毎年4月25日、奈良の興福寺で「文殊会」が行われている。文殊菩薩に知恵をあずかろうと烏帽子姿や花笠姿など色々な姿の稚児行列が、近くの浄教寺(上三条町)から三条通の坂道を興福寺東金堂(国宝)まで練り歩いている。2010(平成22)年の今年、創建1300年を迎える興福寺は、奈良県奈良市登大路町にある南都六宗の一つ、法相宗の大本山である。
興福寺は、多くの摂政・関白・皇后を輩出した藤原氏の氏寺として隆盛を極めた寺であり、猿沢池越しの五重塔は奈良を代表する景観である。猿沢池の月は、東大寺の鐘などと共に古来奈良八景(以下参考の※1参照)の一つに数えられているが、同池畔に植えられた柳と興福寺の五重塔が水面にゆらめく夜の風情は格別のものである。なお、猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工の池だそうである。猿沢池のことは、以下参考の※4参照)
興福寺の前身は、皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(天智天皇)・石川麻呂らと飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)し、蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼし、大化の改新後、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた中臣鎌足(後の藤原鎌足)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像等を安置して、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源とされている。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と寺号を改めたという。
和銅3年(710年)、女帝元明天皇による平城遷都は、鎌足の子息である藤原不比等ら民の主導のもとに行われた。
藤原氏は、平城京で最も景勝地である左京三条の現在地に寺地を得て氏寺の建立にあたり、寺号は「興福寺」と名付けられた。この年が実質的な興福寺の創建年といえるようだ。中金堂は鎌足発願の釈迦三尊像を安置するために、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められ、完成と同時に厩坂寺から像が移された。養老4(720)年、不比等が没すると、一周忌に際し、不比等を追悼するために元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて円堂(北円堂)を造営させた。また、官営の「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められ、官寺の性格を強めていった。
興福寺の伽藍は、藤原氏の北家を中心として、南家・式家・京家によって、何代にもわたって造営工事が進められた。東金堂は聖武天皇(文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。)の発願で、五重塔は光明皇后(不比等の娘。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉)の発願で建てられた。興福寺は奈良時代には四大寺(大安寺・元興寺・薬師寺・興福寺)、平安時代には、七大寺(四大寺の+東大寺、西大寺、法隆寺)の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。
延暦13(794)年平安遷都は、奈良の多くの寺院に衰退をもたらしたが、平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(寺社勢力参照)と称された。寺の周辺には塔頭(たっちゅう)と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたという。中でも天禄元年(970年)定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた(因みに、大和武士とは、興福寺や、春日社が所有していた多くの荘園の在地の庄司に任じられた衆徒や国民らが、次第に荘内に勢力を蓄え武力を持つ集団へと発展しそれぞれ武士団に成長していった。ここ脚注1と共に以下参考の※2を参照)
安土・桃山時代に至って始めて織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行(ちぎょう)として2万1000余石とされた。
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失したが、貴族社会が衰えを隠しきれなくなった当時、東大寺の再建は容易でなかったが、藤原氏の氏寺である興福寺は、藤原氏の財力を集めて比較的容易に再建されたようだ。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内は、国の史跡に指定されており、1998(平成10)年12月には、古都奈良の文化財の一部として、世界遺産にも登録され、翌1999年から国の史跡整備補助事業に組入れられ発掘捜査が進められている。所有する国宝は26件、重要文化財は44件になる。
興福寺と藤原氏の話ばかりしてきたが、肝心の「文殊会」について簡単に書いておこう。私の蔵書である週刊朝日百科「日本の歴史63・古代から中世へ。⑧宴と贈り物」には、
“「文殊会」とは、毎年7月8日に文殊菩薩を本尊とし営んだ法会をいう。はじめ平安初期に始まり、国司が主宰して諸国で営まれたが、後には京都の東寺と西寺で行なわれる東西文殊会を指していた。文殊菩薩は貧窮者に化身して姿を現すと信じられていたため、文殊会には貧窮者への施行が行なわれた。鎌倉時代の叡尊(えいそん)・忍性の施行(仏教における布施行。仏法の善行を積むため僧侶や貧しい人々に物を施し与えること)にも文殊供養の名目で行なわれたものが多い。濫僧供(ろうそうぐ)とは、施行の名称の一つで十世紀頃から現れる。濫僧は乞食・を指すが、これは当事の乞食・が僧形をしていたことから生まれた俗称である。”と書かれている。
興福寺・文殊会についての詳しいことは以下参考の※3:法相宗大本山・興福寺公式HPの年中行事とイベント案内・文殊会東金堂を参照されると良いが、そこには、“我が国における当会の起源は淳和天皇(在位:823年~ 833年)のとき、勤操(ごんそう)、泰善等が畿内に於て、飯をつつみ、菜を加えて、諸々の貧者に施す社会福祉的な善業を、公家と協力して行なったのに始まります。勤操の寂後、泰善の上表により天長5年(828)2月25日「應修文殊会事」の太政官府を下され、国家恒例の勅会として諸国に於て厳修されました。”・・とある。
淳和天皇は、桓武天皇の第七皇子で、 母・旅子は、藤原式家出身の藤原百川の娘である。百川は、称徳天皇(孝謙天皇重祚後の名)代にあって、恵美押勝の乱(恵美押勝は、藤原仲麻呂の後の改)以後、後退していた藤原氏をその才覚により支え、権力の再興を果たした人物。神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件においても、道鏡への皇位継承阻止派として藤原永手らともに百川(当時の名は雄田麻呂)の暗躍があったといわれる。
興福寺・文殊会(Ⅱ)
興福寺は、多くの摂政・関白・皇后を輩出した藤原氏の氏寺として隆盛を極めた寺であり、猿沢池越しの五重塔は奈良を代表する景観である。猿沢池の月は、東大寺の鐘などと共に古来奈良八景(以下参考の※1参照)の一つに数えられているが、同池畔に植えられた柳と興福寺の五重塔が水面にゆらめく夜の風情は格別のものである。なお、猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工の池だそうである。猿沢池のことは、以下参考の※4参照)
興福寺の前身は、皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(天智天皇)・石川麻呂らと飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)し、蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼし、大化の改新後、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた中臣鎌足(後の藤原鎌足)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像等を安置して、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源とされている。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と寺号を改めたという。
和銅3年(710年)、女帝元明天皇による平城遷都は、鎌足の子息である藤原不比等ら民の主導のもとに行われた。
藤原氏は、平城京で最も景勝地である左京三条の現在地に寺地を得て氏寺の建立にあたり、寺号は「興福寺」と名付けられた。この年が実質的な興福寺の創建年といえるようだ。中金堂は鎌足発願の釈迦三尊像を安置するために、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められ、完成と同時に厩坂寺から像が移された。養老4(720)年、不比等が没すると、一周忌に際し、不比等を追悼するために元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて円堂(北円堂)を造営させた。また、官営の「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められ、官寺の性格を強めていった。
興福寺の伽藍は、藤原氏の北家を中心として、南家・式家・京家によって、何代にもわたって造営工事が進められた。東金堂は聖武天皇(文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。)の発願で、五重塔は光明皇后(不比等の娘。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉)の発願で建てられた。興福寺は奈良時代には四大寺(大安寺・元興寺・薬師寺・興福寺)、平安時代には、七大寺(四大寺の+東大寺、西大寺、法隆寺)の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。
延暦13(794)年平安遷都は、奈良の多くの寺院に衰退をもたらしたが、平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(寺社勢力参照)と称された。寺の周辺には塔頭(たっちゅう)と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたという。中でも天禄元年(970年)定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた(因みに、大和武士とは、興福寺や、春日社が所有していた多くの荘園の在地の庄司に任じられた衆徒や国民らが、次第に荘内に勢力を蓄え武力を持つ集団へと発展しそれぞれ武士団に成長していった。ここ脚注1と共に以下参考の※2を参照)
安土・桃山時代に至って始めて織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行(ちぎょう)として2万1000余石とされた。
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失したが、貴族社会が衰えを隠しきれなくなった当時、東大寺の再建は容易でなかったが、藤原氏の氏寺である興福寺は、藤原氏の財力を集めて比較的容易に再建されたようだ。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内は、国の史跡に指定されており、1998(平成10)年12月には、古都奈良の文化財の一部として、世界遺産にも登録され、翌1999年から国の史跡整備補助事業に組入れられ発掘捜査が進められている。所有する国宝は26件、重要文化財は44件になる。
興福寺と藤原氏の話ばかりしてきたが、肝心の「文殊会」について簡単に書いておこう。私の蔵書である週刊朝日百科「日本の歴史63・古代から中世へ。⑧宴と贈り物」には、
“「文殊会」とは、毎年7月8日に文殊菩薩を本尊とし営んだ法会をいう。はじめ平安初期に始まり、国司が主宰して諸国で営まれたが、後には京都の東寺と西寺で行なわれる東西文殊会を指していた。文殊菩薩は貧窮者に化身して姿を現すと信じられていたため、文殊会には貧窮者への施行が行なわれた。鎌倉時代の叡尊(えいそん)・忍性の施行(仏教における布施行。仏法の善行を積むため僧侶や貧しい人々に物を施し与えること)にも文殊供養の名目で行なわれたものが多い。濫僧供(ろうそうぐ)とは、施行の名称の一つで十世紀頃から現れる。濫僧は乞食・を指すが、これは当事の乞食・が僧形をしていたことから生まれた俗称である。”と書かれている。
興福寺・文殊会についての詳しいことは以下参考の※3:法相宗大本山・興福寺公式HPの年中行事とイベント案内・文殊会東金堂を参照されると良いが、そこには、“我が国における当会の起源は淳和天皇(在位:823年~ 833年)のとき、勤操(ごんそう)、泰善等が畿内に於て、飯をつつみ、菜を加えて、諸々の貧者に施す社会福祉的な善業を、公家と協力して行なったのに始まります。勤操の寂後、泰善の上表により天長5年(828)2月25日「應修文殊会事」の太政官府を下され、国家恒例の勅会として諸国に於て厳修されました。”・・とある。
淳和天皇は、桓武天皇の第七皇子で、 母・旅子は、藤原式家出身の藤原百川の娘である。百川は、称徳天皇(孝謙天皇重祚後の名)代にあって、恵美押勝の乱(恵美押勝は、藤原仲麻呂の後の改)以後、後退していた藤原氏をその才覚により支え、権力の再興を果たした人物。神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件においても、道鏡への皇位継承阻止派として藤原永手らともに百川(当時の名は雄田麻呂)の暗躍があったといわれる。
興福寺・文殊会(Ⅱ)