大師の縁日:Ⅰ
毎月21日は、「大師の縁日」であり、今日は空海とこの日のことを・・・。
延暦13年(794年)、都は奈良から京都へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。遷都10年後、延暦23年(804年)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った僧が2人いた。1人は、新しい仏教政策を、打ち出そうとしていた桓武天皇から、短期の出張巡回を命ぜられた還学生(げんがくしょう)の最澄であり、彼は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃(どうずい)等について天台教学を学び、さらに禅や、密教(順暁から)をも相承し、翌・805年(延暦24年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・806年(大同元年)1月、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人は、留学生(るがくしょう)の空海であり、大使の一行とともに長安に向かった(還学生と留学生の違いは、ヤフー知恵袋「留学生」という単語は日本語なのでしょうか?参照)。
一方、空海は、長安の青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果から密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余で帰国し大宰府に滞在。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出(以下参考に記載の「国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕」参照)。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説(以下参考に記載の「書聖空海の人生をたどる<空海の生涯12話>」参照)があるが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もある。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺が定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(弘法大師二十五箇条遺告参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長・頼通、白川・鳥羽・後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりかではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになる。
京都は戦乱が絶えることなく、数々の寺宝が焼失したが、東寺も例外ではなく、平安末期の源平の争い(治承・寿永の乱)で、伽藍は、大きく荒廃し、平安後期には一時期衰退したが、源頼朝や後白河法皇の援助を受け、文覚上人により復興された。中でも後白河法皇の皇女である宣陽門院が空海に深く帰依し、御影堂(大師堂)を造営した。以後この堂は大師信仰の核となり、東寺は、弘法大師空海に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民に広く信仰を集めるようになった。
東寺の縁日に「弘法市」がある。空海は、承和2年(835年)3月21日に亡くなったので、東寺では、毎月21日に御影堂で御影供(みえいく)が修され、多くの人が参詣するようになる。御影堂はかって空海の住房のあったところである。以下参考に記載の「東寺弘法市」によれば、当初は年に1回行われていたものが、延応元年(1239年)以降は毎月行われるようになったようだ。
そして、人々が盛んに参詣に訪れるようになったので、当時『一服一銭』と言われるごく簡素な屋台で茶を商う商人(茶店の前身のようなもの)が出てくるようになり、江戸時代には茶店だけではなく、植木屋や薬屋なども出てくるようになった。これが現在の「弘法さん」の起源だと言われている。現在では多数の露店が立ち並ぶ縁日となっているが、今では、参詣よりもこの縁日を目的とする人も少なくなくなっており、境内のすぐ横まで広がる露店は常時およそ1200~1300店ほど出店し、毎月約20万人ほどの人が訪れているという。その内容も様々で、骨董・古着・がらくた類などが売られているが、フリーマーケットなどとは異なり、業者の出店が多い。現在でも、数ある神社の市の中でも東寺の弘法市は特に有名で、私の大好きな骨董店の出店が非常に多いことから、私も骨董好きの仲間と数回東寺の市には行ったことがある。又、私の地元神戸では、須磨区にある須磨寺の弘法市が有名。
(画像は東寺の御影堂【大師堂】Wikipediaより)
この続きは ⇒ 大師の縁日:Ⅱ
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毎月21日は、「大師の縁日」であり、今日は空海とこの日のことを・・・。
延暦13年(794年)、都は奈良から京都へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。遷都10年後、延暦23年(804年)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った僧が2人いた。1人は、新しい仏教政策を、打ち出そうとしていた桓武天皇から、短期の出張巡回を命ぜられた還学生(げんがくしょう)の最澄であり、彼は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃(どうずい)等について天台教学を学び、さらに禅や、密教(順暁から)をも相承し、翌・805年(延暦24年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・806年(大同元年)1月、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人は、留学生(るがくしょう)の空海であり、大使の一行とともに長安に向かった(還学生と留学生の違いは、ヤフー知恵袋「留学生」という単語は日本語なのでしょうか?参照)。
一方、空海は、長安の青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果から密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余で帰国し大宰府に滞在。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出(以下参考に記載の「国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕」参照)。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説(以下参考に記載の「書聖空海の人生をたどる<空海の生涯12話>」参照)があるが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もある。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺が定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(弘法大師二十五箇条遺告参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長・頼通、白川・鳥羽・後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりかではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになる。
京都は戦乱が絶えることなく、数々の寺宝が焼失したが、東寺も例外ではなく、平安末期の源平の争い(治承・寿永の乱)で、伽藍は、大きく荒廃し、平安後期には一時期衰退したが、源頼朝や後白河法皇の援助を受け、文覚上人により復興された。中でも後白河法皇の皇女である宣陽門院が空海に深く帰依し、御影堂(大師堂)を造営した。以後この堂は大師信仰の核となり、東寺は、弘法大師空海に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民に広く信仰を集めるようになった。
東寺の縁日に「弘法市」がある。空海は、承和2年(835年)3月21日に亡くなったので、東寺では、毎月21日に御影堂で御影供(みえいく)が修され、多くの人が参詣するようになる。御影堂はかって空海の住房のあったところである。以下参考に記載の「東寺弘法市」によれば、当初は年に1回行われていたものが、延応元年(1239年)以降は毎月行われるようになったようだ。
そして、人々が盛んに参詣に訪れるようになったので、当時『一服一銭』と言われるごく簡素な屋台で茶を商う商人(茶店の前身のようなもの)が出てくるようになり、江戸時代には茶店だけではなく、植木屋や薬屋なども出てくるようになった。これが現在の「弘法さん」の起源だと言われている。現在では多数の露店が立ち並ぶ縁日となっているが、今では、参詣よりもこの縁日を目的とする人も少なくなくなっており、境内のすぐ横まで広がる露店は常時およそ1200~1300店ほど出店し、毎月約20万人ほどの人が訪れているという。その内容も様々で、骨董・古着・がらくた類などが売られているが、フリーマーケットなどとは異なり、業者の出店が多い。現在でも、数ある神社の市の中でも東寺の弘法市は特に有名で、私の大好きな骨董店の出店が非常に多いことから、私も骨董好きの仲間と数回東寺の市には行ったことがある。又、私の地元神戸では、須磨区にある須磨寺の弘法市が有名。
(画像は東寺の御影堂【大師堂】Wikipediaより)
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