今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「聴く」の日

2010-04-20 | 記念日
日本記念日協会の今日4月20日の記念日に「聴く」の日 があった。
由緒を見ると、 ”大切な人の話を聴きましょう。そしてあなたも自分の話を周囲の人に聴いてもらいましょう。との考えから「聴く」ことの大切さを社会に広めようと、個人のゴール・目標を支援するコーチングのプロの藤田潮氏が制定した日。日付は藤田氏の著書『「聴く」の本』(幻冬舎ルネッサンス)の発売日である2007年4月20日から。 ”・・・とあった。
最近は、記念日協会の記念日にもやたらとこういうコマーシャル的な記念日が増えてきたが、これもその類のものだね。
私は、商社の営業マンとして長年お得意様相手のセールスの仕事に従事してきた。もともと、学生時代は、話下手で、人と話をするのが苦手であり、だから、ベテランの話し上手な人のように流暢に話ができず、とつとつと話しをする私は、親しくしてくれたお得意先からも、「話は下手だな~」と言われていた。しかし、そんな私が何故か、会社ではトップクラスの成績を上げていた。ただ、私が他の人より気をつけ力を入れていたことに、・他の人以上に自分の販売している商品についての知識を深めていたこと。・物を売るということよりも、その前に自分を売ることに努力したこと。・話下手の私は、私が話をする前に、相手の話を十分に聞いて、相手の考え方や嗜好、思い・その日の気分などを理解したうえで、自分の話をするようにいつも心がけていたことである。これは、誰からも教えられたことではなく、自分は話下手で、交渉ごとには向いていないと自覚していたので、そんな私がどのような方法で営業の仕事をしようかと考えた上でそうしていたことであった。だから、お得意先を訪問しても、いつもいきなり商売の話を切り出すことはしない、世間話などしながら相手のその日の気分などを推し量った上で仕事の話を切り出すようにしていた。もし、相手の気分が優れないような日などは簡単話を済ませ、商談の成立は次の機会にまわすことも多かった。やっていたことはそれだけのことであった。その後、多くの部下を使っての管理面の仕事もしてきたので、相手が誰であろうが十分に「話を聞く」ことの大切さくらいは、知っているが、折角だからと、一応、今日の記念日の制定者のブログ(以下参考の※1参照)を覗いてみたのだが、ブログの作り方が如何にも稚拙というか、字崩れしていたり、文字が抜けていたりで、書いていることがまともに読めない。それでも、少しは何か役に立つ情報がないかといろいろ見てみたが、一方的な自分の本の宣伝や講演会の案内などばかりで、他に何のサービス精神もみられない。「聞く」ことの大切さをうたいながら、一方的な、自分の都合によるCM的なことばかり書いているのには、むしろ驚かされたという感じだった。
それで、他に何か良いネタがないかと、何時も参考にさせてもらっている「hi-ho日めくりカレンダー」の<今日の雑学> を覗いてたときに、「怨霊となって都を震撼させた菅原道真」の話が載っていたのを、メモっていたので、 この話の内容は、誰もが知っているだろうが簡単に書いておこう(残念ながら、最近このサイトは閉鎖されたらしい)。
現代でも学問の神様として崇められている菅原道真は、父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれ、式部少輔兼任文章博士となった後、886(仁和2)年、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。888(仁和4)年、阿衡(あこう)事件に際して、藤原基経に良識ある意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。890(寛平2)年、任地讃岐国より帰京する。これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇に重用され、895(寛平7)年には従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。895(寛平7)年には、民部卿を兼任。897(寛平9)年には娘を宇多天皇の第3皇子・斉世親王の妻とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、899(昌泰2)年に、藤原時平が左大臣になった時には右大臣に任ぜられ右大将も兼任するなど、学者としては異例の出世を遂げた。しかし、901(延喜元)年、従二位に叙せられたが、道真を邪魔に思った時平から、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告(ぶこく=故意に事実をいつわって告げること。特に、他人を罪におとしいれようとして、いつわり訴えること)され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され2年後に没した。都の人々は不遇な晩年を送った道真の怨霊の祟りを恐れたが、909(延喜9)年には時平が39歳の若さで病死。923(延喜23)年3月に皇太子保明親王が僅か21歳で亡くなるに至り、道真の魂を鎮めるため、4月20日((hi-ho日めくりカレンダーより)、朝廷は道真を右大臣に復し、正二位を贈った。しかし、保明親王が亡くなった後、その子慶頼王を3歳で立坊(りつぼう。立太子に同じ)させるも、2年後、わずか5歳で夭折(ようせつ。夭逝)。やはり、道真の怨霊の仕業と噂された。一条天皇により、993(正暦4)年には、正一位太政(だいじょう)大臣を贈られるとともに、天満天神として全国的に信仰されるようになった。京都北野天満宮は道真を祭神として10世紀なかばに創立されたものである。
何か、脈絡のない話をしているようだが、実は、「聴く」の日と関係があると思って書いているのだ。
886年(仁和2)讃岐守に転出した道真は、翌年宇多天皇の即位に際して起こった阿衡事件で、藤原基経に良識ある意見書を提出、橘広相のために弁護したことから、宇多天皇の信任を得、以降要職に就くが、宇多天皇は藤原氏を牽制するために道真を利用していたようであったことは先にも書いた。
宇多天皇から譲位された醍醐天皇の治世、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。899(昌泰2)年、道真は、右大臣に昇進し右大将も兼任したが、その翌・900(昌泰3)年、藤原時平と対立し朝廷内で孤立を深めつつあった道真に対して三善清行が、書簡を呈して道真に「止足を知り引退して生を楽しむよう」諭した。「止足を知る」とは、”必要に応じて止(とど)まるを知ることが肝要”つまり、“足るを知ることが肝要”といった意味で 老子などの述べている道教の教理(以下参考の「※3:『老子道徳経』」第三十三章参照)でもあるが、道真は清行との長年の確執からこれを退け、聞き容れなかったようだが、結局、清行の危惧があたり昌泰の変で道真は大宰権帥に左遷されてしまうこととなったのだ。この事件の背景については、時平による全くの讒言(ざんげん)とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説あるが、いずれにしろ、折角の三善清行の忠告を、取り敢えずは「聞き」入れ、その時に、自分の置かれている立場や、周囲の状況を十分に観察しておれば、非凡な道真のこと、その時に自分が如何に危うい状況にあったかを悟り、それなりの対応の仕方があったのではないか・・と私は、思っているのだが・・・。
人生、生きていると、色々な情報、色々な知恵となるものを自分の周囲から学ぼうと思えば幾らでも学べるものだ。だから、人間、目で見て、耳で聞いて・・・学べなどといわれる。しかし、ただ単に、漫然と二つの目で見、二つの耳で聞いているだけでは、何も見えてこないし聞こえても来はしない。目や耳は、ものや音を感知するための器官でしかないのだから。
見たものや聞いたものを認識し、理解するのは能であり、その人の精神である。ものが「観える」周囲の声が「聴こえる」ようにするためには、自分の方から能動的に観よう、聴こうと神経を集中していなければ何も真実のことは観えも聴こえもしないのである。
人は、権勢を持つと“驕(おご)り”の心を持つようになるものだが、天皇の信任を得て、異例の出世をした道真にも驕りがなかったとは言えないのではないか。驕りは、油断を生じ、身の破滅につながる危険性をもつっている。社会的に高い地位のついた人などが最も気をつけなければいけないことだ。」(きょう。正しくは憍)は、仏教が教える煩悩のひとつである(以下参考の※2を参照。判りやすく解説している)。
「瑜伽論」(ゆがろん)には、7つの「驕」が挙げられているが、差詰め道真の場合は、ここに挙げられている「多聞驕」つまり、「広い意味では博学多才のおごり」といったところだろうか(「瑜伽論」については以下参考の※4 参照)。
明恵上人遺訓』の中に「物をよく知ると驕慢心が起こるものだと世間ではよくいうが、それはおかしい。本当にものを知っていたならば驕慢は起こらない。驕慢の起こるのは、よく知っているようだが実は、本当には知っていないということである。」・・とある。
これは、『老子道徳経』の中にも「知人者智 自知者明」とあり(第三十三章参照)、人を知る者はせいぜい智者というだけである。自分を知る者こそ真の明知の人であるといっている。「知」の「知る」という知識的な意味に対して、「智」には、物事を判断し、適切に処理対応できる能力、という意味合いがあるが、ここでは、人(他人)を知る事を「智者」と言い、自分を知る事を「明」という様に、分けて書かれているが、究極のところ、「自分」というものが分からなければ、「人間そのもの」を知ったとは言えず、それは引いては「他者」を知ったとも言えなくなる。「智者」という言葉には、物事を適切に対応できる者、処世に長けている者、というニュアンスが含まれていると解釈すると、結局、「明」でなければ、真の「智者」にはなれないということだ・・・と解説している。
現代でも学問の神様として崇められている菅原道真も知識人ではあるが本当の意味での明知の人ではなかっと言うことだろう。
奢る心を持っている人は、「聞く耳を持たなくなる」・・つまり、人の忠告や助言・提案等を聞かなくなるが、そうなれば、次第に周囲の人は、その人に対して意見を述べなくなるだけでなく、その人の気に沿うことしか述べなくなる。そして、優秀な人材は離れてゆき、周囲には、低俗ないわゆる、ゴマすりばかりが取り巻くようになり、いずれ、とんでもない大失態を犯すことになるだろう。私には、道真もその1人ではなかったか・・と言う気がする。
今、野党から政権与党となった民主党にもこの頃は、「驕り」が見られるようになり、マスコミをそれを批判し出した。国民の声をまともに聞かず、民主党首脳に関連する一連の不祥事についての説明責任も果たさず、今や世界一とも言われる財政赤字のなか、これ以上赤字を増やしてまで、子供手当を支給しなくても良い・・と言う国民の意見など無視して、ただひたすらに次の参議院選挙対策と思われる、国民への人気取りの為のばら撒きをやろうとしている。民主党の出来もしないマニフェストなど多くの国民ははなから余り期待はしておらず、期待しているのは、政治改革と行政改革である。そんなことには、余り手をつけず、目先の人気取りに躍起。日本の国民は、そんなに馬鹿ばかりではない。国民の意見はマスコミなどが採りあげているが、全く「聞く耳を持たない」民主党が奢っていないといえるのか。全く首相としてのリーダーシップを持たない鳩ポッポの首相は、外国のメディアではくるくるパーとまで冷評されており、前麻生首相以上の失言・迷走を繰り返し、国民の笑いものになりかけている。それでも、お金のことなど何の苦労も知らず育ち、自分では、スタンフォード大学)の学位(Ph.D.)をもった優秀な人間だ、国民がなんと言おうが私の考えが正しいと自惚れているのだろうね~。こんな極楽トンボにのような人に4年間政治を任せていたら、今の日本は完全に沈没してしまうかも知れないよ。以下で今の財政赤字状況を見ておいてください。
リアルタイム財政赤字カウンター

(画像:耳。Wikipediaより)
参考:
※1:and Cs(アンドシーズ)
http://www.and-coaching.com/coaching/index.php
※2 :唯識の世界/23.随煩悩の検証―⑩(驕(きょう)
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki23.html
※3 :老子道徳経 
http://www.sakai.zaq.ne.jp/abyss/chaos-noah/tao/tao_index.htm
※4 :唯識塾(横山紘一)
http://www.idot.ws/page.cgi?kouitsu+ext8
「聞く」と「聴く」 - NHK放送文化研究所
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_05110101.html
菅原道真- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/
明恵上人遺訓『阿留辺幾夜宇和-あるべきようわ-』を読む * 真言宗泉涌寺派・法楽寺
http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/nippon/arubekiyouwa/index.htm
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
日本記念日協会HP
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
民主の「驕りの象徴」 参院予算委3閣僚遅刻(産経新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100303-00000592-san-pol