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日本近代文学の森へ (147) 志賀直哉『暗夜行路』 34 「本能」と「感情」 「前篇第一  九」 その2 

2020-03-15 11:14:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (147) 志賀直哉『暗夜行路』 34 「本能」と「感情」 「前篇第一  九」 その2 

2020.3.15


 

 謙作の日記は続く。

 

──人類の運命が地球の運命にきっと殉死するものとはかぎらない。他の動物は知らない。しかし人類だけはその与えられた運命に反抗しようとしている。男の仕事に対する、あく事なき本能的な慾望の奥には必ずこの盲目的な意志がある。人間の意識は人類の滅亡を認めている。しかしこの盲目的な意志は実際少しもそれを認めようとしていない。


 人類の滅亡は、「人間の意識」が認めてはいるが、「(人類の)盲目的な意志」は、その「人類の滅亡」を認めようとはしない、というのだが、この「盲目的な意志」という概念がどこから来たのか分からない。どうもその当時のはやりの思想だったのではないかという気がする。この後の記述を読むと、どうやらいずれ氷河期がやってきて、人類は滅亡するのだという考えが広く行き渡っていたようである。

 それはそれとしても、この中の「男の仕事に対する、あく事なき本能的な慾望」というところにひっかかる。引用前の部分で「キューリー夫妻」を例に挙げているのに、どうしてここでわざわざ「男の仕事」と限定するのか。ちょっとした不注意だったのかと思うと、それが全然違うのだ。


 女は生む事。男は仕事。それが人間の生活だ。人間がまだ発達しない時代には男の仕事は、自分の一家族、自分の一の幸福のために働けばよかった。それが段々発達して、一の輪が大きくなった。日本なら男はその藩のために働く事で仕事の本能を満足させていた。それが一国のため、一民族のため、そして人類のためという風になった。


 一昔前、女は「生む機械」だみたいな発言が物議を醸したことがあったが(2007年柳沢伯夫厚生労働大臣)、この謙作の(つまりは志賀直哉の)発言は、その原型みたいなもので、いくら柳沢氏がバッシングをうけようと、そうそう簡単には拭えない考え方であるわけだ。

 それにしても、「女は生む事。男は仕事。それが人間の生活だ。」という断言は、なんという粗雑さであろう。男と女のあり方に対するこの粗雑な思想に対して、一片の疑いすら持たない志賀直哉という作家の頭の中はどうなっているのか。

 女の生き方だけではない。男の「仕事」という概念もまた粗雑きわまる。「仕事の本能」とはどういうことなのか。女は「本能」として子ども産み、男は「本能」として仕事をする。いずれも、「本能を満足させる」ことが、「人間の生活」だということなのか。


 例えば永生という考でも、子供の頃はこの身の永生でなければ感情的に満足出来なかった。しかし今は、──今でも死は恐ろしい。しかし永生は、個人個人のそれはどうでも差支えなくなった。同時にその信仰も持てなくなった。ただ自分は自分たちの仕事を積み上げて行く、人類の永生、これだけはどうしてもあってくれなければ困るという感情になっている。やがてはこの感情からも解脱するかも知れない。解脱した思想がある。
 しかし今の人類一般の何でも彼でも、発達しようと焦りぬいている仕事に対する男の本能、或る場合、それは盲目的で病的になる事すらある。本来の目的を見失ってかえって人類を不幸にするような発達へ入り込む場合もあるが、それにしろそういう本能的な慾望の奥にはやはり人類の永生を願う、即ち与えられた運命に反抗し、それから逃れ出ようとする、共通な大きい意志を見ないではいられない。


 「人類の永生」──この思想もどこから来たのかよく分からないが、やはりどうも「借り物」っぽい。武者小路実篤あたりの言いそうなことだが、確証はない。武者小路なら、どんなに観念的な思考であろうと、どこか彼自身が考え抜いているようなところがあったような気がするが、その武者小路にしても、ぼくは最近まったく読んでいないので、これ以上はなにもいえない。

 「永生」──つまりは、永遠の命──という考えについては「子供の頃はこの身の永生でなければ感情的に満足出来なかった」という。それはそうだろう。子どもは誰だって、「感情的」にしか「死」について思考できない。では大人になったらどうなのか。「永生は、個人個人のそれはどうでも差支えなくなった。同時にその信仰も持てなくなった。」という。死は子どもの時のように恐ろしいが、「どうでもよくなった」。なぜか。説明はない。急にそうなったらしい。「同時にその信仰も持てなくなった」という。順序が逆じゃないのか。

 志賀はキリスト教に大きな影響を受けたわけだが、その「永生」を信じるキリスト教の信仰も持てなくなったから、「個人個人の永生」は「どうでも差支えなくなった」のではなかったか。しかし、志賀はあくまでその順番を否定する。「同時」というのだから、後も先もないのかもしれないが、少なくとも、キリスト教の信仰が、志賀の「永生」に関する思考を支えていたのではないことは確かなようだ。

 個人の死なんて、まだ怖いけど、どうでもいいやって感じになっちゃった。キリスト教も、もういいや。でも、「人類の永生」は「どうしてもあってくれなければ困るという感情になっている」、つまりは「感情」だ。「やがてはこの感情からも解脱するかも知れない。解脱した思想がある。」というが、「解脱した思想」って何だ? これについても説明はなく放り出されているだけだ。

 「感情」と「本能」。これが志賀直哉のすべてなのか。この疑問を中心に据えて、これからの読書を続けていきたい。

 

 

 

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