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一日一書 1714 寂然法門百首 62

2022-03-09 14:39:25 | 一日一書

 

何故憂色


 
ちぎられぬ身の憂きほどを嘆くをば恨むとよその人や見るらん
 

半紙

 


 
【題出典】『法華経』勧持品


 
【題意】 何故憂色

何が故に、憂いの色にて(如来を見るや)


 
【歌の通釈】
あなたと結ばれない(成仏を約束されない)身の辛さを嘆くのを、恨んでいると人は見るのだろうか。


【考】

恋に於ける将来の約束と、仏が成仏を約束する受記(未来に仏となることを予言し保証すること。)を重ね合わせた。約束されない恨みは、恋においても仏道においても志の強さの裏返しということである。人間味溢れるこの憍曇弥の表情は、例えば「わが心なぐさめかねて見しかどもをばすてならぬ山の端の月」(寂蓮法師集・九九)のように、釈教歌のなかでも好んで詠まれた。

【注】憍曇弥の表情=「何故憂色、而視如来」(何が故に、憂いの色にて如来を視るや。)というのが、「題」の部分だが、これは、仏の伯母で憍曇弥(きょうどんみ)といった人が、受記にもれた事を嘆いて、悲しみの表情で如来を拝見したことを説く文である。憍曇弥は悟りを得た人だから、悲しみの表情など見せるはずもないが、志の深さをその表情で表したのだろう。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

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▼どうして憍曇弥が「受記」にもれたのかが分からないところですが、いずれにしても、恋においては、その成就が約束されないことは大きな悲しみでしょう。それを逆にいえば、悲しみが大きければ大きいほど、恋の成就を願う気持ちが深いということになります。


▼我が子イエスの亡骸を抱いて嘆き悲しむ聖母マリア(「ピエタ」)を描いた絵画が数知れず描かれたのも、「悲しみ」は、「愛」の最高の表現だからでしょう。

 


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