真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカのエルサルバドル寡頭制支配体制支援とウクライナ戦争

2022年06月24日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争が始まるまでは、私は、日本の戦後の歴史、特に明治維新以後の「薩長史観」といわれる歴史の諸問題や、「逆コース」と言われるGHQの方針転換後の日本の歴史の諸問題を中心に、歴史の学び直しをしてきました。
 当初GHQは、日本の実態を踏まえ、丁寧に「日本の民主化・非軍事化」に取り組んでいたと思います。でも、よく知られているように、日本共産党主導の二・一ゼネスト(1947年)をきっかけとして、GHQは対日占領政策を根本的に転換したのです。そして、「公職追放令」や「団体等規正令」などによる戦争指導層排除の方針を、労働運動や社会主義運動を取り締まる法律に変え、戦争指導層と手を組むことにしたのだと思います。だから、それを正当化するためと思われる諸事件が頻発することになったのではないでしょうか。

 「レッドパージ」開始後、公職追放の対象が右翼から左翼に変化したと言えるわけですが、GHQのこの方針転換後の諸政策が、ベトナム戦争におけるドミノ理論で明らかなアメリカの反共思想を象徴していると思います。
 したがって、「ロイヤル答申」に基づいて、旧日本軍の軍人を中心に構成された「警察予備隊」や「自衛隊」も、また、その後締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」も、基本的には、アメリカの反共思想に基づいたもので、安保条約は言い換えれば反共軍事同盟だと思います。

 そして、そうした日本の歴史を踏まえてウクライナ戦争をとらえると、同じような側面が見えるような気がします。
 アメリカは世界中の国の紛争に関わっているように思いますが、そのかかわり方には大きく二つに分けられると思います。 
 一つは、その国が社会主義政権の場合、反政府勢力を支援して政権転覆を意図するということです。
 もう一つは、その国が親米政権であれば、たとえその政権が独裁政権であっても、その政権を支援し、民族解放戦線などの反政府勢力を潰しにかかるということです。
 前者の例は、ニカラグアやリビア、チリなどであり、後者の例は、ベトナムや今回取り上げたエルサルバドルなどに見られると思います。
 アメリカが、ヤヌコビッチ大統領を歴史上稀に見る独裁者に仕立て上げ、暴力的な政権転覆に手を貸したという主張に耳を傾ければ、ウクライナは前者であり、逆コース後の日本はどちらかといえば、後者に入ると思います。

 そして、そうした見方が、単なる妄想や空想ではないことが、下記の、中米の小国、エルサルバドルに対するアメリカのかかわり方が示しているのではないかと思います。"…このままでは政府軍はあと半年しか持たず、革命成功は時間の問題と言われた。この時介入してきたのが米国である。レーガン政権は対ゲリラ戦用のヘリコプターや攻撃機を供与するとともに、経済・軍事援助を大幅に増額した。このため政府軍の兵力は一挙に増大した。政府軍は、ゲリラ支配区を空から爆撃したうえ、ヘリで空輸された兵士がゲリラ支配区の村を焼き払った。…”とあります。ほんの2%の富裕層が、国土の60%を私有するという 「14家族」の寡頭制支配体制による差別や搾取を乗り越えるために立ち上がったのが、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)です。そのファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)を、なぜ、アメリカが潰しにかかったのか、なぜ、自由主義や民主主義に反する寡頭制支配体制を維持しようとする政権をアメリカが支援したのか。そこに、ドミノ理論に繋がる反共思想が示されているのではないか、と私は思うのです。
 そうした問題意識をもって、ウクライナ戦争をふり返ると見えてくるものがあるように思います。
 だから、「燃える中南米 特派員報告」伊藤千尋(岩波新書)から、「エルサルバドルの最前線へ」と<「救世主」に見放されて>を抜萃しました。とても考えさせられる特派員報告であると思います。
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                      第一章 革命と内戦

                   ニカラグア、エルサルバドルの素顔


 エルサルバドルの最前線へ
 ニカラグアと同じく、内戦が続く隣国エルサルバドル。首都サンサルバドルから東へ150キロのサンミゲルに本部を置く陸軍東部方面軍は、左翼ゲリラ組織、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)に対する制圧作戦の前線基地だ。重装備のヘリコプターが空に舞い上がり、迷彩服のコブラ小隊40人が2台のトラックに分乗して、ゲリラ出没地点のレンパ川一帯に出撃した。赤土の道路の両側は、収穫期を迎えた白い綿花と、赤い実のコーヒー畑が続く。車はたびたび停止した。前方に数台の車が連なって停車しており、運転手たちの顔は一様に恐怖で引きつっている。すぐ前方で今しがた戦闘があったのだ。銃声が静まっても、だれも車を前に進めようとしない。ひたすら、向こう側から車がやって来るのを待つ。
 しかし、戦場の村で生きる民衆にとって、恐怖はその比ではない。「ゲリラが来て、共に銃を取れといった。従えば政府軍に家を焼かれる。断ればゲリラに殺される。わしら農民は、そのつど逃げるしかない。でも、土地を離れて逃げれば生きていけない」と、沿道の農民へラルド・ソリスさん(40歳)は嘆く。そのかたわらを、直径50センチもある水がめを背負った10歳ほどの少年と母親が、うつろな目で通り過ぎる。ボロをまとった母親がつぶやいた。「生活が少しはよくなるかと、ゲリラにに期待した。でも、長い内戦にもう疲れた。今はなにも考えたくない」。水がめは少年の肩にくいこみ、少年の背は老人のように曲がっていた。黙々と歩く二人のわきを、機関銃の銃口をハリネズミのようにいくつも突き出した政府軍のトラックが通りすぎ、砂埃を舞いあげた。二人は無言のまま、ほこりの中を歩き続けた。
 首都から北部幹線道を、車で一路北へ。隣のホンジュラスまでわずか11キロの国境の町ラパルマをめざす。1984年10月に、内戦開始以来初めてのゲリラと政府の和平交渉がここで開かれてから一年目の日だ。この間、交渉は途絶え、両者の対立がいっそう深まった。ここ数日、ゲリラは全土で道路封鎖を宣言し、通行する車両は銃撃すると警告している。攻撃された車はすでに数十台にのぼり、昨日は赤十字の救急車が地雷に触れて爆破された。私の乗る車は、銃撃に会ったときガラスが飛び散るのを防ぐため、すべての窓に布テープをはってある。一年前は政府とゲリラの合意の下に安全が保証されたこの道が、今は命がけである。自動小銃を突き出した軍用トラック、装甲車が行き交う。橋のたもとには、安全武装の政府軍兵士が目を光らせる。首都中心部を出発して一時間半ほどで、すれ違う車はなくなった。道路わきの電柱が爆破され、切れて垂れ下がった電線が風に揺れている。雨上がりの空に虹が浮かぶ。よく見ようと窓に顔を近づけると、運転手が「伏せろ。狙撃されるぞ!」と叫んだ。一瞬、蝶に見とれて塹壕から顔を出し狙撃され命を失ったレマルク原作の『西部戦線異状なし』の主人公を思い出した。ここには夢に思いを馳せる束の間の自由もない。
 不気味に静まりかえった舗装道路をさらに一時間。道筋の民家の軒先に白い旗が掲げてある。平和の象徴だ。一年前、この町に集まった政府とゲリラの代表を、人々はこの旗の波で迎えた。今はまばらだ。やがてラパルマに入った。かつて両者の対話の場となった教会前の広場には、政府軍部隊100人が陣取っていた。22歳の中尉が無線でひっきりなしに交信している。「ネコから幽霊へ応答せよ」。ネコとはこの中尉の暗号だ。偵察から帰ったばかりの兵士が米国製M16自動小銃を身から離さず、コンクリートの塀の影で身体を休める。そのベルトにはUSのマークが刻印してある。装備はすべて米軍の支給品だ。3日前にはゲリラがこの町を占拠していた。今も6キロ先の山中にいるという。両軍の一進一退が、この町を舞台に展開する。
 かつて和平交渉の地はいま、最前線である。住民の表情は固い。広場の一角で野菜を売っていたマリア・マンシーヤさん(35歳)は、「あの交渉でようやく平和が来ると思ったのに。ふたりの子どものためにも、早くヘ平和が欲しい」と訴える。クリ色の髪をしたトマト売りの少女マルタさん(16歳)は「平和が来たら、したいこと山ほどある。でも、平和はこないわ」と言い切った。町なかに白い旗はもう見られない。家々の壁は弾痕だらけだ。住民はあきらめきっている。

 「救世主」に見放されて
 かつてエルサルバドルは、「中米の日本」と呼ばれた。国土は狭いのに人口密度が高く、日本の四国よりやや広い土地に約500万人が住む。火山が多い山国だ。国民は勤勉なうえ親切である。「エル・サルバドル」とは「救世主」の意味だ。その昔、スペイン軍が征服に成功したとき、勝利を神に感謝して名づけた。しかし、現在この国は、救世主から見放されたとしか思えない。「死の部隊」と呼ばれる極右暗殺者集団が暗躍し、白昼から市民を虐殺する。80年3月には、その一部がカトリック大司教(オスカル・ロメロ)を暗殺した。これをきっかけとして本格化した内戦で、死者はこれまでに6万人を越す。
 かつてこの国には「14家族」といわれる寡頭制支配体制が君臨した。ほんの2%の富裕層が、国土の60%を私有した。一方では、コーヒーや綿花など季節労働にのみ使われる、膨大な数の貧しい農民がいる。1957年には国民の6割が月収1300円ほどという低賃金だった。食べ物を買えず、5歳以下の子どもの70%が栄養失調に陥っていた。農民は学校に行けず、文盲率は43%にも達した。あまりにひどい不平等のため、1932年には共産党の指導の下で小作農たちが山刀を手に蜂起したが、計画が漏れて3万人が政府軍に殺された。この時銃殺された共産党の指導者の名をファラブンド・マルチという。80年に国内の左翼ゲリラ5組織が集まって統一ゲリラ組織を結成したとき、この名をとって、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)」と名づけた。
 ゲリラ組織は攻撃を重ね、83年には国土の三分の一を支配下に置いた。当時の政府軍は「午後五時までの軍隊」といわれ、夕刻にはさっさと自宅に帰るサラリーマンぶりで士気も上がらなかった。このままでは政府軍はあと半年しか持たず、革命成功は時間の問題と言われた。この時介入してきたのが米国である。レーガン政権は対ゲリラ戦用のヘリコプターや攻撃機を供与するとともに、経済・軍事援助を大幅に増額した。このため政府軍の兵力は一挙に増大した。政府軍は、ゲリラ支配区を空から爆撃したうえ、ヘリで空輸された兵士がゲリラ支配区の村を焼き払った。こうしたなかで84年に就任した中道のドアルテ大統領はゲリラの対話呼びかけに応じ、同年10月、ラパルマの町で初めての和平交渉が実現したのだ。「ラ・パルマ」とはスペイン語で植物のシュロを指す。シュロは平和の象徴である。人々はこの交渉に期待し、当日は国をあげてお祭り騒ぎとなった。
 しかし、ゲリラの武装解除を求める政府と、政権への参加を要求するゲリラとの主張はかみ合わず、交渉は一か月後の第二回で打切られた。以後は、ゲリラに対しては軍事せん滅あるのみ、とする軍部の主張が優先した。これは米国の意志でもある。圧倒的な物量作戦により、ゲリラ側はしだいに追い詰められた。政府側は、拡声器を山に向け、自動小銃持参の投降者には罪を許したうえ160ドルを与える、と呼びかける心理作戦を展開した。内戦の長期化に疲れて政府側に投降するゲリラが相次ぎ、ゲリラ勢力は最盛期の1万2000から、85年には三分の一の4000に減った。このためゲリラは従来のような支配区分を拡大する「面」の戦略から、国内各地でテロ活動を行なう「点」の戦略に重点を移し首都で米海兵隊員射殺、さらには大統領の娘を誘拐して捕虜となっていたゲリラ指導者と身柄を交換するなどの動きを見せた。道路封鎖や首都の送電施設の破壊は日常的に行われている。
 戦乱だけではない。86年10月には大地震で1500人以上が死んだ。被災者は30万人に及ぶ。内戦により国内の難民キャンプ、さらには国外に逃れた戦争難民は50万人を越す。戦争そして天災により、総人口500万人のこの国でいまや国民の六人に一人が難民となった。
 首都サンサルバドルの空港に夜、到着すると、タクシーは30分間全速力で市中心部へ車を飛ばす。空港と首都とを結ぶ国道でさえ、政府軍が完全に制圧してはいないのだ。道路のあちこちで自動小銃を構えた政府軍兵士がパトロールする。首都中心部は、一見すると平和で繁栄し、内戦下とは思えないほどだ。商店には物資が満ち、真新しいジョッピングセンターは買い物客でにぎわう。しかし、街中を通る軍用トラックの荷台に乗った兵士の銃口は、市民に向けられている。ゲリラの不意打ちに備えてのことだ。戦争と平和の混在する奇妙な世界がここにある。道路のあちこちにはカマボコ状の盛り上がりがある。ゲリラの車が襲撃後に高速で逃げるのを防ぐためのバリケードだ。車はこの前でいったん停止し、ギヤを切り替えてからゆっくりとこの障害物を越える、ひどいところは、100メートル行くのに10回も停車をくり返す。このバリケードを人々は「墓」と呼ぶ。形が似ているからだ。そしてこの国を「墓国」と呼ぶ。
 東部の前線地帯への取材に先立って、国防相を訪れた。周囲は防塁がめぐらされ、まるで都市の真ん中に城塞が出現したかのようだ。出入りする車は入念な検査をし、車の下に鏡を差し入れて爆発物などないか調べる。政府軍スポークスマンのリカルド・シェンフェゴス中佐に会った。「目下の激戦地は?」と質問すると、壁一面の地図を棒で指し、次々に地名を挙げた。「戦闘の主な時間帯は?」「24時間だ」。「最近、最も大きな戦闘があったのはどこか?」「今この瞬間に起きているかもしれない」…。中佐は最後に東部方面軍司令官への紹介状を書き、「気をつけて行けよ。死ななかったらまた会おう」と笑った。
 この三か月後、私は新聞を開いて絶句した。テニス・ウェアを着てベンチに座り、頭からすっぽりと上着をかぶった男の写真がのっている。テニスのあとうたた寝しているようだが、実は死体である。ゲリラのテロ活動で射殺された将校、と写真に説明があるが、上着の下の隠された顔を、私は思い浮かべることができた。写真の下には、シェンフェゴス中佐の名が書いてあった。
 87年2月、大統領官邸にドアルテ大統領を訪ね、日本人記者として初めて公式単独会見を行なった。ドアルテ大統領は、中米の現在を「独裁から民主主義への過渡期にある。輝く未来のまえに横たわる最も困難な時期」と説明した。そして、「中米全域が民主化するか共産化するか、どちらか一つの道しかない。内戦、経済危機、地震、改革を阻む要素があまりにも多い」とため息をついた。大統領官邸の周囲は、大地震で壊滅した家々の残骸がそのまま残っている。エル・サルバドル、即ち救世主は、いつになったらこの国に顔をみせるのだろうか。

 「失われた世代」
 この泥沼の内戦は、渦中の人々にとってどれほどの重みをもつのか。その一端を、首都サンサルバドルの難民キャンプでかいま見た。
 ときおり遠い砲声が聞こえる。下町のぬかるみの袋小路。鶏が放し飼いされ、腐臭漂うなかで裸の子が戯れる。その向こうの古びた教会が、臨時の難民収容所である。礼拝堂の床には粗末な毛布が並び、戦場の村を追われ命からがら逃げてきた人々が、冷たく固い石のうえに痩せた体を横たえる。
 難民の一人ニコラス・アルファロさん(55歳)は、首都の東20キロのコフテペケ県の農民だった。トウモロコシ畑が戦場となり、砲煙と機関銃の銃声の中を、わずかな家財道具を手に、妻と子供三人を連れて逃げたのが80年3月。以来ずっと、このキャンプで過ごしてきた。
 教会正面の鉄の扉は固く閉ざされていた。アルファロさんに、扉を開けない理由を聞いて耳を疑った。政府軍を恐れているのだという。難民となるような貧しい農民には左翼に共感する人が多く、軍は収容施設をゲリラ基地と同一視する。つい最近も、武装兵士が踏み込み、数人を連行した。本来なら難民を保護するはずの政府軍が、ここでは恐怖の的になっている。難民は避難先の、それも教会にいてさえ、心が休まらない。わずかな物音におののき、眠れない夜が続く毎日だ。
 かたわらの男の首には、毛糸で編んだ十字架が下がっていた。職は見つからず、貧しくて、露店で売っている金属製の安物の十字架さえ買えない。やむなく、着古したセーターのほつれた毛糸を糸で結んで作ったのだ。頼れるもののない不安さからわずか三センチ四方の毛糸の十字架にさえすがろうとする。
 難民の心をいっそう重くしているのは、その存在が無視されていることだ。収容されたあとは、職をあてがわれるのでなく、いわば「飼い殺し」の日々が続く。85年3月に実施された大統領選でも、難民は投票できなかった。規則は、出身地で投票するよう定めているが、戦場と化した村に帰れるはずはなく、35万人の投票権は葬られた。家を焼かれ、土地を棄て、内戦で最も被害を受けた彼らには、ささやかな一票の意思表示をする機会もない。  
 別れぎわに、アルファロさんと握手した。貧農に生まれ、小学校に通えず、半生を土とともに過ごした根っからの農民というのに、その手のひらは女性のように柔らかかった。畑仕事をやめて祈るのみの日々は、硬かった手をふくよかに変えてしまったのだ。内戦の歳月は、人々の心を痛め、生活を破壊しただけではない。一人の人間が生きてきた証左さえ葬り去った。
 新聞に「平和を求める」と題した女性読者の投降の詩がのっていた。
 ”私は平和を求める 心が男性を求めるように
 幸福に満ち 永遠と歓喜の平和を
 私は平和を求める 体が空気を求めるように
 生きるための 不可欠の要素として
 おお、神よ 奇跡をあなたに願う
 平和がかくも 遠のかざらんことを”

 内戦の長期化で、国民の心を虚無感と絶望が覆っている。かつての活力が影を潜め、人々は意欲をなくした。この国の精神病理学者は現状を憂い、現在の国民を「失われた世代」と呼ぶ。熱帯の太陽が照りつける昼下がりの首都の街道で、ブーゲンビリアの赤い葉の下、失業中の若者が黙りこくって座っている。その目の前を、米国製M16自動小銃を構えた兵士を満載した兵員輸送車が通り過ぎる。若者のうつろな目と、兵士のギラギラ光る目は対照的だが、その底には共通して空しさがある。
 この国の最大の産業は「戦争」である。若者は徴兵されて戦地に赴く。戦地といっても、首都から車で一歩出れば、もう前線地帯だ。戦争は日常生活に組みこまれている。戦う相手は同胞であり、戦争の大義を個々人は見いだせない。
 小規模な国家経済では多数の兵士を養えず、数年で除隊を迫られる。若い盛りに銃の扱いと人の殺し方しか教えられなかった彼らがつけるまともな職はない。それでなくとも内戦下、農地は戦場となり、工場は閉鎖して、失業率は労働人口の半分、実に50%に達している。今、数千人の退役軍人が警備員やボディーガードとして糊口をしのいでいる。
 内戦と経済破綻で、国の教育予算は小学校の義務教育さえ維持できず、地震で倒壊した首都の学校再建は進まない。学校に行けない子が87年、100万人を越した。全児童・生徒数の40%に当たる膨大な数だ。
 農村は戦場と化し荒れはてた。わずかに残った耕作地でも農民が戸惑っている。農地改革は実施されても、かえって農家の収入は減った。コーヒーや綿花などの大規模農業が伝統的な同国で、いきなり土地を細切れにしても、新たな農業技術教育がされなければ生産は低下するしかないのだ。
 最も苦しい立場にあるのは、山岳部の左翼ゲリラだ。政府軍は「武器をもって投降すれば大金をやる」と、挫折したゲリラ兵士の心を金で買う工作を展開する。筋金入りではない兵士は未来が見えず、苦しいだけの生活に疲れて誘いに乗る。投降の際には仲間を殺し、その銃を奪って金にするものも出ている。
 心の荒廃は政府軍とて同様だ。最低給料で戦場に追いやられる彼らは、物価高の中で家族を養うため、弾薬をこっそり「死の商人」に売る。ゲリラに転売されることを知っていながら。売却の際に「ゲリラに渡るんじゃないだろうな」とひとこと言うのは、呵責の念を自分で免罪するために過ぎない。その弾はやがてわが身にはね返ってくるかもしれないが、宝くじに当たるような確率だからと自分を納得させる。仲間の誰かに向って飛んでくることは確実なのだが、そんなことは意に介さない。
 裏切り、失望、モラルの崩壊が習い性となった社会。たとえ内戦が今すぐ終わったとしても、健全さがすぐによみがえるはずがない。内戦の悲劇とは、現在だけでなく、将来にわたって、人間の精神も社会も荒廃させることになる。
 「失われた世代」とは元来、第一次世界大戦の戦場を体験、様々な幻滅を経て1920~30年代に活躍したヘミングウェイら米国の若き作家たちに与えられた名だった。荒廃の中から雄々しく、かつ人間性に満ちた文学を創造した彼らのように、エルサルバドルの人々がたくましく立ち上がる日は、いつ来るのだろうか。 

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