今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大師の縁日:Ⅰ

2009-04-21 | 行事
大師の縁日:Ⅰ
毎月21日は、「大師の縁日」であり、今日は空海とこの日のことを・・・。
延暦13年(794年)、都は奈良から京都へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。遷都10年後、延暦23年(804年)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った僧が2人いた。1人は、新しい仏教政策を、打ち出そうとしていた桓武天皇から、短期の出張巡回を命ぜられた還学生(げんがくしょう)の最澄であり、彼は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃(どうずい)等について天台教学を学び、さらに禅や、密教順暁から)をも相承し、翌・805年(延暦24年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・806年(大同元年)1月、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人は、留学生(るがくしょう)の空海であり、大使の一行とともに長安に向かった(還学生と留学生の違いは、ヤフー知恵袋「留学生」という単語は日本語なのでしょうか?参照)。
一方、空海は、長安の青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果から密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余で帰国し大宰府に滞在。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出(以下参考に記載の「国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕」参照)。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説(以下参考に記載の「書聖空海の人生をたどる<空海の生涯12話>」参照)があるが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もある。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(弘法大師二十五箇条遺告参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長頼通白川鳥羽後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりかではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになる。
京都は戦乱が絶えることなく、数々の寺宝が焼失したが、東寺も例外ではなく、平安末期の源平の争い(治承・寿永の乱)で、伽藍は、大きく荒廃し、平安後期には一時期衰退したが、源頼朝後白河法皇の援助を受け、文覚上人により復興された。中でも後白河法皇の皇女である宣陽門院が空海に深く帰依し、御影堂(大師堂)を造営した。以後この堂は大師信仰の核となり、東寺は、弘法大師空海に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民に広く信仰を集めるようになった。
東寺の縁日に「弘法市」がある。空海は、承和2年(835年)3月21日に亡くなったので、東寺では、毎月21日に御影堂で御影供(みえいく)が修され、多くの人が参詣するようになる。御影堂はかって空海の住房のあったところである。以下参考に記載の「東寺弘法市」によれば、当初は年に1回行われていたものが、延応元年(1239年)以降は毎月行われるようになったようだ。
そして、人々が盛んに参詣に訪れるようになったので、当時『一服一銭』と言われるごく簡素な屋台で茶を商う商人(茶店の前身のようなもの)が出てくるようになり、江戸時代には茶店だけではなく、植木屋や薬屋なども出てくるようになった。これが現在の「弘法さん」の起源だと言われている。現在では多数の露店が立ち並ぶ縁日となっているが、今では、参詣よりもこの縁日を目的とする人も少なくなくなっており、境内のすぐ横まで広がる露店は常時およそ1200~1300店ほど出店し、毎月約20万人ほどの人が訪れているという。その内容も様々で、骨董・古着・がらくた類などが売られているが、フリーマーケットなどとは異なり、業者の出店が多い。現在でも、数ある神社の市の中でも東寺の弘法市は特に有名で、私の大好きな骨董店の出店が非常に多いことから、私も骨董好きの仲間と数回東寺の市には行ったことがある。又、私の地元神戸では、須磨区にある須磨寺の弘法市が有名。
(画像は東寺の御影堂【大師堂】Wikipediaより)
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大師の縁日:Ⅱ

2009-04-21 | 行事
大師の縁日:Ⅱ
真言宗の寺院に、真言宗十八本山といわれているものがあるが、須磨寺は、その1つ、真言宗須磨寺派大本山で、本尊は聖観音。山号は上野山(じょうやさん)。宗教法人としての公称は福祥寺である。仁和2年(886年)に光孝天皇勅願寺として聞鏡上人が創建したとされる古刹である。ここでも毎月21日には「弘法市」が行なわれており、私なども夫婦で毎月のように市を見に行ったものである。私のHP「よーさんの我楽多部屋」の中のCorection Roomの中のガラクタ類も、東寺や須磨寺の市で買ったものが結構ある。又、須磨寺については、同じく私のHPのnostalgia神戸の中の神戸の歌No4須磨・須磨寺のページで紹介もしているが、この寺は、源平合戦ゆかりの寺として広く知られ、「青葉の笛」など多数の寺宝を有している。
近世庶民の旅には社寺参詣を目的としたものが多い。例えば、江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、四国八十八箇所巡り、また、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。例えば、西国三十三箇所の場合、札所1番那智山(青岸渡寺)から33番谷汲寺(華厳寺)までの巡礼者が、必ずしも札所だけを巡礼したわけではない。札所コースに入っていない大阪では、芝居見物の後、四天王寺を、當麻寺(当麻寺)では、曼荼羅(以下参考に記載の「當麻寺 中之坊と伽藍堂塔」参照)の開帳に接し、須磨寺では、現代に伝わる青葉の笛などの宝物を拝観した記録があるという(週刊朝日百貨「日本の歴史」75)。要するに、巡礼に名を借りた旅と言う側面もあったということだろう。須磨寺は、江戸時代中期に、真田山観智院(第16番札所・観音寺)の月海上人により開かれたとされる摂津国にある88の霊場「摂津国八十八箇所」(88番)、昭和7年(1932年)に大阪時事新報、神戸新聞、京都日日新聞の三都新聞連合の企画により読者の人気投票に基づいて選定された「新西国三十三箇所」(24番)、昭和55年(1980年)に発足した「摂津国三十三箇所霊場会」が定めた、「摂津西国三十三箇所」(7番)に入っている。又、最後に、神戸と空海の話を1つ付け加えておこう。神戸の六甲山系の名刹に再度山大龍寺と摩耶山 天上寺がある。再度山大龍寺は空海が大輪田泊から唐に渡る前、この山に登って求法を祈り、帰国後再びこの山に足を運んだことから、再度山の名が生まれたとされている。また空海の渡唐の時に船を守った大蛇が帰国後の登山の時にも現れたと言われ、これが寺号の由来になっているのだそうだ。もう1つの、摩耶山天上寺には、空海が渡唐した際、武帝自作の摩耶夫人(釈迦生母)尊像を持ち帰り、同寺の本尊としたことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。調べてみると神戸も随分と空海と縁のあるところだよね・・・。
(画像は、東寺弘法市で骨董を物色している人)
参考:
Category:弘法大師伝説 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E4%BC%9D%E8%AA%AC
不空金剛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA
延暦寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA
国立国会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c009.html
書聖空海の人生をたどる<空海の生涯12話>
http://www.media-sk.co.jp/museumshop/monjo/kukai/lineup.html
弘法大師空海と高野山への旅
http://kobodaishi.xrea.jp/index.html
弘法大師空海年表
http://kobodaishi.xrea.jp/nenpyo.html
施福寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E7%A6%8F%E5%AF%BA
羅城門 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80
治承・寿永の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
文覚 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A
教王護国寺 (東寺)ホームページ
http://www.toji.or.jp/
藤原道長 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
東寺弘法市
http://www.touji-ennichi.com/index.htm
奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/
芭蕉db 「高野詣」
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/others/kouyamoude.htm
茶道歴史入門
http://www.teahyakka.com/HistJ.html
須磨寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AF%BA
須磨寺ッホームページ
http://www.sumadera.or.jp/
五来重 高野聖
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books244.htm
大龍寺 (神戸市) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82)
大龍寺公式ホームページ
http://www.tairyuji.com/
忉利天上寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%86%E5%88%A9%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E5%AF%BA
當麻寺 中之坊と伽藍堂塔
http://www.taimadera.org/
梁 (南朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)

落語家・2代目桂枝雀の忌日

2009-04-19 | 人物
今日・4月19日は落語家の2代目桂枝雀(本名:前田達)の1999(平成11)年の忌日。
桂 枝雀(かつら しじゃく)、前名は10代目桂小米。3代目桂米朝門下であった。桂枝雀は2代目の死後は空き名跡となっている。
1939(昭和14)年8月13日、私と同じ頃、同じ神戸市の灘区に生まれている。進学を希望していたようだが中学3年の時に父親が病死し、止む無く定時制高校に進学し、日中は工場や学校の給仕などをして働き家族を支えていたようであるが、そんな中、ラジオの素人参加番組「漫才教室」に弟(今は、故人の武司/奇術師マジカルたけし)と出演して人気を博し、同番組の審査員をしていた桂米朝に見込まれていたようだ。働きながら家を支え、演芸の世界にも出て小遣い稼ぎの様なことをするなど多忙な中でも勉強も怠らず、英語の学力はかなりのものであったという。
1960(昭和35)年、神戸大学文学部に入学しているが、落語の道を志し、翌年には大学を中退し桂米朝門下に入門。10代目・桂小米としてデビューする。内弟子としては米朝の一番弟子にあたる。その後、米朝の元で基本を磨き、1973(昭和48)年、桂枝雀を襲名。このころから、古典落語を踏襲しながらも人一倍の努力と類稀な天才的センスにより、小米時代とは異なり、明るく派手な芸風で客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。その前、小米から枝雀襲名の間、1970(昭和45)年には、女性浪曲漫才トリオ「ジョウサンズ」の1人日吉川良子とも結婚している。彼女は、その後、枝雀の三味線のお囃子に専念するようになる。枝雀の出囃子は『昼まま』(以下参考に記載の「【落語】上方寄席囃子 昼まま」で聞ける)。
ただ、何事にも一途なタイプの枝雀は、結婚し家庭ができたことで、将来に対する過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところなどから、最初のうつ(鬱)症状が出始めていたようだ。1973(昭和48)年、うつ病の診断を受け、うつ期を突破した後に、枝雀を襲名し、30代半ばにして髪を剃り「禿頭の怪人」となって、「枝雀落語」という前人未踏の爆笑落語を開拓。人気は急上昇、関西を代表する落語家となり、米朝と時期を分けて独演会を行うようになっていった。
そして、1984(昭和59)年、東京・歌舞伎座上方落語家としては初の独演会(「第一回桂枝雀独演会」)を開催し、関西だけではなく全国的にも枝雀ブームを巻き起こし、上方落語全体の隆盛にも大きな役割を果たした。
「宿替え」「代書(代書屋)」「くやみ」など古典の演目に定評があるほか、落語を広めようと英語で海外公演を行なうなど新しい分野にも積極的に取り組んでいた。1982(昭和57)年度芸術選奨文部大臣新人賞、1980(昭和55)年、1987(昭和62)年の2度上方お笑い大賞も受賞している(落語の内容については、以下参考に記載の「世紀末亭」の中の【上方落語メモ/幻の枝雀六十番】を見られると良い。他の落語もあります)。
映画やドラマでは、夢野久作の代表作で、日本探偵小説三大奇書の1つにも数えられる『ドグラ・マグラ』の同名映画(1988=昭和63年公開)では主役を務めた他、大阪新世界の豆腐店に生まれた双子の女の子とその家族のひたむきに生きる姿を描いたNHKの連続テレビ小説「二人っ子」には、将棋の名人役で好演するなど幅広いジャンルで活躍した。また、『らくごDE枝雀』 (筑摩書房、文庫。1993年発刊)などの著書がある。
晩年には古典ネタをさらに練り上げ、どこまでも完成度を高めようとしたが本人は納得いかず、また糖尿病や高血圧などの持病もあってか、1997年頃にうつ病を再発。高座のマクラで「私、またうつ病になってしまったんです」と話したり、「いろんなことを試みているうちに、自分の落語が分からなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。ひたすら笑わせることだけに命を燃やし尽くした噺家・桂枝雀は、1999(平成11)年3月自殺を図り、意識が回復する事なく4月19日に心不全のため死去した。59歳の若さであった。
遺書などは無く、真の動機は謎であるが、亡くなる数年前から体調を崩し、1年ほど前からは活動も停止、自宅療養していたようだが、うつ病特有の症状として、回復期に自殺する事例が非常に多いという傾向があるそうで、復帰後の大規模な独演会に対する過剰なプレッシャーがうつ症状の回復期と重なり、発作的に自殺を試みるきっかけとなってしまった可能性が考えられるという。
先にも書いた彼の著書『らくごDE枝雀』については、以下参考に記載の「asahi.com:桂枝雀『らくごDE枝雀』森永卓郎(上) - たいせつな本」の中でも書かれているように、“枝雀は、代表的な上方落語、江戸落語の「落ち」を徹底的に研究し、すべての落ちが(1)「ドンデン」、(2)「謎解き」、(3)「へん」、(4)「合わせ」の四つに分類されることを発見。”そして、彼は、「緊張の緩和」が笑いを生むとする独自の落語理論まで唱えている。18世紀 のドイツの哲学者イマヌエル・カントが 「笑いは緊張の緩和から来る。」 という有名な言葉を残しているという(Wikipedia)が、こんな哲学者の言葉も知っていてのことかどうかは知らないが、生真面目な彼は、まるで哲学者の如く、余りにも、“笑いを理論的に追求しすぎたことが精神衛生上にもよくなかっただろうし、自殺の要因と大きく関係したことであろうことは推測できる。小米風と枝雀風、二つの芸を極めた枝雀の死は本当に惜しまれる。米朝が枝雀のことを思い出しながら、こんなことを新聞に書いていた。”枝雀の落語と言えば、まず、マクラ(以下参考に記載の「落語のマクラ - [落語]All About」参照)が独特やった。「アポロ11号はほんまは月に行ってない」とか「地球滅亡の日」なんてことをよう語っていた。「ゲラゲラ、笑うてる場合やおまへんで」。しまいにはお客も怒り出してしまうようなときもあった“と。また、”落語のやり方はその時々でいろいろやった。「年をとったらいつでも元に帰れる。ルールは守った上で芸の幅を広げられるのはこの時期しかないといっていた“そうだ。そして、”ただ、あの誇張した落語はずっとそのまま突っ走っていけるものではなかった” “後年は、落語が長くなる傾向もあったようだ、落語に登場する人物が好きで、噺の中で会話するのを楽しんでいたからだろう“・・とも。さすが、お師匠さん、よく観察していると思うよ。
思えば、私や、枝雀と同じ様な年代で、名人の誉れ高く、江戸噺家古今亭志ん朝名跡を大ならしめた3代目志ん朝が肝臓癌のため亡くなったのも、枝雀が亡くなった2年半後の2001(平成13)年10月のことであった。そして、63歳と同じ様な若さで亡くなっている。私等の年代のものには、結構思いつめて、物事に没頭する人間が多かったように思う。そんな中で、東西の惜しい人物2人が早世したのは、天才なるが故であったからかもしれないね・・?
幸い、私など、同じタイプの人間ではあるが、なにしろ、頭が悪いもので、物事に没頭はしても底が浅くて、たいして難しく考えずに生きてきたせいか、未だに元気しているが・・・。枝雀のことなら、以下参考に記載の「「楽々亭太丸の部屋」・落語コーナー・追悼、桂枝雀論序説」など見られるとよく分かると思うよ。今一度、当時の芸も偲んで見たいものだ。以下参照。
YouTube - 桂枝雀 - 時うどん(Part3 of 3)
http://www.youtube.com/watch?v=OcNM44DMq1Y
(画像は、コレクションのチラシより、平成9年のサンケイホールでの独演会のもの)
参考:
世紀末亭
http://homepage3.nifty.com/rakugo/index.htm
【落語】上方寄席囃子 昼まま
http://nicosound.anyap.info/sound/sm2354994
桂枝雀 - 時うどん(Part1 of 3)
http://www.youtube.com/watch?v=OcNM44DMq1Y
代書屋 桂枝雀 | @niftyビデオ共有
http://video.nifty.com/cs/catalog/video_metadata/catalog_080410076873_1.htm,/a>
geinin.jp: 受賞データ 芸術選奨 文部科学大臣賞
http://www.geinin.jp/prize/category/geijutsusenshou.html
ドグラ・マグラ - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18041/comment.html
MHKアーカイブ(連続テレビ小説「二人っ子」)
http://archives.nhk.or.jp/archives-i/nhk_001.do
asahi.com:桂枝雀『らくごDE枝雀』 森永卓郎(上) - たいせつな本
http://book.asahi.com/mybook/TKY200709190249.html
森永卓郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E5%8D%93%E9%83%8E
笑い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E3%81%84
衛生 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E7%94%9F
古今亭志ん朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E6%9C%9D
「楽々亭太丸の部屋」・落語コーナー・追悼、桂枝雀論序説
http://mitleid.cool.ne.jp/shijaku.htm
落語のマクラ - [落語]All About
http://allabout.co.jp/gs/raku5/closeup/CU20080312A/


「所帯平均貯蓄100万円突破と発表」された日

2009-04-16 | 歴史
私の蔵書の1つ『毎日ムック「戦後50年」』の1970(昭和45)年のLIFEの蘭には、「4月16日、所帯平均貯蓄100万円突破と発表」と記されていた。因みに、この年の大卒初任給は、まだ、約5万円弱であった。
1970(昭和45)年の日本と言えば、先ず思い出されるのが、1964(昭和39)年に開催された、東京オリンピックに次ぐ国家的事業として大阪・千里で3月から6ヶ月間にわたり開催された日本万国博覧会(EXPO’70)である。「人類の進歩と調和」をテーマーにしたこの万博への参加国数は、77カ国4国際機関。同博覧会は経済大国”日本の姿を内外に示す絶好の機会となった。
♪こんにちは こんにちは 西のくにから
 こんにちは こんにちは 東のくにから
 こんにちは こんにちは 世界のひとが・・・・・以下略♪
日本万国博覧会のテーマ・ソング「世界の国からこんにちは」(作詞:島田陽子、作曲:中村八大)の歌に乗って、万博会場にどっと人が押し寄せ、会期中の入場者は6422万人(万博史上最高)を記録。計算上は当時の日本人の2人に1人が訪れたことになる。
ある調査によると、万博に来た人々はパピリオンへの入場など、「待つ」だけに平均4時間を費やしたという。体力と辛抱の「残酷博」とも呼ばれたものの果てに、人々は一体どんな「夢の未来」を垣間見ていたのだろうか。この万博のために大阪市など会場周辺都市でも地下鉄建設などの大規模開発が進めら、これら道路網の整備などの関連投資をあわせると、投じられた金も一兆円近くに及んだが、その経済効果は3兆3000億円ともいわれている。そして、万博終了後の10月には、国鉄(現JR)が “日本を発見し、自分自身を再発見する”をコンセプトに個人旅行拡大の為の「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンを全国的に展開し始める。
兎に角、この万博をきっかけに、日本は"経済大国へと上り詰める。バブル経済とその破綻に見舞われるのはまだ、その先のことである。史上最大の万博は、産業技術の進歩がひたすら誇らしく思えた最後の万博であったとも言える。しかし、このように万博が「日本の進歩と調和」を謳いあげる一方で、国内では、既に公害が最大の社会・政治・経済問題にもなっていた。
又、この万博を頂点に「いざなぎ景気」にも陰りが見え始める。建設関係等を中心に不況の影がひっそりと忍び寄ってはいたが、それでも、この年末の官公庁、民間合わせて3兆円の年末のボーナスを当てこんだ百貨店は不況どこ吹く風の史上最高売上を記録している。だが、12月も押し迫った30日の朝、大阪西成区のあいりん地区で、仕事にあぶれた労務者約500人が西成労働福祉センター事務所に押しかけ、一部は中央詰め所に放火、事務所などを荒らす事件が起きている。万博が終わってから、建設関係の求人が大幅に減少、日当も安く抑えられていることに怒りを爆発させたものである(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
そのような反面、学生に占拠された東大安田講堂事件が前年に終了すると、全共闘運動も終りを告げ、安保闘争等の反対運動の矛先は、この時以降、公害企業や無策の政治に向けられるようになるが、若者たちの間には、何をやっても熱中できない「しらけムード」が広がり、無気力、無関心、無責任を表す「三無主義」 が言われるようにもなっていた。 そして、浮かれた世の中には、似つかわしくない流行歌、鶴田浩二の「傷だらけの人生」(作詞:藤田まさと、作曲:吉田正)が流行った。
♪何からなにまで 真暗闇よ 
筋の通らぬ ことばかり 
右を向いても 左を見ても
馬鹿と阿呆の からみ合い
どこに男の 夢がある♪
又、映画では、既に、高倉健や鶴田浩二の2枚看板による東映の任侠物ものが流行っていたが、そこに女優の藤順子(現・富司純子)が登場するなど任侠映画がピークを迎え、これから先の暗い時代を予感させていたと言えようか・・・。
第二次世界大戦における敗戦による荒廃や混乱も1950年代の朝鮮戦争特需により1955年ごろには日本経済は戦前の水準に復興し、以後更なる高度成長が始まった。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。この経済成長の要因は良質で安い労働力、余剰農業労働力の活用、高い貯蓄率投資の源泉)、高率の民間投資、輸出に有利な円安相場(固定制)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成や戦中の軍需生産のために発達した技術力が挙げられる。そして、1960年代には東京オリンピックの開催やベトナム戦争、そして、1970年に開催された大阪万博などによる特需にあり、1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達し、この終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」とまで言われていたが、この頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=の文化)」等が要因として挙げられた時期でもあった。
しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変。サンウェーブ、日本特殊鋼(現大同特殊鋼)、山陽特殊製鋼等大型企業の倒産、さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥り、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債を決めた。その後、公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ処理などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化すると共に、1971年のニクソン・ショックによる実質的な円の切り上げ、1973(昭和48)年には第1次石油危機による「狂乱物価」にも見舞われた結果、翌:1974(昭和49)年には-1.2%と戦後初めて実質マイナス成長を経験し、高度経済成長はここに終焉を迎えた。その後は安定成長期(1973年~バブル景気崩壊の1991年まで)へと移行した。高度経済成長時代の終焉は第二次ベビーブームの終焉ももたらし、1975(昭和50)年以降日本は少子化・高齢化(少子高齢化)の道を歩むこととなった。
ところで、中立・公正な立場から、暮らしに身近な金融に関する幅広い広報活動を行っているという金融広報中央委員会が、2008(平成20)年2月27日、発表した平成19年の「家計の金融行動に関する世論調査(二人以上世帯調査)」によると、貯蓄をしている世帯の貯蓄平均額は1,624万円、中央値は892万円であったという。これはあくまで平均額であり、一部の資産家の貯蓄額などにより、実態よりかなり多目の金額となっていることは誰もが承知のことである。ただ、この回の調査結果で、驚くのは、貯蓄ゼロの家計がなんと20.6%もあったということだ。1995(平成7)年迄は、ほぼ10%未満だった貯蓄無保有世帯が、その後増加傾向をたどり、ここ5年間は毎年20%を超えているという。従って、先に記載した、貯蓄をしている家計の平均貯蓄額や中央値に関しても、貯蓄を保有していない家計を含めた全所帯で見ると、その平均貯蓄額は、1,259万円、中央値は500万円に迄下がるのである(以下参考に記載の「今週の指標」参照)。
因みに、以下参考に記載の「独り言」のコラムの中の格差社会(1):データからみる格差」を見られると良いが、「2005(平成17)年2月にOECD(経済協力開発機構)は、「OECD諸国における所得分配と貧困」と題した「OECDワーキングレポート22」を公表したが、日本の貧困率が、OECD諸国の中で第5位で、15.3%だということは、かなり衝撃的な状況を示したデータであるといえる。ここでいう貧困率とは、再配分後所得を家族の人数で調整したうえで、可処分所得の中央値の50%未満の所得しか得ていない人々を「貧困者」として定義し、その「貧困者」が、全体に占める比率のことだそうであり、貧困率が高いということは、その国が貧困であるということではなく、その国内で、上記で定義した「貧困者」が多数いる、ということを示しており、それだけ、貧富の差が大きいということになるのだという。
振り返れば、少なくとも、1980年台までは、日本は「一億総中流」とか言われて、貧富の差の少ない国であると、思われていたのだが、バブルがはじけて10年一寸で、「貧困者」が、15%以上もいる、貧富の差の大きい国になってしまったということであろう。
貧困率は、「絶対的貧困率」と「相対的貧困率」とに大別され、それぞれ、計算基準が違うが、「絶対的貧困率」 は、当該国や地域で生活していける最低水準を下回る収入しか得られない国民が全国民に占める割合の事をいい、相対的貧困率よりも実状を反映しやすいという特徴があるが、ただ、「生活していける水準」をどのように設定するかによってさまざまな基準があり、設定者の主観が入りやすいという危険を持つともいえるが、もし、絶対的貧困を表す指標を、「貯蓄のない所帯」と設定すると、貯蓄のない所帯が1970年代から1980後半にかけては5%あたりを推移していたものが20%%以上に上昇ということは、東京オリンピックの前の年・1963(昭和38)年のデータをも上回る高さであり、確実に、日本の貧困率が上っているといえるだろう。
平均貯蓄額はあくまでも貯蓄の平均であるから逆に負債(借金)の平均もまた(総務省)統計に出てきており、多額の住宅ローンを抱えている世帯では貯蓄より負債の方が大きいということも当然あるだろう。
貯蓄額が幾ら必要かは、各世帯の生活状況により、それぞれ異なるので、単純に幾ら以上とはいえないが、通常は、35歳~40歳にもなると、年収の2倍程度の貯蓄額は必要だろうといわれている。総務省・統計局ホームページの家計簿から見たファミリーライフでは二人以上の世帯について貯蓄現在高階級別の世帯分布をみると,貯蓄現在高が200万円未満の世帯が最も多くなっているという。
今の日本の少子高齢化社会の状況や膨大な財政赤字をかかえている状況の中、今の経済収縮を打破するための財政出動により、ますます財政赤字が膨らむことを考えれば、今後、年々、厚生年金などの社会保険料、医療費の負担も増加するだろうし、エネルギー他食料品等の物価上昇、金利の上昇等によるインフレが懸念され、消費税等のアップもそう遠くない未来が控えている。因みに以下で、今現在の日本の財政赤字状態を見られると良い。自民党や公明党の選挙目当ての、貴重な税金のばら撒き「定額給付金」が、又、この数字にカウントされるのだろう。 リアルタイム財政赤字カウンター 9
http://www.kh-web.org/fin/
現在、国民1人当たり847万円と言う財政赤字は、夫婦2人に子供1人の計3人家族なら、その家庭は、既に、国に対して、3*847=2,541万円の借金を背負っているってことを肝に命じて置かないといけないよ。貴方の家庭の借金を引いた後の貯蓄から1人当たり、847万円の国に対する借金を払えば、後、幾ら残りますか???
いずれ、最後には、全て、国民1人1人に付けが回ってくる。もしそれ相当の貯蓄というものが無ければ、その影響をモロに被らなければならなくなるだろう。ケセラセラ・・なんて気楽なことは言っておれないよね。それぞれが、自分のライフプランを考えて、さ~と言うときの備えだけはておかなければいずれ泣きをみることになるのだろうね~。特に、若い人達は・・。お金を使うなら、自分の能力や技術力アップの為に使うべきだろうね~。かって、経済成長を支えた日本人の低賃金は、グローバル化した現在の国際社会の中では、非常に高いものになっているのだからね~。何かこのようなことばかり書くと、♪何からなにまで 真暗闇よ・・・だね。ちょと鶴田浩二の「傷だらけの人生」の歌を聴いてみたくなったよ。以下で、聞いてみよう・・・と。
YouTube - 傷だらけの人生
http://www.youtube.com/watch?v=7ljM6OA7bfE
(画像は、マイコレクションから野村證券シリアル番号入り百万両貯金箱)
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「所帯平均貯蓄100万円突破と発表」された日:参考

2009-04-16 | 歴史
参考:
 貧困率
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87
一億総中流
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E4%B8%AD%E6%B5%81
ESRI,視点シリーズ11号-日本の所得格差 -国際比較の視点から-
http://www.esri.go.jp/jp/archive/sei/sei020/sei011.html
経済効率、技術革新と所得分配
http://office.shigehara.online.fr/jp/articles/ronou1.html
総務省・統計局・家計調査
http://www.stat.go.jp/data/kakei/index.htm
独立行政法人 労働政策研究・研修機構/海外労働情報
http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2008_11/oecd_02.htm
知るぽると:金融広報中央委員会
http://www.shiruporuto.jp/
「独り言」のコラム
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0123.html
今週の指標
http://www5.cao.go.jp/keizai3/shihyo/index.html
連合総研レポ-ト:視点:日本の所得格差指数、貧困率は何故高いのか
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no197/siten.htm
OECD東京センター
http://www.oecdtokyo.org/outline/archives/archives_2005.htm
ヤクザ映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6%E6%98%A0%E7%94%BB
世界の国からこんにちは (AUDIO ONLY)
http://www.youtube.com/watch?v=3fsi6Bxn3mI