日本近代文学の森へ 261 志賀直哉『暗夜行路』 148 誤読訂正 そして「暗夜行路」の価値 「後篇第四 六」 その3
2024.5.19
前回、どうやらぼくは大変な誤読をしたようだ。それは、前回の後半部分。次の引用部についての読み取りだ。
しかし謙作は自身の過去が常に何かとの争闘であった事を考え、それが結局外界のものとの争闘ではなく、自身の内にあるそういうものとの争闘であった事を想わないではいられなかった。
「つまり人より著しいんだ」と末松がいった。
謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った。──
「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方がましだった」
そんな意味をいうと、末松は「しかしそれでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂なしという境涯まで漕ぎつけさえすれば」といった。
この部分の「直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。」の「お前」をなぜだか「直子」ととってしまったのだ。だから大変なことになった。「直子はこの問題から、除外されてしまったのだ。」というとんでも誤読になったわけである。
いくらスーパーエゴイストたる謙作だとて、過ちを犯した当の本人を「問題から除外する」ことなどあるわけがない。あるわけがないことが書かれていたととってしまったのだから、ぼくは、えらく混乱したけど、まあ、謙作ならそこまで行くのかもしれない、と恐らく思ったのだろう。
今、改めて冷静になって、ここを読めば、謙作の態度を難詰してくる末松に対して「お前は退いていてくれ」と言ったのだとしかとれない。どうしてそんな誤読をしたのか分からない。「魔が差した」ということだろうか。
うるさい、ゴチャゴチャ言うな、オレの問題はオレが解決してみせる、お前は邪魔だ、というのは、友人の末松にこそ向けられた気分だったのだとすれば、すっきりする。それしかないよね。
ここに、謹んでお詫びして訂正致します。(何度目か?)
さて、それでもなお謙作の「強烈なエゴイズム」は、「健在」だ。
謙作は、自分というものを度しがたいものとして捉えているし、その度しがたいものとの戦いとして自分の人生を捉えてもいるのだが、つまりそれだけ「自分」というものの存在を疑っていないのだといえる。
思想家の内田樹と精神科医の春日武彦の対談「健全な肉体に狂気は宿る」(2005・角川書店)の中で、内田は、いわゆる「自分探し」を批判して、自分なんてどんどん変わっていって、結局何だか分からないものなんだから探しても意味がない、というようなことを言っているが、謙作(あるいは志賀直哉)の場合は、探すまでもなく、ちゃんと「ある」。把握されている。ということは、その「自分」というものは、変化しないもの、度しがたいほど変化しないものとして把握されているのだ。
謙作が把握していた(あるいは把握していると思っていた)自分というものは、内田がいうような自分ではなくて、いってしまえば「近代的自我」とでもいうべきものなのだろうと思われるが、この点については深入りしない。いつか、言及できればいいとは思っているが。
さて、この本で、「ひきこもり」が話題となり、「ひきこもり」の原因となることの一つに「罪悪感」があるとの春日の指摘に、内田はこんなふうに言っている。
うーん、それは深刻だな。でも、いずれにしても、ソリューションの選択がちょっと早すぎるような気がするんですよ。罪悪感にしても、幼児虐待のトラウマにしても、とにかくレディメイドのお話にわりと簡単に乗ってしまうんじゃないですか。ひきこもりでも、解離症状でも、罪悪感でも、問題の生成プロセスは一人ひとり、みんな全然違うわけじゃないですか。
ひどい親だ、ひどい先生だ、ひどい学校だ、と言っても、実際はその「ひどさ」には無限のグラデーションがあるわけでしょう? その差異というか、微妙な違いをどうやってていねいに言語化するか、という努力を放棄して、するっとできあいの物語のパッケージにはまり込んでしまう。ぼく、その安易さがどうも気になるんです。
自分の身に起きている事柄には、「バリ」というか「バグ」というか、そういう「まだことばにできないような何か」、「できあいのストーリーでは説明できない余剰」があるわけでしょう。むしろ、その割り切れないところにその人の個性とか、スキームを書き換えるときの足がかりになるようなヒントがあったりすると思うんですけど、「バグ」や「ノイズ」を全部切り捨てて、できあいのチープでシンプルなソリューションに飛びついてしまう。
これって、バランスを崩した人が、池の真ん中の小さな石の上にパッと飛び移ったようなもので、たしかに当面の足場はあるけれど、そこから先はもうどこにも行けないし、元へも戻れなくなっている。問題の解決を急いで安手のソリューションに飛びつくとむしろ「出口なし」ということになりそうな気がするんです。
そういう行き止まり状況を打開して、そこから脱出するための手がかりというのは、実は自分の中にしかないんです。自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。
その誰にも共有されないもの、自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめてそういう行き止まり状態から出られると思うんです。
でも、今問題にしているケースだと、自分の中の特異点を切り捨てて、わかりやすいソリューションに飛びついてしまったことで、苦境に陥っているわけですから。そもそも出口を自分で塞いで「出口なし」にしちゃったんだから。
自分というものは、結局のところ何だか分からないものだが、それでも自分の中に起きた問題というものを解決していくためには、出来合の「ソリューション」に飛びつくのではなく、自分をじっくり見つめていかねばならないということだが、特に、「自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。
その誰にも共有されないもの、自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめてそういう行き止まり状態から出られると思うんです。」という指摘は、そのまま「暗夜行路」の「価値」を考える際に重要なことだと思われるのだ。
養老孟司は、日本の私小説をこきおろして、こんなことを言っている。
なにしろいきなり「独立した自我」なんていわれても、フツーの人は、「そりゃ、俺のことか」と思うに違いなかったからである。それなら「俺ってなんだ」を具体的に吟味することになり、日本人は生真面目なところがあるから、自分が毎日することを懇切丁寧に記録し、それが私小説になった。だって、それ以外に、自分なんて、吟味のしようがないではないか。(「日本の無思想」2005・ちくま新書)
養老孟司には、私小説を論じた本もあるらしいから、ここだけを取り上げるのもどうかとは思うが、「私小説」がそんなに単純なものじゃないことは、「暗夜行路」を読めばよく分かる。もちろん、「暗夜行路」は純然たる私小説ではないけれど。
謙作が見つめていたのは、「自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向」であり、それを何とかして「主題化・言語化」して、「自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる」ところまで行こうとしていたのだということになる。
「暗夜行路」を読んでいて、時折ぶつかる「わけのわからないもの」は、謙作のなかの「バグ」であり、「バリ」である。謙作の幼児期のそれこそ特異なトラウマも、さまざまある人間のトラウマの「無限のバリエーション」のひとつであり、その「差異」を、志賀直哉は、飽くことなく「ていねいに言語化」する「努力」をしてきたわけだ。
その果てにしか「行き止まり状態」からの脱出はない、と内田は言う。とすれば、謙作の「脱出」は、約束されたようなものではないか。それとも──。