弘仁2年5月23日(811年6月17日)は坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日。 <数え54歳> [758年生]
坂上田村麻呂は、平安時代の武官であり、793(延暦12)年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801(延暦20)年に敵対する蝦夷を討って降した。802(延暦21)年に胆沢城(いさわじょう)、803(延暦22)年に志波城(しわじょう)を築いた。810(大同5)年の薬子の変(くすこのへん)では平城(へいぜい)上皇の脱出を阻止する働きをした。
戦功によって昇進し、805(延暦24)年には参議に列し、翌・806(大同元)年に中納言、810(弘仁元)年に正三位、大納言になった。この間、807(大同2)年には右近衛大将・兵部卿(兵部卿参照)も兼任している。811(弘仁2)年 5月23日、 54才の時、山城国の粟田の別宅で死んだ。(事績・年譜 参照)
田村麻呂に関するものの最も古い記述は平安時代初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』 のようだが、同書は散逸した部分が多いが、田村麻呂に関しては「薨伝」(こうでん)と呼ばれる追悼文が残っているそうだ。これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるもの。また、1819(文政2)年、塙保己一が編纂した『群書類従』には、田邑麻呂伝記が収録されていて、その出自や容貌などが少し詳しく書かれているので、下記参考に記載のHPなども覗かれると良い。
「薨伝」には、「坂上大宿禰田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。」・・とあるように、平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされていた。弘仁2年5月27日(811年6月17日)、山城国宇治郡栗栖村にて死去したとき、嵯峨天皇の勅によって武人らしく甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られたとか。
京都市山科区勧修寺東栗栖野町に、坂上田村麻呂墓がある。以下参照。
京都市・山科区HP/14.粟栖野周辺と中臣遺跡
http://www.city.kyoto.jp/yamasina/aruku/kurusuno_14.html
出自については、『群書類従』の田邑麻呂伝記に、大納言坂上田村麻呂は、前漢の高祖 皇帝の流れをくむものであり、28代前は後漢の<光武帝、19代前は考霊帝。また13代前の阿智王が、応神天皇26年(294年)の御代に一族百人を率いて大和に渡って来た。そして、勅命により、大和国檜前の地に居を構えた。その阿智王の11代の子孫に刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親であると・・・。以下参考に記載の「田村」の、「坂上田村麻呂伝記(「群書類従」による) 」などが詳しい。)
古代の中国では、自らが世界の中央にあって最も開化した民族で、周辺諸国は遅れているという”中華思想”が、根強かったが、この影響を受けて、我が国でも天皇の支配する”中華”の周辺には蝦夷(えみし)や勇人(はやと)が住み、彼らはしだいに王化に帰属し、支配者は彼らを教え導くという考え方が取り入れられていた。律令制国家において、辺境(都から遠く離れた土地。国ざかい。)とされていたのは、東辺・北辺・西辺であり、東辺・北辺は、東海・東山・北陸道の蝦夷と接する地域であり、西辺は、西海道の勇人に接する地域を指していた。政府は、つねに蝦夷や勇人に対して、食を饗し、録を与えるなどの懐柔策をとる一方、その攻撃などを予測して、辺境の地には、軍隊を常駐させ防衛機能も備えた”城柵”を設置していた。勇人は8世紀前半には国家にほぼ服属していたが、東北の地においては蝦夷の勢力が強く、政府は、8世紀後半、新しく城柵を設置した。これを基点として、次々に新たな群を設立し、住民から税を徴収しようとした。このような辺境に対する支配の強化に抗して、蝦夷は774(宝暦5)年には、桃生城(もものうじょう=宮城県桃生郡。以下参考に記載の「桃生城と雄勝柵の築城(柵) 」参照)を、780(宝暦11)には、国府・多賀城を攻撃した。多賀城が簡単に攻略されたのは、恐らく陸奥国内に政府の政策に反対する勢力が予想以上に根強く存在していたからだろう。その後、戦乱が30年以上のの長期にわたった原因の一つはこの点にあるといえる。打ち続く戦乱による蝦夷の打撃は大きかったが、政府側もまた疲弊した。そこで、政府は数々の妥協案を提示し、ついに、坂上田村麻呂 が登場し、802(延暦21)年、蝦夷側の指導者阿弖流為(アテルイ)らを降伏させ、長期にわたる大規模な征討事業に幕を引いたのである。しかし、田村麻呂 の征討(反逆する者や服属しない者をせめうつこと。征伐。)は、彼の武勇のみによるものではなく、現実的な妥協策の成果であり、決して政府側の一方的な勝利を意味するものではなかった。(週間朝日百科「日本の歴史)
蝦夷征討の詳しくは以下参考に記載の「蝦夷征討」を参照されると良い。
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイは、その後の文献に名を残さないのは、明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であったからだ。再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めた点と、一般社会において中央に対する地方の自立が肯定的に評価されるようになった点とが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
京都の清水寺は、805(延暦24)に、田村麻呂が寺地を賜り建立したものであり、810(弘仁元)年、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったが、同寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994(平成6)年11月に「アテルイ(蝦夷のの首長)と・モレ(蝦夷の副将)顕彰碑」が建立されている。また、大阪府枚方市の牧野公園内の首塚にも、2007(平成19)年3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。以下参照。
京都新聞電子版/蝦夷の英雄の慰霊碑 枚方・牧野公園に建立
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007050500076&genre=M1&area=O10
幕末から明治にかけて活躍した歴史画家・菊池容斎が、有職故実を考証しながら古代から中世にいたるまでの500人以上の賢人を集め、見開きの右に略伝、左に図を載せた。『前賢故実』がある。ここにどんな人物が描かれているかは、以下参考に記載の「国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)・前賢故実」を見るとよいが、そこに描かれている髭を生やした坂上田村麻呂 の姿はやはり、日本人と言うより、中国からの渡来人を思わせる。『群書類従』の田邑麻呂伝記に描かれている田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌としている。坂上田村麻呂 の先祖阿智王は、応神天皇26年に中国より渡来し、大和国檜前の地に居を構えた。奈良県高市郡明日香村檜前594 には、「於美阿志(おみあし) 神社」がある。同社は、東漢(やまとのあや)の氏寺であった檜隈寺の跡地に鎮座している。於美阿志神社の祭神は阿智使主(あちのおみ)とされており、祭神の阿智使主は坂上田村麻呂の先祖・阿智王と関係が有りそうだ。以下参照。
檜 隈 寺 跡
http://gpeach.nobody.jp/tera/hinokuma/hinokuma.html
坂上田村麻呂に関しては、色々な伝説があるが以下のHPが色々な伝説についてよく調べている。
坂上田村麻呂 伝説の旅
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuindex.htm
(画像は、坂上田村麻呂『前賢故実』菊池容斎。国立国会図書館デジタルアーカイブポータルより)
このブログの字数制限上から参考のHPなどは以下にあります。
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坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日:参考
坂上田村麻呂は、平安時代の武官であり、793(延暦12)年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801(延暦20)年に敵対する蝦夷を討って降した。802(延暦21)年に胆沢城(いさわじょう)、803(延暦22)年に志波城(しわじょう)を築いた。810(大同5)年の薬子の変(くすこのへん)では平城(へいぜい)上皇の脱出を阻止する働きをした。
戦功によって昇進し、805(延暦24)年には参議に列し、翌・806(大同元)年に中納言、810(弘仁元)年に正三位、大納言になった。この間、807(大同2)年には右近衛大将・兵部卿(兵部卿参照)も兼任している。811(弘仁2)年 5月23日、 54才の時、山城国の粟田の別宅で死んだ。(事績・年譜 参照)
田村麻呂に関するものの最も古い記述は平安時代初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』 のようだが、同書は散逸した部分が多いが、田村麻呂に関しては「薨伝」(こうでん)と呼ばれる追悼文が残っているそうだ。これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるもの。また、1819(文政2)年、塙保己一が編纂した『群書類従』には、田邑麻呂伝記が収録されていて、その出自や容貌などが少し詳しく書かれているので、下記参考に記載のHPなども覗かれると良い。
「薨伝」には、「坂上大宿禰田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。」・・とあるように、平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされていた。弘仁2年5月27日(811年6月17日)、山城国宇治郡栗栖村にて死去したとき、嵯峨天皇の勅によって武人らしく甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られたとか。
京都市山科区勧修寺東栗栖野町に、坂上田村麻呂墓がある。以下参照。
京都市・山科区HP/14.粟栖野周辺と中臣遺跡
http://www.city.kyoto.jp/yamasina/aruku/kurusuno_14.html
出自については、『群書類従』の田邑麻呂伝記に、大納言坂上田村麻呂は、前漢の高祖 皇帝の流れをくむものであり、28代前は後漢の<光武帝、19代前は考霊帝。また13代前の阿智王が、応神天皇26年(294年)の御代に一族百人を率いて大和に渡って来た。そして、勅命により、大和国檜前の地に居を構えた。その阿智王の11代の子孫に刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親であると・・・。以下参考に記載の「田村」の、「坂上田村麻呂伝記(「群書類従」による) 」などが詳しい。)
古代の中国では、自らが世界の中央にあって最も開化した民族で、周辺諸国は遅れているという”中華思想”が、根強かったが、この影響を受けて、我が国でも天皇の支配する”中華”の周辺には蝦夷(えみし)や勇人(はやと)が住み、彼らはしだいに王化に帰属し、支配者は彼らを教え導くという考え方が取り入れられていた。律令制国家において、辺境(都から遠く離れた土地。国ざかい。)とされていたのは、東辺・北辺・西辺であり、東辺・北辺は、東海・東山・北陸道の蝦夷と接する地域であり、西辺は、西海道の勇人に接する地域を指していた。政府は、つねに蝦夷や勇人に対して、食を饗し、録を与えるなどの懐柔策をとる一方、その攻撃などを予測して、辺境の地には、軍隊を常駐させ防衛機能も備えた”城柵”を設置していた。勇人は8世紀前半には国家にほぼ服属していたが、東北の地においては蝦夷の勢力が強く、政府は、8世紀後半、新しく城柵を設置した。これを基点として、次々に新たな群を設立し、住民から税を徴収しようとした。このような辺境に対する支配の強化に抗して、蝦夷は774(宝暦5)年には、桃生城(もものうじょう=宮城県桃生郡。以下参考に記載の「桃生城と雄勝柵の築城(柵) 」参照)を、780(宝暦11)には、国府・多賀城を攻撃した。多賀城が簡単に攻略されたのは、恐らく陸奥国内に政府の政策に反対する勢力が予想以上に根強く存在していたからだろう。その後、戦乱が30年以上のの長期にわたった原因の一つはこの点にあるといえる。打ち続く戦乱による蝦夷の打撃は大きかったが、政府側もまた疲弊した。そこで、政府は数々の妥協案を提示し、ついに、坂上田村麻呂 が登場し、802(延暦21)年、蝦夷側の指導者阿弖流為(アテルイ)らを降伏させ、長期にわたる大規模な征討事業に幕を引いたのである。しかし、田村麻呂 の征討(反逆する者や服属しない者をせめうつこと。征伐。)は、彼の武勇のみによるものではなく、現実的な妥協策の成果であり、決して政府側の一方的な勝利を意味するものではなかった。(週間朝日百科「日本の歴史)
蝦夷征討の詳しくは以下参考に記載の「蝦夷征討」を参照されると良い。
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイは、その後の文献に名を残さないのは、明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であったからだ。再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めた点と、一般社会において中央に対する地方の自立が肯定的に評価されるようになった点とが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
京都の清水寺は、805(延暦24)に、田村麻呂が寺地を賜り建立したものであり、810(弘仁元)年、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったが、同寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994(平成6)年11月に「アテルイ(蝦夷のの首長)と・モレ(蝦夷の副将)顕彰碑」が建立されている。また、大阪府枚方市の牧野公園内の首塚にも、2007(平成19)年3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。以下参照。
京都新聞電子版/蝦夷の英雄の慰霊碑 枚方・牧野公園に建立
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007050500076&genre=M1&area=O10
幕末から明治にかけて活躍した歴史画家・菊池容斎が、有職故実を考証しながら古代から中世にいたるまでの500人以上の賢人を集め、見開きの右に略伝、左に図を載せた。『前賢故実』がある。ここにどんな人物が描かれているかは、以下参考に記載の「国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)・前賢故実」を見るとよいが、そこに描かれている髭を生やした坂上田村麻呂 の姿はやはり、日本人と言うより、中国からの渡来人を思わせる。『群書類従』の田邑麻呂伝記に描かれている田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌としている。坂上田村麻呂 の先祖阿智王は、応神天皇26年に中国より渡来し、大和国檜前の地に居を構えた。奈良県高市郡明日香村檜前594 には、「於美阿志(おみあし) 神社」がある。同社は、東漢(やまとのあや)の氏寺であった檜隈寺の跡地に鎮座している。於美阿志神社の祭神は阿智使主(あちのおみ)とされており、祭神の阿智使主は坂上田村麻呂の先祖・阿智王と関係が有りそうだ。以下参照。
檜 隈 寺 跡
http://gpeach.nobody.jp/tera/hinokuma/hinokuma.html
坂上田村麻呂に関しては、色々な伝説があるが以下のHPが色々な伝説についてよく調べている。
坂上田村麻呂 伝説の旅
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuindex.htm
(画像は、坂上田村麻呂『前賢故実』菊池容斎。国立国会図書館デジタルアーカイブポータルより)
このブログの字数制限上から参考のHPなどは以下にあります。
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坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日:参考