真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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池澤夏樹氏に『帝国の慰安婦』の評価再考を願う

2019年07月05日 | 国際・政治

 7月3日、朝日新聞の「終わりと始まり」という欄は、池澤夏樹氏の文章でした。同氏の文章が新聞に出たときは、私はいつも感心し、なるほどと教えられ、また、頷きながら読むことが常でした。今回も、「左軍」の人たちについて、”この人たちは低い声で語る。歴史文書を解析し、論理を尽くして、右軍の主張をひたひたと崩してゆく。角砂糖で築いた城壁に水が染み込んでゆくのを見るようだ。”と書いておられます。鋭い観察眼だと思いました。そして、それは「左軍」の人たちが、何も飾る必要はないし、何も作る必要がなく、自分が把握した事実を語るだけでよいというところからくるものだろうと思いました。

 だから、今回もいつものように、鋭い観察眼や深い思考に支えられた素敵な表現の同氏の文章に感心しながら読んでいたのですが、最後の「帝国の慰安婦」に関する9行が、私には驚きでした。すべてをひっくり返されるような内容だったからです。

 私は、朴裕河(パクユハ)著「帝国の慰安婦」にとても抵抗を感じ、読みっ放しにはできないと思って、抵抗を感じた部分を抜き出し、自分の考えを<「帝国の慰安婦」事実に反する断定の数々NO1~NO6>にまとめ、ブログにアップする作業を終ったばかりでした。だから、池澤氏の文章の全文と、私の感想も合わせて記録に残しておきたいと思いました。

 池澤氏には『帝国の慰安婦』の評価の再考をお願いしたいのです。『帝国の慰安婦』における、朴裕河教授の断定が、事実に基づくものかどうか、また、どんな意味をもつのか、吟味し、検証をしながらもう一度じっくり読み直して欲しいと思います。
 私は、『帝国の慰安婦』が”両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる”というような評価のできるものではないと思います。同書は、日本軍慰安婦問題において、決して両国と諸勢力を公平に扱ってはいなし、明晰な構図も示してはいないと思うのです。

 『帝国の慰安婦』の著者は、序文で”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、その対立をなんとかしたいと思い、したことは、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と書いています。その姿勢は素晴らしいものだと思います。

 しかしながら、同書には、名誉・尊厳・人権の回復を求めて 慰安婦であったことを名乗り出た朝鮮人慰安婦の証言に向き合ったと思われる対応がほとんど示されておらず、逆に、名誉・尊厳・人権の回復を求めて、日本政府に公式謝罪と法的賠償を要求することが誤りであるとするような文章が随所に書かれています。私には”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”たとは思えない内容ばかりでした。
 この日本軍慰安婦問題で最も重要なことは、思い出したくもないつらい過去を語り、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権の回復を図ることだと思います。常識的判断に基づいた一定程度の妥協は必要かも知れませんが、名誉・尊厳・人権の回復につながらないような和解は、将来に禍根を残すと思うのです。しっかり被害者に向き合い、被害者の納得を得ることが欠かせないと思います。そういう意味で『帝国の慰安婦』には、とても問題があると思うのです。
 政治家が主導したり、大枠をはめる政治取引のような和解ではなく、あくまでも、法律的・道義的解決を図る和解であってほしいと思います。

 下記が、『映画「主戦場」 慰安婦語る口調 言葉より雄弁』と題された、池澤夏樹氏の文章の全文です(但し、縦16文字一行の三段の文章を横書きにしています。フリガナは括弧書きにし、漢数字は算用数字に変えています)。
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                  映画「主戦場」 慰安婦語る口調 言葉より雄弁                
                                                         池澤夏樹
 すべての試合の観戦はおもしろい。映画「主戦場」の場合はサッカーや囲碁ではなく、論戦。
 従軍慰安婦というテーマを巡って、右軍と左軍双方の論客が登場、それぞれ自説を展開する。
 第二次世界大戦の時、朝鮮から多くの女性がアジア各地の戦場に送り出された。あるいは自ら渡った。日本兵たちを相手に性行為をするのが彼女たちの職務だった。これが強制であったか否か、実態はいかなるものだったか、これが論議の軸だ。
 論者が直接対決する形のディベートではない。インタビュアーが一人一人を訪れて話を聞き、それを争点ごとに並置して編集、一つの流れを作る。ドキュメンタリーの手法として新しいものだ。
 争点は──
 強制連行はあったか?
 軍や国の関与はあったか?
 二十万人という数字の根拠は?
 売春婦か性奴隷か?
 歴史教育の場で教えるべきか?
 慰安婦の像は撤去すべきか?
 などなど
 監督のミキ・デザキは日系のアメリカ人。この問題については第三者の立場にある。だから右軍と左軍も積極的にインタビューに応じたのだろう。持論を聞いてほしいと思ったのだろう。

 論争だから武器はあくまでも言葉である。論理的な説得力のある言葉。ところが映画は発される言葉と同時に話者の口調と表情も伝える。これが言葉以上に雄弁で、人柄があからさまになる。
 右軍には派手な人が多い。昨年LGBTの人は「『生産性』がない」と書いた国家議員の杉田水脈(ミオ)「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝、自称歴史家ながら「人の書いたものはあまり読まない」と公言する日本会議の加瀬英明、優雅な口調で静かに語る櫻井よしこ。やたら賑(ニギ)やかなアメリカ人「テキサス親父(オヤジ)」タレントのケント・ギルバート(本業は弁護士だそうだ)。
 キャラの立った人たちばかりだ。
 それに対して左軍の方はどちらかと言えば地味。歴史学者の吉見義明、同じく林博史と政治学者の中野晃一、「女たちの戦争と平和資料館」の渡辺美奈、韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャン、元慰安婦の娘で「ナヌムの家」の看護師であるイン・ミョンオク。
 この人たちは低い声で語る。歴史文書を解析し、論理を尽くして、右軍の主張をひたひたと崩してゆく。角砂糖で築いた城壁に水が染み込んでゆくのを見るようだ。

 映画を見ていて思ったことがある。文字で読んでいたのでは気づかなかった音の響き。
 「いあんふ」という言葉はいかにも柔らかい。母音ばかりで、慰めてもらいたいという男の気持ちが表れている。それに対して「せいどれい」は耳にきつい。SとDとRと鋭い子音が連続する。女たちの側からの詰問の感じがある。
 おもしろいことに英語でも語感が同じなのだ。comfort woman は柔らかいのに sex slave はきつい。
 スタッフはアメリカ西海岸まで取材に行っている。カリフォルニア州のグレンデールという町に慰安婦の像が作られた時のこと。あちらにもちゃんと右軍と左軍がいて論戦を展開していた。
 グレンデールの元市長が言ったことに蒙(モウ)を啓(ヒラ)かれる思いがした──「慰安婦問題というのは、若いアジアの少女たちに起こった人権侵害です」
 そう、あれを作るのは世界中すべての地域で戦争による性被害がなくなるのを祈ってのことなのだ。日韓/韓日の二国の歴史に関わるだけではない。「イスラム国」は多くの女性を奴隷状態に置いて暴行を繰り返した。戦争が暴力であり暴力がもっぱら男性の力の誇示であるとしたら、同じことは今後も起こるだろう。この問題に人々の関心を向けるために、あの像には意義がある。
 当面の課題は日本の若い人たちの無知と無関心である。映画の中では韓国の慰安婦像の前で日本人少女二人が「慰安婦のことを知っていますか?」と問われて「さあ……」と当惑する。2006年の教育基本法改正以来、教科書はこの件を扱うことを避けるようになった。
 ぼくがこの映画を見た時は満員で、観客は時にスクリーンの発言に失笑を洩(モ)らし、終わった時は拍手した。しかし、ああ、そのほとんどが中高年。
 見終わった方にぼくは朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする。『主戦場』は映画としてよくできているがあくまでもレポートであって、論理の骨格に欠ける。それを補うのにこの本は役立つ。両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる。


 
 
 

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