日本記念日協会には、今日・4月9日(旧暦)の記念日として「大仏の日」があった。752年(天平勝宝4年)の今日、奈良・東大寺の大仏の開眼供養が行われたことにちなむ。この廬遮那仏坐像は座高16 メートル、顔の長さ5 メートル、目の長さ2 メートルという巨大なもの。しかし、記念日と言うからには、何時、誰又、何処の団体が、何を目的に設定したのかが本当は分らないといけないのだが、そのようなことは、記念日設定の由緒には書かれていない。最近は、このような記念日が多いな~。
現在の奈良県奈良市にあった平城京(奈良の都)への遷都(710年)から2010(平成22)年の今年で1300周年を迎えることを記念して、今年・1月1日から12月31日まで1年間「はじまりの奈良、めぐる感動」をテーマに 「平城遷都1300年記念事業」(平城遷都1300年祭。以下参考の※:「平城遷都1300年」参照)が行なわれている。思い起こせば、その記念事業の公式マスコットキャラクター「せんとくん」が発表されたときには、「可愛い」「可愛くない」、また、仏教界からは、仏に鹿の角を生やしたような姿は「仏様を侮辱している」と異議が唱えられるなど、マスコミを騒がせたものであるが、いざ、開幕した今年には、何も騒ぎは起っていないようだね~。私も昔は何度も奈良へ行ったものだが、そういえば、ここ20年近くは行っていないので、余り人出の多くないようなときにでも1度行ってみないといけないな~。
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている日本最初の本格的な律令である大宝律令が完成したのは、天武天皇没(686年)後の文武天皇の代の701(大宝元)年のことである。この年、文武と飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖・藤原(中臣)鎌足の息子である藤原不比等の娘・宮子との間に第一皇子・首皇子(聖武天皇)が誕生。また、不比等と県犬養三千代(橘三千代)との間に安宿媛(光明子。後に光明皇后)も誕生している(聖武天皇の母である藤原宮子は光明皇后の異母姉である)。707(慶雲4)年、文武天皇が崩御(享年25歳)したとき、首皇子は、まだ7歳であり、文武の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった為、実務に長けていた不比等を重用した。そして、元明天皇による藤原京より、平城京への遷都の詔が出され、710(和銅3)年、平城京に遷都したが、この遷都は不比等が主導権を握って行われたと伝えられている。そして、左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため右大臣の不比等が事実上の最高権力者になった。不比等は、厩坂寺を平城春日に移し、興福寺と改称。この年、大官大寺(大安寺の前身)も平城へ移している。元明天皇は、翌711(和銅4)年、律令の励行を命じている。
大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。さらに律令の制定後行なわれた空前規模の都城は9年の歳月を要して建設された。これらは、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設)に擬せられていたことを表している。
「わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし 」(万葉集 巻8-1658)
光明皇后の歌である。意味は、「わが夫の君と、もし二人で見るのでしたら、どんなにか、いま降っているこの雪が喜ばしく満足に思われることでしょうに・・・」といったところであるが、何時の作かは不明であるがそこには、中睦まじい夫婦の姿が見えてくる。
しかし、天平の時代を担ったこの二人の生涯は決して安穏なものではなかった。
同じ701年生まれの元明天皇の皇太子・首皇子のもとに藤原不比等の娘・安宿媛が入内したのは716(霊亀2)年のことである。この前々年、首皇子は14歳で立太子し、前年正月には群臣の朝賀を受けていた。同年9月、元明天皇が譲位し、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位している。しかし、皇后あるいはそれに順ずる経歴も持たない元正天皇が皇位についた理由は、元明天皇自身の老いもあるが、何よりも文武天皇の嫡子であるまだ年若い首皇子に間違いなく皇位を継承させるためであり、それが、この女帝に課せられた地上命令でもあったようだ。しかし、720(養老4 )年に、首皇子への皇位継承と律令政治の推進に腐心した不比等が亡くなり、長屋の王が右大臣となり政権を掌握。続いて頼りにしていた母元明太上天皇が721 (養老5)年に相ついで世を去ったとき、元正天皇は、「心肝裂くるが如し」と、悲嘆に暮れたというが、さもあろう。そのような中、724(神亀元)年2月、元正天皇は、24歳になった皇太子に念願の皇位を譲り、ここに、聖武天皇の時代が始まる。安宿媛は夫の首皇子の即位とともにこの時、後宮の位階である夫人号を得る。727(神亀4)年、聖武天皇と光明子(光明夫人の美称)との間に誕生した第一皇子・基親王が、翌年皇太子に立てられたものの僅か2歳足らずで夭死し、これが後に、後継を争っての長屋王の変が起こる引き金となるが、長屋王の変後、729(天平元)年、光明子を皇后にするとの詔が発せられた。光明皇后の誕生は王族以外から立后された初例である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。そして、律令編纂に中心的な役割を果たした不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
兎に角、聖武天皇誕生以降、その愛娘孝謙(称徳)天皇、それに、光明皇后の加わった治世がおよそ半世紀に及び、この奈良時代は、その中心的な元号から天平時代と呼ばれることが多い。
この天平の初年頃、大宰府に赴任していた大宰大弐小野老(おののおゆ)が、はるか平城の都を偲び詠んだ歌が万葉集に見られる。
「あを(青丹)によし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」(巻第三-328)
「青丹によし」は、「奈良」の枕詞であるが、歌の解釈等は以下参考の※:「枕詞「あをによし」について」を参考にされるとよい。
天平時代は東大寺と大仏の建立や正倉院の品々に見られる壮大、華麗な世界を、そして、遠く唐の都長安に学んだ日本古来の文化と大陸からの文化の融合といったことを思い浮かべる。しかし、この時代は華やかな都ぶりの対極に、暗く、陰惨な空気をはらんでいた。
大仏の造営などにかり出され、あるいは、天変地変に翻弄され、飢饉や天然痘など疫病で死に直面した民衆。そのような民衆が、律令制の下、租・庸・調の重税にあえいでいる様子は、山上憶良 の「貧窮問答」に生々しく描写されている(歌の内容等は、以下参考の※:「山上憶良 千人万首」※:「山上憶良:その生涯と貧窮問答歌 - 壺齋閑 話」を参照)。この歌は、筑前守を退任後、帰京間もない732(天平4)年の冬頃に完成したらしい。又、長屋王の変(729年)をはじめ藤原広嗣の乱(740年)など相次ぐ政争に、否応なく、巻き込まれてゆく皇族・貴族たちが見られる。
大宝律令の制定によって成立した律令国家が、その支配システムを社会に浸透させ、定着してゆくためには、幾つかの試練があった。先ず、唐の律令を真似た律令制が施行されたもののそれまでの慣行に生きてきた豪族達には殆ど理解できない合理性を備えていたようであり、思想的な価値観の対立や現実の利害も絡みその貫徹を許さず、法の修正をよぎなくされた場合や、新たな矛盾を生み出す場合もあった。天平の時代は律令制の政治理念と、これに合い矛盾する現実とを内包した時代であった。こんな天平時代の政治と文化の基調、律令と仏教は、いずれも外来のものであった。これがどのように日本の社会に受け入れられるか。そして、どのような機能を果たすべきか。天平時代の律令制の成果と矛盾は何よりもこの政治と仏教の関係にあったという(週間朝日百科「日本の歴史」古代⑩大仏建立と八万神:「鎮護国家と」とその行方)。
このような社会状況の中、大宰府から流行した天然痘の平城京への蔓延により民衆だけでなく藤原4兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われ、天皇・皇后は仏教への傾倒を深く進めることとなった。
藤原広嗣の乱のときに、「朕意(おも)うところあるに縁(よ)りて、今月の末暫く関東に往(い)かんとす。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事己(い=や)むこと能わず」と勅(ちょく)し、伊勢へ行幸。11月には、広嗣が逮捕され乱は平定されるが、それでも、平城京には戻らず、翌年恭仁京(くにきょう)遷都を宣言。宮殿は造られたが、都としては完成しないまま、その後も743(天平15)年紫香楽宮に移り、その翌年には難波京に遷都するなどと迷い続けた末、745(天平17)年平城京に都が戻されている。
東大寺・廬舎那大仏の造像が発願されたのは、奈良・平城京ではなく、この時、聖武天皇が平城京から恭仁京へ脱出し、そこから紫香楽宮に移った743(天平15年)のことであり、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市。以下参考の※:「近江国分寺」参照)に造られる計画であったが、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために計画は中止され、実際の造像は平城京に戻ってきた745(天平17)年から準備が開始され、747(天平19)年、大仏の鋳造を開始。長門国長登銅山の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして造られた。天平勝宝4年4月9日(西暦では752年5月26日)開眼供養会が実施された。
大仏の日(Ⅱ)へ続く
現在の奈良県奈良市にあった平城京(奈良の都)への遷都(710年)から2010(平成22)年の今年で1300周年を迎えることを記念して、今年・1月1日から12月31日まで1年間「はじまりの奈良、めぐる感動」をテーマに 「平城遷都1300年記念事業」(平城遷都1300年祭。以下参考の※:「平城遷都1300年」参照)が行なわれている。思い起こせば、その記念事業の公式マスコットキャラクター「せんとくん」が発表されたときには、「可愛い」「可愛くない」、また、仏教界からは、仏に鹿の角を生やしたような姿は「仏様を侮辱している」と異議が唱えられるなど、マスコミを騒がせたものであるが、いざ、開幕した今年には、何も騒ぎは起っていないようだね~。私も昔は何度も奈良へ行ったものだが、そういえば、ここ20年近くは行っていないので、余り人出の多くないようなときにでも1度行ってみないといけないな~。
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている日本最初の本格的な律令である大宝律令が完成したのは、天武天皇没(686年)後の文武天皇の代の701(大宝元)年のことである。この年、文武と飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖・藤原(中臣)鎌足の息子である藤原不比等の娘・宮子との間に第一皇子・首皇子(聖武天皇)が誕生。また、不比等と県犬養三千代(橘三千代)との間に安宿媛(光明子。後に光明皇后)も誕生している(聖武天皇の母である藤原宮子は光明皇后の異母姉である)。707(慶雲4)年、文武天皇が崩御(享年25歳)したとき、首皇子は、まだ7歳であり、文武の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった為、実務に長けていた不比等を重用した。そして、元明天皇による藤原京より、平城京への遷都の詔が出され、710(和銅3)年、平城京に遷都したが、この遷都は不比等が主導権を握って行われたと伝えられている。そして、左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため右大臣の不比等が事実上の最高権力者になった。不比等は、厩坂寺を平城春日に移し、興福寺と改称。この年、大官大寺(大安寺の前身)も平城へ移している。元明天皇は、翌711(和銅4)年、律令の励行を命じている。
大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。さらに律令の制定後行なわれた空前規模の都城は9年の歳月を要して建設された。これらは、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設)に擬せられていたことを表している。
「わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし 」(万葉集 巻8-1658)
光明皇后の歌である。意味は、「わが夫の君と、もし二人で見るのでしたら、どんなにか、いま降っているこの雪が喜ばしく満足に思われることでしょうに・・・」といったところであるが、何時の作かは不明であるがそこには、中睦まじい夫婦の姿が見えてくる。
しかし、天平の時代を担ったこの二人の生涯は決して安穏なものではなかった。
同じ701年生まれの元明天皇の皇太子・首皇子のもとに藤原不比等の娘・安宿媛が入内したのは716(霊亀2)年のことである。この前々年、首皇子は14歳で立太子し、前年正月には群臣の朝賀を受けていた。同年9月、元明天皇が譲位し、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位している。しかし、皇后あるいはそれに順ずる経歴も持たない元正天皇が皇位についた理由は、元明天皇自身の老いもあるが、何よりも文武天皇の嫡子であるまだ年若い首皇子に間違いなく皇位を継承させるためであり、それが、この女帝に課せられた地上命令でもあったようだ。しかし、720(養老4 )年に、首皇子への皇位継承と律令政治の推進に腐心した不比等が亡くなり、長屋の王が右大臣となり政権を掌握。続いて頼りにしていた母元明太上天皇が721 (養老5)年に相ついで世を去ったとき、元正天皇は、「心肝裂くるが如し」と、悲嘆に暮れたというが、さもあろう。そのような中、724(神亀元)年2月、元正天皇は、24歳になった皇太子に念願の皇位を譲り、ここに、聖武天皇の時代が始まる。安宿媛は夫の首皇子の即位とともにこの時、後宮の位階である夫人号を得る。727(神亀4)年、聖武天皇と光明子(光明夫人の美称)との間に誕生した第一皇子・基親王が、翌年皇太子に立てられたものの僅か2歳足らずで夭死し、これが後に、後継を争っての長屋王の変が起こる引き金となるが、長屋王の変後、729(天平元)年、光明子を皇后にするとの詔が発せられた。光明皇后の誕生は王族以外から立后された初例である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。そして、律令編纂に中心的な役割を果たした不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
兎に角、聖武天皇誕生以降、その愛娘孝謙(称徳)天皇、それに、光明皇后の加わった治世がおよそ半世紀に及び、この奈良時代は、その中心的な元号から天平時代と呼ばれることが多い。
この天平の初年頃、大宰府に赴任していた大宰大弐小野老(おののおゆ)が、はるか平城の都を偲び詠んだ歌が万葉集に見られる。
「あを(青丹)によし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」(巻第三-328)
「青丹によし」は、「奈良」の枕詞であるが、歌の解釈等は以下参考の※:「枕詞「あをによし」について」を参考にされるとよい。
天平時代は東大寺と大仏の建立や正倉院の品々に見られる壮大、華麗な世界を、そして、遠く唐の都長安に学んだ日本古来の文化と大陸からの文化の融合といったことを思い浮かべる。しかし、この時代は華やかな都ぶりの対極に、暗く、陰惨な空気をはらんでいた。
大仏の造営などにかり出され、あるいは、天変地変に翻弄され、飢饉や天然痘など疫病で死に直面した民衆。そのような民衆が、律令制の下、租・庸・調の重税にあえいでいる様子は、山上憶良 の「貧窮問答」に生々しく描写されている(歌の内容等は、以下参考の※:「山上憶良 千人万首」※:「山上憶良:その生涯と貧窮問答歌 - 壺齋閑 話」を参照)。この歌は、筑前守を退任後、帰京間もない732(天平4)年の冬頃に完成したらしい。又、長屋王の変(729年)をはじめ藤原広嗣の乱(740年)など相次ぐ政争に、否応なく、巻き込まれてゆく皇族・貴族たちが見られる。
大宝律令の制定によって成立した律令国家が、その支配システムを社会に浸透させ、定着してゆくためには、幾つかの試練があった。先ず、唐の律令を真似た律令制が施行されたもののそれまでの慣行に生きてきた豪族達には殆ど理解できない合理性を備えていたようであり、思想的な価値観の対立や現実の利害も絡みその貫徹を許さず、法の修正をよぎなくされた場合や、新たな矛盾を生み出す場合もあった。天平の時代は律令制の政治理念と、これに合い矛盾する現実とを内包した時代であった。こんな天平時代の政治と文化の基調、律令と仏教は、いずれも外来のものであった。これがどのように日本の社会に受け入れられるか。そして、どのような機能を果たすべきか。天平時代の律令制の成果と矛盾は何よりもこの政治と仏教の関係にあったという(週間朝日百科「日本の歴史」古代⑩大仏建立と八万神:「鎮護国家と」とその行方)。
このような社会状況の中、大宰府から流行した天然痘の平城京への蔓延により民衆だけでなく藤原4兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われ、天皇・皇后は仏教への傾倒を深く進めることとなった。
藤原広嗣の乱のときに、「朕意(おも)うところあるに縁(よ)りて、今月の末暫く関東に往(い)かんとす。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事己(い=や)むこと能わず」と勅(ちょく)し、伊勢へ行幸。11月には、広嗣が逮捕され乱は平定されるが、それでも、平城京には戻らず、翌年恭仁京(くにきょう)遷都を宣言。宮殿は造られたが、都としては完成しないまま、その後も743(天平15)年紫香楽宮に移り、その翌年には難波京に遷都するなどと迷い続けた末、745(天平17)年平城京に都が戻されている。
東大寺・廬舎那大仏の造像が発願されたのは、奈良・平城京ではなく、この時、聖武天皇が平城京から恭仁京へ脱出し、そこから紫香楽宮に移った743(天平15年)のことであり、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市。以下参考の※:「近江国分寺」参照)に造られる計画であったが、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために計画は中止され、実際の造像は平城京に戻ってきた745(天平17)年から準備が開始され、747(天平19)年、大仏の鋳造を開始。長門国長登銅山の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして造られた。天平勝宝4年4月9日(西暦では752年5月26日)開眼供養会が実施された。
大仏の日(Ⅱ)へ続く