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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

御忌会(法然上人の年忌法会)

2009-04-25 | 行事
「御忌会」は、浄土宗の開祖・法然上人の年忌の法会であり、なかでも、浄土宗の総本山と言われている京都知恩院のものが有名である。「御忌」とは、高貴な人や祖師などの年忌の法会を言うが、浄土宗では、大永4年(1524年)当時の天皇である後柏原天皇より、「知恩院は浄土宗の根本道場であり、毎年7日間、御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」以来、法然上人の年忌法要を特に「御忌」と呼ぶようになり、知恩院では、毎年1月19日から25日までの1週間、昼夜にわたって御忌会が勤められてきたが、明治10年(1877年)からは参詣者の便などを考えて、厳寒の1月をさけ、気候のよい陽春4月に変更され、今日に至っているようである。(ここに書かれていることが正しいか否かは知らないが、以下参考に記載の「輪番御忌について基本的な知識」に「大永の御忌鳳詔」の内容が書かれているので参照)。
法然上人の忌日に行う法会「「御忌」は、俳諧などでは春の季語となっており、以下参考に記載の「季語と歳時記・御忌」には、以下の句が見られる。
なには女や京を寒がる御忌詣  蕪村 「蕪村句集」
着だをれの京を見に出よ御忌まふで 几董 「晋明集二稿」
几董は、江戸時代中期の俳諧師で、与謝 蕪村の弟子である。昔の京都の人は一年の寺参りの始めとして遊山も兼ねて着飾って詣でたため御忌小袖、衣装競べ、弁当始などといったそうだが、法然の命日は建暦2年1月25日(グレゴリオ暦:西暦1212年3月7日、ユリウス暦:西暦1212年2月29日)は、大阪の人にとっての京都は、まだまだ寒い季節だったろうね。
法然は、平安時代後期から鎌倉時代初期という歴史的な大変換期に生きた僧侶で、美作国(現岡山県)の久米郡の押領使漆間時国の長子として生まれ幼名を勢至丸と言ったが、父親が地方の政争に巻き込まれ殺され幼くして菩提寺に入り、その後、13歳の時に中央での学問と修業をめざし比叡山に上り、得度し、最初は天台法華を学ぶが、やがて「悟りの仏教」から「救いの仏教」を求めるようになる。18歳のとき黒谷慈眼房叡空に師事して法然房源空(「法然」は房号が源空)と名乗り、浄土三部経などを学び30年に及ぶ厳しい修行の後、承安5年(安元元年=1175年)の春、唐の浄土教家善導が著した『観無量寿経疏』の注釈書を読み絶対的な阿弥陀如来と、凡愚悪人でしかありえない人間とをつなぐものは、南無阿弥陀仏の六字の名号を称えること以外に無いことを確信し専修念仏に進むようになり、同年、法然、43歳のとき、比叡山を下りて東山吉水に住み、訪れる人を誰でも迎え入れ専修念仏を説き、旧仏教では往生が難しいとされた女性にも布教した。この年を浄土宗では立教開宗の年としている。
仏教が日本に伝わったのは6世紀前半のことであったが、高度な外来文化として受け入れられた仏教は、長い間日本人にとっては、学習の対象であった。当時、古代インドで書かれたものが中国に伝えられ、中国で訳経されたものを、日本の僧侶が読み解きその内容を表現するのは容易なことではなかった。そのようなことで、仏教の寺院が国家や貴族の後援で成り立ち、僧侶が特権的な身分を与えられたのもそのようなことと無関係ではない。
仏教が伝わって2世紀余りすぎ鎌倉時代になり、やっと、寺院の外に出て活動する法然のような僧侶が現れ、仏教的なものを寺院の外に広める役割を果たすようになった。また、この頃、律令制度がゆるみ、停滞を隠せなくなった平安時代中期以降の貴族社会の一部に現世に究極の価値を認めない仏教教説に対する関心が高まり、個人救済的な性格の濃い浄土教が広がったといえる。
法然はあるべき人間ではなく、あるがままの人間を凝視するところから出発して仏教をとらえなおそうとした。そして、人間をみつめることによって到達したのは、凡愚で罪深い人間が仏になったり,近づいたりすることは不可能に近いという立場であった。そこでは、仏は人間の理想や模範ではなく、人間を救う絶対的な存在である。人間の模範としての仏なら、仏はいかなるものかは、知識学問によって説明できるが人間から隔絶している絶対的な仏は信仰の対象として以外にはありえない。平安時代までの仏教が、仏は人間と連続的なものと考えられていたのにたいして、法然は、仏と人間とを無限の両極に切り離し、その仏と人間を結ぶ唯一のものが念仏とした。(週刊朝日百科「日本の歴史」)。
文治2年(1186年)、顕真の発議により、大原・勝林院で聖浄二門を論じ(大原談義又大原問答)、法然は、そういう仏教を「聖道門」(しょうどうもん)と名づけて捨てた。『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちで知られる熊谷直実が、法然の弟子となり出家したのも建久4年(1193年)ごろのことである。
そして、建久9年(1198年)には『選択本願念仏集』を著している。
しかし、法然のまわりに多くの念仏者が集まるようになると、次第に、法然の教義に対する解釈に微妙な違いが生じていった。そして、一部の念仏者に過激な行動を起こすものが出、仏教の秩序を乱すものとして、叡山や南都(奈良)などの旧仏教側の諸大寺から非難また敵視されるようになる。そのことが、後鳥羽院の官女と弟子の住蓮安楽の密通事件を理由に、専修念仏はついに停止され、承元元年(1207年)法然と主要な門弟が配流されることに繋がったのであろう。法然は、4年後の建暦元年(1211年)赦免になり配流先の四国・土佐より帰京、東山大谷での布教を始めるが、翌年1月25日に死去した(享年80歳)。この、法然が旧来の仏教ではなく専修念仏を選択し、配流につながっていったことなどに関しては、以下参考に記載の「松岡正剛・千夜千冊「法然 選択本願念仏集」」に興味深いことが書いてある。関心のある人は読まれると良い。
法然の没後、法然の念仏の教えは長老の信空が後継となったものの門人の間で法然の教義に対する解釈で微妙な違いが生じていった。そして、嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。
法然の弟子親鸞浄土真宗を開くが、法然の教と共に「浄土門」(浄土教仏教)が鎌倉仏教の中心となっていったが、鎌倉新仏教が、学問ではなく信仰の立場で仏教を見直すことであったとすれば、その先駆者が法然であったことだけは確かである。
このブログを書いていて、気になることがあった、法然が、比叡山を降りて、東山吉水の草庵で専修念仏を広めていったが、この「東山吉水」の正確な場所がよく分からない。
Wikipediaでも、“知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。その法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。”・・・とあり、親鸞に関するページでは、 “弟子の親鸞が叡山と決別して下山し、東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵(現在の安養寺付近)を訪ねる。そして、法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意。建仁元年「吉水入室」。“・・・とある。
ここに書かれている、「安養寺」について、以下参考に記載の「京都市観光情報システム・安養寺 (吉水草庵)」では、“最澄が創建。吉水坊と称し、法然が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鸞も入信したが、専修念仏弾圧で荒廃。1385年(至徳2)国阿が入寺、時宗(浄土教の一宗派)に改めて興隆、境内に子院六阿弥坊(中の重阿弥で赤穂浪士が円山会議を開いた。)があったが、明治後期に消失、今は本堂、書院、弁天堂と料亭「左阿弥」(以下参考に記載に「料亭 左阿彌 - 歴史・由来」参照)を残すだけ。同寺の山号慈円山が円山公園の名称のもとになった。”・・・とある。以下参考に記載の「円山公園とその周辺」には、もっと詳しく、このことが書かれている。どうも、法然が布教の場として使っていた草庵は知恩院ではなく安養寺にあったようだ。
法然の没後、門人の間で法然の教義に対する解釈で微妙な違いが生じていったことは先にも触れたが、その後、分派し、Wikipediaの浄土宗にも書かれているように、●信空の没後、京都の浄土宗の主流となった証空の西山義、●九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、●東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、●京都で証空に対抗して所業本願義を説いた長西の九品寺義の4派の浄土四流という流れが形成される(ここで義とは、他力信心の要義を言っているようだ)。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団は法然没後に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。“・・とある(歴史参照)。
私は、このような宗教のことは、全く分からないので、判断できないが、法然の没後、浄土四流に含まれない知恩院がどうして浄土宗の総本山になっていったのかが、いまひとつよく理解出来ないのでこれは、またの勉強課題にしよう。続に、“歴史は作られ”ともいうが、これもその1つと思えば良いのだろうが・・・・。
(画像は、法然像。京都二尊院に伝わる足引の御影【みえい】とッ呼ばれる画像で、最も古いものとされているようだ。週刊朝日百科「日本の歴史」7より)
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御忌会(法然上人の年忌法会):参考

2009-04-25 | 行事
(画像は、知恩院・勢至堂。Wikipediaより)
参考:
浄土宗公式ホームページ
http://www.jodo.or.jp/
法然 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6
季語と歳時記
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/index.html
与謝蕪村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91
法然院 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
親鸞 (浄土真宗の開祖)の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/0878332858a75bd152ebbabfc3a5918f
日本の寺院一覧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
浄土三部経 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C
輪番御忌について基本的な知識
http://syourinji.com/page015.html
松岡正剛・千夜千冊「法然 選択本願念仏集」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1239.html
鎌倉仏教
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kamakurabukkyou1.html
熊谷直実 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
律令制 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6
京都市観光情報システム・安養寺 (吉水草庵)安養寺 (吉水草庵)
http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?ManageCode=1000009&InforKindCode=1
京都府 京都市東山区 円山町 の地図 - エキサイト 地図
http://www.excite.co.jp/map/m/?el=135.785535&nl=34.9996977777778&scl=6
国阿- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%BF
料亭 左阿彌 - 歴史・由来
http://saami.jp/history.html
円山公園とその周辺
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/anyou-ji.htm