武蔵は,細川藩家老の沼田延元を頼り,鉄砲兵に護衛されながら豊後へ送られたという。・・・巌流島の戦いに関しては、他にも、小次郎謀略説もあり、謎の多い戦いではある。
武蔵は、1640(寛永17)年肥後の細川忠利に召し抱えられ、1643(寛永20)年、「五輪書」を著した。その「五輪書」には13歳で新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。しかし、物の本によると、彼自身は奥州で試合して、やられて、山伏か何かに半殺しの目に会って逃げたりしているらしい・・とある。
昔、直木三十五(なおきさんじゅうご)と菊池寛(きくちかん)とが論争をしたことがあり、それが吉川英治に飛び火した結果『宮本武蔵』を生んだというエピソードがあるらしい。直木三十五が、武蔵の剣技を評して、あれは、結局、自分より強い奴とは一度も会わなかったんだ、いずれも、事前の情報の戦いをやって、そして、これなら必ず勝てる、そう思った人にだけ挑戦状をつきつけたということをいっていたという。しかし、それも、卑怯と言うよりも、一つの戦術とはいえる。武蔵の強さは、約束事などと言うものを無視して、自分独自のやり方で生き抜いてきた。そこに強さがあったのだろうともいっている。大きな体と、勝負度胸、天性の野生的な強さはあっても、指導者的な素質はなかったようであり、結局、彼は、指南役などに召し抱えられることもなく、諸国放浪の果てに、細川忠利の知遇を得て、玄米300百石の客分として安住の地を与えられた。細川藩代々の君主が参勤交代で江戸に向かった大津街道の傍らに武蔵の墓がある。その遺言には「死骸に甲冑を着せよ」とあったそうだ。生きている間人に仕えることのなかった武蔵は、死んで後、はじめて、侍大将の甲冑に身を固め、地下に埋まったということであろう。(日本史探訪、講談・歌舞伎のヒーローたち)
吉川英治のことは以前に今日(9月7日)は「英治忌」で書いたので興味のある方はどうぞ・・。
(画像は、吉川英治の小説「宮本武蔵」の挿画より「巌流島の決闘」の場面)
参考:
宮本武蔵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5
シリーズ・彦島を歩く「弟子待~検疫所裏~江ノ浦」
http://www.hikoshima.com/photo-deshimatsu/walk/index.htm
考証 巌流佐々木小次郎
http://homepage3.nifty.com/ganryu/index.htm
宮本武蔵(手向山)顕彰碑・碑文
http://plaza.rakuten.co.jp/niten/27000
Yahoo!地図情報 - 山口県 - 下関市 - 彦島
http://map.yahoo.co.jp/address/35/35201/396/
巌流島ホームページ
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/ganryujima/index.html
「剣聖」ではなかった宮本武蔵
http://www.eco.saitama-u.ac.jp/~ono/sozou/musashi.html
日子の島≪山口県下関市彦島≫巌流島
http://www.hikoshima.com/ganryu/photo-390.htm
宮本武蔵(熊本歴史・人物)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/rekisi/musashi.html
直木三十五について
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kenkyu/naoki35.htm