真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮人慰安婦の声に”耳を澄ませる” その1

2019年07月07日 | 国際・政治

 7月3日付け、朝日新聞の「終わりと始まり」欄に掲載された池澤夏樹氏の文章は、その最後の九行が(ここでは四行)私には看過できません。池澤夏樹氏の文章とは思えない内容になっているからです。

 くり返しになりますが、私は、朴裕河(パクユハ)著「帝国の慰安婦」にとても抵抗を感じ、読みっ放しにはできないと思って、抵抗を感じた部分を悉く抜き出し、私自身の考えをまとめたのですが、その根拠を明らかにしておくために、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)』(女性のためのアジア平和国民基金編)「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)に入っている関係資料の一部も示しました。そして、私のブログ「真実を知りたい NO2」(https://blog.goo.ne.jp/yshide2004)に『「帝国の慰安婦」事実に反する断定の数々』と題して6回に分けて、アップしたのでした。その直後に、池澤夏樹氏の下記の文章を目にしたのです。だから、衝撃を受け、看過できないと思ったのです。

見終わった方にぼくは朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする。『主戦場』は映画としてよくできているがあくまでもレポートであって、論理の骨格に欠ける。それを補うのにこの本は役立つ。両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる。

 『帝国の慰安婦』が論理の骨格を補うことはないと、私は確信します。また、『帝国の慰安婦』は両国と諸勢力を公平に扱っているとは思いません。明らかに片寄っており、被害者やその支援団体ではなく、日本政府を後押ししていると思います。
 さらに言えば、感情的になりがちな議論の温度を下げることなく、逆に温度を上げ、大きな混乱をもたらすものだと思います。それは、被害者や支援団体が同書の出版差し止めを求め、名誉棄損で訴えた結果、さまざまなやり取りの後、ソウル高裁が罰金1000万ウォンとする判決を言い渡したことでも明らかだと思います。
 従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題の解決は、名誉・尊厳・人権の回復をもとめて、慰安婦であったことを名乗り出た人たちが、受け入れられるものにすることが欠かせないと思います。地獄の苦しみを味わい続けてきた人たちに向き合うことなく、政治的な力によって、名誉・尊厳・人権の回復にはつながらないような和解をすることは、慰安婦であった人たちはもちろん、日本にとっても韓国にとっても、よくないことだと、私は思います。
 『帝国の慰安婦』の著者は、国連人権委員会の二度にわたる日本政府に対する勧告を否定したり、国際法律家委員会(International Commission of Jurists)の日本政府に対する勧告を無視したりしていますが、私は尊重されなければならないと思います。
 2007年に、日本の一部政治家やジャーナリスト等が「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」という意見広告を米ワシントン・ポスト紙に出し、それが、結果的に、アメリカ合衆国下院121号決議の採択をもたらすことになったことはよく知られていると思いますが、その決議には「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買のひとつである」と断定し、「日本軍が強制的に若い女性を”慰安婦”と呼ばれる性の奴隷にした事実を、明確な態度で公式に認めて謝罪し、歴史的な責任を負わなければならない」というものでした。また、決議は「現世代と未来世代を対象に、こうした残酷な犯罪について、教育をしなければならない」とも要求しているのに、日本は逆に、教科書から従軍慰安婦(日本軍慰安婦)問題の記述を削除する方向に動きました。
 日本は、自らを正当化しようとする当時の軍人や政治家の主張に引きずられて、国際世論を無視してはならないと思います。アメリカにとどまらず、オーストラリア上院、オランダ下院、カナダ下院の決議などが続き、フィリピン下院外交委、韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議を採択したといいます。さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したと伝えられています。サンフランシスコ講和条約締結国が、次々に日本のみを対象とする決議を出すに至ったことは、重く受け止めるべきではないかと思います。 

 『帝国の慰安婦』著者は、序文で”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、その対立をなんとかしたいと思い、したことは、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と書いています。でも、著者が”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”た気配が、同書にはないのです。だから、ここでは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から、「初潮前に処女を奪われて 李相玉(イサンオク)」を抜粋しました。”耳を澄ませる”ために。

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                         初潮前に処女を奪われ
                                                   李相玉(イサンオク)
「女が勉強するとろくなことがない」
 私は1922年、慶尚北道達城(タルソン)郡達城(タルソン)面助也(チョヤ)洞に二男三女の長女として生まれました。戸籍上の名前はサンオクですが、幼い頃おとなしい性格だったので、ウムジョン[言行がしとやかで上品なこと]と呼ばれていました。戌年の生まれでしたが、祖父は「この娘は運勢が悪いので、後妻になったほうがいい」と言っていました。当時父は面長をしており、作男を雇って農業を営むなど、比較的暮らしは裕福でした。妹たちには乳母もついていました。
 学校に上がる前に夜学に通いましたが、ある晩、獣を見て驚いてからは、怖くなって行かなくなってしまいました。

一年生の教科書はすぐに全部読めるようになりました。三歳違いの兄は、女が勉強して何になると言い、学校に行けないように本を全部焼き捨て、女が勉強するとろくなことにならないとうそぶきました。それでも私が学校に行きたいと言うと、家では祖父がいて叩けないので、書堂(ソダン)に私を引っぱって行き、鎌で突き刺して殺すとまで言いました。私は隣の家の背の高いお姉さんが学校に通うのを見て、羨ましくて仕方がありませんでした。
 学校に行けなくなったため、その年の春の終わり、母にも告げず、家を出て伯母の住むソウルへ向かいました。子どもなので汽車賃を持っていませんでしたが、そのまま汽車にのりました。ソウル駅で下り、電車に乗り換えて笠井町まで行き叔母の家まで歩きました。伯母の家は京城府笠井町にあったのです。
 夫に先立たれた伯母は服地を売って生計を立てていましたが、暮らしはあまり楽ではありませんでした。伯母は私に家に帰るようにと言いながら、仕事ばかりさせました。いとこの兄や姉たちが、ウムジョンは学校に行きたくて来たのに、仕事ばかりさせてなぜ学校にやらないのかと、伯母を説得してくれたので、翌年十歳の時、学校に再び通えるようになりました。学校の名前は覚えていません。学費は伯母が出してくれました。学校に通いながら家の掃除や縫い物もしなければならなかったので、思うように勉強ををすることができませんでした。学校が遠かったので、朝ご飯を食べるとあわてて家を出て学校に行ったものです。
 学校には日本の子どもも通っていました。先生が私の長い髪の毛を撫でながら、頭がいいとほめてくれたことを覚えています。女子生徒は数えるほどで、男子生徒がほとんどでした。学校の帰り道に友だちとお手玉や縄とびをして遊んで、帰りが夕飯時になってしまうようなことがあると、ひどく叱られました。
 部屋は従姉たちと一緒でした。そのうちの一人はもう学校を卒業して勤めに出ていました。小遣いがなくて、伯父がタバコ代にくれた五銭で飴を買って食べたことがありましたが、伯父は叱りもせずタバコを買って来るようにと、またお金をくれました。
 私が伯母の家に来てから、伯母が達城に出かけたことがありました。その時、兄は私を学校にやっていることに文句を言い、学校に行かせるなと騒ぎ立てたそうです。そして、私のことを関係ないアカの他人だと言い、両親が私に会いに行くことにも反対しました。私は家に手紙も出しませんでした。
勉強がますます面白くなり、教科書はもちろん手当たり次第に本を読みました。

 伯母の家を出て
 四年生まで学費を出してくれた伯母が、もう学費は出せないから家に帰るようにと言い出しました。それまでにも何度か帰るように言われていましたが、私は家に帰ったら勉強ができなくなると思い、泣きながら帰らないと言い張りました。その度に伯母は私の強情にまいって、そのままいることを許してくれました。私は勉強もしたいし、家に帰ったら兄が勉強させてくれないから帰らないと言い張りました。でも、結局、六年制の学校を四年までしか通えませんでした。
 伯母があまりうるさいので、十四歳の時に伯母の家を出ました。兄にひどい仕打ちをされるのが恐くて実家には帰れませんでした。伯母の家を出て歩き回っていると、どこからか話し声と歌が聞こえるので振り返ってみると、門が開け放されていて、その横に紹介所という看板と金ムンシクという表札がかかっていました。住所は京城市笹井町一二三番地で、伯母の家のすぐ近くでした。紹介所がどういうところか知りませんでしたが、歌声が聞こえたので歌でも習おうと思い入って行きました。恐くはありませんでした。入ってみると女たちが床でチャンゴ[朝鮮の民族楽器、鼓の一種]を打ち、男たちはそれを聞いていました。後になってわかったことですが、紹介所では女に歌を歌わせ、うまければ人力車に乗せてどこかへ送りだしていました。
 私が入って行くと、紹介所のおばさんに「どこから来たの?」と聞かれたので、「家は達城だけど、京城(ソウル)の伯母の家に住んでいました。仕事がちゃんとできなかったので追い出されたんです」と嘘をつきました。おばさんが、自分の家で暮らすかと聞くのでうなづくと、では養女にしようと言いました。そこで食事をつくったり洗濯をしたりしながら、一年ほど暮らしました。暮らし始めたのは冬でした。食べるもの、着るものの面倒を見てくれた上、時々十銭かニ十銭くらいお小遣いをくれました。もらったお金は服の端っこを破って、縫いつけて持ち歩きました。紹介所の主であるおばさんは金ムンシクという名の未亡人でした。年は四十過ぎで色が白く、男のように髪の毛が全然ありませんでした。紹介所では女たちがチャンゴを打ち歌うのをいつも聞いていたので、私もたくさん歌を口ずさむようになりました。
 いつ頃からか女たちがひっきりなしにやって来るようになりました。一人、二人とやって来ましたが、中には父親に売られて来た娘たちもいました。紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。日本人の軍属は国防色の軍服を身につけ、肩には赤と青の飾りがついていました。赤いかもめの形をした肩章が一つありました。
 彼女たちがどこへ行くのか尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。「私も行こうかな」と言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました。彼は「いいだろう」と言って、私の名前を書き入れました。紹介所のおばさんに日本に行くことを話すと、「行きたければ行けばいい」と言いました。実家や伯母さんは知らせませんでした。
 私を入れて総勢十人になったところで、日本人の軍属は出発しました。慶尚道や全羅道など女たちの出身地は様々で、年は十六歳から十八歳くらいでした。私が一番年下で、十五歳(1936年)でした。春だったと思います。私は裏つきのチョゴリに黒いチマを着ていました。ソウルから釜山まで汽車で行き、その足で連絡船に乗り下関に着きました。髪の毛が長いと朝鮮人だとわかってしまうというので、髪を短く切りました。私は日本語を少し話せたので、旅館でみんながお腹がすいたというと、いつもお菓子や卵を買いに出ました。
 一週間ほど過ぎた頃、また船に乗るように言われました。日本に来たのに、またいったいどこへ行くのか尋ねました。大きな連絡船で、中には酒場や風呂場もありました。女は私たち十人だけでした。ほとんどみんな船酔いしてしまい、食堂で梅干しと味噌汁をもらって食べるとよくなりました。
 何日たったのかわかりませんでしたが、船上に出て波うつ海を見ながら紹介所で覚えた歌を歌うと、自然に涙が出ました。船員たちは「お前が行く所には真っ黒い土人(ママ)が裸に木の皮をもとって暮らしているんだ。行けば死ぬぞ」と脅かしました。そこへ行って何をするのか聞くと、たわし工場で働くのだと言いました。

 パラオに着いて
 船が島を通り過ぎる時、船員たちが「あそこの島がサイパンで、その下にあるのがヤップ島、おまえたちの下りる島がパラオだ」とおしえてくれました。パラオに着きましたが、埠頭の施設が整備されていなかったため、船を島にぴったり着岸させることができませんでした。船がツーと音を出すと、向こうから真っ黒い原住民が一人、伝馬船に乗って現れました。衣服は着けず、真っ赤な布を腰の部分にだけ巻きつけていました。船からはしごが下ろされたので下りようとすると、船員たちが「ここの土人(ママ)たちは昔、人を襲って食べたこともある」と私たちを脅かしました。私たちは泣きながら下りないと言いましたが、早く下りろと怒鳴られました。伝馬船は小さくて二人乗るのがやっとだったので、何度も往復しなければなりませんでした。
 下りてみると、人の手が加えられていない自然そのままの島でした。島の人たちは服を着ていませんでしたし、女ったちも椰子の葉っぱを腰だけに巻きつけていました。歩いてたどり着いたのは、板で細長くL字型に造った家でした。建物は平屋でしたが、敷地が広く片側にはお花畑があり、広い庭の周囲には木が繁っていて生垣の役目を果たしていました。
 一緒に来た日本人の軍属は、私たちを家の経営者に引き渡しました。経営者は朝鮮人夫婦で、全羅道の方言を使っていました。男の姓はハヤシといいましたが、名はわかりません。男の方は読み書きができず、太った女の方は日本語が達者でした。彼らは、私たちにどこから来たのか、親は知っているのかなどと質問したけれど、私たちはお腹もすいていたし、泣いてばかりで答えられるような状態ではありませんでした。
 経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年と期限が決められました。私は一年半でしたが、あらかじめもらったお金は一銭もありませんでした。
 最初はパパイヤ、パイナップル、バナナなどを食べ、一週間ほどして米が届いてからはご飯と味噌汁を食べました。食堂には経営者の親戚だという三十代の朝鮮女性がいて、賄い婦をしていました。雨が降ると雨水をためておいて飲み水にしたり、洗濯に使ったりしました。気候は朝鮮の五月頃の陽気で、雨が降ると涼しくなりました。
 その家には漢字で書かれた看板がかかっていましたが、泣いていたためによく見えませんでした。入り口の引き戸を開けて入ると玄関があり、その奥が経営者たちの部屋でした。その横に台所と事務室があり、たくさんの部屋が向かい合わせになっていました。軒下に筒をつないで、雨が降ると土の中に埋め込んだ貯蔵タンクに水が溜まるようにし、その水を消毒して飲みました。この水を水道に連結し、トイレでも使えるようにしていました。経営者たちの部屋の前には自分たち専用の小さなタンク置いていました。
 経営者は許可が下りないと、客を取れないと言いましたが、半月ほどたってその許可が下りました。
 そんなある日の夕方、経営者が私たちに玄関に出て座るように言いました。しばらくすると軍人たちが来て、靴を脱いで入り、気に入った女を部屋に連れて行きました。初めて軍人の相手をさせられたときは本当に恐ろしくて、悲鳴を上げながら逃げまどいました。すると泣くなといって殴られました。
 そこでは午後三時か四時になると軍人がやってきました。経営者は階級の高い軍人には、年長の物事のわかった女を紹介し、年端のいかない私には、学識のない兵士ばかりを紹介しました。兵士は私が言うことを聞かないと言って、情け容赦なく叩きました。軍人が靴を脱いで上がり、女を指名すると、その女が靴をもって部屋について行ったりしました。
 私は一日に二~三人の相手をするのがやっとでした。二人の相手をしただけでも疲れて横になって休まなければなりませんでした。玄関にいて経営者に軍人を取るように言われると、ぶるぶる震えて泣きちらすので、経営者は他の女に回しました。他の女たちは二十人ほどの相手をさせられていました。白い軍服を着た軍人と、国防色の軍服をきた軍人が来ました。朝鮮人はいませんでした。部隊がどこにあったのか知りませんが、海辺の近くにあると話しているのを聞いたことがあります。
 軍人の相手をする際、一回というのは普通一時間でしたが、一度済んでからもまた服を着ずに飛びかかって来る男もいました。こんなふうに何度も襲いかかってくるときにはいやだと言って拒みました。大声を上げ必死になって抵抗すると殴られたリ、刃物で突き刺されたりしました。こんな生活に耐えきれず逃げだしたのですが、捕まってしまいひどく痛めつけられました。そのため今も右の耳がよく聞こえず、体もがたがたです。逃亡しようものなら首に縄をかけて引きずり回すなど、めちゃくちゃにされました。生理中でも軍人たちはおかまいなしでした。経営者に「生理だから軍人の相手ができない」と言うと叱りとばされました。私にしょっちゅう会いに来たり、親切にしてくれる軍人はいませんでした。私が冷たい態度を取り、相手にしようとしないので殴られてばかりでした。
 経営者は女たちに日本名を付けました。私はノブコという名前でした。他の女たちの名前は呼んだこともないので覚えていません。ハナコという名前のお姉さんだけは覚えていますが、全羅道出身で、顔がきれいで、軍人たちに最も苦しめられていました。
 お金は軍人が直接事務室に払ったり、部屋で女たちに渡したりしていました。するとお金を受け取った女が、経営者のところに持って行くのです。料金は当時の日本のお金で普通一円、泊まりが三円でした。
 女たちにはそれぞれ部屋があり、小さなタンスが置かれていました。布団もありましたが、布団とタンスの代金は私たちの稼ぎから差し引かれました。部屋は畳敷きで二坪ほどの大きさでした。
 私のひと月の給料は三十円ということでしたが、服や化粧品、鏡のようなものを持ってきては、その分を差し引かれるので、私はお金を手にしたことはありませんでした。経営者は、客を取るのだからきれいにしなければいけないと言い、チョゴリや着物、ワンピースを持ってきては買わせ、おかずも高価なものを作っては給料から差し引きました。
 おかずにはキムチもあり、三食出ましたが、量が少なかったので、お腹がすきました。それでパイナップルをもぎ取って食べたりしました。門の前には監視役の男が立っていましたが、目先のきく女たちは男にお金を少し握らせて、買い物に出かけていました。
 週に一度、検査を受けに病院に行きました。病院は軍病院で、日本人の軍医と看護婦が二人いました。私たちは梅毒の検査を受けました。サックをつけない軍人もいたので、数多く接触した人は梅毒にかかっていました。病気になると入院して治療を受けましたが、私は性病にかかったことはありません。軍人の相手をした後すぐにトイレに行って洗浄しました。汚らしい気がしたからです。そうして私が部屋を空けているいる間に、部屋の物を盗って行く軍人もいました。すると経営者がまた物を買って部屋に持って行くように勧めました。私は「いりません。あっても軍人たちがみんな盗っていくのに、ドブにお金を捨てろって言うの?」と断りました。経営者はそれでも持って行けと言い、「他の女たちはみんな買っているのに、おまえだけなんで買わないんだ?」と殴るのでした。
 病気にかかって入院すると、経営者はあわてふためき、「ひと月もふた月も病院にいてどうやって借金を返すつもりだ」と怒鳴り散らしました。借金を返せないと期限がどんどん延長されました。
 最初にいた朝鮮人の経営者の夫婦は、数ヶ月後慰安所を日本人に譲り渡しました。新しい経営者夫婦は四、五十歳でした。経営者が変わると、食事掛の女も管理人に変わりましたが、私たちの待遇はまったく変わりませんでした。
 最初は私と一緒に行った女たち十人だけだったのが、あとでまた新しい女たちがやってきました。妓生(キーセン)たちも来ましたが、その中には平壌で有名だった妓生もいました。少し年長に見えるその妓生はたいへんな人気でした。彼女が来てからは、着物を着てやってくる男が増え、妓生たちを呼んで歌を歌わせました。
 日本人の中には朝鮮語のできる人もいました。妓生たちは踊りを踊ったり、カヤグムを弾いたりしました。全羅道民謡の謡い手もいましたが、彼女たちも軍人を取らされました。戦争でたくさんの人が死にましたが、自殺した人はいませんでした。
 初潮は二十一歳の時でした。起きてみると布団が赤く濡れていて、痛くもないのにきっと死んでしまうのだと思い、涙が止まりませんでした。隣の部屋のお姉さんに話すと「女の子なのに何も知らないのね」と言い、すぐにお店に電話をかけてカーゼを頼んでくれました。そしてそれを切って使うよう教えてくれました。
 あるとき、慰安所にいた四、五十人の女たちが軍服に帽子を被り、刀を持って訓練を受けに行きました。訓練は日本の軍人が指導し、国防色の服を着せられました。帽子をちゃんと被らなかったり、ボタンをうまくはめられないだけで叱られました。お腹がすき、日射しも強かったので何回も倒れ、そのたびに怒鳴られました。
 軍人の来ない時間を見計らって、事務員の男が女たちに日本語を教えていました。私は日本語が話せたので日本語で返事すると「おまえはあっちへ行け」と言われ、勉強には加わりませんでした。
 パラオに来てしばらくすると朝鮮人開拓者たちがやってくるようになりました。彼らが田畑を耕し、道を作り、家も建てて、島は次第に整備されて行きました。移民としてやってきた人には全羅道出身者が多く、彼らは遊郭に朝鮮の女がたくさんいると聞いて、訪ねてきました。経営者は朝鮮人でも相手にするように言いましたが、私は聞き入れませんでした。
 たちの悪い陸軍の兵士にひどい目にあわされたことがありました。胸や腕、足を刀で突き刺され、入院して治療することになりました。その傷跡は今でも残っています。入院中私は「オモニ、オモニ」と泣いてばかりいたので、軍医にお母さんはどこにいるのかと聞かれ、朝鮮にいると答えました。私は日本語が話せたので、軍医が上官に話をして、病院で働くように計らってくれました。
 その後は病院で、医者におそわりながら、くちばしのような器具で女たちの性病検査をする仕事につきました。週に一度、女たちの検査をする日が一番忙しく、百人以上の検査をしなければなりませんでした。約半数が朝鮮人女性でした。病院で働くようになって、パラオに日本人の遊郭と朝鮮人の遊郭が一つずつあることを知りました。
 病に侵された女たちは、卵管にウミがたまってなかなか取り出せませんでした。病院には十人以上の女たちが常に治療をうけていました。子宮の中にだんごのような薬を入れ、綿でふさいで、二十四時間後にまた検査をするという治療法でした。症状が軽い場合はニ、三日、重い場合はひと月ほどかかりました。検査をしてわかったことですが、女たちのなかには出産経験のある人もいました。
 病院でのひと月の給料は五十銭でした。そのお金でたばこを買うと、残りはいくらもありませんでした。たばこはこっそり吸っていました。普段着の韓服で仕事をし、病院でも「ノブコ」と呼ばれました。
 病院で働くようになってまもなく、医者と何人かの看護婦たちと一緒に飛行機に乗ってシンガポールへ行きました。昭和十七(1942年)だったと思います。シンガポールでは野戦病院で働きました。
 シンガポールで何ヶ月か働いた後、パラオに帰って来ました。また、元の病院で働き始めたのですが、戦争が始まると爆撃がひどく、あっちこっち逃げながら仕事をする有様でした。急ぐ時は、耕うん機のようなオートバイにも乗り、医者と看護婦が軍人たちを治療するのを手伝いました。戦争が始まったばかりの頃、軍医は私に、パラオに長くいると風土病にかかるかもしれないからと診断書を書いてくれて、朝鮮に帰るように言われました。その診断書をもって、警察に行き手続きを済ませ荷物を船に乗せて、翌日出発するはずだったのに、乗るはずの船が爆撃を受けたために、結局戦争が終わるまで帰れませんでした。
 私がいた建物は、広々とした平原にたっていたため目につきやすく、爆撃を受けてあちこち穴があいていました。女たちもたくさん死にました。私は少し離れた田舎にいる時に爆撃の音を聞き、ある家の二階から飛び降りて足にけがをしました。
 爆撃が激しかったので、医者や看護婦とははぐれ、岩山に避難しました。食べるものがすくなく川べりにいた大きなかたつむりをとって食べましたが、地元の人たちは毒があると言って、食べませんでした。また、とかげやねずみも生きたまま食べました。
 ある夜、軍人からもらった飯合にお米を少し入れて、水を探してきて注ぎ、火がみえないようにお米をたいている時に爆撃を受けました。ご飯を持ったまま逃げまどい、朝見てみるとご飯がまだ炊きあがっていなくて真っ赤でした。死んだ人の血が水に混ざっていたのに気がつかなかったのです。一緒にいた女たち六人と話し合った結果、これでも食べないことには死んでしまうということで、目をつぶってのみこみました。こんなふうにして行動を共にした六人はどこかで死んでしまったのか、私一人だけが生き残りました。

 故郷に帰っても家族の姿はなく
 戦争が終わりに近づいた頃、アメリカの飛行機が飛んできてビラをばらまきました。朝鮮人は手をあげて出てくるようにと、ハングルで書かれていました。日本の軍人がなんと書いてあるのかと、銃をつきつけながら尋ねましたが、私は字が読めないと嘘をつきました。
 日本が戦争に負けると、日本の軍人のなかにはビンを割って逆さに突き立て、顔を突っ込んで自殺する人もいました。米軍がやってきて、朝鮮人と日本人を分けて立たせ、朝鮮人は自分たちが乗っている船に行くように命じました。私は怖くて、まごつきながらついて行きました。米軍はたばこを差し出ながら、日本の時計と替えてくるようにと、私に言いました。そこで私はたばこを持って、日本の軍人の時計と交換しに行きましたが、軍人はかわりにお金を出したりしたので、少し儲けることができました。
 夜に毛布をかけてどこででも寝ました。そして、家族で移民として来た人たちと一緒に朝鮮に帰る船に乗りました。1946年のことです。寒い十二月、釜山に着きました。船から降りて故郷の達城に向かい、家に入ってみると誰もいませんでした。村の人たちが、家族は母親の実家のある尚州(サンジュ)にずいぶん前に行ったと教えてくれたので、訪ねて行きましたが誰もいませんでした。その後、国中をさがしてみましたが、家族には会えませんでした。
 六・二五[朝鮮戦争]の時は、忠清南道の唐津(タンジン)にいましたが、パラオで経験した以上のことなどあるはずがないと思い、避難もしませんでした。それからは、大川(テチョン)にも住んだし、工事現場で賄いをやったりもしました。
 ある時、南洋で知り合った人を尋ねて唐津に行きました。そこで、若いのになぜ結婚しないのかと言われ、その家の仲立ちで結婚することになりました。相手は妻と死別して三人の子どもがいる男性でした。相手の男性はこれといった財産もなく、その気になれなかったのですが、子どもたちがかわいそうなので一緒に住むことにしたのです。1957年、私が三十六歳になった年のことです。夫は結婚式をあげようといいましたが、三人も子どもがいるのに何を今さらと思い、そのまま暮らしました。
 結婚して一度妊娠しましたが、七か月目で流産してしまい、それからは子どもはできませんでした。
 夫が中風で死んだ後は、長男夫婦と暮らしましたが、長男は浮気をして本妻とは別れ、妾と一緒になりました。この妾が私の髪をひっつかんだりしてひどいことをするので、夫の遠い親戚にあたる今の家に来たのです。七年前のことになります。私が来てからは、ここの暮らし向きもよくなり、生活の心配はしないですんでいますが、生活保護は受けています。
 当時のことを考えたり、話したりすると、頭が痛くなって数日間はぐっすり眠れません。。足を伸ばして思いっきり泣いてもすっきりしません。南洋であのような経験をしたために、私は鬱病にかかってしまいました。鬱状態になると、冬でも部屋の戸を開けていないと眠れません。いきつけの病院では、神経をあまり使わないように注意されました。また、寝ている時に、右足のふくらはぎがこむらがえりになるのがつらいです。南洋で逃げる際に刀などで突かれ、血をたくさん流したためです。この頃は身体がだるく、体調がすぐれません。ミョンランという頭痛薬をパラオにいた二十代前半の頃から飲んでいたのですが、今でも一日二錠ずつは欠かせません。最近は頭痛だけでなく、息をするのも苦しくて病院に通っています。
 

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