私は、「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」朴裕河(朝日新聞出版)を読んで、ほんとうに驚きました。著者は、”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、”その対立をなんとかしたいと思い、したことは、「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と、書いているのですが、下記のような朝鮮人慰安婦の証言はほとんど無視し、逆に、小野田寛郎氏の「私が見た従軍慰安婦の正体」から、”彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった”などという文章を引き、慰安婦であったことを名乗り出た人たちやその支援者の名誉・尊厳・人権を回復するための運動を批判しているのです。私は、とても抵抗を感じました。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、慰安婦であった人の証言や、当時の慰安所に関わる日本軍や政府の関係文書を抜きに語ることはできないと思います。
だから、証言集などを手にすることが難しい人たちのためにも、いくつかの証言を「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から抜粋してアップすることにしたのです。
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「一家に一人の供出」だと言われ
黄錦周(ファンクムジュ)
少女時代
私の家は由緒正しいソンビ[士人、官職につかない学者]の家系でした。扶餘にいた祖父と水原(スウォン)にいた母方の祖父は古くからの親友同士で、父が生まれる前から互いの子どもたちを結婚させる約束だったといいます。父方の祖父が亡くなると、母が十七歳、父が十二歳になった年に、二人は結婚することになりました。
私は1922年、陰暦の八月十五日に扶餘で生まれました。私が長女で、妹が一人、弟が一人いました。経済的には豊かではありませんでしたが、父はソウルで中学校を卒業した後、日本に留学しました。父よりもニ十歳年上の伯父が水原で司法書士をしながら父の学費を援助しましたが、それだけでは足りなかったので、父は靴磨きや新聞配達などをして苦学したそうです。ところが留学も終わろうとする頃、父は病気になりました。故郷に戻り水原の伯父の司法事務所で仕事の手伝いをしましたが、病気は悪くなる一方でした。扶餘の家に帰って治療しても、一向に良くなりません。その治療費のために家計は苦しくなりました。父は床に伏して、当時一般の人の目には触れることのなかった新聞ばかり読んでいました。新聞は私が面事務所に行って持って来たりしました。
ある日、いい薬があるという話を耳にしましたが、その値段が百円だというのです。家にはそんな大金はありません。ただ気をもむばかりでしたが、ソウルで大きく商売をしている咸興(ハムフン)の崔(チェ)さんという人を母の友達が紹介してくれました。私は崔さんに父のことを話しました。その人は、父親は大事にしなさいと言いながら百円をくれました。その代償に、私は崔さんの養女となり、
ソウルにいる崔さんの妾の家で手伝いをすることになったのです。後で聞いたところによると、父はそのお金で薬を買って飲みましたが、甲斐もなく一年後に亡くなったということでした。私は、家族の誰にも言わずに家を出ながら、成功するまでは何があっても決して帰らないと固く心に誓いました。私はその時これで親に恩返しができたと思いました。私が十三歳の時(1934年)のことでした。
崔さんの妾は意地悪でしょっちゅう殴るので、私はひどく苦労しました。二年間そこで暮らしましたが、養父である崔さんにそのことを訴えると、咸興の本妻の家に移してくれました。咸興の家に私を連れて行ってくれた人が本妻から百円を受け取って行きました。私の借金は二百円になったわけです。これがずっと心の重荷となりました。
咸興の家には息子と娘が二人ずついました。養母は私によくしてくれました。勉強しなければならないと言って十七歳になる秋から夜学にも通わせてくれました。ハムソン女子講習所というところで、大きな教会が運営していました。夜になるとカーテンを引いて間を区切り一年生から四年生まで学年別に教えていたのです。私は二年生まで通って日本語、算数などを習いました。朝鮮語は一週間に二時間しか教えませんでした。私は編み物と縫い物がとても得意でした。
日本人班長夫人の誘いに乗って
夜学の二年生を修了して一年ほど休学していた時のことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、私の家の裏の一戸建てに借家暮らしをしていました。班長の姿をみることはめったにありませんでしたが、夫人と子どもたちは時々見かけました。その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人はいかなくてはならない」と暗に脅迫しました。私は区長が自分の娘を行かせることもあると聞いた上に、村で以前に日本の工場に行ってお金を稼いできた人もいたので、日本の工場に行くという話を疑いませんでした。養父の家には私を含めてまだ嫁に行っていない娘が三人もいましたので、誰か一人は行かねばならなくなるだろうと思いました。その時、長男はソウルの大学に、次男は日本の大学に行っていました。次女は高等女学校に通っており、長女は咸興高女を卒業して日本の大学に入る準備をしていました。養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。これからさらに勉強する娘たちをいかせてはならないと思ったのです。それに二百円の借金も返したいと思いました。日本の工場で三年間働けばそれだけの金を稼げるだろうと考えたのです。養母はとても喜んで三年辛抱して行ってきてくれたらいいところに嫁に出してやろうと言いました。ニ十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。
私の村では二人が行きました。班長夫人が集合日時と場所を知らせてくれたので、その時間に咸興駅に行きました。咸興駅に行ってみると、いろいろな郡か来た女たちが二十人くらいいました。年格好は大体十五、六歳といったところで、私が一番年長の方でした。出発の時、送別式のようなものはなく、見送りの家族が大勢きていました。私は黒のユトンチマに白のチャミサ(絹)チョゴリを着て、黒い木綿の風呂敷の中に下着、生理帯、石鹸、ハブラシ、くし、消化剤、三年過ごすための冬服、夏服を入れて持って行きました。駅で五十代の朝鮮人男性が私たちの一行を引率し、日本の軍人に引き渡しました。軍人は私たちを軍用列車に乗せました。軍用列車の他の車両には軍人が乗っていました。一つの車両に私たちの一行と他の女たちも合わせて五十人ほど乗っていました。他の車両にも女たちがいたようでしたが、よくわかりませんでした。咸興駅から一緒に乗った二十人に関しては互いに知り合いましたが、他の女たちのことはよくわかりません。
汽車の窓には黒い油紙でできた日よけが引き下ろされていました。女たちは皆、家を離れる悲しみから力なく座り込んでいましたが、私はこの日よけの隙間から外を覗き見ました。そして、私たちを汽車に乗せた軍人がぐるぐる巻きにした紙を日本人の憲兵に渡し、憲兵の方からも似たようなものを受け取っているのを目撃しました。おそらく書類を交換したのでしょう。この場面を見た時なぜか不安がよぎり、その後も忘れることができませんでした。今でも鮮やかに思い出すことができます。汽車の車両の前後には見張りの憲兵が一人ずつ立っていました。
外を見ることもできず、電灯もついていなかったので汽車の中は真っ暗でした。でも北の方向に向かっていることだけはわかりました。ソウルの方に行くのだなとばかり思っていた私は、汽車が北へ北へと向かっていくことに疑念を抱きましたが、聞くこともできませんでした。汽車はトンネルの中でしばらく止まってしまったり、夜はあまり走らなかったりしました。何度か汽車から降りて倉庫のような所に隠れたりもしました。汽車を乗り換えたような気がしますが、よく覚えていません。その間に一日に二回ずつ握り飯と水をくれました。時計もない汽車の中でニ、三日過ごしたように思います。汽車から降りるとなにやら放送する声が聞こえました。何の放送か尋ねると、吉林駅だということでした。
駅前広場に出ると、埃まみれの汚い幌を張ったトラックが待っていました。汽車から降りてきた女たちがトラックに分乗しました。女たちは黒い木綿の風呂敷包みを一つずつ抱えて座っていました。ガタガタと何度も飛びはねるようにしてトラックは半日走り続けました。
「へたしたら殺される」
トラックが着いた場所には民家のようなものは一切なく、軍隊の幕舎[テント]ばかりが見える果てしなく広い部隊の敷地内でした。私たちは[小屋(コヤ)]と呼ばれるたくさんの幕舎の一つに荷を解き、その日の睡眠をとりました。ブリキで丸く建てられた小屋の床には板を敷き、その上に畳を被せてありました。
毛布一枚と刺し子の布団を一枚支給されました。とても寒かったので、私たちはお互いに抱き合って寝ました。私は「ここで軍人の食事の世話や洗濯をするのだな」と思いました。その小屋には私たちより先に来ていた女が何人かいました。彼女らは「あんたらももう終わりね。かわいそうに」と言いました。「私たちは何をするの?」と尋ねると「仕事は仕事だけど仕事じゃない。しろと言うとおりにするしかないよ。へたしたら殺される」と言うのでした。
翌日、軍人たちが来て女たちを一人ずつ連れて行きました。私もある軍人に連れられて将校の部屋に行きました。将校は寝台の横にいて、近くに来いと言いながら、抱き寄せようとしました。私が嫌だと言うと何故かと問い返しました。「洗濯や掃除ならやります」と言うと、そんなことはしなくていいと言いながらまた抱き寄せようとしました。それでも振り切ると両頬を叩かれました。私が助けてくださいと頼みこむと、とにかく言うことを聞けと言われました。私は死んでもそんなことはできないと言いました。将校がチマを強く引っ張ったので、チマの肩紐だけ残して引き裂かれてしまいました。その時私は黒いチマに白のチョゴリを着て、髪を長く編んでいました。チマを引き裂かれ下着姿になってしまった私はそれでもいやだと言って座り込みました。将校は私のおさげ髪を引っ張って立たせ刀で下着を引き裂きました。その時私は気を失ってしまったのです。しばらくして気がつくと、将校は向こうの方に座って汗を拭き、服を着ているところでした。兵士が来て私をまた連れて出ました。私は下着を拾い、チマを抱きかかえて泣きながらその部屋を出たのです。痛くて歩くのもやっとでした。先に来ていた女が「ほらごらん、私らは生きてここから出て行くことはできないんだと」と言いました。
半月ほどの間は一日に、三、四回ずつ将校に呼ばれました。来たばかりの女は新物ということでしばらくの間将校の相手だけをさせられたのです。将校たちはサックを使わないので、この期間に妊娠した女がたくさんいました。妊娠したことにも気付かずに606号の注射を受けると、体がむくみ寒気におそわれ下血しました。すると病院に運ばれて医者が子宮の中を掻爬(ソウハ)します。このように三、四回搔爬すると、もう妊娠できない身体になりました。
約半月後、その小屋に荷物を置いたまま慰安所に行くことになりました。慰安所は木造の簡単な建物で、板材で五、六部屋に隔てられていました。戸は毛布を破いたものが下げられているだけでした。そんな建物が三、四棟並んでいました。その他にも慰安所の建物があると聞きました。慰安所の看板はありませんでした。部屋は一人寝るのにちょうどという大きさで、板間の上に毛布を敷いてやっと人一人通れるくらいのものでした。
軍人の相手が終わると自分の小屋に帰って寝ることになっていましたが、夜中まで、あるいは夜通し軍人たちが来ましたし、疲れてもいたので慰安所の部屋で寝ることが多かったと思います。布団一枚かけて寝るのですが、寒くて死にそうでした。食事は兵士が利用する食堂でとりました。軍人らが食事を作ってくれました。ご飯に味噌汁、たくあんが主なメニューでした。到着したばかりの時、モンペと羽織り、軍事用の靴下、帽子、黒の運動靴、刺し子のオーバーとズボンをくれました。その後は軍人の運動着のようなものをもらって着たこともありましたが、そのうち補給が途絶えて軍人たちの古着を拾って着るようになりました。1945年にはいると、服の供給もなくなるほど物資の不足が深刻化していました。おかずもなく、味噌、醤油もない中でご飯ニ、三口に塩水を沸かして飲むという有様でした。
慰安所に軍人たちが来る時間は特に決められておらず、兵士と将校が入り混じって来ましたが、将校は病気がうつるのを恐れてあまり来ませんでした。一日に相手した軍人の数は三十人~四十人くらいでしたが、休日には軍人たちがふんどし一枚で列を作るほど押し寄せました。まだ前の人がいるのにそのふんどしまで取ってカーテンを開け押し入る軍人もいました。少しでも時間が余計にかかると、外で「早く、早く」と叫ぶ声がしました。戦場に出る前の軍人は特に荒々しく、泣きながらする人もいました。そんな時には彼らをかわいそうに思うこともありました。サックをしてくる人、持ってきてつけてくれという人、つけても来ないし持っても来ない人、と様々でした。初めにサック一箱を配給されましたが、私はそれさえなければ軍人が来ないと思って捨ててしまったのです。でも軍人がやって来ました。今思えば私が損をしただけでした。
慰安婦生活を強いられた期間に報酬を受けたことは一度もありません。お金も票のようなものももらったことがありません。
定期検診は一ヶ月にニ、三回病院に行って受けましたが、一年後くらいからは事務室のような幕舎に軍医が器具を持って来て行うようになりました。消毒をして薬を塗り606号の注射も打たれました。女の看護婦はみたことはありません。女たちは一年もすると皆健康ではなくなりました。妊娠をニ、三回経験し、様々な病気にもかかるのです。病気がひどい時には隔離され便所も別にされて、治るとまた連れて来られるのでした。このように二回までは治療を受けましたが、三たび再発すると軍人に連れて行かれ、二度と帰っては来ませんでした。陰部から臍まで黄色く化膿した女もいました。こうなると顔も腫れて黄色くなりました。こういう女たちも軍人に連れて行かれ、そのまま帰って来ませんでした。咸興駅から一緒に行った二十人のうち、残ったのは私一人で、あとは皆途中でどこかへ消えてしまいました。病気のせいでいなくなった女もいましたし、他の部隊に移動した者もいたからです。そして新たに補充された女たちの多くもいなくなり、私がいた小屋に最後まで残っていたのは私の他には七人だけでした。全員朝鮮人でした。この女たちも皆病んでいて思うように動くこともできない有様でした。
生理の時には脱脂綿のようなものを配給されました。一年ほどした頃からこの配給が途絶えたので、他の人が洗って干しておいたものを盗んで使ったり、軍人たちのゲートルを拾ってきて洗って使ったりもしました。これが軍人の目に止って縁起が悪いと殴られたこともありました。
軍隊の中で慰安婦は人間としての扱いを受けることができなかったのです。殴られることが日課でした。月を眺めているだけで何を考えているのかと殴られ、一人言を言えば文句を言ったと殴られました。部隊の中のできごとは見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしろと言うので、手で目を覆って歩いたりしました。幕舎の外に出ようとすると、どこに行くのかと足蹴にされたので、外を見ることもできませんでした。だから部隊名も、軍人の顔や階級も覚えられませんでした。私は特に反抗した方なので、よく叩かれたようです。あまり叩かれすぎたせいか今でも急に意識が遠くなり耳が聞こえなくなることがあります。膝と臀部に強力な磁気をつけて暮らしています。風呂に入る時にはずすだけで、数時間後には腫れあがって座ることもできなくなってしまいます。
子宮が腫れて血膿が出て兵隊の相手をすることができなかった日、ある将校が来て相手をできないなら代わりに自分の性器を口に含めと言いました。私は「そんなことをするくらいだったら、あんたのクソを食らうほうがまだましだ」と言い返しました。するとその将校は「このやろう、殺してやろうか」と言ってめちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加えました。私は気を失ってしまいました。そして気がついた時、四日も経ったと小屋の同僚に言われました。
女たちの中には朝鮮で学校に通っていて、休みを利用して中国の親戚の家に遊びに来たところを道端で軍人に捕まえられて来たという者もいました。二十才歳くらいの女でした。私の小屋にいた女は皆朝鮮人で、中国人が一人だけ混じっていました。朝鮮人は北部の出身者が多く、論山から来たという者も一人いました。私のように軍需工場に行くと騙されて来た人が大部分でした。
特に懇意にした軍人はいませんでしたが、衛生兵と少し親しくなったことがありました。私は、軍医の下で働いていたこの人に頼んで、病気にかかった同じ小屋の女たちを治療してもらったりしました。でもそれも束の間のことで、他には親しくした軍人はいません。軍人たちにめちゃめちゃにされるので、淋しさなどを感じている余裕もなかったのです。
ある日、移動する部隊があるので一緒に行きたい者はついていってもいいと言われました。私はあまりにもつらかったのでここよりはましだろうとついて行くことにしました。私の他にも十数人がついて行くことになりました。トラックに乗って出発したのですが、吐き気がひどく外を見ることもできなかったので、どこにどのように行ったのかわかりません。船にも乗ったような気がします。軍人たちは私たちを慰安所に降ろしました。慰安所の建物は吉林の慰安所と似ていました。どこだったのかわかりませんが、爆撃がひどくて夜は灯火することができませんでした。そこに着いてみると 他の女たち(中国人二人、他は朝鮮人)が先に来ていて、ここはたとえ逃げ出せたとしても水に落ちて死んでしまうようなところだと言いました。部隊はたしかに陸軍ではないようでした。慰安所に来る軍人は主に海軍で、時たま他の軍人が来る程度でした。吉林の軍人たちよりも乱暴でもっとひどくぶたれました。戦闘に出る前の軍人はとりわけ乱暴で、とても生きていけないと思いました。八、九ヶ月ほどしたある日、軍人たちが吉林の方に後退する気配を感じた私は、ひとり死にものぐるいで軍人たちの中に混ざってそこを出ました。そうしてもといた部隊に戻ったのです。満州に戻ってしばらくした頃、解放を迎えました。
捨てられた朝鮮の女たち
ある日、夕方になったというのに食事の知らせがありません。人も来ないし、外も静まり返っていました。幕舎の戸をそっと開けて外に出て見ると、馬も、トラックも、車も、何もかもなくなっているのです。鉄条網にかけてあるムシロだけが強風になびいていました。そっと這うようにして食堂に行ってみると、めちゃめちゃに散らかっていて人っ子一人いませんでした。水を飲んでいると兵士が一人現れました。
彼は、連絡兵として遠くに行って帰って来たらすでに部隊はなく、「早くここを発つように」という将校のメモだけが残されていたと言いました。その兵士は私にこうも言いました。「原子爆弾が投下されて日本は降伏した。おまえたちは朝鮮に早く帰った方がいい。ここにいたら中国人に殺される」。
私は幕舎に帰って、残っていた七人の女たちにその言葉を伝え、早く発とうと誘いました。全員朝鮮人でした。彼女たちは皆、下腹部が腫れて膿が出て、体がむくんで歩くのもしんどいと言って泣きながら、私一人で行くように言うのでした。私は心が痛みましたが、仕方なく一人で幕舎を出てまた食堂に行ってみました。兵士はもういませんでした。
八月だというのに寒かったので、軍人が捨てて行った下着のような、運動着のようなものを三枚重ね着して、食堂で拾った大きさのちがう地下足袋を履いて、虱だらけの頭を手ぬぐいで縛って走りました。
兵営は思っていたよりもはるかに広いということをこの時知りました。門を三回もくぐりぬけ、最後に鉄条網の門を通り抜けてやっと部隊の外に出られました。三里ほど歩いて行くと人の姿がちらほら見え始めました。さらにしばらく行くと軍人や労務者、その家族たちで道がふさがれていました。この人たちと一緒に道端でご飯を分け合い、民家から食べ物をもらい、火を焚いて一緒に丸くなって寝たりしました。
私は道端で服を何回も拾って着替え、靴も拾って履きました。春川(チュンチョン)の近くで日本人を乗せた石炭車が来たのでこれに乗り、清涼里(チョンリャンリ)駅で降りました。到着したのは十二月初めのことです。
清涼里に到着すると、食べ物をもらおうと大衆食堂に入りました。満州から来たというと、その店の主人が食べ物を与えてくれました。私は部屋に入ってご飯を食べながら泣きました。こんな姿で家に帰るのはいやでした。そこで家族も親戚も捜すあてがないと言うと、店主は自分の家にいていいと言ってくれたのです。風呂に入り、モンペ、セーターなど古着をもらって着ました。店主は私の髪を切って櫛で虱の卵を取り除き、DDTをかけました。ここで三年働いて少しお金を貯めた後、泰昌(テチャン)紡績工場に勤めました。二十七歳になっていました。
その間に米軍部隊からもらって来たペニシリンを打って性病の治療をしました。その後も十年ほど欠かさず薬を飲み続け性病を完全に治したのです。紡績工場で三年ほど働いている間に六・二五[朝鮮戦争]が勃発したので、貯金通帳と印鑑だけを持って避難しました。避難の途中、孤児三人を育てましたが、結局また孤児院に預けました。戦後、清平(チョンピョン)付近で四、五年畑仕事をしました。その間に預けておいた孤児三人を再び引き取って育てました。そのうち一人は幼い頃に死にましたが、女の子一人男の子一人を育て上げて結婚させました。この子たちとは今でも行ったり来たりしています。今まで生活が苦しくて死のうと思ったことが何度もありました。
ソウルに帰って来て清涼里の近くで野菜売りを始めました。うどん屋などもしてみましたが、今は新林(シンリム)洞で七坪の小さな食堂を営んでいます。人を雇わず一人でやっています。なんとか暮らしてはいますが、楽ではありません。
二日に一回は朝五時半に起きて永登浦(ヨンドウンボ)市場、可楽(カラク)市場、龍山(ヨンサン)市場に行って料理の材料を買って来ます。コーヒーを一日五、六杯も飲まないと目が覚めません。膝もひどく痛みます。子宮摘出手術も受けました。これから先、どうしたら他人から蔑まれず病気にも悩まされず生きて、そして死んでいけるのかと思いあぐねています。
無視されずに生きたい
いつも悔しい思いを抱いて生きてきました。何度もこのことを政府に訴えたいと思いましたが、その機会がありませんでした。ところが去年(1991年)十一月、夜十時のテレビ番組で金学順さんが証言するのを見ました。翌日の朝、テレビで見た金さんの電話番号を回して金さんに会いました。そして金さんに教えてもらって申告したのです。
親に恩返ししようと家を出たのに、私の人生はとんでもない方向に行ってしまいました。今からでも、他人から無視されずに残された人生を、苦しい人たちの手助けをしながら、他人の世話にならずに生きて死ねたらと願っています。
(1)村の区長の下に班長がいた。区長は現在の統長のような順位であって、班長は現在の班長に該当する地位であった。