今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大相撲で、貴花田が史上最年少で幕内優勝した日

2007-01-26 | 歴史
1992年の今日( 1月26日)は日本の大相撲で、貴花田が19歳5か月の史上最年少で幕内優勝 を果たした日。
元第65代横綱で、現一代年寄貴花田光司(本名花田 光司)の、父は元大関の貴ノ花健士、母は元女優の藤田憲子。兄はタレントの花田勝(元第66代横綱・若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーの河野景子。若乃花幹士(第45代横綱)は伯父(父の兄)という、日本相撲界のサラブレッドである。
1972(昭和47)年東京都杉並区に花田家の次男として生まれ、父の姿を見て育った光司は、1982(昭和57)年に、 相撲界から引退して、藤島親方となった父親(当時大関・貴乃花)が、中野区に藤島部屋を開いたため、中野区の小学校に兄の勝と転校。その年、4年生で、腕白相撲大会の横綱となる(兄勝は5年生で小結)。1985(昭和60)年、アマ相撲界で名高い明治大学附属中野中学校へ入学してからも、全国中学相撲選手権大会で7戦全勝。中野中学の団体優勝に貢献。 1988(昭和63)年2月、兄勝と共に中野中学を中退して、藤島部屋に入門。同年3月春場所兄弟そろって初土俵を踏む。翌1989(平成元)年春場所で、7戦全勝。16歳9ヶ月の幕下優勝は、富樫(元横綱柏戸剛)の17歳6ヶ月を抜く最年少記録である。そして、同年、9月秋場所で、7戦全勝10月に十両昇進。 北の湖(現日本相撲協会理事長)が持つ、17歳11ヶ月を破り、17歳2ヶ月の史上最年少関取となる。1990(平成2)年3月兄若花田も十両昇進を果たしている。この年5月、僅か3場所で十両を通過。17歳8ヶ月の新入幕は、北の海18歳7ヶ月を上回る史上最年少幕内昇進記録である。しかし、右足親指を痛め、夏場所は4勝11敗となり、僅か1場所で、十両に転落する。11月貴花田、三場所ぶりに再入幕。史上3組目の兄弟同時力士が誕生となる。1991(平成3)年3月、春場所で12勝あげ、史上最年少で、三賞のうち、技能、敢闘賞2賞を受賞し、貴花田フィーバーを巻き起こす。そして、5月、夏場所初日に横綱・ 千代の富士(現在は年寄九重)と対戦し、史上最年少金星を獲得した。小柄ながらも筋肉の引き締まった肉体で、力士の大型化した時代に、スピードとパワーで相手を投げ飛ばす豪快な相撲をみせてくれていた千代の富士は、前年(1990=平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せ、翌3月には前人未踏の通算1000勝を達成していた。その後しばらく優勝から遠ざかりとは言っても成績は13勝・12勝の準優勝であって横綱としては十分責任を果たしていたが、夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて、北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けていた。翌1991(平成3)年1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして5月場所初日に18歳の新鋭貴花田に完敗した。
私は、この時、テレビで試合を見ていて、貴花田に負けた千代の富士が悔しがるというよりも、体力の限界を感じていた彼がやっと、自分の後継者となる若者が育ってきたという喜びのようなものを感じていたのだろう・・試合に敗れながらかすかに微笑んでいた様に見えた。この日、彼は「もう一つ敗れたら引退だ」と久美子夫人に告げていたという。そして、三日目には、貴花田と同じ藤島部屋の若武者である貴闘力に敗れ、35歳11カ月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。貴花田は、この場所、9勝をあげ、場所後史上最年少小結となる。まさに、世代交代を感じさせる一番であり、相撲界の誰もが素直に彼の優勝を喜んだのではないだろうか。そして、9月には、大鵬の20歳3ヶ月を1歳以上更新して、史上最年少の関脇となった。
その翌年となる、1992年の今日( 1月26日)、初場所での優勝を果たした。19歳5か月での幕内優勝 は、大鵬のもつ20歳5ヶ月よりも1年も若い史上最年少記録である。場所後に、退任の決まっていた伯父である二子山理事長の、貴花田に賜杯を手渡した時の目はじんわりとうるんでいた。
その年の3月場所には、兄若花田も小結に返り咲き、90年九州場所の関脇寺尾、小結逆鉾につぐ、史上2組目の兄弟同時三役となる。以後、数々の最年少記録を打ち立て、兄若乃花とともに「若貴ブーム」を起こし、ライバルらと名勝負を演じてきた。
出世の早さに人格面が追いつかないうらみもあったものの、優勝22回は当時歴代4位の記録であり、平成の大横綱と称されている。
引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、部屋に住んでいないなど奇行も目立った。2005年5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミも巻き込んで若乃花批判を行い大騒動に発展した。また返す刀で日本相撲協会の体質をも批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受ける舌禍事件まで起こしてしまったことは、それまでの彼の名誉に傷をつけることになったのは惜しいことだ。
(画像は、貴乃花優勝を伝えるスポーツニッポン号外。写真は、目を潤ませ貴花田に賜杯を手渡す伯父でもある二子山理事長)
参考:
貴乃花光司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E4%B9%83%E8%8A%B1%E5%85%89%E5%8F%B8
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲力士一覧-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E4%B8%80%E8%A6%A7
大相撲 記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
文藝春秋編 日本の論点PLUS
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/sample/enquete/050721.html


お詫びの日

2007-01-25 | 記念日
今日(1月25日)は「お詫びの日」
この日は、1077年、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に「お詫び」をした日。つまり、「カノッサの屈辱 」の日と言われている日である。
カノッサの屈辱とは、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアの城に赴いて許しを願ったことをいう。
この事件の背景を語る前に、ローマ時代の複雑なキリスト教の状況を理解する必要があるので、以下簡単に、キリスト教の歴史を振り返ってみよう。
キリスト教を国教化したローマ皇帝・テオドシウス1世は、死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼んでいる。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。
ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は政治的なものにとどまらず、両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられている。
東ローマ帝国において、宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになった。これを『皇帝教皇主義』という。東西教会が教理上の問題で分裂した後は、首都コンスタンティノポリス総主教は「世界総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。
西方では、王朝替えしたカロリング朝カール大帝(シャルルマーニュ)のとき、フランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。カロリング朝ではローマ教皇との連携を重視し、カール大帝の父王ピピン3世は、イタリアのロンバルド王国討伐で征服したラヴェンナ地方を教皇に献上して以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。
やがてコンスタンティノポリス総主教庁とローマ教皇庁は決定的に対立することとなり、1054年に東方正教会ローマ・カトリック教会に分裂する。
またグレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。
実質的なフランク王国終焉後、ドイツでは962年にオットー1世が西ローマの後継として神聖ローマ帝国を名乗るが、その6世の孫になるハインリヒ4世は、北イタリアにおける影響力を増すべく、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していった。それに対して、教皇は司教の任命権(叙任権)は王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたが、ハインリヒ4世は聞き入れなかった。こうして、王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争といわれるものである。このような対立は、次第に深刻なものとなり、グレゴリウス7世が王の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世側が激怒。1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。
ザリエル朝(以下参考の神聖ローマ帝国/ザリエル朝参照)のもとで王権・帝権の強化が進んだことがザクセン公はじめ、ドイツ諸侯らの懸念を招いていたこともあり、彼らはハインリヒの王位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年1月、自らの政治的地位が動揺したハインリヒ4世は、教皇から破門を解いてもらう為にグレゴリウス7世が滞在している北イタリアのカノッサ城にを訪れたが、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは修道士の服装に身をつつんで1月25日から3日間、真冬の城外で赦しを請い続けたという。これをカノッサの屈辱という。
しかし、グレゴリウス7世に、一旦謝罪、屈服したハインリヒであるが、この事件後、ドイツに戻ると直ちに反撃、反対派の諸侯を制圧し王権を確立する。その後、再び叙任権をめぐって両者の対立は激化するが、ハインリヒは対立教皇クレメンス3世を擁し、軍勢を率いてイタリアに侵攻、4年間の戦役の後、1084年ついに、ローマを包囲した。教皇・グレゴリウス7世は、辛くも脱出し、1085年にサレルノで客死した。この戦いにより、ハイリンヒは、「カノッサの屈辱 」を晴らしたのであるが、1105年、ハインリヒ5世となった息子の手によって王位を追われ、さびしい最期をとげることになる。
そして、この叙任権闘争は、以降もヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立した1122年まで続いたという。その後、176代ローマ教皇インノケンティウス3世は、グレゴリウス7世の改革と教権統治の思想を受け継ぎ、世俗権力との対立、十字軍派遣、異端対策などをすすめ、ローマ教皇庁の強化と教皇領の失地回復を図り、ローマ・カトリック教会はその絶頂期を迎えた。そして、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したといわれる。1216年死去するが、対外的には暴君的であるとの批判も多い。神聖なる神さんの世界も、その地位を確保するまで、ずいぶんと俗っぽい事をしてきたんだよね。
なんだか、少々、くどくどと、難しい話にもなってしまったが、私も、余り、よく知らない分野なので、フリー百科事典Wikipediaなど便りに調べながら書いたのでので悪しからず。
現実の世界では、なかなか、過ちを犯しても素直に「ごめんなさい」と謝れないことが多いものだが、そのために、日頃、家族間、友人間、また、会社などの中でも、尾を引いているわだかまりなどのある人も多いだろうが、この際、「お詫びの日」を口実にすれば、照れ隠しながらも誤る事ができるかもしれないので、謝ってスッキリさせると良いかもね。・・・実行してみる・・・?。え、謝ることなんかないって・・・!。私なんか・・・家人には謝らなければならないことが一杯あるのだが・・・・。
(画像は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
キリスト教の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
皇帝教皇主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%BB%E7%BE%A9
神聖ローマ帝国/ザリエル朝
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/kings/salier.htm
カノッサの屈辱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1
インノケンティウス3世 (ローマ教皇) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
歴代教皇名 索引(アイウエオ順)
http://homepage3.nifty.com/st_peter/pps/index5.html

法律扶助の日

2007-01-24 | 記念日
今日(1月24日)は「法律扶助の日」
法律扶助制度を行っているひまわりの扶助協会が1993(平成5)年に制定。1952(昭和27)年、日本弁護士連合会が法律扶助協会が設立した。
この日を中心に、全国の指定された弁護士事務所で無料法律相談が実施されているそうだ。
先ず、法律扶助制度とは、どんな制度か?を、「財団法人 法律扶助協会」のHPを見ると、
「法的権利の平等な実現はかる制度」として、”法律扶助は、国民の権利の平等な実現をはかるために、法律の専門家による援助や、裁判のための費用を援助する制度である。
金銭や不動産、離婚などの民事の紛争に出会った人や、刑事事件の被疑者や被告人となった人に対して、憲法32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない。」
と定め、裁判所において適正な法的判断を受ける機会を保障している。ところで、今日の複雑化した手続きのもとで裁判所の判断を求めるためには、法律の専門家である弁護士の助力を必要とし、手続きの内容によっては裁判所に多額の費用を支払ったり、保証を立てる必要がある。また、裁判以前にも、裁判所の調停や、裁判外で交渉する必要があるが、このような場合にも弁護士による助力が必要になる。法律扶助は、このような場合に、自分では弁護士や裁判所の費用を支払うことの困難な人のために、公的な資金で援助を行う制度である。すなわち、当事者の間の経済力の差が権利の差にならないように、社会的公平を確保するのが法律扶助の目的である。”とあった。
又、”2000(平成12)年10月には「民事法律扶助法」ができ、より利用しやすい制度になり、離婚・相続・金銭トラブル・家屋の明け渡し・交通事故・会社倒産による給料未払い等々法律問題でお困りの方は、ご相談下さい。”・・・ともあったが、この、「民事法律扶助法」は2004(平成16)年6月廃止され、昨・2006(平成18)年5月1日施行の「総合法律支援法」に組みこまれいるようである。私ら素人には、良くわからないのだが、兎に角、できたばかりの法律で、まだまだ、見直しを必要とするところがあるようだ、法的知識もなく、資力がない為に、法律による保護を受けられない人に対する社会的扶助はきっちりとして欲しいものだ。
これらの相談は、全国の指定された弁護士事務所の弁護士に相談する事になるが、この弁護士とは、法的手続において当事者の代理人、被告人の弁護人として法廷で主張・弁護等を行うほか、各種の法律に関する事務を行う職業、またはその資格を持った者をいう。当事者の代理人としての委任契約等で報酬を得て生活している。これら、一般には、日本の弁護士の多くは、「○○法律事務所」「○○弁護士法人」のような名称の事務所をみずから経営し、もしくは他の弁護士が経営する事務所に所属して活動している。日本の法律事務所は、アメリカ・イギリスなどの大規模法律事務所と比べ規模が小さいが、近年は、日本の法律事務所も合併などにより大型化し、四大法律事務所のように200人以上の弁護士が所属する法律事務所も増えているようだ。また、最近は企業に直接雇用される弁護士や行政庁にて勤務する弁護士も増えている(「インハウスローヤー」)が、これらの弁護士は、特定の企業や財力のある人を弁護するための人たちであるから、今回のテーマーである、お金のない我々庶民の法律問題に載ってもらえる相手ではない。
通常、弁護士という職業の存在自体は広く認識されているものの、我々一般の個人が実際に弁護士を利用することは極稀なことであろう。相談をするといっても、なんとなく敷居が高く、そのため、弁護士の関与が望ましいはずの契約交渉、民事紛争処理等においても、可能な限り法的色彩を持たせずに、当事者間の穏便な話合い等により解決することを望む風潮が強いというのが普通だと思う。そして、裁判等の法的手段に訴えることが紛争処理の最後の手段として考えられていることと併せ、弁護士の関与もその最後の手段の一部としての認識が根強いのではないか。
従来、弁護士は、その職業の性格上、宣伝広告をするべきではないという考え方が一般的であり、弁護士ないしは法律事務所の広告は行われていなかった。この規制は近時の制度改革により撤廃され、大都市を中心に債務整理破産手続等を担当する法律事務所を中心に広く一般に対する広告が目立つようになってきているというよりも、インターネットなどで検索しても、特に多い、離婚問題や自己破産などの相談に応じるという旨の広告が氾濫しているようだ。
ただ、問題として、この弁護士に相談した時の、弁護士報酬は、原則として各弁護士が定めるものであって、統一的・客観的な基準はなく、同様に専門家のサービスの提供を受ける医療と比べても保険制度が存在しないことから、あまり明確に共通認識がなされていない。実際、個人の依頼者にとっては、その報酬は高額とのイメージとなりがちであり、資金面での不安から依頼を躊躇する者も多いのが現状であるといわれている。
そのため、資力の乏しい者が弁護士の援助を受ける方法として、法律扶助協会による法律扶助の制度があり、「勝訴の見込みがないとはいえない」場合に、弁護士費用や裁判費用の援助が受けられるようになっているのである。
又、日本の弁護士の現状の問題点として、司法試験が合格困難な試験であるとしても、試験に、合格したから、また司法修習を経たからといっても、すべての法律に関する知識を有するわけではなく、あらゆる事例に精通するものではない。だから、個々の弁護士によって、特異不得意の分野があるのは、当然である。これは、個人でやっている弁護士だけではなく、事務所であっても少人数でやっているところなどでは、今の専門分野が拡大し続けていることに対応できるところは少ない。私は、現役時代、仕事柄、会社との顧問契約をしている弁護士とのお付き合いも深かったが、そのために、私の知っている企業ではそれほどの大企業でなくても上場している程度の企業であれば、夫々の分野に強い弁護士事務所と3~4箇所ぐらいは顧問契約をしていた。このような弁護士の関係する職域の拡大とともに、最近の弁護士資格取得者の増加による競争の激化により、弁護士には専門的な知識が要求され、必然的に各弁護士の専門領域は限定されていく傾向にあるといえる。
そうなると、一般庶民にとっては、費用面もさることながら、かかりつけの医者を持たない庶民のようにいったいどこの弁護士に相談すればよいのかわからない不安がある。
だから、困った事があれば、何でも一度、無料で相談に乗ってくれる法律扶助制度を利用してみるのは良いだろうね。
近年は、近隣関係などでも、相手の言動を不快な言動によるものや騒音を出すなどの嫌がら(奈良騒音傷害事件 など)や、塵問題などでもトラブルが多くなってきており、近隣や自治会など深刻な問題に発展しやすくなっている。とかく、民事紛争については私的自治の原則から、当事者同士で解決することが望ましいという理由で、警察は、民事紛争について積極的に介入しない民事不介入の原則をとっている。そうであれば、民事訴訟に持っていくより仕方がないだろう。
又最近は、マスコミ報道などによると、団塊の世代の定年退職とともに、熟年離婚が急増しそうだという。これらの対処についても、弁護士が大忙しになりそうだ。
戦後、個人の権利ばかりを主張し、利己的になり、拝金主義の人間が多くなった日本でも、だんだんとアメリカ型の訴訟社会になってきたのだろうね~。
最近は、テレビなどにも人気のある弁護士がタレント並に毎日のように出ている。これから、そんな人気のあるの弁護士事務所に長蛇の列ができる時代が来るかもしれないね~。
(画像は、正義の味方「丸山法律相談所」作者: 丸山和也 出版社/メーカー: 二見書房
参考:
弁護士 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB
財団法人 法律扶助協会
http://www.jlaa.or.jp/
日本弁護士連合会
http://www.nichibenren.or.jp/
民事法律扶助法(廃止)
http://www.ron.gr.jp/law/law/minji_fu.htm


童謡歌手・川田正子さんの忌日

2007-01-22 | 人物
今日(1月22日)は、川田正子さんの忌日
童謡「みかんの花咲く丘」や」「里の秋」などで知られる童謡歌手・川田正子さんがが亡くなったのは、昨・2006(平成18)年の1月22日のことであった。71歳であった。東京都出身。
川田正子は、1942(昭和17)年、7歳で歌手として芸能界入りし、妹の川田孝子とともにコーラス合唱団音羽ゆりかご会に入会し、同会の会長で童謡作曲家の海沼実に師事する。
1943年、関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」を歌い、2位に入賞。
1945年、紅白歌合戦に出場。 この紅白歌合戦は、第二次世界大戦終結直後の1945(昭和20)年の大晦日(12月31日)に、平和になった証としての新時代にふさわしい大型音楽番組として企画され、「紅白音楽試合」というタイトルで放送された(ラジオ)。当時は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQの反発のために音楽試合へと変更されたのである。このとき、川田が歌う曲は、「兵隊さんの汽車」であったが、この歌は、出征兵士を送る歌だった。そのため、音楽試合直前にGHQからクレームがつき歌詞の一部を変更させられ、現在皆に歌われている「汽車ポッポ」になった。今では明るい汽車の旅の歌であるが、本当は出征兵士を送るとても悲しい歌だったのである。
このことは、以前に私のブログ「NHK紅白歌合戦」で取り上げたので興味のある方は見てください。↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
又、歌詞がどのように違うかなど、対比したものが以下にあります。
兵隊さんの汽車 ↓http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
この歌のようにデビュー当初は戦時中であったこともあり、軍歌風の楽曲を中心に歌っていたが、戦後、本格的な童謡を歌うようになる。
特に1945(昭和20)年の「里の秋」と1946(昭和21)年の「みかんの花咲く丘」が大ヒット。甘くやわらかなソプラノで終戦直後の人々の心をとらえ、人気を集めた。
静かな静かな里の秋
お背戸(せど)に木の実が落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てます囲炉裏端 ♪
「里の秋」作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実
二木紘三MIDI歌声喫茶「里の秋」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/satonoaki.htm
この静かな秋の深まりゆく様を歌った童謡「里の秋」ももともとは、終戦後の引揚者や復員兵のためにつくらた歌だという事はあまり知られていない。
1945(昭和20)年8月、日本は敗戦した。同時に、南方や大陸各地から軍人・軍属、民間人たちが続々と日本に引き揚げてきた。この年の暮れ、日本放送協会(NHK)が、そうした復員兵や引き揚げ者たちを励ます特別ラジオ番組を企画し、その中で流す歌として、音羽ゆりかご会の主催者であり作曲家でもある海沼実に依頼して作曲されたものである。
「里の秋」作曲に至る経緯などについては、上記サイトにも詳しく書かれているが、簡単に述べると以下のような経緯である。
その歌の放送日は、南方からの復員船が神奈川県・浦賀港に入港する12月24日と決められていた。そのため、曲を作るための時間的余裕のなかった海沼は、適当な詩を、古い童謡雑誌から探し、斎藤信夫作『星月夜』という童謡を見つけた。
斎藤は、詩人であり、千葉県の学校の教師でもあった。斎藤が、「星月夜」を作詞したのは、4年前の1941(昭和16)年であり、まさに太平洋戦争が始まろうとしていた時であった。
「里の秋」は周知のように、1番と2番で秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌っているのに対し、3番では太平洋戦争が終り南方の島々から引き上げてくる兵士たち、つまり「父さん」の航海の無事を祈りますと結んでいる。しかし、もとの「星月夜」には4番まであった。1,2番は「里の秋」と全く同じであるが、3番では出征している父さんの武運を祈り、4番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守りますという子供の抱負をうたっていた。しかし、この歌ができて4年後には、日本軍は南海の島々で追い詰められ、そのなかで、無謀な玉砕が繰り返され、何万人もの兵士・「父さん」達が屍となって朽ちていった。敗戦後、斎藤は教師として子供たちに間違った教育をしてきたことを悔いて教壇を去っていた。そこへ、NHKで放送するために復員兵を迎える歌詞にして欲しいと海沼から以来があったが、詩のテーマの根本的な変更なので、なかなか筆が進まず、あれこれ悩んでいるうちに、とうとう放送当日になってしまったため、1,2番はそのままにし、慌てて3番だけを付け足したのが、「里の秋」であった。すでに曲はできていたので、海沼は川田に詩を渡して練習させたあと、放送に臨んだという。
「星月夜」 と「里の秋」の歌詞の違いは、以下を見ると良くわかる。
「星月夜」 ↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる♪
「みかんの花咲く丘」作詞:加藤省吾、作曲:海沼実
「みかんの花咲く丘」も、第2次世界大戦の終戦直後に生み出された、名作の1つであり、「里の秋」の翌年、1946(昭和21)年8月25日に作られた。
この歌は、1946(昭和21)年8月、NHKラジオで、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校とを中継で結ぶ番組が企画され、その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいということから海沼のところへ依頼がきたが、長野県出身の海沼にはイメージが湧かず、苦労したようだが、当初1回限りの放送用としてつくられたこの曲の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットした曲となったもの。
日本の童謡の名作誕生の経緯などについては、下記サイトに詳しく書かれている。名曲を聴きながら御覧あれ。
二木紘三MIDI歌声喫茶「みかんの花咲く丘」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/mikannohana.htm
1947(昭和22)年、変声期に差し掛かったため歌手を引退。その後、武蔵野音楽大学声楽科に進学。1971年歌手に復帰。1979年母・須摩子が病に倒れると、音羽ゆりかご会の会員を引き連れて森の木児童合唱団を創立、主宰し歌唱指導にあたった。近年は童謡だけでなく日本歌曲やカンツォーネなどにも取り組んでいた。
1991(平成 3)年6月、日本童謡協会より童謡賞特別賞を受賞する。 2001(平成13)年東京のNHKホールで歌手生活60周年記念コンサートを開催。 2006年1月22日夜、入浴中に意識を失い病院に搬送されたものの、そのまま息を引き取られた。
戦中戦後、私達の年代の者は、毎日のように川田さんの歌を耳にしてきた。
次々と、時代を共にしてきた昭和を代表する人達がいなくなっていくのが非常に寂しく思われるこの頃である。
(画像は、敗戦後川田正子さんが歌った童謡がミカン産地の静岡県伊東市の丘に建ち、1983=昭和58年11月1の除幕式で川田さんが、当時を懐かしみながら歌っているところ。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
二木紘三MIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm
銀の櫂・童謡と唱歌
http://www.aba.ne.jp/~takaichi/douyou/douyou.htm
みかんの花咲く丘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%81%8F%E4%B8%98
d-score 楽譜 - 加藤省吾
http://www.d-score.com/ar/A04062709.html
兵隊さんの汽車
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
星月夜
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
川田正子と森の木児童合唱団
http://www.beato.co.jp/page/beato/2a/kmm.html
「NHK紅白歌合戦」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
川田正子 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1147146/index.html
やあ、お元気ですね・No.4   川田正子さん(歌手)
http://www.yumekurabu.or.jp/04_yah/yah/ya4_kawada.html
さよなら/川田正子/童謡は心のふるさと/東京新聞出版局/2001年
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm



ライバルが手を結ぶ日

2007-01-21 | 記念日
今日(1月21日)は、「ライバルが手を結ぶ日」
1866(慶応2)年の今日(1月21日)、それまで敵対していた長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見し、倒幕の為に薩長同盟(薩長連合)を結んだ。
幕末の転換点となった薩長同盟は、江戸時代後期の1866(慶応2)年1月21日(旧暦)に、幕末の薩摩藩長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛大久保利通らの薩摩は、1864(元治元)年の会津藩と協力した八月十八日の政変禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝(つて)のある土佐藩脱藩の坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋により巨頭会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都薩摩藩邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)倒幕運動に協力する六箇条の同盟が成立したといわれている。
以前にNHKの「その時歴史が動いた」の中で、この時の薩長の結びつきに関しては、”当事者たちがつけた名称は存在せず、「薩長連合」「薩長同盟」といった呼び方は、後の研究によってつけられた呼称である。しかも、近年、薩長が合意した六箇条の内容について研究された結果では、「薩摩藩が○○の行動をする」という内容であり、長州側の行動に関する内容が含まれていないことが、着目された。この場合、「同盟」(国家が互いに共同の目的のために同一の行動をとることを約すること「広辞苑」)とは言い難く、「盟約」(固く誓い、約束すること「広辞苑」)と呼称した方が適切なのではないか、という意見が増えつつある。そして、その条項を保証する文書を、土佐脱藩浪人・坂本龍馬は記している”といっていた。
この件については、以下参考の「『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)」にもう少し詳しく書かれている。
又、薩長同盟(盟約)は、あくまで薩長の代表が口頭で約束したものであり、正式な条約文書を取り交わしたり、署名等をおこなったりはしていないので、、どの時点をもって締結日とするかを示す明確な史料もなく、当事者たちの行動等の状況証拠から、21日説と22日説に分かれているようだ。
幕末の転換点となった薩長同盟を、どうして、土佐脱藩の一介の浪人である坂本龍馬らは果たす事ができたのだろうか?
坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走し、薩摩の西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを整えたにもかかわらず、西郷がすっぽかしたために薩長和解工作は失敗に終わっていた。
坂本龍馬は同時進行で、土佐脱藩の仲間20人ばかりとと共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織(1865(慶応元)年閏5月)していた。亀山社中は、私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社であった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努めていた。
この頃、長州藩は、相次ぐ戦いに備え最新式の武器と軍艦を必要としていたが、幕府諸藩は、長州への武器弾薬類の取引を全面的に禁止していた。一方、薩摩藩では兵糧米の調達に苦心していた。この両藩の状態をみた龍馬はひとつの策を考えた。それは、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持ち、双方の利潤になる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
この策略が、両藩に承諾され、亀山社中は、トーマス・ブレーク・グラバーの助力を得て海外からの武器調達を開始。幕府との対立により海外から武器を調達できない長州藩への武器融通を通じて薩摩藩との対立関係を緩和し、薩長同盟の実現に道をつけたのであった。グラバーは、以降、 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売している。彼の邸宅跡はグラバー園として公開され、長崎の観光名所として知られている。
それまで敵対していた薩長のこの同盟が、江戸から明治へと時代を大きく動かすことになったのであるが、この仲介をした立役者である、土佐の坂本竜馬は、1867(慶応三)年12月、京都の旅寓(りょぐう=旅宿)・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺され、日本の夜明けを見ることはできなかった。暗殺犯は、見廻組という説が有力であるものの暗殺をした 犯人が誰かは今もって不明であり、諸説あるが、中には、大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする薩摩藩陰謀説もある(暗殺参照)

この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情のようであるが、小泉内閣時代の郵政民営化に反対した政治家に刺客を差し向けた自民党は、阿部内閣になると反対派議員を自民党に復党させ、刺客として差し向けた議員は、使い捨てにしようとしている。
昨日の敵と今手を結んでいるかと思うと、今の見方は、明日になればばっさり切るのが、政治の世界ということか。竜馬の暗殺もその真実は分からない。
(画像は、左:薩摩の西郷隆盛と右:長州藩の木戸孝允。フリー百科事典Wikipediaより)
薩長同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
薩長同盟
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/202360.htm
その時歴史が動いた・出来事:薩長同盟(盟約)が締結される
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_10.html
『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/satumaji11.htm
亀山社中 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E7%A4%BE%E4%B8%AD
亀山社中と海援隊
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse020.html