日本近代文学の森へ 275 志賀直哉『暗夜行路』 162 「リアル」のありか 「後篇第四 十三」 その2
2024.12.29
謙作は扇を使いながら、サイダーを飲み、それから遠い景色を眺めた。そして彼は二、三寸にのびた白髪頭の老人を背後(うしろ)から眺め、今、車夫に聞いた昔の爺(おやじ)とを想い較べ、それらが同じ場所に住んでいるだけに如何にも面白い対照に感じた。この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭(あ)かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。また恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
老人のいる左手の壁に寄せて、米俵がいくつか積上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一疋(いっぴき)の仔猫(こねこ)が其所から米俵の上へ現われた。仔猫は両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来た所を覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。
「車夫に聞いた昔の爺(おやじ)」というのは、寺に泥棒に入ってつかまって「海老責め」(ひどい拷問の仕方らしい)にされ、結局は米子で死刑になったという老人のことだ。そういう老人と、今ここに「枯れ木のように」座っている老人を、謙作は重ねてみている。そしてそれが「面白い対照」に思えてきたというのだ。
この二人の老人はもちろん別人である。しかし、今ここに座っている老人の過去はいったいどうだったのだろう。この老人はどんな人生を送ってきたのだろう。謙作は、そんなふうに思ったのだろう。そして、この老人はいったい何を考えているのだろうと想像する。想像するが、それは誰にも分からない。
「老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。」と謙作は考える。何も考えていないのかもしれない。何かを思い出しているのかもしれない。でも、「もし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。」と想像する。
老人というのは、考えてみれば不思議なものである。自分が「老人」になって初めて分かったことだが、決して「老人」になったからといって「悟り」を得たり、日々平穏な気持ちで生きていられるわけではない、ということだ。心の煩わしさは、若い頃よりはマシだけど、若いころには感じたことのない、不安とかむなしさとか、もろもろの感情の揺れに悩まされているのが実態だ。
この時点での謙作の年齢は29歳だから、まだ若者だ。そうは言っても、とても29歳には思えない。この件については、本多秋五がこんなことを言っている。
『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯者大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯誉大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。
(本多秋五『志賀直哉』岩波新書)
しかし、29歳だというのだからしょうがない。しょうがないけど、どうして「29歳に見えない」のかというと、この部分を書いているとき、志賀直哉は書き始め(25歳)からすでに25年も経ち、50歳になっていたからだ。50歳になっていたとしても、フィクションとして、29歳らしい謙作を描きうるはずだが、どうも、「感じ方・考え方」が50歳の作者の影響を受けてしまっているのだというような論文がけっこうあるようだ。だから、これじゃ29歳とは思えないよなあと感じるのはしょうがないわけで、そこをつついても不毛だ。あるいは、『暗夜行路』は、駄作だという結論を出す人もいる。だから、それでも読み進めようと思う読者としては、29歳の謙作を目の前に据えなくてはならないわけだ。
その29歳の謙作には、この老人の内面は想像することもできず、ただその佇まいを見て、「その静寂な感じが羨ましかった」というのである。「その静寂な感じ」は、あくまで謙作の印象なのであって、その老人が孤独と憂愁に包まれていないという保証はどこにもない。
けれども、謙作にとって大事なのは、外界がどう自分に訴えかけてくるかということであって、その外界の一部である「老人」の内面の「リアル」ではない。
「旦那も直しを一杯どうだね」と車夫は謙作に勧めるが、謙作は断る。米俵のあたりをちょろちょろしていた仔猫のことが話題になったりするこの辺の会話はのどかなもので、落語を聞いているようなゆったりした気分になる。
そこへ、若い男がやってくる。
乗馬ズボンに巻脚絆(まききゃはん)をした三十余りの男が入って来た。
「やあ」そういって框(かまち)の所で後ろ向きになると、股を開き両手を腿に、さも疲れたようにドスンと腰を下ろした。「山田を探して山まで行ったが、おらなんだ。お婆さん、今日此処(ここ)を通らんかったかね?」
「誰れが」
「山田が」
「見かけなかったね」
「また御来屋(みくりや)へでも出掛けたかな」
「昨日足を折った馬はどうしたかね」
「それで山田を探してるんだが、いにゃあ仕方がない。殺して埋めちまおう」
「山田さんの馬かい」
「そうだ」
「えらい損害だね」
「時に、今日は肴は何だい」
「鮭の塩びきは?」
「塩びきか……。それより《するめ》でも焼いてもらおうか」
婆さんは酒をつけ、するめを焼きながら、
「今年は山でも蚊が出たそうだね」
「そんな事も聴かなかったが、そうかね」
「此処らは月初めから蚊帳を釣ってるよ」
親猫は《するめ》の臭いで、五月蠅(うるさ)くその辺を立廻り、婆さんの裂いた《するめ》の皿へ鼻をつけそうにしてはそのたび、頭を叩かれ、眼を細くし、耳を寝かせていた。
突然名前が飛び出してくる「山田さん」はいったいどこへ行ったのか。
「御来屋」というのは、調べてみると「鳥取県西部、大山町の中心地区。大山町の町役場所在地。」とある。昔から大山の中心地のようだから、まあ当然遊郭などもあったのだろう。若い男の「また御来屋へでも出掛けたかな」には、そのニュアンスがある。というか、そのニュアンスしかない。
それにしても、だからといって、*馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ。しかしまた、足を折った他人の馬を治療したり、毎日のエサを与えるような余裕はないのだろうし、飢えていく馬を見ているのも辛いということだろうか。のどかな山の中にも、「リアル」はある。
猫の描写も相変わらずうまいものだ。
*「馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ」というように書きましたが、読者の方から、馬という動物は、歩いたり走ったりして血液を循環させないと生きていけない動物なので、馬にとって足の骨折は致命的である。治療するにしても非常に困難なので、「殺して埋める」というのは、仕方のないことなのだというご指摘がありました。
ぼくも、競馬馬の骨折が致命的だということは知っていましたが、この馬のような農耕馬(多分)の場合は、治療すればなんとかなるものだと思っていました。しかし、農耕馬であっても、馬にとって足の骨折が致命的である以上、「殺して埋める」ということしか選択肢はないでしょう。そうであれば、この「山田さん」に心境もよく分かってきます。自分が大事にしてきた馬が足を骨折してしまい、殺すしかない。けれども、おそらく気の弱い「山田さん」は、それができなかったのでしょう。その上、婆さんがいうように「えらい損害」を被ることになり、「山田さん」は絶望的な気分になり、家を飛び出してしまった。行く先はたぶん、「御来屋」の遊郭あたりだろう、ということなります。別に「遊郭」にこだわることもないのですが、そんなふうに考えました。
ご指摘に感謝します。
暫くして謙作と車夫とはこの茶屋を出た。三十分ほど歩く内に謙作はまた咽(のど)が乾いて来た。車夫はもう少し行くといい流れがあるからといった。しかし行って見ると、流れは涸れて底の砂が干割れていた。
「昨晩、鳥取では大分降ったが、この辺は降らなかったかな」謙作は腹立たしそうにいった。
車夫はもう十町ばかりで、鳥居の所に冷水(れいすい)がひいてあるからと慰め顔にいった。そして、
「寺は何所にするかね。景色はないが、さっき話した蓮浄院の離れが空(あ)いてると、勉強にはいいと思うがね」
「とにかく、行って見た上にしよう」
「暫く滞在するのかね?」
「気に入れば永くいたいと思うのだ」
「永いといっても夏だけの所だよ。秋になりゃあ、下にいくらもいい温泉場があるから、山にいたってつまらない。第一ろくな食物がないから、余り永くはいられないよ」
「寺は精進か?」
「いや、生臭(なまぐさ)でも何でも食わすよ。*梵妻(だいこく)もいるし、開けたもんだ。坊主は馬の売り買いばかり熱心にやっていらあね」
謙作は叡山に次ぐ天台の霊場というように聞いていただけにこの話にはいささか落胆した。
丹塗りの剥げ落ちた大鳥居の傍(わき)に宿屋がある。二人は其所で漸く冷水にありついた。車夫は寺までなお五、六町あるといい、
「この宿は気に入らないかね?」と小声で訊いた。謙作は黙って首を振った。
車夫は少し荷に参って来たらしい、約束よりは賃金を増してやろうと謙作は思った。
(*「梵妻(だいこく)」=僧侶の妻のこと。「梵妻」は「ぼんさい」とも読む。)
謙作は暢気に「気に入れば永くいたい」などと言っているが、おいてきた直子や子どものことはどうするつもりなのか。働かなくてもいくらでも金があるのだろうが、その金はいったいどこから来るのか。作家といっても、そんなに売れているという設定でもないわけだから、まあ、親からふんだんに貰った、あるいは貰い続けているといったところで「納得」するしかないが、こういうところは、「リアリズム」の観点からみれば甘い。この甘さをあまりに重視すると、「しょせん、金持ちのボンボンの暢気な悩みさ」ということになってしまう危険があるし、じっさいそう思われても仕方のないことだ。世に『暗夜行路』否定論者は数知れぬのも、こんなところに根拠があるやもしれぬ。そして読み始めてそうそうに、あるいは、読み続けているうちにどこかで、「脱落」してしまうことになるのだろう。
今の朝ドラ『おむすび』は、その脚本のあまりに雑な設定やら「リアル」を欠くセリフやらで、大量の「脱落者」を生み出しているが、それに似た現象は、きっとこの『暗夜行路』にもあったに違いないし、これからもあるだろう。
けれども、『おむすび』と決定的に違うのは(比べるのも、志賀直哉に失礼だとは思うけど)、良きにつけ悪しきにつけ「時任謙作」という人間が、ちゃんと書かれているということだ。「金持ちのボンボン」だとて、「人間」である。金持ち特有の甘さがベースになっていたとしても、「人間」としての悩み苦しみは、ちゃんとある。そこを「リアル」に描けるかどうかが問題なのだ。
「気に入れば永くいたい」などというねぼけたセリフも、謙作にとっての「リアル」だとしたら、それを含めての「人間理解」を目指したい。だから、ぼくは「脱落」しない。(ちなみに、『おむすび』も脱落しないけど、これは、「人間理解」を目指したいからじゃなくて、朝ドラをずっと見続けてきた記録を破りたくないというつまらぬ意地である。)
絵菓書と巻煙草を買って出た。
大山神社への道から右へ降り、石のごろごろした広い河原へ出た。河原はかなりの傾斜で森と森の間を裾野の方へ下っている。
「地蔵の切分け」というので、河の流れ出た所があたかも切りさいたように断崖が二つに分れていた。
二人は河原を越し、急な坂路を薄賠い森の中へ登って行った。右が金剛院、左が一段高くなって蓮浄院だった。
庫裏の土間に入り車夫が声をかけると、四十前後の顔の角張った女が出て来て、謙作と荷とを見較べながら、
「暫く御滞在ですか」といった。
庫裏の炉端(ろばた)で白い単衣(ひとえ)を着た若い和尚が、伯楽(ばくろう)風の男を対手に酒を飲みながら高声に話合っているのが見えた。
「暫く御厄介(ごやっかい)になりたいんです」
女は心元ない風で後を向き、
「ちょいと、どうです?」と和尚へ呼びかけた。
「ようこそ」酒で赤い顔をした和尚が出て来て、立ったまま取ってつけたようなお辞儀をした。
「泊めて頂けますか」
「お泊めせん事もございませんが、この寺の先住が少し悪いというので、実は明日江州(ごうしゅう)の坂本まで出掛ける事にしているのですが、人手が足らんので、……。が、とにかくお上り下さいませ。もしお世話出来んようでしたら、他の寺を御紹介しますで」
謙作は離れに通された。それは書院作りの座敷、次の間、折れて玄関という、何れ四畳半ばかりの家だった。先々住の隠居所に建てたもので、長押(なげし)から長押へ竹竿を渡し、それに縁(ふち)のない障子が何枚も積み重ねてある。それは寒中(かんちゅう)、その高さに障子で座敷を劃(くぎ)る、一種の暖房装置だった。
小さな座敷の書院作りは少し重苦しい感じもしたが、結局三間ともに貸してくれるとの事で謙作は満足した。
車夫はこの寺に一泊し、翌朝(よくあさ)還って行った。
蓮浄院への道のりの描写、中から出てきた女の描写、若い和尚の描写、などなど、手練れの画家のクロッキーのように見事だ。
あっさりとした描写なのに、その情景がありありと映画のように目の前に繰り広げられる。このあたりの映像は、小津安二郎というよりも、溝口健二といったところだろうか。なぜか溝口の『山椒大夫』を思い出した。