日本近代文学の森へ 232 志賀直哉『暗夜行路』 119 「不幸」の予感 「後篇第三 十三」 その3
2022.11.23
文学なんて分からないほうがかえっていいのだと、以前にも謙作は直子に言ったことがあるわけだが、五条の橋の古い台石を直子の伯父さん(N老人)が譲り受けて、お茶室の踏み石にしたというようなことから、話題が、お茶のことになったときに、五条の橋を渡りながら、また、それを言うのだった。
「貴方もなかなかお茶人なのね。今日のお買物を見てもそうらしいと思ったわ」こんな事をいって直子は笑った。
「兄さんはどうなの?」
「兄さんも私もお母さんの子ですもの、そういう方は一向いけない方よ」
「その方がいい。若い人のお茶人はあまりいいものじゃないよ」
「貴方のは何でも解らない方がいいのね。文学も解らない方がいいし、風流も解らない方がいいし」
「本統だよ」と謙作はいった。「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」
「妙なお説ね。私、それも解らないわ」直子は大きな声をして笑い出した。謙作も笑った。直子はそれを覗き込むようにして、「やはりそれも解らない方がいいの?」といって自分でも堪らなそうに笑いこけた。
「馬鹿」そして謙作も思わず、こんな言葉を口に出した。
直子に、文学なんて解らないほうがいいんだと以前に言ったのは、妻がなまじ文学に詳しかったりすると、自分が文学に集中できないというようなエゴイスティックな観点からだとなんとなく思っていたのだが、どうもそればかりではないようだ。
「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」というのは、文学や風流が「悪趣味」だということではなくて、「文学」にしろ、「風流」にしろ、「解った」と思うことが「悪趣味」だということだろう。
そういうものを「解った」と思い込んで、「解っている人」と自分を規定して疑うことなく振る舞うということ、それこそが「悪趣味」なんだということだ。文学にまだ無知な直子が、急に「文学が解った女」なんかになられたら目も当てられない。むしろ「解らない」という自覚を持っていてほしい。そういう自覚をもって、文学なり風流に接することが、文学や風流に対する礼儀だということだろう。文学も風流も、いわゆる「通人」のものではなくて、あくまで、「解らないという自覚をもった素人」が憧れ、尊敬する対象であり、到達する目標でもあるはずだ。そういう思いが謙作、そして志賀直哉にはあったのではなかろうか。
二人は橋を渡ると、其所から四条まで電車で行き、菊水橋という狭い橋の袂から蠣船(かきぶね)に行った。謙作には尾の道以来の蠣船である。で、彼にはあの頃の苦しい記憶がちょっと気分を掠(かす)めて通ったが、しかしそれから被われるにしては今の彼は余りに幸福だった。一つはいる場所の雰囲気がまるで変っていた。あの薄暗い倉庫町の蠣船とは此所(ここ)は余りに変っている。前に祇園の茶屋茶屋の燈(あか)りがある。四条のけばけばしい橋、その彼方(むこう)に南座、それらの燈りがまばゆいばかりにきらきらと川水に照反(てりかえ)していた。
「蠣船」って何だろうと思って調べたら、ちゃんとWikipediaに載っていた。牡蠣は、牡蠣フライなら好きだが、生牡蠣は絶対に食べたくない。2、3度食べて、おいしかったけど、知人や生徒で、生牡蠣にあたった例を何度も見たので、それ以来、食べる気にならない。この「蠣船」では、生牡蠣は供されたのだろうか。
尾道の「蠣船」にのったころの謙作は、苦しい思いを抱えていたのだが、その気分が甦りそうになるけれど、謙作の今の「幸福」な気分が、それを押さえ込んでしまう。しかし、チラッと思い出されたその嫌な気分が尾を引いたのか、謙作は、この後、かつての栄花やお政の芝居のことを思いだし、それを話題にしてしまう。小さい気分の波が、やがて中くらいの波を起こし、そして、やがてクライマックスの大きな波へと増幅してゆく過程を、志賀直哉は叮嚀に描こうとしている。
蠣船の周辺の街の描き方も、簡潔だが、油絵のような印象で、見事である。
「懺悔という事も結局一遍こっきりのものだからね」彼はこんな事をいった。「二度目からはもう最初の感激はないんだから、懺悔の意味はなさないと思うよ。それを芝居で興行して歩くというのだから無理もない話だ。無論懺悔の意味は少しもないね」
彼はそれよりも、現在、罪を犯しながら、その苛責のため、常に一種張りのある気持を続けている栄花の方が、既に懺悔し、人からも赦されたつもりでいて、その実、心の少しも楽しむ事のないお政の張りのない気持よりは、心の状態として遥かにいいものだと思うというような事をいった。
「そうでしょうか? 私、悪い事をしても、いわない間は、それは苦しいの。だけど、それをいってしまうと本統にせいせいしますわ」
「あなたの悪い事と、お政や栄花の悪い事とは一緒にならないよ」
「異(ちが)うの?」こういった直子の言葉の調子が謙作には如何にも無邪気に響いた。
「そりゃあ、異うよ。あなたのはいいさえすれば誰れでも赦せる程度のものだし、お政や栄花のはそう簡単には行かないだろう。あなたのはいって直ぐあなたがそれを忘れた所で誰れも何とも思わないが、悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」
「誰れがいい気がしないの?」
「誰れがって……悪い事をされた人が……」
「執念深いのね」
「懺悔もいっそ懺悔しなければ悔悟の気持も続くかも知れないが、してしまったらかえって駄目だね」
「そんなら、どうすればいいの」
「…………」謙作は不意にいい詰まった。彼にはふと亡き母の事が想い浮んだ。彼は陥穴(おとしあな)に落ちたような気がした。そして、口を噤(つぐ)んでしまった。二人は暫く黙って歩いた。五、六歩行った時に、
「もうそんな話、やめましょう。ね?」と直子も何か不安な気持に襲われたかのようにいった。直子は謙作の母の事は聞いていた。が、それがその時、想い浮んだのではないらしかった。ただ何となく気配が彼女を不安にしたらしかった。そして、
「何か、もっと気持のいいお話ないの? 気持のいいお話をして頂戴。……ねえ、私、そんなお話よく解らないのよう」殊更甘えるような調子にいって、その丸味のある柔かい肩で押して来た。
「何でも解らないね」謙作は笑った。「解らないといえば讃められるかと思って……」
「そうよ。私、何にも解らないから、わからず屋よ。いいこと。貴方もその方がいいんでしょ」
間もなく二人は軽い気持になって北の坊の寓居へ帰って来た。
ここは重大な伏線となっている。直子がこの後大きな過ちを犯すことになるわけだが、その過ちを、謙作がどう受け止め、どう対処していったか、ぼくはまだ読んでいないから分からないわけだが、(高校生の時に一度読んだが、もちろん、ぜんぶすっかり忘れている。)ここで謙作が言っている、「悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」という言葉は、実に重苦しい響きをもっている。結婚式をあげたばかりの謙作が、妻に向かって言う言葉としては、あまりに重く、息苦しい。
悪いことをした以上、勝手に懺悔されたって何にもならない。本人はそれでさっぱりスッキリするかもしれないが、そんなものはされた方にしてみれば、なんの役にも立たない。悪いことをした者は、とことん最後まで苦しみ続けてくれなくては、困る、気が済まない──そんな気持ちは、誰でもが抱く思いだ。けれども、まだ「何にもしていない」直子は、そんな人間のどうしようもない気持ちのありようを、いきなり提示されても、「そんなら、どうすればいいの」と言うしかない。どうして、幸福な今、そんなことを謙作が言い出すのか、直子は理解に苦しむわけだし、謙作自身も、理解できないだろう。けれども、謙作は、この「幸福な今」の向こうに控えている「不幸」の予感におびえているのかもしれない。