今日(5月11日)は「鵜飼い開き」
毎年この日に、岐阜県長良川で「鵜(ウ)飼い開き」が行われる。
鵜飼いは、松明の火で」「鮎」(アユ)をおびき寄せ、飼いならした鵜(ウ)を使ってそれを捕る古式漁法のひとつ。
岐阜県(岐阜市・関市の長良川)、愛知県(犬山市・木曽川)、京都府(宇治市・宇治川)などで行われているが、特に長良川での鵜飼いが最も有名である。
今日(5月11日)は長良川の「鵜飼い開き」。
鵜飼は、今日から10月15日まで連夜行われる。ただし、満月の日は除外される。それは、満月の月明かりでかがり火が意味をなさないからで、通常暗くなる午後6時30分~8時00分くらいに 長良川河畔のかがり火広場などで行われる。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』、神武天皇の条に鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。
”ここに、また高木(たかぎ)の大神の命もちて覚(さと)して白ししく、「天つ神の御子、これより奥(おく)つ方(かた)にな入り幸(いでま)さしめそ。荒ぶる神いと多(さは)にあり。今、天(あめ)より八咫烏(やたからす)を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道(みちび)きてむ。その立たむ後(あと)より幸行(いでま)すべし」かれ、その教へ覚しのまにまに、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河(よしのがは)の河尻(かはしり)に到りましし時に、筌(やな)を作(ふ)せて魚(うを)取れる人あり。しかして、天つ神の御子、「なは誰(たれ)ぞ」と問(と)ひたまへば、「あは国つ神、名は贄持之子(ひへもつのこ)といふ」と答へ白しき。こは阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)が祖(おや)ぞ。”・・・(以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇熊野村に到りて参照)
”また兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時に、御軍(みいくさ)暫(しま)し疲(つか)れぬ。しかして、歌ひしく、
楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木(こ)の間(ま)より い行きまもらひ 戦へば われはや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)け来(こ)ね"
以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇・伊那佐山。また、「千人万首」の神武天皇参照)
また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として紹介されている。
”毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。”
(日本語訳)毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。(以下参考の「『隋書』倭国伝」)
その後、中世までは日本各地で鵜飼は行われた。鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が非常に良い。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重されてきた。『延喜式』などに見られる神々への新撰の中で不可欠な品目として大きな比重を占めているのが海産物であり、農産物も品目は予想に反して少ない。律令国家への貢献物でこのような海産物が何故多いのかを、平城京跡なから発掘された膨大な木管類の調査によって、贅(にえ)の場合は、調や庸と違って、夫々の国の浦、嶋などにこれを負担する海民集団が特定されていて、特に畿内の江人(えびと)、網曳(あみひき)、鵜飼いなどは、天皇に直属する人々であったことがわかっているという。この制度の起源は律令国家成立以前に遡り、それは、天皇家による諸国の支配の存続に不可欠の儀礼と結びついた制度であり、海民集団化と各地域の首長との関係に根ざしているという。そのような神饌品目の中で最も大切なものとされているのが鮑であるが、その中に「鱫鱜(あゆ)」も上位に入っている。そのことは、先の『古事記』などの神武東征の中の伊那佐山での戦いを歌った『楯並(たたな)めて・・・」の歌から、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が神武の家系と深いかかわりのある家柄であった“事が推測できる。
岐阜県岐阜市および関市の長良川河畔における鵜飼は、宮内庁・式部職である鵜匠によって行われている。鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て世襲制である。長良川の鵜飼では、1人の鵜匠が一度に12羽もの鵜を操りながら漁を行う。もともと長良川の鵜飼はその起源を1300年ほど前までさかのぼることができる。
因みに、添付の画像は、東京国立博物館蔵の「一編聖絵」の上部をカットしたものである。大食漢として知られるウミウ(海鵜)やカワウ(川鵜)を飼いならして使う漁法は、日本と中国にしか残っていないという。この画像は、鎌倉時代の鵜飼いの様子を示す貴重な絵であるが、1人で2羽の鵜しか扱っておらず、中世の零細な鵜飼い漁業をうかがわせているものだという。手縄を用いない”放ち鵜飼い”であろうか。古くから民間信仰では、鵜に霊性をみとめ、また、中世には殺生を悪とする仏教思想の深い影響があり、鵜飼いも、他の漁師や猟師と同様の立場におかれていたらしい。その後、鵜飼いの技業は洗練され、鵜匠が十数羽の鵜を手綱で巧みに操って鮎を採る”つなぎ鵜飼い”は、大名保護下で江戸時代に最盛期を迎える。(週刊朝日百科「日本の歴史」)
そして、江戸時代においては徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮家御用となるも、1890(明治23)年に宮内省(現宮内庁)主猟寮属となり、長良川鵜飼は宮内省の直轄となった。1300年来、我が国の古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁が今でも「御料鵜飼」として皇室の保護のもとに行われているが、「御料鵜飼」は狭義には毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁を指し、「御料鵜飼」で獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮や伊勢神宮へも奉納されているのだとか。
しかしながら、鵜飼は決して漁獲効率のよい漁法ではないため、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって後援されていた鵜飼も明治維新には大名等の後援を得られず全国から次々と姿を消してゆき、現在では数えるまでにその規模を縮小。現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりは、客が屋形船からその様子を見て楽しむというよう観光事業として行われている。
山梨県笛吹市の笛吹川や和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれる、小船等を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽の鵜を連れて直接浅瀬に入って漁をする鵜飼である。また,島根県益田市の高津川で行われている鵜飼は、全国で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱をつけずに漁を行うもので、「一編聖絵」に描かれているような鵜飼いであったろうか。(以下参考の「高津川の恵-放し鵜飼い-」参照)
日本で鵜飼いに使われる鵜について面白い話がある。
地球には、色々な動物がいるが、其々の国によって、また、歴史的にも動物との関わりは違うであろう。日本の場合中世人にとって、動物は人界の彼方から「境」を越えてやってくる友でありまた、敵でもあった。そして・しばしば、不可思議な霊性が感得されてそれに、依頼する心や、それを忌避する念を人々にもたらし、吉凶・禍福の予兆とみなすものもあった。
「アユ」の語源は、古語の「アユル」から来たものだとされている。アユルとは落ちるという意味で、川で成長したアユが産卵をひかえて川を下る様からつけられた呼び名であるが、その「アユ」に現在の「鮎」の字が当てられている由来にはアユが一定の縄張りを独占する、つまり占めるところからのほか、日本書紀にでてくる神功皇后が今後を占うために釣りをしたところ釣れた魚がアユであったため魚篇に占の字があてられたという説もある。わが地元神戸市の名の由来は、あの藤原紀子と陣内智則の結婚で話題になった「生田神社」の「神の戸の民」で、生田神社に所属する民であった。生田神社は神功皇后ゆかりの、稚日女尊(わかひるめのみこと=天照大神)を祭る神社で、海上安全と海運の神である。同神社境内には、『神功皇后釣竿の竹』という竹が生えている。神功皇后が三韓に遠征する時に、占いのためにアユ(鮎)を釣った釣竿を、地面に突き刺しておいたものが根付いたのがこの竹だと言われている。
また、熊野の神の使者といわれるカラス(烏)には、極端には3年先までの予知能力があるとさえ信じられていた。例えば、神武天皇の東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話がある。また、ツル(鶴)とカメ(亀)は、「鶴は千年、亀は万年」など長寿の象徴とされ慶事の衣装に充てられているが、その心は「遐齢延年(かれいえんねん)」「寿福増長」にある。ツル・カメともに「目出度い」ものとされ、昔話にもよく登場していることはご存知のとおりである。
このようなカメを害することは悪であった。とりわけ、海に生きた民にとっては、カメは海神の使者として畏敬の対象であったようである。伝承の世界の”カメの恩返し”の話は、ツルのそれとともに、いわゆる”異類報恩譚”の主翼を担ってきた。(以下参考の「浦島太郎の文学史」参照)。
そのカメを一方では、敢えて殺さねばならない漁業もあった。川漁の鵜飼いがそれであり、カメの肉を鵜の餌としていたのだそうだ。平安末期、後白河院が執筆・編纂した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様 歌謡集があり、そこには、鵜飼に関する以下の句がある。
「鵜飼はいとおしや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結い
現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」(355)
直訳すると、”鵜飼ほど哀れな生業はない 一万年生きる亀をさっさと殺すし 鵜の首しめて魚をとるし 現世はそのまま過ごすしかないが 来世のわが身をどうしよう 罰があたったらどうしよう”・・・といったところである。(以下参考の「今様ラプソディ(新釈・梁塵秘抄口伝集)」参照)
つまり、後生を思えば殺生の罪業の深さが案じられるというのであって、仏教思想の罪業感による鵜飼いの卑賤視が重要で、それと、あわせて、ウ(鵜)というのが、霊鳥視されていたのも見のがせないという。そして、石川県の羽咋(はくい)市の気多神社の、今に伝わる「鵜祭」では、遠く石川県の七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽のウミウ(海鵜)を、同地の「鵜捕部」(うとりべ)の役の人々が神社に運び、師走16日の早暁に本殿内の灯火だけを残して消灯し本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまったところで、その殿内への進み具合で吉凶を占ったあと、海浜に運ばれて放ち戻すのだという。この、鵜祭りの由来は明らかでないが、神社の所伝によれば、祭神の大己貴命(大国主神)が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神(くしやたまのかみ)が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれているそうだ。(以下参考の「気多大社 本殿ー歴史」また「週間古事記」の中の葦原中国のことむけ参照)
海鵜が磯辺に群れ寄ると海が荒れると案じられたのは、漁民の信仰に関わる事だが、普通鵜飼いに充てられたのは川鵜であったらしく、中世特に聞こえたのは京の西郊を南下する桂川での鮎漁で、その鵜飼いの姿は、ここに添付の画像鎌倉時代末期に描かれた「一編聖絵」(時宗の祖一遍の諸国遊行[ 教化行脚] を描いた絵巻物)に描かれており、そこで使われていたウ(鵜)は琵琶湖の川鵜と推察されるという(週刊朝日百貨「日本の歴史」)。
しかし、このブログでの字数制限上、これ以上かけないので、この続きは続編として、以下のぺーじで、『梁塵秘抄』に出てくる鵜の歌、芭蕉の詠んだ鵜の句、そして、世阿弥の能「鵜 飼」などにも触れながら書いてみたいと思う。是非見てください。
参考のリンクなども次ページにあります。この下に続いて表示されます。
続・「鵜飼い開き」
毎年この日に、岐阜県長良川で「鵜(ウ)飼い開き」が行われる。
鵜飼いは、松明の火で」「鮎」(アユ)をおびき寄せ、飼いならした鵜(ウ)を使ってそれを捕る古式漁法のひとつ。
岐阜県(岐阜市・関市の長良川)、愛知県(犬山市・木曽川)、京都府(宇治市・宇治川)などで行われているが、特に長良川での鵜飼いが最も有名である。
今日(5月11日)は長良川の「鵜飼い開き」。
鵜飼は、今日から10月15日まで連夜行われる。ただし、満月の日は除外される。それは、満月の月明かりでかがり火が意味をなさないからで、通常暗くなる午後6時30分~8時00分くらいに 長良川河畔のかがり火広場などで行われる。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』、神武天皇の条に鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。
”ここに、また高木(たかぎ)の大神の命もちて覚(さと)して白ししく、「天つ神の御子、これより奥(おく)つ方(かた)にな入り幸(いでま)さしめそ。荒ぶる神いと多(さは)にあり。今、天(あめ)より八咫烏(やたからす)を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道(みちび)きてむ。その立たむ後(あと)より幸行(いでま)すべし」かれ、その教へ覚しのまにまに、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河(よしのがは)の河尻(かはしり)に到りましし時に、筌(やな)を作(ふ)せて魚(うを)取れる人あり。しかして、天つ神の御子、「なは誰(たれ)ぞ」と問(と)ひたまへば、「あは国つ神、名は贄持之子(ひへもつのこ)といふ」と答へ白しき。こは阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)が祖(おや)ぞ。”・・・(以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇熊野村に到りて参照)
”また兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時に、御軍(みいくさ)暫(しま)し疲(つか)れぬ。しかして、歌ひしく、
楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木(こ)の間(ま)より い行きまもらひ 戦へば われはや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)け来(こ)ね"
以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇・伊那佐山。また、「千人万首」の神武天皇参照)
また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として紹介されている。
”毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。”
(日本語訳)毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。(以下参考の「『隋書』倭国伝」)
その後、中世までは日本各地で鵜飼は行われた。鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が非常に良い。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重されてきた。『延喜式』などに見られる神々への新撰の中で不可欠な品目として大きな比重を占めているのが海産物であり、農産物も品目は予想に反して少ない。律令国家への貢献物でこのような海産物が何故多いのかを、平城京跡なから発掘された膨大な木管類の調査によって、贅(にえ)の場合は、調や庸と違って、夫々の国の浦、嶋などにこれを負担する海民集団が特定されていて、特に畿内の江人(えびと)、網曳(あみひき)、鵜飼いなどは、天皇に直属する人々であったことがわかっているという。この制度の起源は律令国家成立以前に遡り、それは、天皇家による諸国の支配の存続に不可欠の儀礼と結びついた制度であり、海民集団化と各地域の首長との関係に根ざしているという。そのような神饌品目の中で最も大切なものとされているのが鮑であるが、その中に「鱫鱜(あゆ)」も上位に入っている。そのことは、先の『古事記』などの神武東征の中の伊那佐山での戦いを歌った『楯並(たたな)めて・・・」の歌から、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が神武の家系と深いかかわりのある家柄であった“事が推測できる。
岐阜県岐阜市および関市の長良川河畔における鵜飼は、宮内庁・式部職である鵜匠によって行われている。鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て世襲制である。長良川の鵜飼では、1人の鵜匠が一度に12羽もの鵜を操りながら漁を行う。もともと長良川の鵜飼はその起源を1300年ほど前までさかのぼることができる。
因みに、添付の画像は、東京国立博物館蔵の「一編聖絵」の上部をカットしたものである。大食漢として知られるウミウ(海鵜)やカワウ(川鵜)を飼いならして使う漁法は、日本と中国にしか残っていないという。この画像は、鎌倉時代の鵜飼いの様子を示す貴重な絵であるが、1人で2羽の鵜しか扱っておらず、中世の零細な鵜飼い漁業をうかがわせているものだという。手縄を用いない”放ち鵜飼い”であろうか。古くから民間信仰では、鵜に霊性をみとめ、また、中世には殺生を悪とする仏教思想の深い影響があり、鵜飼いも、他の漁師や猟師と同様の立場におかれていたらしい。その後、鵜飼いの技業は洗練され、鵜匠が十数羽の鵜を手綱で巧みに操って鮎を採る”つなぎ鵜飼い”は、大名保護下で江戸時代に最盛期を迎える。(週刊朝日百科「日本の歴史」)
そして、江戸時代においては徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮家御用となるも、1890(明治23)年に宮内省(現宮内庁)主猟寮属となり、長良川鵜飼は宮内省の直轄となった。1300年来、我が国の古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁が今でも「御料鵜飼」として皇室の保護のもとに行われているが、「御料鵜飼」は狭義には毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁を指し、「御料鵜飼」で獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮や伊勢神宮へも奉納されているのだとか。
しかしながら、鵜飼は決して漁獲効率のよい漁法ではないため、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって後援されていた鵜飼も明治維新には大名等の後援を得られず全国から次々と姿を消してゆき、現在では数えるまでにその規模を縮小。現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりは、客が屋形船からその様子を見て楽しむというよう観光事業として行われている。
山梨県笛吹市の笛吹川や和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれる、小船等を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽の鵜を連れて直接浅瀬に入って漁をする鵜飼である。また,島根県益田市の高津川で行われている鵜飼は、全国で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱をつけずに漁を行うもので、「一編聖絵」に描かれているような鵜飼いであったろうか。(以下参考の「高津川の恵-放し鵜飼い-」参照)
日本で鵜飼いに使われる鵜について面白い話がある。
地球には、色々な動物がいるが、其々の国によって、また、歴史的にも動物との関わりは違うであろう。日本の場合中世人にとって、動物は人界の彼方から「境」を越えてやってくる友でありまた、敵でもあった。そして・しばしば、不可思議な霊性が感得されてそれに、依頼する心や、それを忌避する念を人々にもたらし、吉凶・禍福の予兆とみなすものもあった。
「アユ」の語源は、古語の「アユル」から来たものだとされている。アユルとは落ちるという意味で、川で成長したアユが産卵をひかえて川を下る様からつけられた呼び名であるが、その「アユ」に現在の「鮎」の字が当てられている由来にはアユが一定の縄張りを独占する、つまり占めるところからのほか、日本書紀にでてくる神功皇后が今後を占うために釣りをしたところ釣れた魚がアユであったため魚篇に占の字があてられたという説もある。わが地元神戸市の名の由来は、あの藤原紀子と陣内智則の結婚で話題になった「生田神社」の「神の戸の民」で、生田神社に所属する民であった。生田神社は神功皇后ゆかりの、稚日女尊(わかひるめのみこと=天照大神)を祭る神社で、海上安全と海運の神である。同神社境内には、『神功皇后釣竿の竹』という竹が生えている。神功皇后が三韓に遠征する時に、占いのためにアユ(鮎)を釣った釣竿を、地面に突き刺しておいたものが根付いたのがこの竹だと言われている。
また、熊野の神の使者といわれるカラス(烏)には、極端には3年先までの予知能力があるとさえ信じられていた。例えば、神武天皇の東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話がある。また、ツル(鶴)とカメ(亀)は、「鶴は千年、亀は万年」など長寿の象徴とされ慶事の衣装に充てられているが、その心は「遐齢延年(かれいえんねん)」「寿福増長」にある。ツル・カメともに「目出度い」ものとされ、昔話にもよく登場していることはご存知のとおりである。
このようなカメを害することは悪であった。とりわけ、海に生きた民にとっては、カメは海神の使者として畏敬の対象であったようである。伝承の世界の”カメの恩返し”の話は、ツルのそれとともに、いわゆる”異類報恩譚”の主翼を担ってきた。(以下参考の「浦島太郎の文学史」参照)。
そのカメを一方では、敢えて殺さねばならない漁業もあった。川漁の鵜飼いがそれであり、カメの肉を鵜の餌としていたのだそうだ。平安末期、後白河院が執筆・編纂した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様 歌謡集があり、そこには、鵜飼に関する以下の句がある。
「鵜飼はいとおしや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結い
現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」(355)
直訳すると、”鵜飼ほど哀れな生業はない 一万年生きる亀をさっさと殺すし 鵜の首しめて魚をとるし 現世はそのまま過ごすしかないが 来世のわが身をどうしよう 罰があたったらどうしよう”・・・といったところである。(以下参考の「今様ラプソディ(新釈・梁塵秘抄口伝集)」参照)
つまり、後生を思えば殺生の罪業の深さが案じられるというのであって、仏教思想の罪業感による鵜飼いの卑賤視が重要で、それと、あわせて、ウ(鵜)というのが、霊鳥視されていたのも見のがせないという。そして、石川県の羽咋(はくい)市の気多神社の、今に伝わる「鵜祭」では、遠く石川県の七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽のウミウ(海鵜)を、同地の「鵜捕部」(うとりべ)の役の人々が神社に運び、師走16日の早暁に本殿内の灯火だけを残して消灯し本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまったところで、その殿内への進み具合で吉凶を占ったあと、海浜に運ばれて放ち戻すのだという。この、鵜祭りの由来は明らかでないが、神社の所伝によれば、祭神の大己貴命(大国主神)が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神(くしやたまのかみ)が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれているそうだ。(以下参考の「気多大社 本殿ー歴史」また「週間古事記」の中の葦原中国のことむけ参照)
海鵜が磯辺に群れ寄ると海が荒れると案じられたのは、漁民の信仰に関わる事だが、普通鵜飼いに充てられたのは川鵜であったらしく、中世特に聞こえたのは京の西郊を南下する桂川での鮎漁で、その鵜飼いの姿は、ここに添付の画像鎌倉時代末期に描かれた「一編聖絵」(時宗の祖一遍の諸国遊行[ 教化行脚] を描いた絵巻物)に描かれており、そこで使われていたウ(鵜)は琵琶湖の川鵜と推察されるという(週刊朝日百貨「日本の歴史」)。
しかし、このブログでの字数制限上、これ以上かけないので、この続きは続編として、以下のぺーじで、『梁塵秘抄』に出てくる鵜の歌、芭蕉の詠んだ鵜の句、そして、世阿弥の能「鵜 飼」などにも触れながら書いてみたいと思う。是非見てください。
参考のリンクなども次ページにあります。この下に続いて表示されます。
続・「鵜飼い開き」