今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

坊屋三郎(俳優)の忌日

2007-05-25 | 人物
今日(5月25日)は坊屋三郎(俳優)の2002年の忌日
「年はとっても坊屋(ボウヤ)です」・・・ととぼけた演技で90 歳を超えても健在だった坊屋 三郎(ぼうや さぶろう)が亡くなったのは、2002(平成14)年の今日(5月25日)のことであった。
同年1月には新宿末広亭でステージをこなしていた。マスコミ等の報道によれば、同年5月24日、自宅近くのバス停で倒れ救急車で病院に運ばれ、23日には自宅に遊びに来て楽しく遊んで過ごした2人の孫達に見守られながら、25日、帰らぬ人となったという。坊屋は、24日に死去した清川虹子の通夜に参列するつもりでいたという。清川さんとは“喜劇の盟友”であった。清川虹子のことは昨日のブログで書いた。
坊屋三郎(本名:柴田俊英)は、1910(明治43)年3月28日生まれ。財政破綻し、2007(平成19)年3月6日を持って財政再建団体に認定され、今、世間の注目を集めているあの北海道夕張市出身のコメディアンで、戦前・戦後に人気を誇った歌謡演歌グループ「あきれたボーイズ」の結成メンバーで、俳優・ボードビリアンとして活躍。
古い時代のことは良くわからないのでWikipediaやマスコミ報道などを基に書くが、何でも、お寺の養子になっていたが、音楽の夢が捨てられず上京。日大芸術学部在学中からオペラの合唱団に所属し、西洋舞踏も習ったという。
吉本興業に入るが、1935〔昭和10)年11月、吉本興業浅草六区に浅草花月劇場をオープン。レビュー「吉本ショウ」を始める。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月に、川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人組の「第1次あきれたぼういず」が結成された。ギターやウクレレをかき鳴らして、タキシードで現れ、浪花節からオペラ、ジャズまでギャグを交えて展開。「日本で初めての冗談音楽」とたちまち浅草の人気者となったが、軍靴の音が次第に近づいてくる。1938(昭和13)年、ビクターの上山敬三が「あきれたぼういず」の演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかけ、同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、テスト盤が内務省検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まり、日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めたという。
1939(昭和14)年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いた。新興には川田を除いた坊屋三郎、芝利英、益田喜頓の3人が移り、新興では、川田に代わって、山茶花究を加えて、「第2次あきれたぼういず」を結成した。(因みに、吉本に一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。あの有名な「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなっている。)
同時にレコード会社もテイチクに移籍し、「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲を生み出す。1939(昭和14)年この年には、東宝の「ロッパの大久保彦左衛門」で銀幕デビューも果たしている。
1941(昭和16)年12月、太平洋戦争に突入後、ジャズは敵性音楽として禁止となり、音楽とセリフの面で厳しい制限をかけられる。グループ名も「新興快速舞隊」に変更することとなった。「あきれたぼういず」は、芝利英の応召(のち戦死)、益田が一時外に出るなどメンバーが入れ替わりながら1943(昭和18)年まで活動を続けた。「あきれたぼういず」は戦後再結成するが、1951(昭和26)年解散。その後、俳優として、映画界入する。
何でも、新宿でお茶漬け屋も始めたが、「お代?そんなのはいいよ」と芸人仲間はただで飲み食いと言う始末で結局3年でつぶれ、残った借金を返すため全国各地のキャバレーを回ったとか。
そんな彼が、再びスポットライトを浴びたのが1974(昭和49)年の松下電器のテレビ「パナカラー・クイントリックス」のTV広告である。同テレビを挟んで、先生格の坊屋三郎 が生徒のメキシコ人・トニー・ダイヤに英語のレッスンをする。「QUINTRIX/クイントリックス、QUINTRIX/英語でやって御覧よ(中略)外人だろ、アンタ?」といった小柄な坊屋と大柄なトニー、ユーモラスな掛け合いが面白かった。このせりフは、台本になく、撮影中に考え出したアドリブだったそうだ。
このときのCM画像は私が前に書いたブログ「NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日」に添付しておるので見てください。→ここ
亡くなる前の年・2001年3月に運転免許を更新し、自分で車を運転するほど元気だったようだが、2002年4月に体調を崩し病院へ向かうため自宅を出たところで意識が薄れそのまま路上に倒れ翌日の5月25日永眠に就いた。死因は心不全だったそうだ。
私は、「あきれたボーイズ」で活躍していたときのことはよく知らない。戦後、喜劇映画に多く出演、小さな身体でひょうきんな役、軽妙な演技でわきを支えいたのは良く知っている。ほんとうに、面白いおっさんであったが、今の時代はこのようなコミカルな役者は少なくなったね~。ブログを書いていて、次々と昭和を代表する人がなくなっていくのが非常に寂しい。昔のコメディアンの人たちは基礎だけはきっちり身につけていたからね~。
(画像は、トレードマークの横縞模様のシャツを着て登場。洗濯板やラッパ、クラクションなどを使いながら、にぎやかな舞台の坊屋三郎。2002・6・10朝日新聞より)
坊屋三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E5%B1%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
日刊スポーツ・訃報・坊屋三郎さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020528.html
コメディアン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3
NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/eb8f98dae9f8e891ca496c44c451859a
新宿末廣亭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E6%9C%AB%E5%BB%A3%E4%BA%AD
その名は「あきれたぼういず」!! Part 1
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta.html
その名は「あきれたぼういず」 !!Part 2
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta2.html
浅草公園六区
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%85%AD%E5%8C%BA
坊屋三郎 (ボウヤサブロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/91664/index.html
NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/NHK%A5%E9%A5%B8%A5%AA