4月6日の今日は、「阿波よしこの」の名手芸者お鯉こと・多田小餘綾の2008年の忌日。
「多田小餘綾」(ただ こゆるぎ)と言う名前や「阿波よしこの」と言っても知らない人が多いのではないかと思うが、西馬音内の盆踊り、郡上おどりと共に、日本三大盆踊りの1つに数えられる「阿波踊り」のことは誰もが良く知っているのではないか。
「阿波踊り」は、約400年の歴史をもつ、徳島県(旧・阿波国)内各地の市町村(徳島市、鳴門市、<三好市など)で開催される盆踊りであるが、なかでも徳島市の阿波踊りが県内最大規模で最も有名である。江戸時代に、徳島藩の知行地となっていた兵庫県の淡路島でも踊る。
三味線、太鼓、鉦(かね)、横笛などの2拍子の急調子で囃(はや)し立てる伴奏にのって踊り手の集団(「連」)が踊り歩く。女性は優雅に、男性は腰を落として豪快に踊る。
「ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ」・・・。徳島の阿波踊りに欠かせないお囃子「阿波よしこの」の出だしである。
すっかり耳に馴染んだこの節回しを生み出し、阿波踊りを全国区にしたのが、2008(平成20)年の今日・4月6日、100歳(享年101)で逝去した芸者お鯉さんこと、多田小餘綾さんだった。
1907(明治40)年4月27日徳島市富田町に生まれる。本名の「小餘綾(こゆるぎ)」は、歌枕の「こゆるぎの磯」にちなみ、また、磯=五十にかかる歌枕でもある。父の金波が五十路を越えた時の娘であることから命名されたのだという(以下参考の※:「お鯉さん」より)。
歌枕とは、和歌に引証される地名のことであり、古今和歌集・東歌に
「こよろぎの 磯たちならし 磯菜つむ めざしぬらすな 沖にをれ浪」(巻二十-1094、読人知らず )
が あり、「こゆるぎの磯」とは、相模(さがみ:今の神奈川県)大磯から国府津(こうづ)にかけての海岸を言っているが、歌の意味は、“小余綾の磯で一生懸命に磯菜を摘んでいる、あの子の髪を濡らすな、沖に居ろ波”らしい(以下参考の※:「古今和歌集の部屋」参照)。又、万葉集・巻十四東歌には、「相模道(さがむぢ)の、余綾(よろぎ)の浜の、真砂(まなご)なす、子らは愛(かな)しく、思はるるかも」(3372作者: 不明)が見られ、意味は、“相模の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘(こ)のことが限りなくいとおしく思われる“といった意味であり、”真砂(まなご)“は、砂浜の細かな砂のことであるが、また、「まなご」で「愛児(まなご:最愛の児)」をイメージさせているとも考えられるという(以下参考の※:「楽しい万葉集)。お鯉さんの父は、画を嗜み、藍香、また東洋亭金波と号し、狂歌や俳句、川柳や短歌など幅広くこなした粋人らしいが、50歳にもなってから出来た愛娘を本当にいとおしく想い、幸せな人生を望んでいたことが、この名前の付けかたでよくわかる。
そのような芸事が好きだった父親の影響で、数え年10歳の時に三味線を習い始め、1920(大正9)年14歳のときに、芸妓「うた丸」としてお披露目をし、一時検番を離れた後、1923(大正12)年「こゆるぎ」名で自前芸者(抱えではなく、独立して自力で営業)となり、その後、「お鯉」に改名したという。三味線の腕と艶のある声が評判になり、1931(昭和6)年、「徳島盆踊り歌」(阿波よしこの)をレコードに吹き込んだ。大阪のスタジオで鐘や太鼓の奏者と録音に望んだが、演奏を始めるタイミングが合わない。休憩を取り、屋上に上ったとき、ふと思い出したのが、江戸時代末期にはすでにあった囃子言葉「ハアラ 」と「エライヤッチャ」であり、これを組み合わせて即興の「お鯉節」に仕立て上げたのがこの「阿波よしこの」だそうで、当時は全国的な民謡ブームであり、このレコードを発売後、ラジオの出演依頼が続々と舞い込んだ。そして、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」の「阿波よしこ」が広まったという(冒頭の画像①が、2007年4月100歳の記念コンサートで「阿波よしこの」を披露した故:多田小餘綾さん。2008年5月16日朝日新聞夕刊より)。
お鯉さんは、阿波踊りを広めた功績を讃えられても「好きな三味線を弾いてきただけです」と語っていたと言い、4月27日に予定していた101歳の誕生パーティーを最後に一線を退く積りだったという。1949 (昭和24)年の暮れ(42歳)には料亭「言問」を徳島市栄町に開業し、女将として料亭を切り盛りする傍ら、芸者としてラジオ・テレビに出演もし活躍。晩年は持病のリュウマチで手が動きにくくなっていたらしいが亡くなる前日も3時間の稽古をこなしていたという。就寝後そのまま文字通り眠るように死去されたそうだ。俗に老衰と言われるものだが、生涯芸者として現役を貫いた人生・・・。私など60歳ちょっとで現役を退き、何をするということもなく、余生を過ごしているものにとっては、うらやましい限りである。お鯉さんのことは以下参考の※:「お鯉さん」に詳しく書かれているので、そこを見られると良い。
「阿波踊り」は、三味線、太鼓、鉦(かね)、横笛などの2拍子の伴奏を伴なう賑やかな軽快で陽気な踊りを特徴とする「ぞめき」踊りであるが、「ぞめき」とは“騒がしい”などの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。
起源については、「俄」や「組踊」 といった特殊なものが派生してきたとはいえ、その元は旧暦の7月に行われた盆踊りであるという「精霊踊り」(精霊を慰めるための踊り。盆踊りの別名)説や念仏踊り又、阿波踊りの特色である組踊が、能楽の源流をなすといわれる風流(ふりゅう)」 の影響を強く受けていることから「風流踊り」が原形であるとする説など諸説あるが、文献上起源は明らかではなく、その中で、最もよく知られているのは、「阿波踊りの唄」として知られている「阿波よしこの」に「阿波の殿様蜂須賀様が今に残せし阿波踊り」とあるように、1587(天正15)年に蜂須賀家政によって徳島城が落成した時に、完成を祝って、城に招かれた町人たちが踊り狂ったのが始まりとする説であるが、いくら築城を記念してのものといっても、町人に無礼講で踊りを許したとは考え難く、たとえそれが事実だったとしても、阿波踊りがその時に始まったものではなく、それ以前からあった踊りを城内で踊ることを許したというだけであって、阿波踊りの起源と考えるのにはいささか無理があるだろう。
1931(昭和6)年にお鯉さんが、「阿波よしこの」をレコード化したとき「徳島盆踊り歌」として発売しているように、やはり、歴史的に見た阿波踊りの民俗芸能としての起源は、中世の「踊り念仏」が娯楽性・芸能性を強めた「念仏踊」にさかのぼり、この念仏踊りのうち特に盆の時期に踊られた「精霊踊」が現在の盆踊りの原型をつくったのだろう。
盆踊りは、元来寺院と檀家の宗徒の間で営まれた年に1度の仏教行事であったが、藩の寺院統制が強まる中で、反体制的な民衆の発起の場ともなりかねない寺院での踊りが禁止された。
踊りの場が町衆の生活の場や商いの場である町内に移されたことによって、次第に盆踊の宗教色が薄れたものと考えられている。踊りは年ごとに規模が大きくなり、衣装や持ち物を競いながら毎年、工夫を凝らした踊りを展開していく。
しかし、不特定多数の城下の町人たちが、市中にくり出して大乱舞を展開する「ぞめき」ものであることから、僅かな刺激によって暴動化する危険性は絶えずあったようだ。それに、踊りも次第に華美になってゆき、質素倹約を旨とする藩はたびたび「組踊り」禁止令を出して厳重に取り締まったようだが、阿波踊りの形態がどう変わろうと、宗教色が薄れようと、「阿波の盆踊り」として、毎年の盆会に、祖霊の鎮魂のために踊り継いできた精霊踊り(盆踊り)としておこなわれていた以上、いかに「ぞめき」の踊りであっても、宗教的な行事として盛り上がった踊りを、藩としては抑圧することもできず、全面的に禁じることもできなかったようだ。そのうえ、徳島の特産である藍産業が盛んになるとともに踊りを経済的に支えていたのは、これら藍商人らの富商層であり、これら富商たちは藩財政を支える大切な人びとであったことも、藩にとって踊りを規制することを困難にしていたようだ。
その盆踊りの振りや歌詞は地域によって様々である。上掲の画像②『讃岐国名勝図会』(梶原景紹作 嘉永7年 【1854年】、出版社:平野屋茂兵衛)に描かれた盆踊りの光景であるが、切子灯籠 の下で思い思いに仮装した人々が踊っている。この図は1854(嘉永7)年の作とされており、江戸末期には、このような風流(奇抜な趣向を凝らした作り物の装束などのこと)の要素を持つ盆踊りの多いことを示している(NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)。讃岐国というから徳島ではなく香川県でのものだが・・・。香川県さぬき市津田町や徳島県の津田地区などでは、今でも、精霊踊りとして伝統的な盆踊りが行なわれているようだ。
次に上掲の画像③『讃岐国名勝図会』、(吉成葭亭【よしなりかてい】筆、西野家蔵。NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)を見てください。この絵も中央に見える赤い傘は精霊踊りの祭に用いられるもの。笛や三味線・太鼓など多種の鳴り物入りで踊る盆踊りの賑やかさは、現代の盆踊りとはやや異なる。吉成葭亭は、1807(文化 4)年~1859(安政6)年の徳島大岡本町の人だそうだから、この絵は、江戸の末期の様子と言うことになる。
最後に、上掲の画像④『ちょうちょう踊り図巻』(大坂市立美図書館蔵。週間朝日百科:「日本の歴史」94近世から近世へ⑥世直しええじゃないかより)の図は、天保の飢饉と大塩平八郎の乱の後に起こった1839(天保10)年3月から4月にかけて京都市中に熱病のように流行した「ちょうちょう踊り」。
平和と豊かな暮らしを望む民衆の思いはいつの世も変わらない。自らの手で生活を守るべき手段を持たなかった時代、自然の脅威にさらされたとき、或いは迫り来る次代の変化を嗅ぎ取ったとき、民衆が抱く不安と動揺は我々現代人の想像をはるかに超えるものであったろう。仮装をした奇妙なこの踊りは、京都今宮社の土木工事に際しての砂持(土木作業に従事するものが作業の時の景気づけのお祭り騒ぎの行事らしい)踊る様から「ちょうちょう踊り」(豊年踊り)と呼ばれたらしい。
人々が様々な仮装、かぶりものをして、踊っている。男が女に、女が男に扮し、又、狐・狸・虎・蝶・雷神・不動明王などおよそ考えつく限りの仮装を凝らし、腰に鈴をつけ、「おどろか、おどろふ、まけなよ、まきやせぬ、おどれよ、おどるぞ、踊らにやそんじゃや、おどるあはうに見るあはう、おなじあはうなら踊るがとくじゃ、お米のテウなら私もテウ\/、チョイト\/\/」と歌い、両足を跳ねて踊っているところのようだ。「テウテウ」は、「兆」で豊作の吉兆の意らしく、豊年の予想が民衆を狂喜させたようだ(以下参考の※:「第2章 「ええじゃないか」序曲」参照)。何か、歌の文句が阿波踊りに出てくる文句と似ていると思いませんか。
踊っている男女の異装などは江戸時代末期の1867(慶応3)年7月から翌1868(明治元)年4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象「ええじゃないか」でも見られるが、豊年踊りはその先駆であったようだ。(「ええじゃないか」騒動に興じる人々の画像はここ参照)。慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
「ええじゃないか」の目的は定かでないが、囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと解釈されている。岩倉具視の岩倉公実記によると、“京の都下において、神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカトと叫んだという。八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む”、とあり、明治維新直前の大衆騒動だったことがわかる。また、“ええじゃないか”の語源は、京の都下で叫ばれた言葉であったようだ。
この「ええじゃないか」のリズムは、現在の阿波踊りのリズムと非常によく似ている。ただメロディーについて言えば、現代の阿波踊りは近世後期から明治にかけての流行歌「よしこの 」節を使っている。
兎に角、徳島の盆踊りである阿波踊りは、明治以降時代の移り変わりとともにその姿を変えてきたものだろう。
昨・2009(平成21)年、高知県出身の日本画家、河野棹舟(1868~1945)が描いた「阿波盆踊図屏風」が徳島県内の旧家で見つかった。屏風には、踊り手5人と囃子方2人が描かれており、明治後期から大正ごろの阿波踊り風俗を写実的に描いた作品と鑑定された。以下参照。
明治〜大正の阿波踊り図屏風見つかる - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090709/trd0907092317018-n1.htm
明治時代、徳島の盆踊りは三日間、昼夜を問わずぶっ通しで踊り明かしていたという。又、日清・日露戦争で勝利した時には、国内各地で祝勝祝いが行なわれるが、徳島では「祝勝阿波踊り」が開かれ、誰もが戦勝ムードに酔いしれたといい、戦争を期に、このころからお盆以外でも景気づけやお祝いの度ごとに阿波踊りは開催されるようになったという。大正時代に入ると、庶民の暮らしは豊になり、阿波踊りも時代を反映するかのようにいろいろ自由でユニークなスタイルのものが多くみられるようになったようだが、折しも第一次世界大戦(914年~1918年)後の大恐慌時代、県内にも暗い不況風が吹いていたとき、阿波踊りをリードしていたのは富町や内町の花柳界の芸子衆であったようで、その当時と変わらない阿波踊りの調べを歌い続けていた1人がお鯉さんこと、多田小餘綾さんだったようだ。この不況風が吹いていたとき、時の徳島商工会議所(当時は商業会議所)の玉田弥伊太会頭が、徳島の盆踊りを盛んにして、観光事業で不景気を追い払おうと思い立ち、徳島市内各層の有力者に相談を持ち掛けたとき、徳島出身の絵師・郷土芸能研究家で風流人・林鼓浪(はやしころう、本名:宜一)が、それまで、「阿波の盆踊り」と言っていたものに対して、旧国名から「阿波踊り」を提案がなされ命名されたものだそうだ。因みに、お鯉さんが、子供の頃から弟子入りし、三味線の指導を受けていたというのが富街芸妓衆の清元や三味線の指導にあたっていた師匠・清元延喜久(高橋シゲ)だそうだが、この人は、林鼓浪の内妻となった人だそうだ。
「阿波の盆踊り」が、阿波踊り」と呼ぶようになったのは昭和の初めのころと言うが、お鯉さんは、1935(昭和10)年には、ポリドールレコードから「阿波踊り(よしこの)」として出しており、この頃までにはそう呼ばれるようになっていたのだろう。その後、盛況に沸いた阿波踊りも、1937(昭和12)年、満州で盧溝橋事件勃発後暫く中止されたが、1941(昭和16)年に復活。この年には、阿波おどりを題材とした映画「阿波の踊子」が長谷川一夫主演で公開もされている。しかし、同じ年の1941(昭和16)年12月太平洋戦争が始まり戦況が悪化するやたちまち中止となった。戦後、復活した阿波踊りが盛んになるのは、昭和30年代に入った高度経済成長の波に乗ってからのことであろう。阿波踊りの歴史などは、以下参考の※:「あわぎん.>阿波踊りの歴史」他で詳し書かれているのでそれらを見られると良い。
(画像①:2007年4月100歳の記念コンサートで「阿波よしこの」を披露した故:多田小餘綾さん。2008・5・16朝日新聞夕刊より。②:、『讃岐国名勝図会』、NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より。盆踊り図。③:『阿波盆踊り図屏風』。吉成葭亭筆、西野家蔵。④:『ちょうちょう踊り図巻』(大坂市立美図書館蔵)。いずれも週間朝日百科:「日本の歴史」94近世から近世へ⑥世直しええじゃないかより。)
阿波よしこの名手・芸者お鯉こと、多田小餘綾の忌日:参考