日本近代文学の森へ (139) 志賀直哉『暗夜行路』 26 目薬のこと 「前篇第一 六」(補遺)
2019.12.18
前回紹介しなかったのだが、緒方の馴染みの「清賓亭」で、そこの女たちと緒方はイチャついたのだが、その中に「目薬」のことがでてくる。馬鹿馬鹿しいことだが、なんか興味深いので、ちょっと紹介しておきたい。
謙作は、夜明かしとタバコの飲み過ぎで、目が充血して気持ち悪いといって、買ってきた目薬をさしてから、テーブルに両肘をついてじっとしていたのだが、緒方は女たちと、やれ濃いウイスキーを飲めだの、やれ半分ずつ飲もうだのとか言って、デレデレしてイチャついている。
謙作は仰向いて、また眼薬をさした。
「僕にもくれないか」と緒方が手を出した。謙作は眼を瞑ったまま、それを手渡した。
「Oさん、私が注(さ)して上げてよ」
「大丈夫かネ?」
「大丈夫よ」お加代はそれを受取って、緒方の背後へ廻った。
「もっと仰向いて」
「こうか?」
「もっと」
その間に、お鈴は手早く椅子を四つ並べて、
「Oさん、これがいいわ」といった。
お加代はその一つに腰かけて、
「膝枕をさして上げるわ」といった。
お鈴がナップキンを取って渡した。
「おやおや水臭い膝枕だネ」そういいながらお加代はそれを膝の上に拡げた。
緒方は並べた椅子の上に仰向けに寝た。
「私の指で開けても、よくって?」
「自分で開けよう」緒方は両臂(ひじ)を張って眼ぶたを拡げた。
お加代は注(さ)し損じた。薬は耳の方へ流れ落ちた。お加代は笑いながら、
「もう一遍」とまた眼ぶたを拡げさした。
「暗かないの?」お鈴が覗込むようにしていった。
「明るくてよ、この通り」とお加代はお鈴を見上げていった。そしてまた注意を集めて注そうとしたが、細い硝子管(ガラスくだ)の薬が少なくなっているので、なかなか落ちなかった。緒方は白眼をして待っていたが落ちないので、眼ぶたを拡げたまま、見ようとした。
お加代は発作的な叫びをあげて立上った。椅子が後ろヘガタンと倒れた。緒方も驚いて起上った。
「まあ、どうしたの?」とお鈴も驚いていった。
お加代は眼薬の瓶を持ったまま、黙って立っていた。そして少し嗄(しゃが)れ声で、
「白眼だと思っていると、急にギョロリと黒眼が出て来たのよ。それが私を見たじゃ、ないの……」といった。
「何をいうの、この人は……」お鈴はちょっと不愉快そうな顔をした。
お加代は少し青い顔をして黙って立っていた。
まあ、どうでもいいことなのだが、たかが「目薬をさす」ことが、どうしてこれほどの大事となるのだろうかと、可笑しくなる。ぼくなら3秒で終わる。もちろん、自分で注す。人になんか注させない。というか誰も注してくれない。
しかし、人それぞれだから、「自分で注すのが苦手で人に注してもらう」ということがあり得ないことではないと思うわけだが、ここでは、目薬を注すという口実で、緒方に「いい思い」をさしてやろうという女の魂胆なのであって、だから、目薬なんて自分で注せとかそういう野暮なことじゃない。
不思議なのは、「緒方は白眼をして待っていたが落ちないので、眼ぶたを拡げたまま、見ようとした。」というところ。なんで目薬を注すときに、「白眼」をするのだろうか。ちなみに、ぼくはしない。黒眼のままなので、目薬のしずくが落ちてくるのがだいたい分かるので、ほとんど失敗しない。
そればかりか、つい最近まで、ぼくは指で目を開かないで、ただ目を開けて、目薬を注していた。だから時々まばたきしてしまったりして、失敗することもあったのだ。それがつい最近、かかりつけの眼科の待合室で、「目薬の注し方」というポスターをみたら、片手でマブタの下を「あっかんべー」するみたいに引っ張ると注しやすいですよと書いてあって、そうか、そうすればいいのかと思ってさっそく実行したら、確かに、失敗しないでちゃんと注せることが分かったのだ。
ぼくは、昔から眼圧が高いので、もう何十年も毎晩欠かさず目薬を注しているのだが、そのやり方をずっとしらなかったのだ。
まあ、そういう次第なので、わざわざ苦労して白眼にして、目薬を注すってことが不思議でならないわけなのだ。
しかも、マブタを開けたまま、白眼で待って、待ちきれないから、マブタを開けたまま黒眼になった、というのは、そんなに簡単にできることじゃないんじゃないのかなあと思うのだ。人によるのかもしれないけどね。
この「人による」ということで、今でも可笑しくてならないのは、家内の父である。
家内の父は、眼科の開業医だった。晩年に、ほとんど寝たきりになって家内は数年家で介護したのだが、その父が、目薬を注されるのを非常に怖がったというのだ。自分では患者さんに何万回、何十万回と注してきたのに、自分が注されるを怖がるとはいったいどういうことなんだと思ったが、死ぬまで怖がり、嫌がったらしい。人間というものはそういうもんなのだろう。
やっぱり、家内の父も、白眼になっていたのだろうか。(現場を見てないから知らないけど。)黒眼のままだと、落ちてくる目薬が見えてしまうから、怖かったはずだ。いちど聞いておけばよかったと悔やまれる。