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日本近代文学の森へ 231 志賀直哉『暗夜行路』 118  「頼み方」の問題  「後篇第三  十三」 その2

2022-11-09 10:15:39 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 231 志賀直哉『暗夜行路』 118  「頼み方」の問題  「後篇第三  十三」 その2

2022.11.9


 

 謙作と直子が、新しい家を探しにいって、これはよさそうと思った家の大家の息子とちょっとした諍いをする。その場面で、大家の息子が、天井からつるした電燈の位置を下げてくれという謙作に、けんもほろろの応対をするのだが、その不思議な論理について、「京都というところは、こういうところなのだろうか?」と疑問を呈してみた。

 この疑問は、京都に住む旧友を念頭に置いたもので、こう書いておけば、あとで、必ずメールをくれるはずである。で、案の定、数日たってメールが来た。
それによると、彼の奥方が、知り合いに聞いてくれたというのだ。というのも、彼も彼の奥方も、京都の人間ではないので、確かなことは言えないが、さんざん「京都人」には悩まされてきたので、聞いてみる相手には事欠かないということらしい。

 で、その返事はこうである。(転載の許可いただいたので。少々手をいれています。)

 

(1)そもそも京都人は、京都人(碁盤の目の内に住んでいる人)以外はバカにしている。
(2)頼み方が率直過ぎる。何でも遠回しに、相手に言わす。ちょっと針仕事するのに、暗(くろ)おすけど・・・(大家に)どないか、方法ありますやろか? なんて、頼み方をする。相手に主導権を。自分で決めない(ズルい)。
(3)壁の頼み方は、丸見えで困る、と言っただけ。塀を作ると言ったのは大家。要は、京都人特有の下らないプライド。困ったな〜、どないしよ? 二階で着替えられしまへんな〜。(大家に) どないしたら、宜しいやろ? と聞くのが、いわゆる「相手にするのがめんどくさい」京都人。

 


 なるほど、ちょっとした「頼み方」が問題だったのだ。目からウロコである。

 そういえば、大家の息子は、この直前までは機嫌がよかったのだ。

 


 「此所がちょっと具合悪そうだな」二階の南向きの窓から首を出して謙作はいった。
 「隣りから首を出すと、直ぐ向かい合いになる」
 「本統に」と直子もいった。鍵を持って案内に来た大家の若い息子が、
 「其所でしたら、その便所の屋根に小さい塀を立ててもよろしいです。西日除(よ)けにもなりますよって……」と心持よくいった。
 「そう。そうしてもらえば上等です。それから、この電気の紐を部屋の隅に置く机の上まで引張れないと困るのですが、もし何だったら私の方で直してもいいけど……」
 「へえ、それ位、私方でさせましょう」

 


 ここでは、謙作も直子も、「直接」に、苦情を言っていない。大家の息子が来る前には、「具合悪そうだな」と謙作は言ったが息子はその言葉を聞いていない。やってきたら、二人が困っている。それを息子が「察して」、自分のほうから直そうと言ったわけで、「主導権」は息子にあるのである。だから機嫌がいい。

 ところが、その後は、こうなる。

 


 この辺まではよかった。が、それからまた階下に下り、茶の間になる部屋の電燈がやはり天井から二尺ほどしか下がっていないのを見ると、謙作は、
 「これも少し困るな」といった。「これじゃあ針仕事に暗いだろう」
 「延びるんじゃないこと」と直子がちょっと脊延びをしてそれを下げようとした。
 「延びまへん」大家の息子は気色を害したような調子でいった。そして少し離れた所に立って黙ってそれを見ていた。

 


 ここでの「問題点」は、まず、謙作も直子も、それぞれ苦情を言葉にした。これが、(2)に当たるわけだ。つまり、「頼み方が率直過ぎる。」ということ。「頼み方」というよりも、文句を言ってるわけだから、当然、息子にしてみれば、むっとする。更に、直子が「勝手に」電燈(のヒモ)を伸ばそうとする。これはもう絶望的にダメだ。息子が主導権をとられてしまったからだ。だから、「延びまへん」と突っぱねる。実際には「延びる」のかもしれないが、とっさにそう言うわけだ。

 その後の、電燈を下げなくても「京都の者にはそれで事が足りとるさかいな。」というのは、もう、「売り言葉に買い言葉」で、意地を張っているということになる。実際に、京都の人間が暗くても平気である、ということを言っているというよりは、意地を張っていると考えたほうがいいだろう。

 この部分については、横浜に住んでいる旧友とのやりとりで、彼が言っていたことだ。

 ヘタに読むと、「手暗がりでも京都人は我慢するけちん坊だ」といったような結論に向かいかねないところだが、「頼み方が率直過ぎる」という観点によって、その結論は回避されることになるわけだ。

 それにしても、「京都人」というのが、「碁盤の目の中に住む人」に限定されるというのも、スゴイなあ。まあしかし、「千年の古都」なんだから、そういうこともあるのかもしれない。「横浜人」と称するわけもわからない人間が、中区と西区と南区(いい加減です。まあ、中心部ぐらいの意味。)以外は「横浜」じゃないみたいなことを口走るのとはワケが違う。中区だろうが、西区だろうが、果ては、港区だろうが大田区だろうが千代田区だろうが、「碁盤の目の外」であるという点においてはなんの変わりもない。京都人、最強である。

 とまあ、そんな嫌味めいたことも言いたくなる、「京都人」だが、その「京都人」の一面(あくまでも一面にすぎないだろう)を、志賀直哉は、ここもサッと見事に描きだしているのである。

 

さて、その後、二人は貸家探しをやめて、祝い物の返しの品を買いにいく。謙作の母方の伯母が嫁にいった陶工の店などに行き、「赤絵の振出し」(注:振出し= 茶道で、小型の菓子器。また、香煎を入れる器。)を買って、その店を出る。


 二人がその家を出た時には既に日暮れ近く、寒い風が道に吹いていた。謙作にはその寒さがこたえた。
 「早く何所(どこ)かで飯を食わないと風邪をひきそうだ」彼はこんな事をいって二重まわしの襟を立てた。
 「きっと仙が支度をして待ってますわ」
 「どうだか?」
 「そう? そんなに平時(いつも)そとであがっていらしたの?」
 「そうでもないが、出掛けた時間がおそかったから、そとで食って来ると思ってるだろうよ」
 なだらかな五条坂を二人はこんな事をいいながら下りて行った。五条の橋はかけ更えで細い仮橋が並べてかけてある。二人はそれを渡って行った。

 


 寒風の中、五条の橋を渡っていく二人の姿が印象的だ。

 そして、ちょっとした会話から、結婚までの謙作の日常をふと垣間見る直子の心のうちも思いやられる。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 91 重なるレイヤー──劇団キンダースペース「パレードを待ちながら」をみて

2022-11-01 14:13:19 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 91 重なるレイヤー──劇団キンダースペース「パレードを待ちながら」をみて

2022.11.1


 

 芝居の楽しみというのは、その芝居で何がどのように演じられているかということもあるけれど、その芝居を誰がどのように演じているかということにもある。特に古典演劇の場合は、後者が圧倒的に重要だろう。演じられる芝居は同じでも、役者によってまるで違うということがあるだろうし、だからこそ、それをお目当てに出かけるということになる。

 「何が」は、脚本(家)中心とした見方だし、「誰が」は役者中心、そしてどちらにも共通する「どう」は、演出家中心ということもできる。

 先日見た劇団キンダースペースの「パレードを待ちながら」の場合は、そのどれとも一概には言えないが、特に「誰」がとても印象に残った。それは、キンダーにとっての再演ということもあるし、それ以上に、長いことキンダーの芝居を見続けてきたということもある。

再演ということについて言えば、実は、この芝居をほんとうに見たのか記憶が曖昧になっていて、いろいろ記録を探してみたのだが、見たという確証がもてないままに、見始めたのだが、なんと、始まって何十分経っても、「ああ、見た、これ」というふうにはならなかった。そればかりか、「やっぱりこれは初見だな。」と納得する始末で、そのまま最後まで見続けて、終わってしばらくしてから、じわじわと「見たよ、これ。」と思ったのだった。

 それが何を意味するか分からない。ぼくは、かつて見た芝居をちっとも覚えていなくて、「なんで覚えてないの?」と呆れられることもしばしばなのだが、今回もそういった健忘症の頭ゆえだったかもしれない。ただ、これは前にも見たという感じは、透明なレイヤーのように、次第に重なってくる──芝居のその奥にもう1本の芝居が透けて、あるいは重なってみえてくる──といったテイのもので、かならずしも、悪いものではなかった。むしろ、芝居に厚みができた(といっても、ぼくの頭の中でのことだが)ような感じがしたのだった。

 パンフレットに、演出の原田さんが、「この芝居に『男』は一人も出てこない。これは同時に男たちしか出てこないという事でもある。」と書いていた。なるほど、女たちの言葉で溢れる舞台は、そこに「いない」男たちの姿をくっきりと浮かび上がらせる。そして、そのだまし絵のように浮き出てくる男たちの姿は、滑稽なほどの愚劣ぶりだ。

 ここでも、レイヤーが重なる。真摯に懸命に生きる女たちのレイヤーと、バカまるだしで戦争に熱狂する男たちのレイヤーは、ときに、完全に重なり合成され、これが、実は見事な「女と男」の現実であり、その現実が、舞台に男が「いる」とき以上に濃密な現実として舞台に現れている、といった感じを与えるのだ。

 そうして、更なるレイヤーとして、「今、この時」というレイヤーが重なる。演じられるのは、第二次大戦下の「現実」だが、「今、この時」のこととして、身に迫るからだ。それこそが、この芝居を「今」再演するキンダーの意図でもあるだろう。

 そしてそして更にいえば、その上に──あるいはその下に──役者というレイヤーが重なるのである。

 特に今回ぼくが見たのは、最終日の最後の舞台で、その回だけ、「イーブ」の役が、小林もと果にかわって、「アンダーキャスト」(役者の万一の場合に備える代役)である岡田千咲の出演だった。岡田にとっては、初日にして楽日というわけで、こんな上演はぼくは初めてみた。聞けば、岡田自身が、この出演に立候補して、挑戦したのだという。なみなみならぬ芝居への情熱である。

 アンダーキャスト出演ということを、あらかじめ聞いていたので、ベテラン女優の中で、新人といってもいい岡田がどこまで演じられるのか、心配もしたのだが、それも杞憂だった。岡田の芝居は何度か見ているが、ここまで成長できるものかと感心してしまった。何事も情熱だ。情熱はすべてを乗り越えさせる。ぼくも元気が出た。

 ベテランの女優陣は、いまさら言うまでもないが、まさに円熟といっていい。ご本人たちは、どう思っているのか分からないが、舞台を楽しむ余裕が随所に感じられた。受けないに決まっているダジャレを敢えてぶち込んで、観客の反応を確かめるような場面もあって──むろん、演出家のしゃれっ気だろうが──心の中で吹き出してしまったが、それが「心の中」にとどまってしまって、「プッ」と声を出して吹き出せなかった小心さが悔やまれる。

 二人の息子の帰還を待ちながら死んでしまった「マーガレット」が、美しい墓の向こうに現れるラストシーンの崇高さは、女と男という二種類で成り立つ「人間」を超えた何ものかの存在を、確かに感じさせた。それはマーガレットの信仰する「神」そのものではないかもしれないが、そこれこそが、女であれ男であれ、どこまでいっても「愚劣さ」を免れない人間というものの、唯一の「救い」であるだろう。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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