また朝日新聞の「声」欄にに見逃せない投稿がありました。同じような内容の投稿がくり返されているので、全文を残しておくことにしました。下記です。
”「ロシアと共存 話し合いで模索を」(8月25日)を読んだ。現状を前提に話し合いをせよと言っているように私には読めた。
私はこの提案に反対である。生じた結果の原因を誰が作り出したかが問題であり、原因の除去が最優先だと考える。今までロシアと共存していたウクライナが一方的に侵略されたのに、同じ条件で話し合えというのは無法に目をつぶれと言うに等しい。また仮に合意に至ったとしても、侵略した側のロシアがその合意をいつまで順守するか保証はない。そもそも停戦が合意されたとして、そのとき国境線をどこに引くのだろうか。対話が必要なことは言うまでもない。だが話し合いの実現のためには、ロシア軍が自国に帰り、侵略前の状態に戻すのが先決だというのは間違っているだろうか。
たしかにロシア人の中にも優しい人はいるだろう。だがそうした個別の体験の特殊から一般を演繹し、国家間で話し合いをと期待するのは無理な話だ。むろん話し合いは積極的に進めるべきである。だが現在、話し合いを回避して武力に訴えているのはいずれの国であるか、振り返ってみる必要がある。”
この方は、侵攻前のプーチン大統領の演説を、ご存知ないのではないかと思います。また、NATO諸国のロシアに対する挑発的な動きやウクライナのアゾフ連隊とドネツクの親ロシア派勢力の戦いなどもご存知ないのではないかと思います。
さらに、「ノルドストリーム2」をめぐる米ロの争いなども考慮されていないのではないかと思います。
原発の運転停止を決定したドイツにとって、ロシアの天然ガスが重要なエネルギー源でした。だから、ロシアとの間で「ノルドストリーム2」の計画を推進していたのに、アメリカは、オバマ大統領当時から、こうしたロシアとドイツの接近に強い警戒感を示し、トランプ前大統領は、「悲劇だ。ロシアからパイプラインを引くなど、とんでもない」と発言したのみならず、「制裁」を課すに至ります。
実質的にウクライナ戦争を主導しているアメリカの、こうしたロシア封じ込め対策を考慮せずに、ウクライナ戦争をとらえるから、”ウクライナが一方的に侵略されたのに…”という受け止め方になり、また、”話し合いを回避して武力に訴えているのはいずれの国であるか…”というような偏ったとらえ方になるのだと思います。
私は、話し合いで解決すれば、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を止めることができず、アメリカの覇権や利益が損なわれるので、アメリカが話し合いを回避しているのだと思っています。
また、私は最近アメリカの要人が、次々に台湾を訪れていることも、とても気になっています。
かつてアメリカは、台湾を対共産主義勢力の最前線として位置付け、蒋介石国民党政権の戒厳令に依拠する圧政に目をつぶって、軍事援助や経済援助を続けました。
そして現在、中国が急成長して、アメリカの覇権や利益を脅かしつつあるために、アメリカが台湾の戦闘的な独立派に近づいているように、私は思います。
ペロシ米下院議長の訪台後、バイデン政権は、再び、台湾に対する、約11億ドル(1500億円)にのぼる武器の売却を承認しましたが、これは、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」とした米中共同宣言(上海コミュニケ)に反することであり、内政干渉であり、挑発であると思います。
もちろん、多くの台湾の人たちは、自らを「中国人」ではなく、「台湾人」と自認しているということですので、独立を望んでいることは間違いないと思います。でも、台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査では、「現状維持」を望む人が、85%以上を占めており、この割合は毎年ほぼ同じ率で、「すみやかに独立」は例年約5%、「すみやかに統一」は約1%だということです。
だから、独立を希望していても、中国と戦って独立しようとは思っていないということだと思います。台湾の人たちは、植民地支配のなかで、さまざまな差別や強制をした日本人や、中共軍に追われて台湾に逃げ込んできたのに、台湾を横取りするようにして政権を独占し、戒厳令のもとで圧政を強いた蒋介石国民党政権の人たち、すなわち大陸人(外省人)には、少なからず敵意を抱いているでしょうが、中華人民共和国の人たちには、それほど敵意は抱いていないということだろうと思います。
でもアメリカは、ウクライナと同じように、大量の武器を売り込んで、中国と戦わせようとしているように、私は思うのです。台湾のためというより、アメリカの覇権と利益の維持・拡大のために。
だから私は、プウクライナや台湾に対するアメリカのかかわり方を、第二次世界大戦後のアメリカの対外政策や外交政策を具体的に検証することによって、より正確に捉えたいと考え、今回は「物語 フィリピンの歴史」鈴木静夫(中公新書1367)から、「13章 ニノイ・アキノとフィリピン政治」のなかの「5 マルコス大統領の登場」と「6 上院に議席を占め、マルコスを攻撃」、および「14章 マルコス政治と”ピープル・パワー”(人民の力)革命」から「3 ニノイ・アキノの暗殺──「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」を抜萃しました。
フィリピンでも、自由主義と民主主義を掲げるアメリカが、マルコス独裁政権を支援していることがわかります。言うことと、やることが違っているのです。そうした過去を踏まえて、ウクライナ戦争や台湾問題を考えないと、アメリカのプロパガンダをとらえることは難しいと思います。
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13章 ニノイ・アキノとフィリピン政治
5 マルコス大統領の登場
マカパガルの挑戦者は、自由党から国民党に鞍替えしたイロコス・メルテ州生まれのフェルディナンド・マルコスであった。この選挙でマカパガルが勝ったのは、テルラク、パンパンガの両州だけであった。マルコスはマカパガルに67万票の大差をつけた。イロカノ人が63%もいるタルラク州での敗北を、マルコスはニノイ知事に結びつけて考えた。
ニノイは大統領就任式を控えたマルコスに、ある同窓会の席上でばったり会った。主賓のマルコスはニノイを見つけ、「この男は私の国防大臣になるべきだ。なぜなら彼の私兵はフィリピン軍より大きいからだ」と皮肉った。二人の間に敵意が芽生えていた。マルコスは、後に彼がよく口にした「ニノイは、フク団の首領である」という非難を行った。
マルコスは65年12月30日の大統領就任演説で、厳しい国家の現状分析を行った。国庫が空であること、支出が収入の三分の一も上回っていること、食糧の自給に失敗していること──などである。「外部からの援助を期待することはできない。国家はわれわれの労働と奉仕、自己犠牲の量に応じてだけ、偉大になり得るのだ」とマルコスはいった。ジョン・F・ケネディばりの愛国的な演説であった。
この演説のとおり、マルコスが誠実に国家と国民に奉仕する大統領となっていれば、後にフィリピンを見舞い、いまもその後遺症に苦しむ事態は避けられていたかもしれない。しかし、マルコスの演説を聞いていた議員の中には、この時点ですでにフィリピンの将来を憂慮していたものがいたはずである。なぜなら議員としてのマルコスは、地位を利用して企業の許認可に口をはさみ、不正なリベートをとったり、地下組織との関係が噂されていたからである。下院議員のあいだでは、マルコスが警察の高官、ギャング、密輸業者、職業的な殺し屋を含むイロカノ人暗殺団とのつながりがあると信じられていた。しかし、議員を含めて、誰もマルコスの非愛国的な行動を非難しなかったのは、自分や家族が災難に遭う恐れが農厚だったためだ。
それにマルコスは、抜群の頭脳の持ち主でもあった。フィリピン大学時代のマルコスは、法学部切っての秀才とうたわれ、「ナンバー・ワン」と呼ばれていた。マルコスは、あるとき父親の政敵殺しの容疑をかけられた。彼は自らの弁護を行いながら、フィリピン司法試験で、史上最高の平均92.35点をあげていた。またマルコスは特異な記憶力の持ち主で、フィリピン憲法を最初からでも、最後からでも自由に暗唱できたといわれている。誰もマルコスのすることに口を出せなかった理由がこれだ。
戦時中、自称「抗日ゲリラの隊員」だったというマルコスは、戦後直ちに社会的活動をはじめたわけではない。病気療養のあとの47年春、当時の大統領ロハスに呼ばれ、経済開発大統領特別補佐官に任命されたことが出発点だった。ロハスは、マルコスに政界入りをすすめた。49年、マルコスは32歳の最年少議員として、下院議員に初当選している。マルコスは、まったくものおじしない議員で、たちまち初当選組のリーダーにおさまった。そしてそのころから不正蓄財の噂が飛びかった。59年には自由党から上院選に立候補、第一位で当選を果たしている。その後は先輩議員をごぼう抜きし、63年には、上院議長に就任、65年の大統領選で頂点を極めたわけである。
フィリピンの戦後政治は、基本的に戦前の政治様式を引き継いだ。マレー系であれ、華僑系であれ、地方名士がウタン・ナ・ロオブと伝統のしがらみの中で培った勢力を地盤に中央政界に乗りだし、地方のパトロン・クライアント関係を中央でも再現したのである。マルコスも例外ではあり得ない。ただし、マルコスの場合は一地方を背景にしていたのではなく、政界、財界、軍部まで勢力下におさめていた点で際だっていた。戦前の政治家で、マルコスに近い独裁体制を築いたのはケソンである。しかし、ケソンは軍事力を持たず、マルコスほどの人権無視は行っていない。
マルコスが大統領に当選した60年代中ごろは、ちょうどアメリカのベトナム介入が本格化した時期と重なっている。65年3月、米海兵隊はダナンに上陸、北爆も激しさを増していた。米軍は忙しくフィリピン基地に出入りし、ベトナムは日ごとに大戦争の様相をみせていた。米国が、ベトナムの共産主義者の活動を圧殺しようとする限り、フィリピンは最重要基地であり続けるはずだった。マルコスが就任演説で述べたように、フィリピンの国庫は空であっても、米国のドルで満たす方法は残っていたのである。
大統領選の公約で、マルコスはベトナム派兵に反対した。ところが当選後二週間すると、派兵方針に転換して米国を喜ばせた。米国との交流が始まり、米大統領リンドン・ジョンソンは、マルコスに3800万ドルを渡した。疑似軍隊であるフィリピン民間行動グループ(PHILCAG)の派遣費名目であった。この金は国防総省の秘密会計から出されており、マルコスは申し訳程度に軍の医療専門家グループを送り、大半は着服したといわれている。どうしてもフィリピン基地を利用し続けるため、米国はさらに米国開発局(USAID)から360万ドルをマルコスに贈与した。米国は”打ち出の小づち”であった。
66年10月には、孤立化した米国を精神的に支援するため、マルコスは「参戦七カ国会議」をマニラに召集した。マルコスはあるときにはフィリピン民族主義を振りかざしこわもてを見せ、あるときには協力的な態度に出た。リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソンはこの手で翻弄された。人権外交で有名なジミー・カーター大統領はフィリピンの人権問題で遠慮気味であった。ロナルド・レーガン大統領とその妻は、マニラ旅行にやってきて、フィリピノ・ホスピタリティーに幻惑された。レーガンが「米軍基地の守り神」として、マルコスに肩入れしたことはよく知られている。
6 上院に議席を占め、マルコスを攻撃
一方、ニノイはタルラク州知事の任期が切れ、67年には上院選に自由党から出馬している。彼はただ一人の自由党員として、ほとんど奇跡的に第二位で当選した。しかし、投票日が法定被選挙権年齢の35歳に13日不足していたため、またもや裁判に持ち込まれた。
裁判中の68年2月5日、ニノイは上院で初演説を行った。ニノイはマルコスがフィリピンを「兵営国家」にしていると非難した。地方のすみずみまで軍隊を派遣し、国営企業に軍幹部を投入して、国家をまるごと兵営にしようとしているとの指摘である。マルコスはベトナム戦争だけでなく、国内にも米国との取引に使える共産主義勢力を必要としていた。共産主義者を作る方法は、マルコスに反対するものは誰であれ共産主義者だとレッテルを張り、弾圧することである。弾圧すれば、逃げ場のない庶民は反政府的行動に出ざるを得ない。マルコスは全国を一元支配するため軍人を使っていたのである。この同じ軍事力は野党勢力の壊滅をはかっていた徴候があった。
上院におけるニノイの活躍は続いた。マルコスの「兵営国家」を攻撃したあと、「ジャビダ作戦」なるものにぶつかった。ある英国人特派員はニノイとの会見で、フィリピン政府が北ボルネオに特殊部隊を送る秘密計画を練っているのではないか、と質問した。スルー諸島スルタンは、北ボルネオが自分の領土だと主張していた。フィリピン政府も自国領だと主張してはいたが、それを武力で奪還しようという計画だというのである。その後のニノイの調査で、イスラム教のヘレン伝説にちなんだ「ジャビダ作戦」の全貌が判明した。計画は陸軍民政局(CAO)が立案し、ボルネオに武力侵攻するため、多数のイスラム教徒の青年たちにスルー諸島のシムヌル島とマニラ湾のコレヒドール島で軍事訓練をほどこしていた。
ニノイは「ジュビダ作戦」を上院で暴露した。彼が国民に訴えたかったのは、北ボルネオがマレーシア領であったことより、この陰謀の持つ本質的な意味だったという。マルコスがこの作戦のため、「イスラム教徒だけでなく、前科者や前フク団員、とくに中部ルソンで警察の”非正規軍”を構成したモンキーズと呼ばれるテロリスト集団を集めていた」からであった。ニノイはマルコスが犯罪歴のある男たちを中核とする、秘密攻撃部隊を建設し、防衛費を乱用し、対外関係を混乱させたなどと、非難を浴びせかけた。
「ジュビダ作戦」は放棄された。ニノイは次々にマルコスの政策がつくりだす矛盾について暴露を行った。ニノイは”ボンバ”(暴露)と分かちがたく結びつけられ、一年もしないうちに上院の「スーパースター」、若者のアイドル、新聞の売れっ子となった。
だが、マルコス政治は一向に修正されず、農村の空気は着実に殺伐なものに変化した。フィリピンの地主階級や金持は、多くの場合私兵を持つか外部からの侵入に備えてガードマンを置くのが常である。マルコスの農村を不安定化させる政策で、この傾向は、いちじるしくなった。武装民間人による「郷土防衛隊」や「村落自衛隊」が出現し、農民を不安のどん底に突き落とした。
7 「独裁者、アメリカの走狗マルコス」
マルコス流の恐怖政治と、フィリピンのベトナム参戦に反対する運動は、連動していた。最も危機感を抱いたのは学生と労働者だった。69年1月、約5000人のデモ隊が、ケソン市の国会議事堂周辺に陣取った。彼らの掲げたプラカードは貧困、腐敗、都市犯罪の激増など、フィリピン社会の崩壊に果たしたマルコスの責任を追及していた。同時に、マルコスがポピュリスト的ポーズをとりながら、フィリピンをベトナム戦争最大の後方基地としてアメリカに提供し、さらに疑似軍隊を派遣していることにも抗議していた。
デモ隊は、まだマルコスの蓄財や膨らみつつあった対外借款などの現実に気がついていなかった。しかし、彼らの問題意識は的をはずしてはいなかった。なぜならマルコスは、アジアの安全保障に名を借りたアメリカの勢力圏維持と拡大政策に取りつく形で、政権維持をはかり、強権と腐敗の政治構造を生みだしていたからである。
70年1月26日、年頭教書を発表するため議会に到着したマルコスは、前年よりさらに手荒な歓迎陣に包囲された。デモ隊は卵や石をマルコスの車めがけて投げつけた。その中には小さな爆発物までまじっていた。これはフィリピン国民と国警部隊との長い衝突の幕開けとなった。
サルバドール・ロペス・フィリピン大学学長は、30日、警察の暴力行為に抗議するためマカラニアンを訪れた。その夜、市街から宮殿に通じるメンディオラ橋を警戒していた国警と国軍がデモ隊を銃撃した。報道によると死者3人、多数の負傷者がでた。「メンディオラ橋事件」は、マニラの政治的空気を一変させた。学生や市民が反マルコス運動を組織化し、マニラとケソンで連日のように「独裁者マルコス、アメリカの走狗マルコス」の非難が叫ばれた。
この動きは71年1月の「ディリマン・コミューン」に引き継がれた。「ファースト・クォーター・ストーム」(第一四半期の嵐)と呼ばれるこの運動は、フィリピン大学ディリマン校(ケソン)を開放する12日間の大闘争であった。日本の東大紛争やその他の学園闘争と違い、フィリピンでは圧倒的多数の教師と学生、それに反マルコス運動につながる無数の市民が参加した。86年2月の「ピープル・パワー」革命の原型がここにあった。
フィリピン社会は、マルコスの計画通り騒然としてきた。時は満ちたのである。果たして、マルコスは72年9月21日、戒厳令を布告した。69年選挙で史上初めて再選大統領になったマルコスの任期は、73年末で切れることになっていた。戒厳令は、政権を無制限に延命させるため考えだされた政治的トリックであった。マルコスはフィリピンには差し迫った共産主義の危険があると述べ、72年7月4日ごろ、太平洋に面したイサベラ州ディゴヨに入港した貨物船”カラガタン号事件”をとりあげた。
この事件は現在に至るまで真相が不明のままである。しかし、大統領によると、同船は海外から3500丁のMー14ライフル銃と弾薬および医療品、無線機器を陸揚げし、そのうち900丁を政府軍が捕獲したという。”カラガタン号事件”の前後にも、同様な外国からの武器の運搬があったことが判明しており、フィリピンにとって重大な脅威となっている──というのが戒厳令公布の理由であった。
戒厳令の公布によって、ニノイを含む約8000人の政治家、新聞記者、労働組合指導者が逮捕され、15にのぼる新聞雑誌が発禁処分を受けた。多くは間もなく釈放されたが、ニノイは80年5月まで釈放を認められなかった。
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14章 マルコス政治と”ピープル・パワー”(人民の力)革命
3ニノイ・アキノの暗殺──「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」
戒厳令直後にマニラ・ヒルトン・ホテルで逮捕されたニノイ・アキノは、直ちに市内の陸軍基地フォート・ボニファシオに移され、収監された。それから、1年後の73年8月に第1回軍事法廷が開かれ、「殺人、共産主義者への教唆と資金援助、銃砲不法所持法」などの罪に問われた。ニノイはその場で、訴訟手続きを拒否、(1)軍事法廷自体が恥知らずなごまかしである、(2)私はすべての独裁政治に反対する──という理由をあげた。第2回法廷はさらに、約2年後の75年4月4日に開かれた。この間にニノイは40日間のハンストを行い、死にかけたことがある。
セルヒオ・オスメニアとユーヘニオ・ロペスは、マルコス戒厳令のもう一つの狙いである、”オルガキ”そのものであった。まずオスメニアは、米自治領時代の副大統領、大統領を務めたセルヒオ・オスメニアの甥で、72年には自由党上院議員であった。ロペスはネグロス、パナイの砂糖産業を背景に、電力、運輸、マス・メディアにまで事業を展開していたロペス財閥の出身。弟のフェルディナンドは政界に進出、キリノ政権と65年、69年のマルコス政権の副大統領であった。
マルコスはロペス家相続人のユーヘニオを捕えている間に、同家の基幹的な事業であるマニラ電力会社と複数の放送局、『マニラ・クロニクル』紙を取り上げた。それらの事業はマルコスの友だちのロベルト・S・ベネディクトに渡された。その後、続々と出現した”クローニー財閥”の始まりである。マルコスは旧オルガキーを腕ずくで乗っ取り、ほとんど企業家精神もない”取り巻き”連中に利権を与え、国家を私物化していった。
ニノイ・アキノの第3回軍事法廷は、さらに2年後の77年11月に開かれ、新人民軍のコマンダー・ダンテ、コルプス中尉らとともに銃殺刑の判決を受けた。”不当裁判”に抗議する文書が世界中化から寄せられた。判決の実行はマルコスの独裁者ぶりを印象づけることになるため、ずっと見送られた。78年4月7日、マルコスは国民議会議員選挙を行うと発表、ニノイは監獄から立候補した。マニラではイメルダ・マルコスがトップ当選し、ニノイは落選した。
獄中闘争の心労から、ニノイは心臓失疾患を訴えていた。検査の結果、バイパス手術が必要なことが判明した。しかし、ニノイは軍病院での手術を拒否し、マルコスは、”人道的はからい”としてニノイの米国での治療を許可した。7年8ヶ月ぶりの80年5月8日、ニノイは釈放され、フィリピン航空機で米国に護送された。
心臓手術のあと、ニノイはハーバード大学とマサチューセッツ工科大学に席を置き、講演や執筆活動に従事した。彼は在米の反マルコス派とも頻繁に会っていた。マルコス政権の腐敗と国民の士気の低下、マルコス自身の健康悪化の情報が米国にも伝わっていた。ニノイは83年5月2日、イメルダ・マルコスとニューヨークで会った。イメルダは、ニノイが帰国すれば暗殺しようと準備しているグループがいる、と警告した。銃殺判決を受けているニノイの帰国を阻止すること自体、軍事法廷の政治性と茶番的性格を明らかにしていた。
しかし、ニノイは、8月13日、ボストンを出発した。NHK、TBSを含め、ニノイの帰国を取材するため各国の記者が集まってきた。ニノイは彼らに対し、「マルコスの死が迫っているかもしれないときに、亡命していることは許されない」と帰国の理由を語っている。各種の情報からニノイは、マニラ空港到着後襲われるか、再び収監されることを覚悟していた。そのため、機内で分厚い防弾チョッキを重ね着した。しかし、ニノイは米国でも何度も、「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」と発言していた。
台北発マニラ行きの中華航空機は8月21日午後、マニラ国際空港に到着した。征服の警官が何人か乗りこんできた。彼らはニノイを乗組員用のタラップに連れだし、ニノイが着地しない前に、ニノイの後頭部から喉にめがけて一発の拳銃弾を発射した。ニノイが席を立って、銃声が聞えるまで、一分たらずの出来事であった。防弾チョッキも、多数の記者団、テレビ・カメラもニノイの生命を守ることはできなかった。
ニノイの葬儀は、シン枢機卿が出席してマニラ市ケソン大通りのサント・ドミンゴ教会で行われた。マニラ西郊のパラニャケの墓地まで、約20キロの沿道では約100万人の市民がニノイの葬列を見送った。真昼間、衆人環視の中で起こった暗殺事件は、これまでニノイを”普通のエリート政治家”と見ていた人たちをも憤激させた。人々は直観的にニノイの暗殺をマルコス政権の中枢と結びつけた。二度、三度と調査や裁判が行われた。だが、もはや人々は、マルコス政権下で正義が貫徹されるとは思わなかった。