真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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強制連行、監禁、強かん

2019年07月27日 | 国際・政治

 戦時中の、日本軍による戦争犯罪は、日本軍「慰安婦」の連行、監禁、強かんの問題だけではないと思います。戦地でくり返された捕虜の虐待、拷問、斬殺、強制労働や初年兵の捕虜刺突訓練、細菌戦準備のための731部隊による人体実験、細菌兵器の実戦使用、進軍途上で行った民間人の殺害、毒ガス兵器の使用、無差別爆撃なども戦争犯罪であり、明らかに法や道義を無視したものだったと思います。そうした戦争犯罪にきちんと向き合うことが、それらの犠牲となった人たちやこれからの日本にとって大事であると思います。だから、下記のような証言を、事実の証言として受け止め、見舞金で済ますようなことをせず、誠意をもって対応する必要があると思うのです。

 下記は、「フィリピンの日本軍慰安婦 性的暴力の被害者たち」フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団(明石書房)から、テオドラ・コグロン・インテスの証言を抜粋しました。
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                  十人が監禁されていた
                                             テオドラ・コグロン・インテス
 私は、1927年4月27日、ネグロス島ネグロス・オシキデンタル州カラトラパ町で、五人姉妹の次女として生まれました。父はヤシ酒職人、母は野菜売りをしていました。現在、両親はすでに亡くなり、姉妹とも、1956年に私がマニラに出てきて以来音信はありません。
 戦争前の私の家族の生活は、決して楽ではありませんでしたが、それでも家族で力を合わせて何とか暮らしていました。母は、私が七歳のとき身体に水のたまる病気にかかり、子どもたちは、私を含めて小学校を一年か二年で休学して、母に代わって市場で野菜を売ったり、農作業をしたりしました(なお、私は、戦後に再び学校に通い、小学校四年生まで終えています)。
 日本軍が私たちの住んでいた町にやってきたのは1942年のことで、当時私は十四歳くらいでした。その日の朝十時ごろ、日本軍の兵士はトラック二台に鈴なりとなって町に来て、市場に乗りつけるや、たくさんの人を捕まえはじめました。そのとき、私は市場で野菜や米を売っていましたが、逃げるまもなく、二人の日本兵に腕をつかまれ連れて行かれそうになりました。この日本兵らは、肩まで垂れた縁の帽子をかぶり、肩にはバッジのようなものをつけていました。私は抵抗しようとしたのですが、銃剣で顔と太ももを殴られ気絶してしまいました。このとき、倒れた拍子に木切れのようなものが左のももに突き刺さり、その傷のあとは今でも残っています。
 気がついたとき、私は、どこかの家の部屋のなかに運ばれていました。太陽のぐあいから見て、午後五時ごろだったと思います。部屋のなかには、私のほかにも、市場で見かけたことのある四人のフィリピン人女性がおり、私が気がついた直後にそのうちの一人が外へ逃げ出しました。そのとたん、外で銃声が聞こえ、私たちは彼女が殺されたことを知りました。
 私は、気がついたときのほかの四人のようすから、強かんをされるだろうということがわかりました。恐ろしくてどうしてよいのかわからないでいると、日本兵二人とフィリピン人の日本軍協力者(通訳)とが部屋に入ってきて、私にタオルを渡し、シャワーを浴びてタオルを体にまとうようにと指示しました。私は、日本兵と通訳に連れられて階段を下り、階下のバスルームに行ってシャワーを浴びました。それから、もといた部屋に連れ戻されると、すぐに二人の日本兵が部屋に入ってきて、部屋にあったベッドの上で一人が私の足を押え、もう一人に強かんされました。この二人は、私を市場でつかまえた兵士で、後でリョウナン、ミソダ(ミズタ?)と呼ばれていることを知りました。二人のうちリョウナンのほうが位が上ではないかとの印象を持ちました。
 私は当時、初潮を迎えたばかりで、もちろん処女でした。このときのショックが大きく、その後一週間くらい高熱が続いて、この一週間のはっきりした記憶はほとんどありません。しかし、そのあいだにもやってきた何人もの日本兵から強かんされ続けたことは覚えています。
 一週間して熱がひくと、私は食事の支度などをするように命令され、家のなかを歩きまわることが許されました。そこで、窓から外を見て、初めてそこが町から五百メートルくらい離れた金持ちの古物商の家であることがわかりました。その家は、州都であるバゴロドヘ通じる幹線道路に面しており、背後に海があって、一階はコンクリート造り、二階は木造りの建物でした。私の監視されている部屋は二階にあって、ベッドが二つとソファーとテーブルがあり、私と同じ日に連れてこられた三人のフィリピン女性がいっしょに閉じこめられていました。この三人のうち二人の名前は、スリンとインダイで私より少し年上だったと思いますが、もう一人については忘れました。私も含めて四人のフィリピン人女性は、いつもタオルを身にまとうだけのかっこうでいるようにと命令され、部屋の外には銃を持った兵士が常に見張りに立っていました。
 その後の私たちの生活は、毎日朝三時に起床し、日本兵の相手をした後、朝食や昼食の準備、後片づけをし、午後に再び何人かの日本兵の相手をするという毎日でした。この家には全部で二百人くらいの日本兵がいて、入れかわり立ちかわり私を強かんしましたが、夜にはリョウナンとミソダがよく来ました。私は最初のころは日本兵の相手をさせられることに抵抗していたのですが、そのたびに殴られ、同じ部屋にいたフィリピン人女性に、「どうせ殴られるだけだから言われるままにしたほうが良い」と言われ、他の二人は、「初日に殺された女性のように殺されてしまう」と反対し、結局は思いとどまったこともありました。このようにして私は言われるままに日本兵の相手を続けましたが、そのあいだじゅう、自分が自分でないような、自分の身の上に起こったことが信じられないという気持ちでした。今考えれば、監禁されているあいだ、私は豚のように扱われていたと思います。
 リョウナンはいつもコンドームを使用していたように思いますが、他の兵士はどうだったかよく覚えていません。私がこの家に閉じ込められているあいだ、医者の診察などは一切ありませんでした。
 この監禁中に、リョウナンは私に簡単な日本語を教え、今でも「おはよう」「こんにちわ」「こんばんは」「どうもどうも」「ともだちだよ」「たくさんたくさんありがとう」といった言葉を覚えています。
 私たちがこの兵舎に連行されてから一ヶ月くらいして、リョウナンが、部隊が他所へ移動すると教えてくれました。これは、アメリカ軍の侵攻などによるものではなく、単に移動し、後で代わりの部隊が到着する予定だとのことでした。部隊が移動する当日、日本兵がいなくなったのを確認して、監禁されていた女性たちは、あわてて各々の家へ帰りました。この日、私は初めて、自分のほかにも女性たちが同様に別の部屋で監禁されていたことを知りました。この家には合計十人くらいの女性が監禁されていたようでした。なお、この日本軍の部隊は、このとき、州都へ移動したと聞いています。
 私が家へ帰ってみると、焼払われて家はなく、家族は焼跡にバラックを建てて住んでいました。私が帰ったとき、家族は生きて帰ったことを非常に喜んでくれました。私が「慰安婦」をさせられていたことを話すと、両親はとても悲しみましたが、とにかく生きていてよかったと言ってくれました。そして一ヶ月くらいたって、何かの拍子に最初に強かんした二人の日本兵の顔が浮かんで、突然正気に戻りました。
 私は、1950年にフィリップ・インテスと結婚しました。私は、「慰安婦」とされた体験から、男性を憎むようになり、本当は結婚などしたくなかったのですが、両親から強く勧められて結婚したのです。夫は、結婚前に近所の人から、私が「慰安婦」をさせられていたことを聞いたらしく、私に対して、「それは本当か」とたずねてきました。私はそれに対して「本当だ」とだけ答えました。夫はそれ以上は何も言わず、私たちは結婚しました。
 夫とのあいだには八人の子どもに恵まれ、皆無事に成長しました。
 現在は、養女(十一歳)と二人で暮らしており、私が市場で店を借りて果物や野菜を売って生活しています。この収入で食べて行くだけのことは一応できますが、それ以外に、医療費や薬代などが必要なときは、高利貸しから借金をしてその場をしのいでいる状態です。健康状態としては、首筋や背中に痛みがあって、医者に見せたところ肺機能が弱っていると言われました。医者に通いたいのですが、お金がなく、それもできません。
 私は、今でも日本兵から強かんに強かんを重ねられたことが忘れられません。今でもときどきその夢を見ます。
 私が元「慰安婦」として名乗り出ようと決心したのは、同じ地区に住む元「慰安婦」が名乗り出ていて、日本の弁護士が調査にきたことがきっかけでした。彼女が自分の身に起こったことを話し謝罪を求めていることを知って、私も、戦争当時に何が行われたのかを伝え、きちんと謝罪し補償してほしいと思い、名乗り出ることにしたのです。
 私が名乗り出る決心をしたとき、私は子どもたちに、自分が「慰安婦」をさせられていたこと、名乗り出ようと思うことを話しました。子どもたちのうち一人は、私が新聞やテレビに出てそのことが広まるとどんな反響があるかわからないと心配しましたが、結局、その子も含めて私が名乗り出ようとする気持ちをわかってくれました。(幸長裕美弁護士聴取)
 

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