先日、朝日新聞は、中国の3隻目となる空母「福建」が進水し、自衛隊関係者が「極めて大きな脅威だ」と危機感を募らせているということを報じました。であれば日本は、ロシアがNATO(北大西洋条約機構)の拡大やNATO諸国の軍事演習、またウクライナへの武器の配備に、脅威を感じ危機感を募らせていたことを理解し、対応すべきだったのではないでしょうか。ロシアが、ウクライナとの国境付近に軍部隊や戦車などを終結させている時に、なぜ、話し合いを求め、侵攻を食い止める努力をしなかったのでしょうか。
また、4月22日、アメリカの国家安全保障会議インド・太平洋調整官のキャンベル氏は、南太平洋の島国ソロモン諸島を訪れ、ソガバレ首相に対し、”ソロモンと中国が署名した安全保障協定について、中国軍がソロモンに常駐した場合は、対抗措置を取ると警告した”との報道がありました。アメリカから遠く離れた小さな島国に対してさえ、そうした圧力をかけるアメリカは NATO諸国の動きにロシアが脅威を感じ、危機感を募らせていることを知らなかったはずはないと思います。それを十分承知した上で、アメリカのバイデン大統領は、”ロシア軍は、2月16日にウクライナに侵攻するだろう”と予言めいたことを言ったのです。そこに私は、ウクライナ戦争にかけるアメリカの意図や思いがあらわれていると思います。
朝日新聞は、耕論欄に「戦争とスポーツ」と題し、フェンシング指導者のオレグ・マツェイチュクさんの主張を掲載しました。そこに、”どの国にも良い人、悪い人はいる。どこの国で生まれたか、国籍で差別したくありません。ただ今回、ロシアが仕掛けた戦争は許せません。フェンシングをはじめ、ほとんどのスポーツの国際競技連盟がロシアを国際大会から排除しているのは、正しい判断だと思います。一方、スポーツと政治は別であるべきだ、国家の責任を個々のアスリートに押しつけるのはかわいそう、という声は耳に入ってきます。では、母国が無慈悲に空爆され、大勢の国民が殺される立場に置かれたとしても、その理想を貫けますか? そう問い返したいです。… ウクライナでは2004年のオレンジ革命、そして14年のマイダン革命で親ロシア路線に国民が反旗を翻し、民主主義を守りました。自由のためなら耐え忍ばない。皆が死を覚悟して闘いました。…”とありました。その気持はわかるような気がしますが、賛成はできません。なぜなら、彼にはオレンジ革命やマイダン革命、また、ウクライナ戦争の真相が十分理解されていない部分があるように思うからです。
特にアメリカが、ロシアに対する敵視政策をどのように進めていたか、また、ウクライナの政権転覆や今回の戦争にどのように関わっていたか、ほとんど考慮されていないように思います。だから、彼は、通り魔が突然通行人に襲いかかるように、ロシアが突然ウクライナに襲いかかったというような捉え方をしているように思います。でも現実がそんなものでなかったことは、侵攻前のプーチン大統領の演説の内容でわかると思います。
マイダン革命にアメリカが深くかかわっていることはすでに取り上げましたが、そうしたウクライナに対するアメリカのさまざまな働きかけを見ないと、ロシア軍が通り魔の如き存在に見えるのだろうと思います。だから、彼の主張を取り上げること自体が、アメリカのプロパガンダに協力する意味を持つのではないかと思います。
私はロシア側にもいろいろな問題があるだろうとは思いますが、ロシア以上にアメリカが問題なのだと思っています。だから、今回は、「燃える中南米 特派員報告」伊藤千尋(岩波新書)から、ニカラグアに対するアメリカのかかわりを明らかにした部分を抜萃しました。アメリカが反政府勢力を支援し、政権転覆を意図するところは、ウクライナに対するアメリカの関わり方と共通している面が多いと思います。
アメリカの援助に支えられたニカラグアの反政府勢力との戦いについて、ニカラグアのベツヘ内相は、”ニカラグアには内戦はない。あるのはニカラグアと米国との戦争だ”と語ったことが書かれていますが、それは、アメリカの外交政策を象徴しているように思います。
アメリカは自由主義や民主主義を掲げ、社会主義政権の国を、専制主義や独裁主義の国と非難して潰そうとしてきたと思います。でも、アメリカの掲げる自由主義は、搾取を可能にするための自由主義であり、アメリカの民主主義は、アメリカの権力を維持することが可能な範囲での民主主義であるように思います。アメリカの国内は、かなり民主主義が進んでいると思いますが、外交では、いつも経済力や武力を背景にかなり強引な主張を押し通していると思います。特に、アフリカや中東、アジアやラテンアメリカの小国に対する姿勢は、とても不平等で民主的なものとは思えません。アメリカの掲げる自由主義や民主主義は、真実を覆い隠した自由主義であり、民主主義だと思います。第二次世界大戦後も、くり返し戦争をしてきたのはアメリカです。だから、アメリカの政治家は、仮面をかぶり、素顔を隠していると思います。
ニカラグアにたいするアメリカの政策が示すのは、アメリカの外交が武力主義であり、また、制裁主義であって、決して民主的ではないということだと思います。そして、それはウクライナ戦争にも共通していると思います。
ウクライナ戦争に関わるプロパガンダを見抜き、真実を知るためには、様々な情報源から出来るだけ多くの情報を得ること、また、過去にアメリカが関わった戦争や政権転覆の詳細をいろいろ知ることが欠かせないと思います。アメリカやウクライナからもたらされる情報だけでは、決して法的に正しい判断を下すための真実を知ることはできないと思います。
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第一章 革命と内戦
ニカラグア、エルサルバドルの素顔
サンディニスタ革命
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中南米でめだつのは貧しさだが、中米地域の国内総生産は、中南米平均の三分の一でしかない。とりわけ貧しいのだ。ニカラグアの年間国民所得は、ざっと日本の一ヶ月分である。ボルヘ内相は言う。「中南米の問題は飢えなのだ。飢えは東西紛争とは関係ない。中米の司令官はただ一人、飢餓将軍が存在するのみだ」。サンディニスタ革命とは飢餓に追いつめられた人々が、飢餓をもたらす構造に立ち向かい、不平等の是正と社会的正義の実現を求めた闘いだった。革命から八年後の87年に制定された新憲法は、前文でその目的を「すべての搾取階級をなくし、経済・政治・社会的平等を達成し、人権を尊重する新しい社会の建設のために」とうたう。
革命前、農民の75%が土地を持たない貧農で、平均年収は二万五千円でしかなかった。国民が貧困と飢餓に苦しむのに、独裁者ソモサは国の総生産の三分の一を一族の手に収めた。肥えた農地のほとんどは、人口の7%にすぎない地主が私有していた。不満を漏らすものにたいしては、独裁者の私兵である国家警備隊が暴力で取り締まり、40余年間に30万人が虐殺されたという。その独裁政権の打倒を掲げて61年に組織されたのがサンディニスタ民族解放戦(FSLN)だ。
「サンディニスタ」とは「サンディーノ主義者」という意味である。サンディーノとは、1920年代に米海兵隊のニカラグア駐留に反抗してゲリラ戦を開始した将軍の名だ。米国はかつてパナマのかわりにこのニカラグアに運河を掘ろうとしたこともあり、十九世紀中期には米国人が軍団を率いてニカラグアを占領し、大統領になった。当時は米国資本のバナナ農園が広がってニカラグアは米国の「バナナ共和国」でしかなく、農民は奴隷労働を強いられた。米国は、民族主義的な動きが出た1912年に海兵隊を侵攻させ、20年間にわたってニカラグアを軍事占領した。これにたいして「自由」と「死」を象徴する赤と黒の旗を掲げて武装蜂起したのがサンディーノ将軍だった。自由を得なければ、服従よりも死を選ぶ、という気概を示した。同将軍をだまして暗殺し、独裁者となったのがソモサである。反独裁と反米ナショナリズムの闘いは、1927年のサンディーノの蜂起から79年の革命成功まで、実に半世紀におよぶ歴史があるのだ。
サンディニスタ民族解放戦線は、サンディーノの主張と二色の旗をそのまま採用した。だから、その主張の根幹は民族主義である。米国に対して立ち向かう姿勢は、この時からのものだ。米国によるニカラグア侵攻の危険性を現政権が声高に叫ぶのも、歴史的な侵略の事実を踏まえているからである。
サンディニスタ民族解放戦線は、三つのグループの連合体である。創始者のカルロス・フォンセカや現政府の実力者ボルヘ内相らの持久人民戦線(GPP)は、中国革命型の農村を中心とした持久闘争を進めていた。ウイロック農相らプロレタリア派(GPP)は、都市労働者が前衛となるよう主張した。オルテガ大統領ら第三派(TT)は、農民や都市労働者にこだわらず国民的な連合による反独裁の闘いを呼びかけた。女性も革命に数多く参加し、独裁打倒時には革命軍の30%が女性だった。政権奪取後は、この三つの派から三人ずつが出て全国評議会を構成し、党は集団指導体制を旨としている。党綱領は「忘れられたすべての貧しい人々のための政府」の樹立を宣言した。
革命後は直ちに社会改革に取り組んだ。農地改革により、革命前に全農地の36%を占めた350ヘエクタールを超す大農地は、86年には11%に減った。革命後に自分の土地を手にした農民は12万家族に及ぶ。特に政府が力を入れたのは教育と福祉で、中学生ら5000人を山村に派遣しての文盲退治運動の展開により、50%をこえていた文盲率は13%に減り、40万人が学校に行けるようになった。乳児死亡率は三割も減らした。何よりも、政府は、「革命は国民一人ひとりを政治の対象から主体に変えた」(アルセ革命司令官)と胸を張る。
とはいえ、革命政権の指導部にとって、実際に政治を運営するのはこれが初めてだ。革命の理想を掲げつつ、実際の現場では試行錯誤の政策を展開してきた。政府の閣僚と国民が顔を突き合わせる「対話集会」は、世界でも珍しい直接民主主義の試みである。
首都マナグアの繊維工場の中庭に折り畳みの椅子が並び、青空の下、300人の労働者や付近の住民が座った。その前方には板を数枚重ねた段が作られ、大統領をはじめすべての閣僚、次官ら約30人が対面する。市民の質問や要望に、政府指導部が直接答えるのだ。いわば大衆団交である。筋書はない。発言希望者は勝手に手を上げる。「真面目に働いているのに給料が少なすぎる」「ヤミ市で買わなければ食べていけない。何故こうなるのか説明してほしい」と労働者が問う。経済閣僚が、苦しい国の台所事情と賃上げの見通しを話す。若い男が「役所でたらい回しされた。官僚主義じゃないか。省なんかなくして、みんな一つにしちまえ」というと、ドッと拍手がわいた。文学者でもあるラミレス副大統領が苦笑いしながら立ち上がり、「労働者にエリートはあってはならない。官僚主義をなくす闘いを進めたい」と答えた。
他にも、トラクターの性能が悪くて困るという農民の訴えや、内戦終結の見通しなどの問いが相次いだ。きわめて率直なホンネが飛び交う。閣僚は問題点をメモする。土曜の午前10時に始まった集会は炎天下、休みなく二時間半続いた。閣僚たちのなかにはジーンズ、野球帽姿もいる。ネクタイなどしている人は一人もいない。きわめて気さくだ。集会が終わると、参加者と閣僚が握手し会話を交わす。まるで旧知の友だち同士のような家族的な雰囲気だ。この対話集会は毎週土曜、国内のどこかで開かれている。
ニカラグアについての大きな錯覚は、サンディニスタ政権がマルクス主義政権の一党独裁だという誤解である。米レーガン政権が振りまいたデマだ。サンディニスタ政府は複数政党主義、混合経済、非同盟外交を政策の三本柱としている。84年10月の革命後初の大統領選挙で、その主張が国民の三分の二の支持を得た。当時でさえニカラグアには野党が六つあった。このうちサンディニスタより左の、マルクス主義を掲げる党が二つあった。ニカラグア共産党(ソ連派)の党首が「サンディニスタはイデオロギー的には混沌としている。政府のなかにカトリック神父までいる。マルクス主義とは無縁だ」というくらいなのだ。
しかし内戦が進み米国との対決が増すにつれて、政権は左傾化してきた。当初、サンディニスタとともに国家再建委員会を構成してきた中間勢力は政府から次々に去り、在野で政府批判をした。批判の中心となったのは野党、新聞、教会の三つである。これに対し政府側は、反革命活動を助長しゲリラを利するもの、とみなしてしばしば弾圧した。
社会民主党のトマス政治局長は「デモをすればやめさせられ、宣伝ビラは焼かれた。これが民主主義か」となじる。この国には新聞が三紙ああるが、ただ一つの反政府系紙『ラプレンサ』は検閲を義務づけられてきた。ときには記事の60%が削られ、発行不能となった。その編輯局の外壁には、発禁処分となった記事が壁いっぱいに張ってある。せめてもの抵抗だ。ラミレス編集長は「自由な言論を求めての革命ではなかったのか」と非難する。カトリック教会のラジオも放送を禁じられた。教会の主流はオバンド・イ・ブラボ枢機卿を中心とし、ローマ法王庁の支持を受けた保守派である。政府の閣僚には「解放の神学」派の神父がいるとはいえ、進歩派は傍流でしかない。内戦という非常事態の下では、政府批判と反革命活動の区別がつきにくく、政府は批判者を反革命と断定して弾圧しがちだ。しかし、民主化の理想と抑圧は明らかに矛盾する。政権の真価が問われているといえる。
コントラと米国
ニカラグア政府は、反政府勢力を「コントラ」と呼ぶ。「コントラ・レボルシオン(反革命)」の略だ。反政府ゲリラは大きく三組織に分かれ、同国の北、東、南部の三方面で攻撃する。このうち最大の組織は、北部のニカラグア民主軍(FDN)だ。独裁政権時代の国家警備隊を主力として82年3月に結成され、米国から大量の資金・武器援助を受けてきた。その秘密司令部は、隣国ホンジュラスの首都テグシガルパにある。
空港から七分。曲がりくねった道を車で走ると、右手に白い豪邸が見える。鉄の門は閉ざされ、門番が外を見張る。ここで会ったのは、FDNのナンバー2、ロドリゲス氏(47歳)だった。かつて野党の総裁や大学の学長を務め、革命後も一時は政権の中枢にいた大物だ。ニカラグアの地図と幹部の肖像が掛かる作戦本部室で、同氏は「現有兵力22500人。ただし武器がないので戦えない部分がかなりある。九県で作戦を展開中であり、うち北部の三県に前進基地を置いた」と目下の戦闘配置を説明した。司令部の地下にはビデオ設備を多数置いた部屋があり、ここでゲリラ・キャンプでの訓練の様子を見た。兵士の質、装備、食事はいずれもひどい。足並みがそろわない行進や射撃の姿勢だけ見ても、訓練不足が知れる。軍服がなく、太ももまで裂けたズボンをはいたいた者までいる。食事は、すりつぶしたトウモロコシが金属のおわんに一杯だけだ。兵士一人の人を養うのに一日一ドルだという。
そのゲリラ兵士に、ニカラグアとの国境地帯であった。テグシガルパから東へ200キロ。つづらおれの山道と三つの川を越え六回の検問を切り抜けると、国境の集落シフエンステだ。集落から国境まで600メートル。眼前の山はニカラグア領だ。一帯は「非常地帯」で通行禁止となり、ホンジュラス政府軍兵士が自動小銃を手に警戒している。ゲリラの第三十八大隊所属のレイタン軍曹と、ここで会った。その首に下がった楕円形の認識票にはゲリラとしての変名と血液型、認識番号、宗教が刻印されている。
レイタン軍曹は、FDNがこの近くのホンジュラス領内に大小四つの秘密基地を置いていることを、具体的な基地名と兵員数まであげて明らかにした。さらに、ホンジュラスの政府がゲリラに土地と食料を提供していることも暴露した。当人としてはゲリラの宣伝のつもりで正直に話したのだが、これは大変なニュースだった。ホンジュラス領内にゲリラ基地があるのは公然の秘密だが、ホンジュラス政府はニカラグアとの争いを恐れて、認めようとしなかった。ところが、現実はかなり深入りした支持をしているのだ。話している目の前を、ゲリラ向けの食料を積んだホンジュラス軍のトラックが通り過ぎた。
FDNの実働兵力は1万5000と見られている。これに加え、東部の湿地帯で活動するインディオ原住民の組織「キサン」が4000、南部のコスタリカ国境地帯では民主革命同盟(ARDE)の1000人が戦う。
「キサン」は「ニカラグア沿岸インディオ住民連合」の略称だ。ニカラグアの東部、カリブ海岸はインディオや黒人約30万人が住むが、太平洋岸の白人・混血のニカラグア人とは人種も文化も違う。革命後、政府はここに役人を送り近代化しようと試みたが、インディオにとっては従来の自治制度と固有の文化を奪われることにほかならなかった。内戦が進んで政府が安全保障を理由にインディオ住民を強制移住させたあと、ゲリラの使用を警戒して村を焼きは払ったことから対立が強まり、ホンジュラスに逃げた4万人のインディオの中からゲリラ組織が生まれた。
キサンの秘密司令部もテグシガルパにある。鋭い目をしたヘルマン政治局長(33歳)は、「我々には武器も金もないが、三つの味方がある。神と人民と自然だ」という。信仰心厚いキリスト教徒の彼らは、当初ナイフや山刀を武器に立ち上がり、ジャングルとベトナム型のゲリラ戦を展開してきた。「これは正義の戦いだ。右の頬を殴られたら左の頬を殴り返す」とも言う。キサンの要求は連邦国家である。歴史的に手にしていた自治を政府が認めるよう主張する。「我々には服従した歴史はない。最後の血の一滴まで戦う」
ニカラグアのサンディニスタ政権にとって、本当に困難なのは、実はこのインディオ問題である。両者は民族自決という同一の大義のために戦っている。インディオにすれば、サンディニスタこそ侵略者なのだ。政府にとってインディオの主張を否定することは、自らの革命活動を否定することになるのだ。
このようなゲリラ諸勢力にたいし、米国は公然と軍事・経済援助をする一方、レーガン政権はニカラグアに経済封鎖の圧力をかけ、CIA(米中央情報局)がニカラグアの港湾に機雷をしかけたり、85年からは対ニカラグア全面禁輸という兵糧攻めに踏み切るなど、事実上の戦闘行為をとってきた。86年にはゲリラに武器を空輸していた飛行機がニカラグア領内で撃墜され米人乗員が逮捕されたが、その自供から隣国ホンジュラスやエルサルバドルの米軍基地を利用してのコントラ援助網が明らかになった。対イラン秘密工作と絡んだノース中佐による積極的なゲリラ軍事支援は、米議会でも問題となった。ニカラグアのベツヘ内相は「ニカラグアには内戦はない。あるのはニカラグアと米国との戦争だ」というほどだ。この認識から、ニカラグア政府はゲリラとの交渉は無意味であるとして、米国との二国間交渉を要求してきた。実際、ニカラグアのゲリラ、特に主力のFDNは、米国が援助しなければ一日として持たない、いわば「米国の傭兵」なのだ。
FDNはその後、ARDEを吸収した形でニカラグア反政府連合(UNO)を結成した。さらに87年5月にはゲリラとインディオ、国内野党勢力の統一組織、ニカラグア抵抗(RN)に発展し、反サンディニスタの政治・軍事活動の組織系統を一本化した。
FDNの非民主的な体質や麻薬とのかかわりなどが明らかになったり、国際世論がニカラグアの民族自決を支持して米議会が対ゲリラ援助に難色を示すと、米政府は工作をそのつどめぐらした。ニカラグア政府軍がホンジュラスに侵攻したと発表し、ホンジュラスに米兵を送って危機をあおりたて、米国内の世論を盛り上げて議会がゲリラへの援助を自ら議決するように持ち込むのだ。86年3月、同12月、88年3月と、まったく同じパターンが三度も続いた。ニカラグア軍の「侵攻」は、おそらく事実である。だが、これはホンジュラス領内にあるゲリラの基地を攻撃するためで、ホンジュラスを攻撃するのではない。両国の国境には小さな川が流れているだけの深い山岳地帯で、明確な国境線がみえるわけでもなく、戦闘中には知らずに越境することもありがちだ。ホンジュラス政府は、ニカラグア軍がホンジュラス内のゲリラ基地を攻撃することを、従来黙認して来た。領土内に他国のゲリラ基地の存在を許しておきながら、公にはその存在を否定せざるをえないという奇妙な立場からである。だから米政府がニカラグアの「侵攻」を発表しても、侵攻されたはずのホンジュラスの政府は当初、その事実を否定し、米政府から強く促されてようやく「侵攻された」と認めた。しばらくすると米国からホンジュラスへ経済援助のおみやげが渡されるのが、お定まりの型である。
米レーガン政権はニカラグアを「西半球のガン」と敵視する。ニカラグア左翼政権の定着を許せば、中米全域、さらにはメキシコの共産化につながる、とのドミノ理論を恐れてのことだ。レーガン政権はニカラグアを「ソ連傘下の共産主義テロ国家」としか見ない。ホンジュラスに米軍基地を多数新設し、ニカラグア侵攻の際の前進基地とする体制を整えた。ホンジュラス駐留の米軍は常に数千人おり、軍事演習を絶やさないでニカラグアに心理的圧力をかける。とはいえ、実際に米軍がニカラグアに侵攻すれば、「第二のベトナム」となり、20万人の米兵が戦死する、といわれる。米政府はこれを嫌って、ニカラグア人同士が戦うように仕向け、真綿で首を絞めるような兵糧攻めを行なう。ニカラグアにしてみれば、米国こそが「テロ国家」なのだ。米国内にもニカラグアの国内問題に介入すべきではないとする世論が強いのに、レーガン政権は執拗にこの小国をつぶしにかかった。
米国の圧力が強まるにつれて、ニカラグアは必然的にソ連に接近した。米国が経済封鎖した分をソ連が肩代わりした恰好だ。軍備から食料や燃料に至るまで、ニカラグアはもはやソ連の援助なしには維持できない。ソ連、東欧による大規模開発が国内で進み、ニカラグアの学生が毎年5000人、これら東欧諸国に留学している。南北問題を原因としておきた革命は、米国の敵視政策によって、いまや完全に東西問題となった。オルテガア大統領に会見したとき、「東西対決が激化するなかで、小国が非同盟を貫くのは難しい。ある程度の(一方への)依存はやむを得ない」と語った彼の表情は、苦悩に満ちていた。超大国の身勝手さが、小国の自立を踏みにじり、平和を遠のかせている。