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日本近代文学の森へ (168) 志賀直哉『暗夜行路』 55 「結婚」と「肉情」 「前篇第二  六」 その2

2020-09-06 10:57:40 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (168) 志賀直哉『暗夜行路』 55 「結婚」と「肉情」 「前篇第二  六」 その2

2020.9.6


 

 「その次」は、こんなふうに書かれている。これだけちゃんと書かれると、「試験問題」も成立しないよね。

 

 実際彼には同じ位の強さで二つの反対した気持があった。この事がうまく行ってくれればいいという気持と、うまく行かないでくれ、というような気持と。何方(いずれ)が彼の本統の気持かよく分らなかった。何方にしろ決定すれば、彼はそれに順応した気持になれるのだった。しかしそうはっきり決定しない内は、変にこういう反対した二つの気持に悩まされる。それは癖で、また一種の病気だった。そして、結局はお栄の意志で運命を決める。それより他はないという受け身な気持におさまるのであった。

 

 「ちゃんと書かれている」とは言ったものの、ほんとに「ちゃんと」してるだろうか。

 「二つの反対した気持ち」は、確かに、「この事がうまく行ってくれればいいという気持と、うまく行かないでくれ、というような気持」というふうに「ちゃんと」書かれている。しかし、どうもこの「二つの反対した気持」は、正確な対比関係にはない。ずいぶんと温度差がある。「うまく行ってくれればいいという気持」は、どこか他人事のような冷静さがつきまとい、「うまく行かないでくれ」には、どこか懸命な願いが込められているように感じる。

 ここで言われる「癖」「一種の病気」というのは、ものごとが決定しないうちは迷って悩むということを指しているようでもあるが、「結局はお栄の意志で運命を決める」とあるような、迷った挙げ句、自分の意志で運命を切り開くのではなく、他人の意志で、自分の運命を決める、というか、その運命を受け入れるという「受け身な気持におさまる」という、謙作の生き方のパターンを指すようにも思えるのだ。

 自分では、積極的にお栄との結婚が決まることを望んではいない。それなのに、お栄に結婚を申し込んでしまう。その上で、この結婚がうまくいかないでくれと願う。けれども、もしお栄が承諾すれば、自分はそれを自分の運命だとして受け入れるだろう。

 まったくメンドクサイことである。謙作の「本統の気持ち」は、本人も言っているとおり、ぼくにもよく分からない。いったいどうなってるんだろう。
そう思って次の記述に目を移すと、驚くべきことが書いてある。

 

 彼は心ではそんな状態にいながら、一方、急に肉情的になった。お栄との結婚、この予想は、様々な形で彼のそういう肉情を刺激し出した。そして実際にも彼はその間に幾度か放蕩した。

 

 こんな迷いの中で、謙作は「急に肉情的」になったというのだ。お栄との結婚のことを思うと、「肉情が刺激された」というのだ。その結果、「幾度か放蕩した」ということになる。この「放蕩」が何を指すのかよく分からないが、いつぞやの田舎娘の芸者と遊んだといったあたりだろうか。

 お栄との結婚を願う核心には、こうした「肉情」があるのだということだろうか。「だろうか」などと推定している場合ではない。「あるのだ」と断定すべきだろう。

 だからといって謙作の結婚願望が不純だなんていうことではない。むしろ、ある意味では純粋だと言える。内村鑑三の教えを厳密に守ろうとして果たせず、内村のもとを去った志賀直哉だが、性に関しては、やはり「婚外」での交渉には大きな抵抗があったのだ。遊女との交渉はすでに解決済みだが、(もちろん、内村はそれを罪として禁じたのだが、内村のもとを去った以上は、それに縛られることはない、というか、それに縛られないために、志賀は内村を去ったというべきだとすら思う。)一般女性との間の性交渉は、あくまで結婚が必要だと謙作(志賀直哉と考えてもいいだろう)は思っているのだ。

 謙作がお栄に結婚を申し込もうと決意したときに、「心にお栄を穢している事からすれば、実際の関係に進まない前に正式に結婚してしまう事の方がどの位気持がいいか知れないと思った。」と書かれているとおり、お栄との結婚は、精神的な「愛」というようなものよりも、性の問題がまず第一にあったと考えるのが妥当だろう。

 そうであるならば、お栄との結婚は、自分の「肉情」が牽引するものであって、それが自分でもどうにも制御できないものである以上、もし、お栄が承諾したなら、自分はその結婚を「運命」として受け入れざるをえない。しかし、それは、自分の「肉情」への敗北を意味するのではないか、そんなふうに謙作は心の底で思っていたのかもしれない。

 しかし、そんな謙作の苦悩をよそに、兄信行からの手紙は、謙作の予想もしない激動をかれの内にもたらすものとなったのだ。

 それこそが、この「暗夜行路」前篇の核心である、謙作の出生の秘密であった。

 なんと、謙作のほんとうの父は、父の父である祖父だったのだ。謙作は、祖父と母との密通によって生まれた子どもだったのだ。これは「暗夜行路」という物語の核心で、その核心とは「性」の問題なのだということだ。このことを考えると、この信行の手紙が来る前の、謙作の心中の葛藤の意味というものも自ずと納得される。

 お栄との結婚の中心的なしかし隠された問題たる「性」は、この手紙によって、俄然、前面にせり出してくることとなったのだ。

 

 

 


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