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日本近代文学の森へ (123) 志賀直哉『暗夜行路』 11 引手茶屋、山羊、大阪料理 「前篇第一 二 」その3

2019-08-21 12:09:55 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (123) 志賀直哉『暗夜行路』 11 引手茶屋、山羊、大阪料理  「前篇第一  二 」その3

2019.8.21


 

  前回、謙作が竜岡、阪口と一緒に行った吉原の「西緑」という店は、詳しい記述がなかったので、どういう店なのかよくわからなかったのだが、その後を読むと、それが「引手茶屋」だったと書いてある。書いてあっても、浅学なぼくにはそれの何たるかを知らないから、調べてみたら、こんなことだった。


遊廓で遊女屋へ客を案内する茶屋。江戸中期に揚屋(あげや)が衰滅した江戸吉原でとくに発達した。引手茶屋では、遊女屋へ案内する前に、芸者らを招いて酒食を供するなど揚屋遊興の一部を代行した形であった。そこへ指名の遊女が迎えにきて遊女屋へ同道した。引手茶屋の利用は上級妓(ぎ)の場合に限られたから、遊廓文化の中心的意義をもった。全盛期には仲ノ町の両側に並び尽くしたが、明治中期ごろから急速に衰退した。[原島陽一]《日本百科全書》


 なるほど、そういうことならよく分かる。夜が明けるまで、トランプなんかして遊んでいたのも、そういう場所だったのね、ということだ。謙作たちは、引手茶屋に居続けて、遊女屋には行かなかったのだ。

 昔の読者はこういうことは、その場所の描写をちょっと読めば、ああ、これは引手茶屋ね、とすぐに分かったのだろうが、今の読者にはなかなかそうはいかない。この読書も遅々として進まないのも、ある意味、仕方ない。仕方ないというよりも、こうしたことにいちいち拘って読んでいると、そこにいろいろな発見があっておもしろい。

 さて、その引手茶屋から帰った謙作だが、その家の様子がこんなふうに書かれている。


 謙作は午頃(ひるごろ)疲れ切って自分の家へ帰って来た。門を入ろうとすると、その一週間ほど前から飼っている仔山羊が赤児のような声を出して啼いていた。彼はそのまま裏へ廻って、物置と並べて作った小さい囲いの処へ行った。仔山羊は丁度子供が長ズボンを穿(は)いたような足を小刻みに踏みながら喜んだ。
 「馬鹿馬鹿」
 仔山羊は小さい蹄(ひづめ)を囲いの金網へ掛けて出来るだけ延びあがった。謙作は隣から塀越に落ちる黄色い桜の葉が前日からの雨で、ピッタリ地面へくっついているのを五、六枚拾って、中へ入って行った。仔山羊は細かい足どりで忙(せわ)しく彼へ随いて廻った。謙作が蹲踞(しゃが)むと仔山羊は直ぐ前へ来て、懐へ首を入れそうにする。
 「ヤイ、馬鹿」
 仔山羊は美味(うま)そうにその葉を食った。揉むように下顎だけを横に動かしていると、葉は段々と吸い込まれるように口ヘ入って行った。―つの葉が脣(くちびる)から隠れると謙作はまた次の葉をやった。仔山羊は立ったままの姿勢で口だけを動かし、さも満足らしく食っている。謙作はそれを見ている内に昨夜来自分から擦抜(すりぬ)けて行った気分を完全に取りもどしたような気がした。

 


 家で山羊なんかを飼う習慣は、都会ではもうないが、田舎では結構飼っていたらしい。家内の母なども、高知の出身だが、子供のころは山羊が家にいたとよく言う。このころは、東京のど真ん中でも、山羊なんかを飼っていたのだ。

 その山羊に「馬鹿馬鹿」と呼びかけるわけだが、すごい違和感がある。最初読んだとき、何のことか一瞬分からなかった。これは謙作だけの特殊な言葉遣いなのか、それとも、当時は飼っていた動物を「馬鹿」って呼ぶのが一般的だったのだろうか。今時は、「ウチの犬がね」なんて言ったら顰蹙もので、「ウチの子がね」って言わねばならないらしいから、犬の散歩中に、その犬に向かって「おい馬鹿、そっちへ行くな」なんていったら、通報されそうだ。

 それはそうと、この仔山羊の描写は必要以上に精密だ。「丁度子供が長ズボンを穿(は)いたような足」なんて漫画みたいで可愛いし、葉っぱの食べ方の描写も目に見えるよう。『城の崎にて』を髣髴とさせる。こういうのは、志賀直哉は大得意のようだ。
動物の子供というのは、猛獣だろうとヘビだろうとみな可愛いけれど、山羊とか羊の可愛さはまた格別で、できることなら、我が家でも飼ってみたいと思うほどだ。ま、もちろん無理だけど。

 こうした微笑ましい動物の様子を見ているうちに、謙作は昨日からどこかへ行ってしまったかにみえて普段の気分を「完全に取りもどしたような気がした」のだった。そういう意味では、この仔山羊の描写は「必要以上」ではないのだろう。

 お栄が顔を出す。



 「昨晩は竜岡さんへ?」
 「妙な処へ行きました。吉原の引手茶屋で夜明しをしました」
 「へえ。阪口さんの御案内なの?」
 謙作は前夜からの事を簡単に話した。そして、
 「初めてああいう処へ行ったんだけど、何だかそんな気がしなかった」といった
 「初めてじゃあ、ありませんもの。お行の松にいた頃にお祖父さんと三人で行った事がありますよ。何でもあれは国会が開けて、梅のつき出しのあった時だったかしら」
 「そんな事はない。国会の開けた年なら、僕が三つか四つだもの」
 「そう? そんなら何時だろう。夜桜かしら」
 お栄は、夜桜の頃の仁輪加の話をした。そういわれると謙作にはそれを見たような記憶がかすかにあった。



 ここで、ようやく「西緑」が引手茶屋だったことが分かるわけだ。

 「梅のつきだしのあった時」って何だろうか。「つきだし」に傍点がふってあるのが、どうにも調べようがない。

 それに、「国会が開けた年」って帝国議会の開催だろうか。とすれば、明治23年ということになって、時代的にはあうが、「お祖父さん」と「国会」との関係はどうなっているのか。これはいずれ分かるのだろうか。

 お祖父さん」と「お栄」と「謙作」で、引手茶屋に行く、というだけで、これはちょっと普通じゃないないなと思われる。この三人の複雑な関係を暗示しているようである。

 さて、そこへ謙作の兄の信行がやってきて、ちょっと出かけないかと謙作を誘う。謙作はついていく。



 信行は日本橋の方の小綺麗な大阪料理屋へ謙作を連れて行った。謙作は此処でまた、兄に吉原見物の話をした。そして登喜子という芸者の事をいうと、「あれはなかなかいい芸者だよ、俺も半玉の時分に一度会った事があるが、何処の土地へ連れて行っても恥かしくない芸者だ」信行はこんなにいった。そして不意に、
 「深入する気でもあるのか?」といった。
 謙作はちょっとまごついた。彼は少し赤い顔をしながら、
 「深入するとすれば、如何(どう)すればいいのか僕には見当が附かないもの」といった。
 信行は大きな声をして笑った。そして、
 「金がかかるぞ」といった。
 信行は学生時代からそういう方には通じていた。一(ひ)と頃芸者を囲っているというような噂を謙作は聞いた事がある。今も独身で、贅沢好きで、始終金には困っていた。

 


 「日本橋の方の小綺麗な大阪料理屋」かあ。いったい「大阪料理」ってどんなものなのだろう。今じゃ「お好み焼き」とか思いつかないけれど、そんなものじゃなくて、ちゃんとした「大阪料理」というジャンルがあったのだろう、きっと。

 謙作が登喜子のことを話すと、信行が知っている芸者だと言うところにびっくりする。つまり、三人が繰り込んだ吉原でも、「西緑」という引手茶屋は、高級なところだったのだ。そもそも「引手茶屋の利用は上級妓(ぎ)の場合に限られた」と百科事典にもあるのだから、そこへ出てくる芸者の登喜子も、体の動きが直線的だなんて謙作は思ったけれどやっぱりそうとうに美しい芸者だったのだ。

 ここでふと、岩野泡鳴の小説が頭に浮かぶ。その小説に出て来る芸者は、この登喜子などとは比べものにならない最下級の芸者ばかりだった。今さらながら、「白樺派」の志賀直哉だよなあという感慨が深い。





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