5月1日「扇の日」
京都扇子団扇商工協同組合が1990(平成2)年に制定。
『源氏物語』では女性が光源氏に扇を贈っていることから、「こ(5)い(1)」(恋)の語呂合せだとか。
扇子(せんす)は、扇(おうぎ)ともいうが、「おうぎ」は、歴史的仮名遣では「あふぎ」と書く。これは「あふぐ(煽ぐ)」の名詞形である。この扇子(せんす)を開いた形、「扇形」は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされてきた。そのため、めでたい席での引出物や年令礼のおりの年玉などによくもちいられた。
扇子と同じく自分の手で風を送るのに用いる道具「うちわ」は、紀元前の中国で用いられたとの記録があるそうだが、日本へは7世紀頃に伝来したが、うちわを折り畳んで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下り、8世紀頃の日本で発明されたものだという。
先ず「桧扇」と呼ばれる薄い桧板を重ね綴ったものが作られ、京都・東寺の千手観音像の腕の中から発見された元慶元年(877年)と記された物が、我が国最古の檜扇とされており、これは、木簡から派生したと考えられるそうだ。当初は男性が用い、女性は「はしば」という団扇(うちわ)の一種を持っていたが、次第に女性も檜扇を用い初め、宮中の女人が常に手にするようになったそうだ。初めから装飾的役割が与えられていたが、特に女性が用いるようになってさらに彩り華やかな物になたという。次に竹と紙で出来ている「紙扇」が作られた。長保年間(999~1003年)以前には、金銀泥箔に彩画・詩歌がしたためられ色紙の粋を尽くし、骨数も次第に増え、その華やかさは、女子用檜扇にも劣らない物であり、男女間の文替わりの扇交換や宮中で侍臣に扇を賜る年中行事「扇の拝」の記録も平安初期に見られるようだ。(京都扇子団扇商工協同組合HPの扇子の種類参照)
平安時代頃から、扇子(扇)はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語などにも書かれている。そのことから、今日(5月1日)を「扇の日」としている。
源氏物語は、平安時代中期の、54帖より成る長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語であるが単に王朝物語言うにとどまらず、日本文学史上の長編物語の傑作で、作者については諸説あるが、一条天皇中宮上東門院彰子(藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部がその作者であるというのが通説となっている。
物語は、平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多くの恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然(かんぜん=非難すべき欠点がない)とするところのない首尾を整えている。
『源氏物語』五十四帖の第4帖夕顔 がある。
以下参考に記載の『与謝野 晶子訳『 04 夕顔に源氏と夕霧・扇に関連するところを見て見ると概略以下のようにある。
”源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへお忍びで通う途中、五条辺に住む重い病気にかかり尼になっていた大弐の乳母(めのと)を見舞った。
車が入るべき正門には施錠がしてあったので、従者に乳母の息子の惟光(これみつ)を呼ばせて、待っている間、源氏は立派とはいえないその辺の大路の様子をながめていると、乳母の家の隣の桧垣(ひがき)を外囲いして簾などを新しく整えた涼しげな、しかし簡素な家の桧垣には端隠しのように青々とした蔓草(つるくさ)が勢いよく這いかかり、その白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。それで、そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、源氏の随身が車の前に膝まずいて言った。
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」と申し上げる。
その言葉どおりで、貧しげな小家が多くむさ苦しそうなこの通りのあちら、こちらの、あるものは倒れそうになった家の軒などにもこの花が咲いていた。
「気の毒な花の運命よ。一房手折ってまいれ」・・・といわれて、随身は花を一房折り取った。するとその家の中から女童が出てきて、黄色の生絹(すずし)の袴(はかま)を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、「これへ載せておあげなさいまし。手で提(さ)げては不恰好な花ですもの」と、白い扇を色のつくほど薫物(たきもの)で燻(くゆ)らしたのを渡した。
この後、源氏は乳母を見舞って、帰ろうとする時に、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んだ、よい薫物(たきもの)の香のする扇に、きれいな字で、次の歌が書かれていた。
「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」
散らし書きの字が上品に見えた。それが少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に非常に好感を覚えた。このとき、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
下の品の者(身分の低い者)が、物馴(ものな)れた戯れに、自分を光源氏と見て詠(よ)んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬと、源氏は、花を折りに行った随身に以下の返歌を詠み持たせてやった。
「寄りてこそそれかとも見め黄昏(たそが)れにほのぼの見つる花の夕顔」
しかし、夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったのだが・・・。”そして、いつしか秋になり、源氏の君は葵上の御邸にもたまにしか出かけなくなり、六条御息所に対しても、以前のように一途になることはなくなった。そして、惟光が、源氏の君の御心に添うようにと、段取りをつけ、夕顔の宿に通うようになった。源氏は可憐で素直な夕顔を深く愛するが、あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん、源融の旧邸六条河原院がモデルとされる)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、六条御息所が嫉妬のあまり生霊となってある夜これをとり殺す。源氏は女の死を深く嘆くのであった。夕顔は、登場する回数こそ少ないものの、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る女性。儚げながら可憐で朗らかな性格で、源氏は短い間であったが彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。後には彼女の娘の玉鬘(たまかずら)が登場し、物語に色を添える。
源氏物語の作者は紫式部であることはまず動かないとされているが、複数作者説(一部の帖を後人の者とする)もある。それだけ、この物語の出来が、すばらしく完璧であるという事であろう。また、改めて読んでみるのもよいであろう。
(画像は、扇売り。扇子は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされ年令礼のおりの年玉などによく用いられた。NHKデーター情報部編、ヴジュアル百科「江戸事情」より)
源氏物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
源氏大学.com
http://www.genji-daigaku.com/
『源氏物語 04 夕顔』与謝野 晶子訳:新字新仮名(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5019.html
京扇子・京うちわ/京都扇子団扇商工協同組合HP
http://www.sensu-uchiwa.or.jp/index.html
扇子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E5%AD%90
東寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
京都まにあ/六条通
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/no.6/01.html
融の大臣のページ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rokujoh/tohru.html
六条の御息所
http://www.page.sannet.ne.jp/yagami/koten/rokuzyo.htm
京都扇子団扇商工協同組合が1990(平成2)年に制定。
『源氏物語』では女性が光源氏に扇を贈っていることから、「こ(5)い(1)」(恋)の語呂合せだとか。
扇子(せんす)は、扇(おうぎ)ともいうが、「おうぎ」は、歴史的仮名遣では「あふぎ」と書く。これは「あふぐ(煽ぐ)」の名詞形である。この扇子(せんす)を開いた形、「扇形」は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされてきた。そのため、めでたい席での引出物や年令礼のおりの年玉などによくもちいられた。
扇子と同じく自分の手で風を送るのに用いる道具「うちわ」は、紀元前の中国で用いられたとの記録があるそうだが、日本へは7世紀頃に伝来したが、うちわを折り畳んで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下り、8世紀頃の日本で発明されたものだという。
先ず「桧扇」と呼ばれる薄い桧板を重ね綴ったものが作られ、京都・東寺の千手観音像の腕の中から発見された元慶元年(877年)と記された物が、我が国最古の檜扇とされており、これは、木簡から派生したと考えられるそうだ。当初は男性が用い、女性は「はしば」という団扇(うちわ)の一種を持っていたが、次第に女性も檜扇を用い初め、宮中の女人が常に手にするようになったそうだ。初めから装飾的役割が与えられていたが、特に女性が用いるようになってさらに彩り華やかな物になたという。次に竹と紙で出来ている「紙扇」が作られた。長保年間(999~1003年)以前には、金銀泥箔に彩画・詩歌がしたためられ色紙の粋を尽くし、骨数も次第に増え、その華やかさは、女子用檜扇にも劣らない物であり、男女間の文替わりの扇交換や宮中で侍臣に扇を賜る年中行事「扇の拝」の記録も平安初期に見られるようだ。(京都扇子団扇商工協同組合HPの扇子の種類参照)
平安時代頃から、扇子(扇)はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語などにも書かれている。そのことから、今日(5月1日)を「扇の日」としている。
源氏物語は、平安時代中期の、54帖より成る長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語であるが単に王朝物語言うにとどまらず、日本文学史上の長編物語の傑作で、作者については諸説あるが、一条天皇中宮上東門院彰子(藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部がその作者であるというのが通説となっている。
物語は、平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多くの恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然(かんぜん=非難すべき欠点がない)とするところのない首尾を整えている。
『源氏物語』五十四帖の第4帖夕顔 がある。
以下参考に記載の『与謝野 晶子訳『 04 夕顔に源氏と夕霧・扇に関連するところを見て見ると概略以下のようにある。
”源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへお忍びで通う途中、五条辺に住む重い病気にかかり尼になっていた大弐の乳母(めのと)を見舞った。
車が入るべき正門には施錠がしてあったので、従者に乳母の息子の惟光(これみつ)を呼ばせて、待っている間、源氏は立派とはいえないその辺の大路の様子をながめていると、乳母の家の隣の桧垣(ひがき)を外囲いして簾などを新しく整えた涼しげな、しかし簡素な家の桧垣には端隠しのように青々とした蔓草(つるくさ)が勢いよく這いかかり、その白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。それで、そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、源氏の随身が車の前に膝まずいて言った。
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」と申し上げる。
その言葉どおりで、貧しげな小家が多くむさ苦しそうなこの通りのあちら、こちらの、あるものは倒れそうになった家の軒などにもこの花が咲いていた。
「気の毒な花の運命よ。一房手折ってまいれ」・・・といわれて、随身は花を一房折り取った。するとその家の中から女童が出てきて、黄色の生絹(すずし)の袴(はかま)を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、「これへ載せておあげなさいまし。手で提(さ)げては不恰好な花ですもの」と、白い扇を色のつくほど薫物(たきもの)で燻(くゆ)らしたのを渡した。
この後、源氏は乳母を見舞って、帰ろうとする時に、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んだ、よい薫物(たきもの)の香のする扇に、きれいな字で、次の歌が書かれていた。
「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」
散らし書きの字が上品に見えた。それが少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に非常に好感を覚えた。このとき、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
下の品の者(身分の低い者)が、物馴(ものな)れた戯れに、自分を光源氏と見て詠(よ)んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬと、源氏は、花を折りに行った随身に以下の返歌を詠み持たせてやった。
「寄りてこそそれかとも見め黄昏(たそが)れにほのぼの見つる花の夕顔」
しかし、夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったのだが・・・。”そして、いつしか秋になり、源氏の君は葵上の御邸にもたまにしか出かけなくなり、六条御息所に対しても、以前のように一途になることはなくなった。そして、惟光が、源氏の君の御心に添うようにと、段取りをつけ、夕顔の宿に通うようになった。源氏は可憐で素直な夕顔を深く愛するが、あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん、源融の旧邸六条河原院がモデルとされる)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、六条御息所が嫉妬のあまり生霊となってある夜これをとり殺す。源氏は女の死を深く嘆くのであった。夕顔は、登場する回数こそ少ないものの、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る女性。儚げながら可憐で朗らかな性格で、源氏は短い間であったが彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。後には彼女の娘の玉鬘(たまかずら)が登場し、物語に色を添える。
源氏物語の作者は紫式部であることはまず動かないとされているが、複数作者説(一部の帖を後人の者とする)もある。それだけ、この物語の出来が、すばらしく完璧であるという事であろう。また、改めて読んでみるのもよいであろう。
(画像は、扇売り。扇子は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされ年令礼のおりの年玉などによく用いられた。NHKデーター情報部編、ヴジュアル百科「江戸事情」より)
源氏物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
源氏大学.com
http://www.genji-daigaku.com/
『源氏物語 04 夕顔』与謝野 晶子訳:新字新仮名(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5019.html
京扇子・京うちわ/京都扇子団扇商工協同組合HP
http://www.sensu-uchiwa.or.jp/index.html
扇子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E5%AD%90
東寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
京都まにあ/六条通
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/no.6/01.html
融の大臣のページ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rokujoh/tohru.html
六条の御息所
http://www.page.sannet.ne.jp/yagami/koten/rokuzyo.htm