「帝国の慰安婦」の著者(朴 裕河)は、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は”植民地支配の問題”だと書いています。また、”帝国主義の問題”だと書いています。さらに、”政治システムの問題”とも、”資本の論理の問題”だとも書いています。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題の背景をいろいろな角度から考えることに意味がないとは思いませんが、そうした著者の指摘や論理が、日本の戦争責任を有耶無耶にし、問題の根本的解決を困難にするような結論につながっていることを、私は見逃すことができません。
慰安婦であったことを名乗り出た人たちが求めているのは、下記の証言にもあるような日本の戦争犯罪に対する謝罪と賠償であって、問題の背景や位置づけを求めたり、問うたりしているのではないと思います。それをごちゃまぜにすることは、問題の本質を歪めるものであると、私は思います。
だから、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、著者がいうような難しい問題ではなく、日本政府が、慰安婦であったことを名乗り出た人たちに真摯に向き合い、国際社会が指摘する戦争犯罪と認めて謝罪と賠償を受け入れれば解決する法的な問題だと思います。それをすでに解決済みであると突っぱねたり、戦争責任を回避して、見舞金で済まそうとしたり、政治取引のような合意で終わりにしようとしたりするから、いまだに解決の見通しの立たない対立が続き、将来世代にまでそれを引き継がせることになりつつあるのだと思います。その損失は計り知れないと思います。
日本政府が、公式謝罪と法的賠償を拒否する理由として”……人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。”などと苦しい言いわけをして、日本側に強制連行を指示する証拠がなかったことを上げていますが、敗戦前後に大量の文書を焼却処分している上に、研究者によって、強制連行を窺わせる文書が発掘された事実を、そのような言いわけで、無視することは許されないと思います。
そして何より、下記のような証言があることを、無視してはならないと思います。下記のような証言を無視し、虚言であるかのような対応をすれば、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権の回復はできず、問題がいつまでも続くことになることを認識すべきではないかと思います。
オランダの戦犯法廷「バタビア臨時軍法会議」では、オランダ人女性を強制的に連行し慰安婦にしたとして、日本の軍人七人と軍慰安所経営者四人が死刑や禁錮15年を含む有罪判決を受けたといいます。
加えて、 従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、強制連行があったかなかったか、ということだけでなく、人身売買や性行為の強要、監禁など当時の国際法に反する問題を含んでいることを忘れてはならないと思います。「醜業婦ノ取締ニ関すスル1910年5月4日国際条約」には、下記のようにあります。
第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘 引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス
第2条 何人ニ拘ラス、他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ成年ノ婦娘ヲ雇入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス
名乗り出た多くの慰安婦が証言していますが、「お金を稼げるところがある」などと言って騙して慰安婦にしたことは、第2条の「…詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ」の「詐偽」に当たるのではないかと思います。日本政府は、こうした国際法の精神を尊重して対応すべきだと思います。
下記のような証言を含め、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)問題の諸情報は、関係国で共有されており、日本の責任逃れは、国際社会では通用しないことを知るべきだと思います。だから、国連人権委員会や国際法律家委員会の勧告にしたがって、一刻も早く公式謝罪と法的賠償を行い、決着させるべきだと思うのです。
国際法律家委員会の最終声明には”民間基金の創設は元「慰安婦」に対して日本政府が賠償するための代替措置には決してなりえない”とあります。
慰安婦であったことを名乗り出た人たちが生きているうちに名誉・尊厳・人権の回復をはかって決着させないと、将来世代もずっとこの問題で苦しむことになるのではないかと思います。
下記は、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から抜粋しました。
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自宅のそばの慰安所に監禁
尹 頭理(ユンドウリ)
裕福な家庭に生まれたが
私は1922年、三男四女の四番目として生まれました。兄は中学校を卒業しましたが、残りの兄弟たちは国民学校を卒業するか、中退しました。兄弟の中で私だけがソウルの西大門にあるチョニョン普通学校に通い、他の兄弟たちは釜山で学校に通いました。私は釜山で生まれ、八歳まで暮らし、ソウルの叔母の家に移って学校に通いました。なぜかというと占い師が「この娘は鼻の下が短いので命も短い、両親と離れて暮らさなければならない」と言ったからでした。
私が幼かったとき、父は建築業を営んでいました。酒も飲まず、子どもに対する愛情は深いものでした。田畑をかなり持っていましたが、家族が直接農作業をするのではなく、小作にやらせていました。私たちが住んでいた家は、釜山の朝鮮紡織会社の前にありましたが、二百坪にもなる大きな家でした。
けれども兄が結婚してから、家に波風が立ち始めました。兄は結婚して一ヶ月後に、精神に異常をきたし頻繁に家出を繰り返し、父も亡くなって家が急速に傾いていったのです。
十四歳になった年の1941年、ソウルから釜山に戻ってみると田畑と家はみんななくなり、ちっぽけな一間の家に父、母、姉、弟、妹の五人が暮らしていました。父は私が釜山に戻った翌朝、食事の途中に突然倒れて亡くなってしまいました。母はそのとき腎臓が悪くて病気がちで、下の姉は父が亡くなった年の三月に結婚しました。そのため私が長女の役割をしなければならず、一家の生計をたてるため工場に就職しました。
十五歳になった1942年陰暦の二月に三和ゴム工場に入りました。工場で靴底を貼る仕事をしていたのですが、ボンドの臭いがひどくて目まいがし、むかついて吐き気がしました。そのため私は休み時間にちょこちょことミシン部のところに行ってミシンを習い、ミシン部に移りました。五ヶ月ほど通ってこの工場を辞め、月給をたくさんくれるという、同じ釜山にある三志村被服という軍服を作る工場に移りました。
工場では夕方六時までに一日の作業量を終えることができなくて、九時まで残業をしなければならず、家に帰ると十時でした。残業を終えればすでにバスはなく、夜道を歩いてかえらなければなりませんでした。が、一人の日本人の課長が私に下心を抱き、夜遅く歩いて家に帰る途中三度も私に乱暴をしようとしました。道を歩いて角に来ると、私をつかまえ山道に引きずって行ったのです。そのたびに同じ工場の朝鮮人裁縫修理工や班長たちが私を助けてくれました。
1943年八月までその工場に通いました。
巡査が呼ぶので
日本人課長が私をねらい続けるので、その工場にはとても勤められなくなりました。それでそこをやめ、草梁(チョリャン)にある手袋工場に移ろうと見に行き、そこから戻る途中でした。夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。1943年9月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。座れというので「どうしてですか」と聞くと「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると軍用トラックが来て二人の軍人が私たちを全員乗せて出ました。この軍人にどこに連れて行くのか聞くと、いいところに就職させてやるとだけ言うのです。夜だったのでどこがどこかもわかりませんでした。私たちは軍用トラックに乗せられ、どこかわからないところで下ろされました。そこには五人の女の子が私たちより先に来ていました。私たちと合わせて計十人が倉庫のような部屋で一晩を明かしました。翌日の夜、私たちは軍人の引率で「ブルルン」という音の出る警備船のような船に乗りました。船の中にはニ十歳にもならないような幼い少女たちが五十人ほどいて、三人の軍人が一緒に乗っていました。その船は日本に行きましたが、日本のどこかはわかりません。船の中で私たちはひしと抱き合い、ただ泣くばかりでした。船から下り、かなり歩いて倉庫のような部屋に着きましたが、そこには若い女性がたくさんいました。そこでまた一夜を明かしました。
翌朝全員が集まって「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えた後、いくつかの班に分けられました。釜山から一緒にいった五十人は、十人ずつ二班と十五人ずつ二班にわけられましたが、私は十人の班に入りました。釜山で私のように捕まえられてきたスンジャも私と同じ班になりました。スンジャの日本名は「カネムラジュンコ」でした。スンジャは私より一歳年上の十七歳でした。家は釜山の旧家でしたが、彼女もやはり勤めていた工場からの帰り道に捕まえられたと言っていました。スンジャと私のいた班は二番目に船に乗りました。
それは私たちが釜山から乗ってきた船と同じ船でした。私たちの班の十人の女の子と、釜山から日本に行くとき私たちを引率した軍人三人が一緒にその船に乗りました。何時間か行くと、釜山の影島(ヨンド)に再び戻ってきました。釜山に帰ってきても、いいところに就職させてやるからおとなしく待っていろと言われました。そのため私たちは「今勤めている工場があるので、就職させてくれなくてもいい。家に帰して」と頼みました。私と同じ船に乗った十人の幼い少女たちは、1943年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。
影島第一慰安所で
到着した日は下の一階で一夜を過ごし、翌日の昼朝鮮人が私を呼びに来たのでついていきました。この人は慰安所で飯を炊き女たちを監督する日本人の手先でした。彼が私に日本軍人が呼んでいるから二階に上がれと言うので行ってみると、将校かと思われる軍人んが一人座っていました。私が恐くて中に入らず、「なぜ来いとおっしゃったのですか」と尋ねると、何をごちゃごちゃ言っているんだと大声を上げました。必死で抵抗しましたが、結局犯されてしまいました。何日間か陰部が痛くて襲いかかる軍人を拒みましたが、そのためにひどく叩かれました。将校たちは夜泊って出て行ったりしていました。ご飯を食べる時間以外は一日中軍人の相手をしなければなりませんでした。
影島の第一慰安所には四十五人の慰安婦がいました。彼女たちはみな朝鮮人でした。慶尚道出身者がもっとも多く、そのほか忠清道、全羅道、江原道などでした。たいていが農家の娘でした。
主食はおもに麦飯かゴマの油かすと米をまぜたご飯で、主なおかずはキムチ、たくあん、たまに豆モヤシも出ました。たいていご飯と二種類のおかずが出されました。それに日本の祝祭日には豚肉が少しつきました。服は家から着てでた黒のチマと慰安所でくれた服を交互に着ていました。慰安所でくれた服というのはモンペとキャラコでできた運動着のような前のはだけた上着などでした。着るものは春、秋が来るたびに不足しないようにくれました。下着は腰と裾にゴムを入れたショーツをくれました。
洗濯石鹸、洗顔石鹸、ガーゼ、綿、歯磨き粉などの日用品は、慰安所からもらったものを一カ所において何人かで使いました。洗濯は軍人たちが来ない静かな時間に自分たちでしました。
慰安婦生活をしている間、お金や軍票をもらったことは一度もありません。しかし私を好いてくれた吉村が来れば、たまに何か買って食べなさいとお金をくれたりもしました。私はそのお金を隠しておきました。お金があれば慰安所の外の道端にある売店でもものを買うこともできたのですが、恥ずかしくてほとんど外には出ませんでした。ほかの人たちもひどく疲れていて、何かを買って食べる気にもなりませんでした。
第一慰安所だった建物は、昔朝鮮人が旅館をしていたのを日本人が取り上げたものでした。その一帯には雲雀町(ヒバリマチ)という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人遊郭街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました。
慰安所の経営者は日本人の高山という人で、慰安所の監視は軍隊がしていました。山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。慰安所の中には慰安婦たちを監督し、食事を作る朝鮮人もいました。また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。
建物は二階建てで、一階には部屋が十一あり二階には十二ありました。一つの部屋の広さは二畳半ほどでした。そのうちオンドルの部屋が一つありましたが、そこには小間使いをする人の部屋で薬品も置いてありました。私の部屋は二階でした。横にもう一つ平屋の建物がありましたは、部屋数は二十ほどでした。朝鮮人が住んでいた民家で部屋が広かったので、仕切りで一つの部屋をいくつかに仕切っていました。
一日平均三十から四十人ほどの相手をしました。主に釜山から来た海軍と陸軍の軍人でした。特に船が着く日は多く、土曜日、日曜日にはさらに多くなりました。あまり多いときには心と体が自分のものとは思えないほどでした。軍人たちがたくさん来る日は、入れ代わり立ち代わり入ってくるので人数も数えられませんでした。軍人の相手をし終わる度に、一階にある風呂場に下りて行ってクレゾールの混じった水で洗いました。そうした後また自分の部屋に戻って軍人の相手をしなければなりませんでした。私は一人でも軍人を減らそうと、どんなに忙しくても、洗浄しなければだめだからと時間を引き延ばしたりもしました。軍人たちはサックを使うようになっていましたが、使おうとしない軍人もたくさんいました。
日本人の軍人の中にはひどいことをする人もたくさんいました。自分の性器をなめろというのはよくあることで、立ってやろうという人もいたり本当に変な人がいました。すべてを言葉では言い尽くせません。軍人たちはその当時日本で出版された『四十八体』という本を持ってきて、私にその本に出てくる体位どおりにしろと言いました。そんなとき私は朝鮮語で文句を言うのでした。今も私は牛乳が飲めません。牛乳を見ると男の精液を思い出すからです。
「母(オモニ)への手紙」歌っては泣く
日本人軍人の中には私に好意的な人もいました。先ほど言った吉村という人はしばしば私に逢いに来ましたが、私がかわいそうだと身体には触れませんでした。彼は陸軍の軍人で戦争が終われば結婚しようと私の写真まで持って行きました。日本が戦争に勝てば私を日本に連れて行くと言いました。私は彼にこっから出してくれと頼みましたが、彼は自分の力では無理だ、上の人が指示を出さなければどうすることもできないと言うのでした。彼は時々大きな飴とお金をくれました。しかし戦争に敗けると一人で日本に帰ってしまいました。
私のところによく来ていたもう一人の軍人は、両親が朝鮮人だけれど日本で生まれて海軍に入ったと言っていました。彼が来る船はひと月に一度、釜山港に入って来ましたが、そのたびに私のところに来ました。一度彼について釜山港に船を見に行ったこともあります。彼と何人かの将校が、私を連れ帰るからと許可をもらってくれたので出かけました。その時以外に慰安所から外出したことはありません。ほかの慰安婦たちも知り合いの軍人に連れ出されて外出する場合がありました。しかしもともと外出は禁止されていました。
私は慰安所にいるとき妊娠したことはありませんが、一緒だった慰安婦の中で二人が妊娠しました。そのうちの一人は中絶の手術が失敗して死にました。もう一人はお腹がかなり大きくなりましたが、自殺するつもりで階段で首を吊ろうとしたところ軍人に見つかりよそに移されました。どこに連れて行かれたのかはわかりません。慰安所の中で子どもを産んだ人はいませんでした。
生理の時はガーゼをもらいそれを生理帯にしていましたが、生理の日でも軍人の相手をしなければならなかったため、それをつけているひまがありませんでした。とにかく死なない限り軍人を受け入れなければならなかったのです。おぞましい、身の毛のよだつ話です。本当に言葉になりません。生理の時綿をガーゼにぐるぐる巻いてそれを膣に突っ込んで軍人の相手をしました。一度その綿が子宮の中にまで入ってしまいひどい目にあいました。結局病院に行って取り出してもらいました。
慰安所の建物の横には慰安婦たちの指定病院がありました。病院には医師一人と日本人看護婦一人がいました。一ヶ月に一度病院に行って性病検査をしました。検査の時男性の医師が膣を覗き見、指を入れたりしました。淋病にかかった者は606号という注射を打たれました。606号という注射は腕がもがれるかと思うほど痛いものでした。
慰安所で淋病をうつされたことがあります。病院に通い注射をしてもらって薬をたくさん飲みました。慰安所を出た後でも、身体が弱ると何度も再発しました。
将校たちは一晩泊って行く人がたくさんいました。このように「泊まりの日」は少しでも離れたくて、寒い冬でも外に出て廊下にしばらく座ってから部屋に戻ったりしました。一週間に一日くらいは自分一人で楽に寝ることができました。
泊って行く人たちがは朝五時に出て行きました。軍人が行ってしまえば少し楽に寝られましたが、七時半には起きなければなりませんでした。朝起きたら庭に集まって「君が代」を歌い「皇国臣民の
誓詞」を唱えました。その後八時から九時の間にご飯を食べました。そして少し休むと十時頃から軍人が来はじめ、特に午後三時から四時は一番たくさん来ました。食事時間は三十分、その間だけ軍人の相手はしませんでした。
慰安所にいっしょにいた慰安婦の中で尹ヨンジャ(山本エイコ)、ウメコ、スンジャなどを覚えています。
慰安所に入ってから半月後に逃げようとしたことがありました。私と一緒に釜山で捕まって慰安婦にさせられたスンジャが影島の地理をよく知っていたので、一緒に逃亡を試みたのです。逃げようと最初に言い出したのは私でした。私たちは歩哨兵二人をそそのかすために、タバコを持って行ったり親切にしてやりました。そしてちょっと風にあたってきたいと言いましたが、だめだと言われたので酒を飲ませました。すると、板の間にどっしりと腰を下ろし居眠りを始めました。便所に行ってくるからとそうっと抜け出して逃げました。しかし慰安所を出るまでの道のりは思ったより遠く、何歩も行かないで捕まりました。銃の先でおしりを三、四発殴られて、前につんのめり、口から血を流して倒れました。ぽっこりへこんだおしりの傷が化膿して熱が出、まっすぐに寝ることもできませんでした。それなのに軍人たちの相手をさせ続けるのです。何度も膿んでは腐りました。それでやっと病院に連れて行ってもらい皮膚をえぐられました。手術後三日休みました。三日後まだ傷口がふさがらずほてり、まっすぐに横たわることもできないのに軍人たちはとびかかってきました。このときが一番つらく、おしりが痛くて寝ることもできないのに、軍人の相手をしろというのでどれほど痛かったかわかりません。そこにいた慰安婦たちはみな逃げたいと思っていましたが、私たちの逃亡が見つかり、また私がそうやって痛がるものを見てあきらめてしまい、その後逃げ出そうとする人はいませんでした。
慰安所生活の中で楽しいことはありませんでした。軍人のこない、自分たちだけの時は家がただただ恋しくて、みんなで一緒に泣きました。そこでは日本の軍人たちが私たちをずらりと座らせて写真をいっぱい撮っていました。
そこで私がよく歌った歌は「アリラン」と「オモニへの手紙」という歌です。特に母のことを思い出しながら「オモニへの手紙」という歌を歌って、泣きました。朝鮮の歌はこっそり歌わなければなりませんでした。見つかればひどい目にあったからです。
慰安所にいたとき家族と手紙をやりとりしたことは一度もありません。手紙や面会などは一切できませんでした。しかし家族の消息を聞いたことはありました。私が窓の外をながめていたら、物を売りに来たとなり村の人を見かけたのです。その人に母のことを尋ねると、セリを売っていると教えてくれました。母が苦労していると聞いてどれほど泣いたことでしょう。
母と上の姉は工場に行くといって出てから帰らないので、あちこち聞いて回りながら、私を探したそうです。姉はもしやと思い慰安所まで探しに来ていました。慰安所の建物は旅館をしていた場所だったので道に面しており、窓から見れば行き交う人が見えます。母と姉が探しにきた時はちょうど軍人のいないときで、部屋から見ていると道端にいる母と姉が見えました。それで私は急いで下りて行きました。母が私を見つけて連れて行こうとすると軍人が母と姉を押しのけてしまい、ろくに言葉を交わせないまま、引き離されてしまいました。その後母はすっかり落胆して病気になってしまったそうです。慰安所には看板があり軍人たちが立っていたので、姉は私が慰安婦だということに気づいたと思います。
釜山の大新(テシン)洞には「第二慰安所」がありました。そこにも約四十~五十人の慰安婦たちがいたと聞きました。
私を見て泣き崩れる母(オモニ)
私たちは解放を迎えたことも知らずにいましたが、慰安所の外があまりに騒がしいので出てみると、解放だと告げられました。慰安所の経営者だった高山と日本軍人たちは私たちを慰安所に残したまま、船に乗って日本に逃げ帰りました。それで慰安婦たちはばらばらになりました。家に戻ろうと思っても一銭のお金もありません。慰安所に来る前は私が稼いで家族の生計を立てていたのに、手ぶらで家に帰れないと思いました。また母がセリを売って苦労しているという話を聞いていたので、お金を貯めて帰らなければと思ったのです。それで慰安所の前にあった食堂で食べ物を運ぶ仕事を一ヶ月ほどして、また別の食堂で一年間働いてからお金を用意して家に帰りました。
家に戻ってみると母は市場にセリを売りに出ていましたが、妹が「オンニ(お姉さん)」と言って泣きました。夕方六時になって痩せこけた母が真っ黒になって帰ってきました。その姿を見ると無性にほっとして、私も母も泣き崩れてしまいました。母は私に「もう会えないと思ったのに」と言って泣きました。翌朝母はまたセリを売りに行こうとするので私がとめました。そして私が稼いできたお金で米を買いました。
その後私がお金を稼ぎながら妹を育て、兄弟姉妹たちを助けてやりました。母は私が二十七歳のとき、私のことを苦にして病気になって亡くなりました。母は私に「ひどい目にあって嫁にも行けず、私がおまえに荷物ばかり背負わせてしまった。おまえ一人をちゃんと嫁にもやれず、死ぬに死ねない」と言いました。
私は結婚したいとはちっとも思ったことがなかったので、いままで一人で暮らしてきました。もうすでにあきらめてしまった体なので、金だけを稼ごうと思いました。それでやみドル商売、アメリカ製品の商売、アヘンの売買、密輸、旅館業業などをして、一時はかなり儲けましたが、他人に踏み倒されてすっからかんになってしまいました。
もう一度女に生まれたら
ソウルで暮らしていましたが1980年、父の故郷である蔚山(ウルサン)に来ました。私の生まれ育ったのは釜山ですが、そこで慰安婦をしていたことを思い出すので、行きたくありません。
現在蔚山で保証金三百万ウォンの家賃の部屋を借りて一人暮らしをしています。一級零細民として洞会から毎月十キロのお米と一升の麦、三万ウォンずつをもらっています。そして一種居宅保護者の医療保険証があり、病院での治療を無料で受けています。
健康状態はとても悪く、今は高血圧、脂肪肝、十二指腸潰瘍、関節炎、右わき腹に水の溜まるこぶ、鬱病、神経性の心臓病などを患っています。
もう一度女に生まれ変わりたい。今のようにいい世の中で、いい両親のもとで勉強をいっぱいして、いい人のところに嫁に行き子どもを産みたい。若い頃は肌がきれいで、「金持ちの長男の嫁さんになれる」と言われたものです。なのに結婚もできず、いったいこれはどういうことでしょう? 夜中に目が覚めて「どうして一人で寝なきゃならないんだ? どうして一人で暮らしているんだろう? 誰が私をこんなふうにしたのか? どうして私たちの国は奪われてしまったのか?」などと思うと眠れないんです。結婚もできず、子ども一人産めなかったので、街で子どもを連れた人を見ると「あの人には子どもがいるのに、なぜ私には……」と思い、悲しくなるのです。
人の一生をこんなにめちゃめちゃにしておいて、まだ責任逃れをするとは日本はどういうつもりですか? 結婚もできないように私の一生を台無しにして、口先だけでの謝罪をするとはどういうことですか? 死んで目を閉じるまで、自分がされたことを忘れることはできません。いや死んでもわすれることなどできないでしょう。