二乗但空智如蛍火
道の辺の蛍ばかりをしるべにてひとりぞいづる夕闇の空
半紙
【題出典】『摩訶止観』三・上
【題意】 二乗但空智如蛍火
声聞と縁覚の二乗は、ただ空と思うのみで、その智恵は蛍の光のようだ。
【歌の通釈】
道端の蛍ばかりを道しるべとして、夕闇の空の下一人旅立つよ。(二乗は蛍ほどの小さな智恵を頼りに、生死の迷いの闇を出ようとするよ。
【考】
二乗が蛍の光ほどの知恵により迷いから離れることを、夕闇のもと蛍の光を頼りに旅する心に寄せて詠んだ。(中略)夕闇の空の下、一人旅立つ心細さの中に、自行の域を出ない二乗の孤独を思う。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
▼ここでは、仏教の「大乗」と「小乗」の対立が問題となっているので、とても難しいところです。「二乗」は、一切の存在を空しいとする「小乗」的な悟りの段階にある聖者。それに対して、それにとらわれない「菩薩」の道が「大乗」的な悟りにある聖者ということになります。「菩薩」の知恵が「日光」だとすれば、「二乗」の知恵は「蛍の光」に過ぎないということで、その「二乗」の旅立ちは、孤独なものだということを言っているようです。
▼「自分の頭で考える」ことの大事さがよく言われるわけですが、それはあくまで現世をどう生きていくかというレベルの問題においてのみ有効なこと。もっと大きな問題。存在そのものの意味とか、来世とか、人間の本質とか、そういった問題に立ち向かうには、「日光」のような「教え」が必要なのだ。その「教え」に頼らずに、自分の知恵で立ち向かうのは、「蛍の光」を頼りに夕闇の中に旅立つようなものだ、ということでしょう。
▼それでも、その「蛍の光」を頼りにトボトボと闇の中を歩くしかないのが、普通の人間ではないでしょうか。「小乗」から「大乗」への道のりは、そうたやすいことではなさそうです。
▼ぼくは、「大乗」に、大きな魅力を感じていますが。