今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

『落穂拾い』の絵で有名な画家・ミレー の忌日

2007-01-20 | 人物
1875年 の今日(1月20日)は『落穂拾い』の絵で有名なフランスの画家ミレー の忌日
ジャン・フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)は、写実主義 、バルビゾン派 の『農民画家』として、農民の生活風景を描き続けた画家として有名であり、実物は別として、学校の教科書などでミレーの作品を見たことがある人は多いだろう。少しさびしそうで、暗い色が印象的な絵が多いが、当時の農民の姿とその情景をよく描いた絵は、ミレーの生きてきた人生をよく表しているといわれている。
ミレーは、1814年、第二次世界大戦当時、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の舞台となった場所として有名なフランス、ノルマンディー地方の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。海の近くの村であったが、崖が多く漁業には向いておらず農業が中心の村であったようだ。 大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、故郷の海岸の風景を描いたものだそうである。
『グレヴィルの断崖』の絵は、以下参考の「私のミレー:My Fovorite Millet 」の中で見れる。又、以下参考の「マイ・アルバム:my album 2ミレー巡礼の旅」では、ミレーの生家(パステル、1863年頃、ボストン美術館蔵)他幼い頃過ごした村の風景を描いた繪などが見れるよ。
ミレーの家はあまり裕福ではなかったといわれているが、18歳まで生まれ故郷で家の農作業の手伝いをしていたが、19歳の時、グリュシーから10数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始めた。当時のミレーは地方の絵の天才として期待され、22歳の1837年、自信と希望に満ち溢れて、 パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事する。26歳の時、サロン(官展)に初入選し、画壇デビューするが、生活は相変わらず貧しかった。当時、パリでは華麗で、きらびやかなもの、面白くて奇抜なもの、ときにはエロチックな絵に人気があり売れていた。ミレーも、自分の作風とは合わず悩みながらも、食うために、売れ筋の絵を描いていたという。
1841年、ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノという女性と結婚するが、彼女は3年後の1844年、貧困のうちに病死する。1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾン村へ移住し、そこで見いだしたのが、今私達が目にする農夫たちの姿だった。以後同地に定住し、制作を続けた。そして、彼の代表作の1つでもある『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などは、いずれもバルビゾン移住後の作品である。
19世紀に、バルビゾンに集まり、目の前に広がる風景や風俗を描いたミレーに代表される風景画家たちを、今日「バルビゾン派」と称しており、ミレーのほか、カミーユ・コローテオドール・ルソー、、トロワイヨン、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、デュプレ、ドービニーの7人が「バルビゾンの7星」と呼ばれているそうだ。
そのような、ミレーは、バルビゾン派の中でというよりも、ゴッホ、ピカソなどと並んで日本で最も愛されている美術家の一人でもある。
一般的に「農民画」と称されるように、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。
ミレーの作品の中でも、屈指の名作として知られる『落穂拾い』は、農地に落ち残った稲穂を拾い集めるという農民の逞しい生活を描いた作品であるが、この作品は1857年サロンに出展され、保守的な批評家たちから「貧困を誇張している」「社会主義的だ」など議論を呼んだという。
ミレーは、「農民画」を描く事によって、社会批判の意図はもっておらず、作品に政治的含みをもたせることはなかったといわれている。ただ、バルビゾンでのミレーの生活は、40代になってもまだまだ安定しておらず、生活のために、農業をしつつ、農民画を描いていた。そのため、農民の生活の苦しい状況を余りにもリアルに表現したため敬遠されたのだと・・・。
そして、ミレーの絵画の特徴は、バルビゾン派と呼ばれる画家たちの多くが、風景をメインとし、人物も風景の一部として描いているのに対して、ミレーは人物をメインとして風景は細かく描きこむことをあまりしなかった。 また、ミレーは農民画を描くとき、正面から光を当てず逆光の中で描いているものが多いが、この逆行を取り入れることによって、人物をより強調して表現し、背景をあまりはっきりとは描いていないのである。
この『落穂拾い』の絵をよく見ると、2つの構図が描かれているようである。手前の三人の農婦の後ろの、ぼんやりと描かれた遠景には、収穫をする農民とそれを鞭で指図する馬に乗った監視人らしき姿を見ることができる。その絵と関連させて見ると、手前の三人の農婦は、後方に見られる監視人に許可されて、落穂を拾っているのだろう。
西ヨーロッパに位置する、この時代のフランスではおそらくこの時期は、フランスの1845年からの凶作は食料品の高騰をまねいていた。農業は危機的状況にあり、工業生産が縮小し、膨大な数の失業者が発生していた。そして、48年2月、パリの労働者は武装してバリケードをきずいた。内閣は崩壊し、国王ルイ・フィリップは退位、議会は共和制を宣言して臨時政府を組織した(48年革命のことは、以下参考の「共和政(フランス) - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト」を見ると良い)。しかし、議会の当選者の過半数はブルジョワ共和主義者であり、労働者や貧困な都市民衆の要求にそう政策は入れられなかったことから、6月には、ふたたびパリでまずしい労働者の蜂起が発生した。この蜂起はまもなく鎮圧されたが、この革命は、労働者の運動や社会主義運動が、はじめて主役のひとりとして歴史の舞台に登場したことで画期的ものであった。
ミレーの『落穂拾い』はこのような時期に描かれたものであり、封建制の強かったフランスでは、まだ、農業も小作・農奴の時代であり、収穫労働をするのは自由農民ではない。だから、この絵の手前に描かれている三人の農婦は、自分のために収穫しているわけではなく、働かされている恵まれない農奴的小作民であるだろう。そして、この絵は収穫の後に残っている僅かな穂を自分たちが食べるために許可を得て拾い集めている貧苦の姿を彼なりの視点で描いたものではないだろうか。以下では拡大写真が見れるのであなたの目で見て考えてください。
ミレー「落穂拾い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jean-Fran%C3%A7ois_Millet_%28II%29_002.jpg
かって農業が中心であった国の日本人にとっては、ミレーの「農民画」の中に当時の「農耕作業労働の原形」を見、そのような農業への郷愁を誘われるとともに、また、農業と言う厳しい労働の先にある理想化された姿を見ていたのではないだろうか。しかし、私には、当時の時代背景と当時のミレーの生活環境などを考えれば、作者の意図がどこまであるかは別にしても、この絵の中には、限られた富裕層が収穫の大半を吸い上げる、そのようなことに対する、社会主義的な批判的な目があったことは事実だろうと思われる。わが国でも地主から小作民に農地解放されたのは、大戦後の1947年にGHQの指令によってようやく成されたものである。
ミレーの絵の評価が高くなったのはフランスではなく、アメリカであった。アメリカでミレーの絵画が絶賛され、ようやく貧困から抜け出せたのは ミレー46歳の時であり、かれはそれから15年後の1875年、長年住んだバルビゾンで家族に看取られながらこの世を去ったという。
(画像は、落穂拾い 1857 オルセー美術館。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
ジャン=フランソワ・ミレー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC
落穂拾い /ジャン=フランソワ・ミレー /文部科学省ホームページのトップへ
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/036/shiryo/06061520/009.htm#topインターネット美術館-ミレー
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-rea/h-mle/IPA-inb420.htm
マイ・アルバム:my album 2ミレー巡礼の旅
http://www.ne.jp/asahi/art.barbizon/y.ide/04PHOTO2.HTM
私のミレー:My Fovorite Millet
http://www.ne.jp/asahi/art.barbizon/y.ide/08MILLE5.HTM
カイエ:ドラローシュ 若き殉教者と倫敦塔
http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-08-31-1
19世紀絵画教室【ジャン=フランソワ・ミレー】
http://www.korega-art.com/millet/
共和政(フランス) - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161536345/content.html
第165話 「落穂拾い」の謎
http://www.jrea.co.jp/essay/Arthur/Arthur165.html
悩める大国・フランス政治と国民 - [よくわかる政治]All About
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20060327A/
農地改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9
『日本近代洋画の巨匠とフランス展』研究ノートⅡ
http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/hillwind/hill_htm/hill6-2.htm
画家ミレー
http://homepage3.nifty.com/akaikutu/rk/miret.htm#top

対米宣伝放送の「東京ローズ」に特赦 の日

2007-01-19 | 歴史
1977(昭和52)年 の今日(1月19日)、フォード米大統領が任期最後のこの日、第2次世界世界大戦中に対米宣伝放送の「東京ローズ」ことアイヴァ(郁子)戸栗・ダキノに特赦を発表した。
「東京ローズ」とは、太平洋戦争(大東亜戦争)時に日本が流したプロパガンダ放送のアナウンサーにアメリカ兵がつけた愛称である。
アイヴァ(郁子)戸栗・ダキノ(本名:戸栗郁子)は、日系アメリカ人二世としてカリフォルニア州で生まれた。カリフォルニア大学大学院在学中の1941(昭和16)年7月に叔母の見舞いに来日したが、同年12月の太平洋戦争の開戦で帰国が不可能になり、二度の戦時交換船による渡航申請にも拘わらず帰国することができなかったという。そして、生活のために1942(昭和17)年より同盟通信社の愛宕山情報受信部で外国の短波放送の傍受の仕事に就く。日本放送協会(NHK)は、この年の4月1日から南太平洋の米軍兵士向けに15分間の英語番組「ゼロ・アワー」(名称は零戦・日の丸から命名)のプロパガンダ放送を開始。彼女も、翌年からNHK海外局米州部業務班でタイピストとして勤務するなかで、オーストラリア兵やアメリカ兵捕虜他数人の女性たちと共に同番組での放送を行うようになった。この「ゼロ・アワー」での日系二世の彼女達の陽気な声とコミカルさが連合国軍兵士の評判となり「東京ローズ」の愛称ついた。当時、対連合軍プロパガンダ放送の女性アナウンサーは複数存在したため、東京ローズが誰かは不明だが、4 - 20人いたという証言もあるという。
その中で、終戦後唯一名乗り出たアイヴァ(郁子)戸栗・ダキノ(本名:戸栗郁子)が伝説上の人物として祭り上げらた。しかし、兵士が証言する東京ローズの声や発言と、アイヴァのそれとは一致しないのともいわれている。
彼女は、1945(昭和20)年7月には中立国であるポルトガル人の同盟通信社員のフィリップ・ダキノと結婚。
戦後、マッカーサーが厚木基地に降り立った同じ8月30日、横須賀には米海兵隊が上陸。朝日新聞支局長であった米永祝栄氏は、その海兵団の埠頭でよこすか海軍鎮守府の丸腰の将校の上陸を待っていたという。定刻の10時より、訳0分早くマリン(海兵隊)は上陸を始めた。その上陸用舟艇で最初に上って来たのは、何とカメラマンと記者だったという。
そして、彼等の第一声が「東京ローズはどこにいる」だったのに驚いたという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)それほどに、米軍の間で評判になっていたのだろうね~。
戦後、「東京ローズ」と目された彼女は日米のマスコミの関心の対象となり、米従軍記者達に追い回されたあげく、米軍により、反逆罪の嫌疑をかけられ、9月5日逮捕され、巣鴨プリズン(旧東京拘置所)に1年間投獄されるが、証拠なしとして釈放される。
しかし、その後帰国した彼女は、母国アメリカで反逆罪の汚名を着せられ、、国家反逆罪で起訴され、1949(昭和24)年にカリフォルニア州・サンフランシスコで開始された裁判にかけられ、最終的に有罪を宣告され、禁錮10年と罰金1万ドルが課せられた。しかも市民権の剥奪を言い渡されるなど、アメリカ史上に名を残す反逆者となってしまったのである。
だが、この裁判自体が、陪審員制度の問題などから、終始人種的偏見に満ちたものであったようであり、1970年代には全米日系アメリカ人市民協会や在郷軍人たちによる支援活動が実って、この判決は非常に疑問視されるようになったいう。そして、1977(昭和52)年の今日(1月19日)、フォード大統領は彼女に対する特赦を発表。それまでのアイゼンハワーやジョンソン大統領などには受け入れられなかった減刑嘆願がやっと3度目に実り、彼女は60歳にして初めて、市民権を取り戻す事ができた。
日米開戦により数奇な運命を辿った彼女はシカゴに在住していたが、その彼女が、脳卒中のため90歳で死去のは、昨年(2006年)9月26日のことであった。彼女の訃報を報じているもの以下参照↓。
「東京ローズではありません」アイバさんを悼む(産経新聞)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/worldnews/21256/
この中で、彼女は、「私自身は、東京ローズと名乗ったことなど一度もありません」と言っていることが書かれている。事実、「東京ローズ」というのは、対米宣伝放送に従事した数人の女性アナウンサー達に付けられた愛称であり、何も、彼女一人を指すものではなく、声だけで実体のない存在であった。日本に来て帰国する前に、戦争となり、帰国できなくなり、日本で敵性外国人として暮らすことになってしまった彼女は、当時、宣伝放送に協力せよとの日本当局の命令には従うしかなかっただろう。それに、彼女は、当局からの圧力にもかかわらず頑としてアメリカの市民権を放棄することを拒み、日本国籍をとらなかったという。もし日本国籍を取得していればアメリカで裁判にかけられることにはならなかっかもしれないと思うとその祖国への忠誠心が、かえって仇になってしまったといえるかもしれない。
そして、一番考えさせられるのは、アメリカの裁判制度、「陪審員制度」の問題だろう。>陪審員制においては、陪審員が行った決定に基づき、量刑を決定するが、陪審員に偏見があると、裁判の結果に重大な問題を及ぼすこととなる。
日米開戦時の、「真珠湾攻撃」は日本が、宣戦布告なしに先制攻撃し、多大な被害を与えたとして、アメリカ人にとっては、忘れることのできない歴史的な出来事となっている。だから、彼女が、日系二世であるがゆえに、戦後間無しの裁判では、アメリカの陪審員達の日系人に対する見方は、相当厳しかったであろうことは察せられる。
日本もいよいよ「裁判員制度」制度が2009(平成21)年5月から開始される予定。どれくらい、偏見を持たずに市民が市民を裁く事ができるのだろうかね~。
以下参考の「東京ローズと私」は、彼女の後輩で、彼女と同じ職場でNHKの海外向け放送のアナウンサーをしていたという豊田沖人氏の回想である。
また、以下参考の「EarthStation1.com's Radio Propaganda Page」では、彼女のアナウンス音声他、豊富な写真を含むデータバンクになっている。興味のある人は一度覗かれるとよい。
(画像は、アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノさんの取調べ時のっ写真。アメリカ公文書館蔵。画像は、 フリー百科事典Wikipediaのもの借用)
参考:
東京ローズ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA
関心空間・東京ローズ
http://www.kanshin.com/keyword/785098
「東京ローズと私」
http://www.uclajapan.gr.jp/archives01/columns/tokyorose.htm
EarthStation1.com's Radio Propaganda Page: (こちら)には彼女のアナウンス音声他、豊富な写真を含むデータバンクになっています。
http://www.earthstation1.com/Tokyo_Rose.html
陪審制 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6
東京ローズ (単行本) ドウス 昌代 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%B9-%E6%98%8C%E4%BB%A3/dp/4163442804

大逆事件で逮捕された幸徳秋水ら24人に死刑判決が下された日

2007-01-18 | 歴史
1911(明治43)年の今日(1月18日)は、大逆事件で逮捕された幸徳秋水ら24人に死刑判決が下された日。
大逆事件とは、1882(明治15)年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908(明治41)年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称であるが、特に一般にはこの幸徳秋水(こうとく しゅうすい)らが、天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件「幸徳事件」を指して言う事が多い。
幸徳 秋水(本名:幸徳伝次郎)は、1871年11月5日(明治4年9月23日)高知県生まれのジャーナリスト、思想家、社会主義者、であり、アナキストともされている。
幸徳 が、足尾鉱毒被害農民の窮状を明治天皇に直訴した、田中正造(の「謹奏」を代筆したのは、1901年(明治34)年、30歳の時、直訴状は、幸徳秋水によるものに田中が加筆修正したものと伝えられる。(足尾銅山鉱毒事件参照)。同年、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を道徳的な見地から批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであったという。
1903(明治36)年、日露戦争前夜に、幸徳は『万朝報』記者として同紙を舞台に日露非戦を訴えていたが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『万朝報(よろずちょうほう)』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため、幸徳と、彼の盟友の堺利彦、キリスト教徒の内村鑑三の3名は発行元の朝報社を退社。幸徳と堺は非戦論を訴えつづけるために、平民社を開業して週刊『平民新聞』を創刊した。
明治になって、それまでの新聞の企業化が不偏不党化(いずれの主義や党派にも加わらない。自由・公正な立場をとる。)の一方で、1890(明治23)年の議会開設に前後して、政党、政府から独立しつつも、一定の理念を抱いた「独立新聞」が相次いで創刊された。「日本」「国民新聞」「二六新聞」「万朝報」などである。この中で、『万朝報』は、明治30代前半の東京の新聞言論界をリードしていた。労働問題、婦人問題、鉱毒問題、普選問題などを扱い、当時の学生や教員など知識人はその進歩的な論説陣に引かれて、『万朝報』を読んだという。これら、独立新聞の流れのなかから、『平民新聞』が創刊されたわけである。
その翌年、日露戦争が起こると、全ての新聞が戦争を”謳歌”し、又、開戦に興奮する世論に向かって『平民新聞』は、ひるむことなく非戦論、反戦論の立場で、戦時中に敢然とした言論活動を展開した。そして、平和主義と社会主義を訴え、資本主義体制批判した。さらには、打倒の姿勢までもその新聞活動のなかでつらぬこうとして政府から弾圧を受けたのである。1905(明治38)年1月、発禁条項の緩和にも係らず政府は新聞紙条例を度々発動し、同紙を強引に廃刊に追い込んだ。幸徳自身も筆禍事件で禁固5ヶ月の刑を受け入獄中に、クロポトキンの論文を読んで無政府主義(アナキズム)に関心を抱くようになる。出獄後アメリカの労働運動の視察と療養を兼ねて渡米。、翌1906(明治39)年帰国後、直接行動論を唱え、アナルコ・サンディカリスムの中心人物となる。同年1月、初の合法的社会主義政党「日本社会党」を結成していた議会政策論者とのはげしい論争がはじまり、ついに、2派に分裂する。
両者の対立、殊に硬派の存在は政府に危険視され、政府は、1908(明治41)年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を裁判にかけ実刑に処し、活動を封じ込めた。幸徳は病気療養で中村(中村町=現在の高知県四万十市、幸徳の出生地)に戻っていて難を避けられた。
第2次桂太郎内閣の成立で社会主義者取り締りの強化のため弾圧がきびしく、生活の窮迫と病弱のため運動の第1線から退く考えで、友人小泉三申(本名:策太郎。静岡県生。新聞記者・史伝作家・政治家)の勧めにしたがって湯河原温泉に赴いて静養と著述にふけっていたが、1910(明治43)年6月大逆事件の検挙にあい逮捕され、幸徳は明治天皇を虐殺する計画(大逆事件)の首謀者とされて、処刑された。
しかし、かれは、この事件には無関係だったといい、これは、日本裁判史上に類例のない暗黒裁判であるとされている。
たしかに、宮下太吉、新村忠雄、菅野スガら3人が明治天皇に爆裂弾を投げて危害を加えようと予め謀議していたとされているものであるが、被告人たちの予審調書を読んでみても「中途半端なままで実現に至るには曖昧な計画の座談のようなもの」を強引につなぎ合わせたものであったらしい。宮下ら3人の謀議の具体性にもいろいろ疑問があり、せいぜい、爆発物取締罰則違反及び不敬罪くらいの事件であるという。そのようなことから、全ては、日露戦争後における日本の社会主義運動を壊滅させることを意図した第2次桂太郎内閣の方針のもとに、この事件を口実に、すべての社会主義者、無政府主義者(アナキスト)などの根絶や弾圧をするために、フレームアップ(frame-up=治的でっちあげ)した事件だったといわれている。当時、この事件に対しては、何の歯止めもかからず、社会主義者ばかりか、森鴎外、永井荷風、石川啄木、徳富蘆花など、当時の言論界に大きな衝撃を与えた。しかし、こうした文学者の中でも、孝徳らを公然と弁護したのは、徳富蘆花1人であったという。1911(明治44)年、1月19日、「まさか宣告はしても、殺しはすまじ」「殺させ度(たく)なし」「との思いに突き動かされて、25日、蘆花は天皇あての公開直訴文、(天皇陛下に願い奉る」上奏文一篇)をしためて東京朝日新聞(現朝日新聞)に送った。しかし、とき既に遅く、この日、新聞は、処刑を報じた。
新聞でそのことを知った蘆花は、妻愛子に向かって、「オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ」「何と無残な政府かな」と、新聞を声をだして読みながら、無念の涙にくれたという。そして、2月1日、蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。(大逆事件の詳細は幸徳事件を参照されると良い)
昔は、このような冤罪(えんざい)によって、無実の罪を着せられて亡くなっていった人が多くいるよね。でも、今の時代、遠くから、政府のやっている事をぶつぶつと文句を言っている人は、大勢いるが、公然と身体を張って、抵抗していくような人はいなくなったね。
先の、小泉内閣で、あの郵政民営化に反対した人も、阿部内閣になった途端、恥も外聞もなく尻尾を振って、自民党に戻っていった人が多い。よく分からないのは、最近、テレビの番組などに出て、同じ自民党の者が自分の党や党のやっている事に批判をして、自分だけは正しいといった態度をとっている人が大勢いることである。そんなにダメな党なら、党を出てどうどうと抗議すれば良いんだけれどもね~。今は、昔のような『男』って言える男がいなくなったね~。
(画像は、幸徳秋水。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
大逆事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件
大逆事件
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/miyashita.html
日本ペンクラブ:電子文藝館
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/sumiyamikio.html
大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1901-05/1901_04.html
刑法(明治40年)第2編第1章~第2章
http://library.law.kanazawa-u.ac.jp/codes/OLD/M402_2.html
幸徳秋水を顕彰する会
http://www.shuusui.com/index.html
[PDF] 幸徳秋水
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_works/gw10_koutoku.pdf
大逆事件(大逆事件に関する啄木の批判他)
http://www.echna.ne.jp/~archae/sinbun/koutoku.html
爆発物取締罰則
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E7%99%BA%E7%89%A9%E5%8F%96%E7%B7%A0%E7%BD%B0%E5%89%87
大杉 栄
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yougo-jinnmei.htm
法政大学大原社研_向坂文庫_逐次刊行物・和新聞(所蔵図書・資料の紹介)31
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/bunko-2e.html
初期社会主義研究会HP データベース週刊『平民新聞』
http://www15.ocn.ne.jp/~shokiken/database-heiminsinbun.htm

今月今夜の月」の日

2007-01-17 | 記念日
今日(1月17日)は、「今月今夜の月」の日
尾崎紅葉の代表的な小説『金色夜叉』は、主人公の寛一が、追いかけてきて許しを乞うお宮を下駄で蹴り飛ばす場面で有名である。
熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り♪
(中略)
宮さん必ず 来年の 今月今夜の この月は 僕の涙で くもらせて 見せるよ男子の 意気地から♪
ダイヤモンドに 目がくれて 乗ってはならぬ 玉の輿(こし) 人は身持ちが 第一よ お金はこの世の まわりもの♪
恋に破れし 貫一は すがるお宮を つきはなし 無念の涙 はらはらと 残る渚に 月淋し♪
作詞・作曲:後藤紫雲・宮島郁芳『金色夜叉』
二木紘三:MIDI歌声喫茶「金色夜叉」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-senzenkayou/konjikiyasha.htm
一高の学生の間貫一(はざまかんいち)の許婚であるお宮(鴫沢宮、しぎさわみや)は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされる。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」と言い放った日が今月今夜(1月17日の夜)だった。貫一は復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する・・・。
『金色夜叉』は、1897(明治30)年1月1日~1902(明治35)年5月11日まで5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、1903(明治36)年から雑誌『新小説』に連載された。単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなり、歌は1916(大正5年)に宮島郁芳・後藤紫雲という二人の演歌師によって作られた。これが、演歌師のバイオリンと共に人気を得て、全国的に歌われるようになった。その後、芝居・映画と数多く演じられてきた。
このエピソードから1月17日に夜空が曇りになることを「貫一曇り」と呼ぶようになったというが、「涙で必ず月を曇らして見せる」というのだから、すごい執念である。
ところで、1995年(平成7年)の今日(1月17日)は、「阪神淡路大震災の日」でもある。大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。
特に火災の被害が甚大であった神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。地震発生直後に長田区で数10件発生した火災は火災旋風により近隣住宅に次々と飛び火し、最終的に須磨区東部から兵庫区にかけての広範囲、6000棟が焼失した。多くの人々が犠牲になった。 震災の事は、以前にこのブログで採りあげたので興味のある人は見てください。
阪神・淡路大震災記念日→  http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20050117
ボランティアで、神戸を訪れたミュージシャンが被災地長田などでで目の当たりにした光景から、やがて”満月の夕(まんげつのゆうべ)”という歌が生まれた。
「満月の夕」は、日本の2つのロックバンド、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋が共作した楽曲のタイトルである。この歌では、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の惨状、復興への厳しい現実、それらに向き合おうとする人々の姿が描かれている。歌は、しだいに広がり、今では多くのミュージシャンに歌われるようになった。
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る♪
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る♪
解き放て 命で笑え 満月の夕 ♪
『金色夜叉』では、1月17日に夜空が曇りになることを「貫一曇り」と呼ぶようになったというが、被災地神戸の人にとっては、満月を見ると、今月今夜の満月とともに、この歌を思い出す。そして、震災のことが思い出されて目が、熱くなる。この歌は、もう、神戸の私達にとって、忘れられない歌になっている。
私のホームページにもこの歌のページがあるので、覗いて見てください。本当に、いい歌ですよ。
♪うた(歌・唄・詩)♪ → http://www.geocities.jp/yousan02/kobe-uta.htm
(画像は、金色夜叉 (文庫) 尾崎 紅葉 著)
参考:
金色夜叉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A4%9C%E5%8F%89
図書カード:「金色夜叉」著者名:尾崎 紅葉 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000091/card522.html
満月の夕 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%A4%95
阪神大震災ノート『語り継ぎたい。命の尊さ』のページ
http://home.kobe-u.com/top/newsnet/sinsai/book/book.html
今日(1月17日)は「阪神・淡路大震災記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20050117
二木紘三のWebサイト:MIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm
第一高等学校 (旧制) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)

籔入り

2007-01-16 | 行事
今日(1月16日)は「籔入り」
昔、商店に奉公している人や、嫁入りした娘が、休みをもらって親元に帰ることができた日。この日と7月16日だけ実家に帰ることが許されていた。
「籔入り」と言う言葉も現代では余り聞かれなくなったが、年配の人には、この言葉に若き日の特別の思いのある人もいるだろう。奉公先の主人の家で束縛されていた奉公人が半年振りに休暇を貰って命の洗濯の出来る日だった。
江戸時代、薮入りは、はじめは正月16日だけで、先祖の墓参りなどとされていたが、やがて、閻魔信仰(十王信仰 )の浸透とともに、地獄の釜の蓋が開くと考えられた正月16日・7月16日の閻魔参りの日(初閻魔、閻魔賽日、十王詣とも言われる)となったといわれている。広辞苑によれば、盆の休みは「後の藪入り」といったそうだ。この薮入りの基層部には、主人のもとに従属していた奉公人また、夫のもとにその行動を縛られていた妻などの解放日、つまり、なにをしても許される自由な日という意識が強く流れていたようだ。
閻魔参りの日のことについては、前に以下のブログで書いたのdで、興味のある人は見てください。
「閻魔賽日,十王詣の日」↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/38a03b811938177f752f5c63c179aee9
このような、解放の日、自由の日が、「籔入り」といわれるようになったのは、正月16日の「初山の日」(「山入り」の日に同じ)からきたものであろう。
「初山の日」は、山の神を祀る日であり、新年になって、初めて山に入って予習行事を行う日、また、山仕事を休む日であった。以下参照↓
景観コンテスト:福島県只見町「山入りの行事」
http://www.maff.go.jp/soshiki/koukai/muratai/21j/no7/mura02.html
森鴎外の小説『山椒大夫 』を知ってますか。1954(昭和29)年溝口健二監督がこの小説を同名で映画化し、ベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した作 品であるが、森鴎外の小説『山椒太夫』は説教節『さんせう太夫』を下敷きにして書かれたものである。「説経節」と聞くとお坊さんの説く「お説教」を連想するかもしれないが、その通り関係がある。
「説教」は、本来、仏の教えを人々に説き教えることだが、娯楽の少なかった中世の時代、寺に説教語りのうまい僧がいると人気が高まり人々がこれを聴きに集まったという。これが大衆芸能として転化したものが「説経節」となるが、ただ、説経節を語る者は僧ではなく、だった。各地を放浪しながら民衆に説経節を聞かせることで、生計をたてていた。『山椒太夫』の主人公は、安寿と厨子王丸 の話は、説経節が衰退しても、物語自体は義太夫節や、あるいは浄瑠璃の枠を越えた歌舞伎の題材となっている。また、こども向けに改変したものは、近世になり絵本などの書物にて児童文学ともなっている。私は、この映画を学校から見に行った記憶がある。
物語では、筑紫の国に行ったまま消息のわからない父親を探しに、越後までやってきた母と安寿と厨子王の姉弟は、ここで人買いにだまされて、母親は佐渡へ、姉弟は丹後の由良の港に住む山椒太夫のもとへ売られる。山椒太夫の屋敷で、姉の安寿は汐汲み、弟の厨子王は山へ柴刈と、二人は過酷な労働を強いられる毎日をおくる。ある日、姉は、母から託された守り本尊の地蔵を、弟に渡し屋敷からの逃亡をうながす。ためらう弟を逃がした後、姉は入水自殺をとげる。厨子王は追っ手をのがれて国分寺に逃げ込む。・・その後苦労の末、父の跡を嗣いだ厨子王は、正道と名を改め、天皇から丹波の国司に任ぜられる。出世した正道は、母を迎えに佐渡に渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。鴎外作『山椒太夫』の感動的な結末である。
暗い内容の映画なので子どもには、余り面白いといったものではなかったが、とにかく、山椒太夫を演じた悪役・進藤英太郎 の小憎らしさ、こんなに憎たらしい奴はいないと、それがものすごく印象に残っている。それだけの名優であったというべきだろう。
鴎外は、説経のあらすじをおおむね再現しながらも、親子や姉弟の骨肉の愛を描いた文学作品として、人の心を打つが、鴎外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置くあまり、原作の説経が持っていた荒々しい情念の部分を切り捨てた。原作の『さんせう太夫』では、厨子王は、母を救出する一方、丹後国分寺の庭に「さんせう太夫」一門を呼び寄せ、太夫の三男三郎(初山の計画を立ち聞きされ焼きゴテを額に当てられるなどの折檻を受けている)に、命じて、父太夫の首を竹鋸で3日3晩引かせる極刑をもって報いている。この安寿と厨子王が蒙る、悲惨な拷問の場面や、厨子王が後に復習する際の凄惨な光景など、本来説教者がもっとも力を入れて語ったであろうと思われるこうした部分は切り捨てているという。そのことについては、以下参考の「説経の世界 (壺 齋 閑 話)」中にある以下のページを詠むと良くわかる。
さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物語)↓
http://blog.hix05.com/blog/2006/12/post_48.html
いずれにしても、この説教節『さんせう太夫』と鴎外の小説『山椒太夫』でも、姉の安寿が弟厨子王に逃亡を進め奴隷から開放をめざして、決行した日は、「初山の日」であった。
このことからも、当時の人々がこの日の「山入り」が主人の束縛から解放常態におかれると考えていたことが伺える。この正月16日は、山の神の祭日として、特別な時間的意味を持っていたのであるが、中世においては、祭礼の日一般が、日常的時間と異なる秩序を現出させる日として存在していたようであり、戦国時代においても、祭礼の日は、休戦となり、その日は、敵味方の区別なく祭りに参加した例が多く見られ、祭礼の日は、主従の関係だけでなく、敵対関係をも消滅させてしまう聖なる時間として存在していたのだそうだ。
中世においては「山に入る」と言う言葉は、特別な空間に入る意味にも使用された。そして、逃亡下人や犯罪人が保護を求めて寺院などに駆け込むことを、当時「山林に入る」「山林する」などといったそうで、厨子王もお寺に逃げ込んでいる。
また、百姓が領主の追及をのがれ、山野に逃げ込む逃散(ちょうさん)を「山野に交わる」・「山入り」・「山上がり」などと称したそうだ。これは、「山」という空間が山の神の支配する聖なる場として、俗権力の秩序とは別の秩序が存在する空間と考えられ、ここに入ることにより、俗界の諸関係が消滅してしまうという社会観念に基ずく行為であったという。そして、この「山入り」は「薮山に入る」・「藪山に籠もる」などとも言われた。又、当時の百姓は、逃散の際、山入りするだけでなく、自らの家や田畑を領主の没収から守るため「篠(ささ)を引く」・「柴(しば)を引く」といって、家や田畑を篠や柴で囲って、薮林・山林のようにし、ここは「山林不入地」であると称し、領主に対抗した慣習を生み出したことが知られることから「山入り」と「藪入り」は本来同意であった事が確認されているそうだ。(週刊朝日百科『日本の歴史」)
このように、厨子王の主人のもとからの逃亡は、その主従関係が切れると考えられた聖なる日と聖なる空間へ入ることを通して行われたのであり、やがて、江戸時代になって、このような、時間・空間が俗界の優越的秩序の進行とともに。「薮入り」と言うかたちで、主従関係にも「解放の日」「自由な日」として定着していったと考えられている。明治末以降、親元にも帰らないで東京で休日を過ごす奉公人達に一番人気があったのが浅草見物だった。仲見世や見世物小屋、活動写真館は終日、小遣いを懐にやってくる奉公人で賑わったという。薮入りの習慣は戦後も一部で残っていたというが労働基準法の徹底などで、今では形骸化している。
戦後では、働く人の権利が大きくなり、このような「藪入り」どころか、今では、完全週休2日の上に祝祭日も含むと年間120日(約3日に一度)以上もの休みがあるところが多くなっているが、それでも、尚、女房や子供と過ごせる時間が少ないなどと言っている人が多いようだが、今生きている人の中にもこの薮入りしか休めなかった経験を持った人がいることを思い起こしてみるのも良い事だろう。そして、それらの人達の努力の積み重ねの中から、今の幸せな時代が築かれてきたことを考えれば、もう少し、お年寄りを大切にしなければとの気持ちも湧くのではないかと思うのだけれどもね~。
(画像は、薮入り。「江戸府内絵本風俗往来」。里帰りを終えて主人の家に再び戻ってきたところ。NHKデータ-情報部編・ビジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
十王信仰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B%E4%BF%A1%E4%BB%B0
景観コンテスト:福島県只見町「山入りの行事」
http://www.maff.go.jp/soshiki/koukai/muratai/21j/no7/mura02.html
安寿と厨子王丸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AF%BF%E3%81%A8%E5%8E%A8%E5%AD%90%E7%8E%8B%E4%B8%B8
古浄瑠璃・説経節関係
http://www.ksskbg.com/joruri/index.html
説経の世界 (壺 齋 閑 話)
http://blog.hix05.com/blog/2006/12/post_47.html
図書カード:「山椒大夫」著者名: 森 鴎外  (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card689.html
山椒大夫 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23934/index.html
歴史探訪 日本史編 第6回◆安寿と厨子王伝説考
http://www.kirihara.co.jp/scope/SEP98/tanbo1.html
「哀れみていたわるという声」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi10.htm