真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮建国準備委員会とアメリカによる38度線単独決定

2022年09月25日 | 国際・政治

 ウクライナのゼレンスキー大統領は21日、国連総会一般討論にビデオ演説を届け、そのなかで、ロシアへの処罰を訴え、安保理におけるロシアの拒否権を剥奪するよう主張しているといいます。私は、この主張は、アメリカのロシア孤立化・弱体化の目標を代弁するものであるように思います。
 また、”ウクライナも、欧州も、世界も、平和がほしい。戦争をしたがっている唯一の人物は誰か。私は知っている”などと言ったようですが、不可解です。
 ではなぜ、ゼレンスキー大統領は、ロシアがウクライナとの国境線に軍を集結させていたときに、話し合いを求めたり、侵攻を止めるために関係各国にさまざまな働きかけをしなかったのでしょうか。
 バイデン大統領もロシアは2月16日にウクライナに侵攻するだろうというような予言めいた発言をしましたが、侵攻を止めるための活動については、何ら報道はありませんでした。逆に、話し合いをしないのかと問われて、今は話し合う時ではない、とか、話し合う意味がなければ、話し合いはできないなどと言ったことが報道されました。
 そして、ゼレンスキー大統領は、くり返し各国に武器の供与を求め、アメリカは武器の供与だけでなく、世界各国に、ロシアに対する制裁を呼びかけました。
 したがって、私は、”戦争をしたがっている”のはロシアではなくアメリカであり、アメリカと一体となっているゼレンスキー大統領だろうと思うのです。

 ずいぶん前になりますが、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、独露間で建設されているガスパイプライン「ノルド・ストリーム2」に関するバイデン米政権の姿勢に皮肉を込めて、下記のような記事を掲載したといいます。
 ”バラク・オバマ氏とドナルド・トランプ氏は、ロシアからドイツへ直接輸出される天然ガスの量を2倍にし得る110億ドルのガスパイプラインに反対してきた。しかし、バイデン政権は、今回同プロジェクトの完成を祝福し、ウクライナと欧州のエネルギー面の独立を犠牲にウラジーミル・プーチンに大きな戦略的勝利をプレゼントしたのだ
 だから、ドイツの原発廃止方針に端を発するエネルギー問題で、ヨーロッパに対するロシアの影響力が決定的に拡大することを恐れたアメリカが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争に踏み切るようにしたのだろうと、私は思うのです。
 そして、現実には、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事とは反対に、バイデン大統領の策略に基づくウクライナ戦争によって、今回、同プロジェクトの完成をほぼ破壊することに成功したといえるように思います。
 さらに、国連安保理におけるロシアの拒否権を剥奪することで、バイデン大統領の目標は、ほぼ達成されることになるように思います。

 9月23日朝日新聞社説も、ウクライナ戦争を主導するアメリカの動きや姿勢などを全く論じることなく”世界秩序を破壊するロシアに、常任理事国の資格がないことは明らかだ。国連改革の道は険しくとも、平和と安全を守る国連の機能を担保する方策を真剣に論議する必要がある”などと記して、アメリカの方針を後押ししているように思います。
 だから私は、戦後のアメリカの対外政策や外交政策をふり返り、世界各地でアメリカが関わった過去の紛争の事実を確認しています。

 今回は「朝鮮戦争」ですが、朝鮮では、1945年8月15日の日本の無条件降伏によって、日本の過酷な植民地支配から解放されました。あちこちで終日「マンセー」の声が響き渡ったといいましす。
 そして、朝鮮総督府の働きかけに応じて、朝鮮市民に声望のある呂運亨が立ち上がり、朝鮮人の自由意思による民族国家の樹立、その政府および政治形態を決定をするべく、関係者を集めて、天皇の無条件降伏の放送が流れたその日に「建国準備委員会」を組織し、活動を開始しています。
 翌16日には、建国準備委員会は、ラジオを通じて具体的な建国方針を朝鮮市民に訴えたといいます。だから、この呼びかけに応じて、朝鮮各地で続々と各地の準備委員会が組織され、急速に朝鮮市民自身による自治、自主管理が推進されていくようになったといいます。そして、朝鮮全土の道、府、市、郡、面から洞・里(部落)にいたるまで、民衆の手で建国準備委員会の「下部組織」と「保安隊」が作られたというのです。
 9月6日には、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、「全国人民代表者会」を開催し、建国準備委員会を発展的に解消して、南北朝鮮を合一た「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議したといいます。
 さらに翌7日には、朝鮮人民共和国臨時組織法を上程採択して、その成立を宣言し、中央人民委員会の中央執行委員会12名、人民委員55名、候補委員20名、顧問12名を選任しています。9月14日には、共和国政府の組閣も完了しているのです。朝鮮民族の自主独立の願望がどれほど強いものであったかが、わかるような気がします。

 にもかかわらず、アメリカは、この朝鮮民族の自主独立の取り組みを無視し、何の話しも相談もせず、38度線での分断を決め、ソ連に働きかけて、米ソ両軍による分割占領・管理の承諾を得ているのです。「朝鮮人民共和国」の創建と、新朝鮮国民政府の樹立は、完全に無視されたのです。
 それは民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないと思います。ひどい話だと思います。

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)からの抜萃ですが、「朝鮮人民共和国」の創建と、新朝鮮国民政府樹立に至る経緯がわかります。
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           第一章 戦後米ソ対立と南北体制の起源

             第二節 朝鮮の解放と軍事占領

 (二) 朝鮮独立運動と左右両派の構図
 だが一方、その反作用として、朝鮮民衆のなかの政治的主権の回復、民族国家復興へのエネルギーは国外亡命集団による抗日独立運動として、中国、満洲、アメリカ、ソ連の土地へと分岐して行った。また、朝鮮内部に沈潜して、国内勢力による左右両派の独立闘争として、いくつかの潮流に分岐。それぞれ独自に展開されていくことになった。
 この各派の独立運動の諸派の流れ、活動の性格も、その後の路線対立や内部紛争により複雑な軌跡を辿った。左右両派への分裂、あるいは活動の舞台をどこにするかなど、さまざまな形態に分岐して行き、その様々な流れは各自の主義と信念にもとづいて、国外あるいは国内において独自の独立運動を展開する状況にいたった。それは改良主義から武装路線、また極左から極右まで広範な、ある面では不統一な独立運動の潮流を形づくっていた。だが最終的には、広範な諸戦線を統一する運動の中核的組織は確立されなかった。結果として1945年8月15日直前の時点において、大別すれば、次のようなメンバーを中心とする独立運動の流れが存在していた。

〇 アメリカ派 ・・・・・・・ 李承晩、李起鵬、許政
〇 重慶派(臨時政府派)・・・ 金九、金奎植、李範爽、李始栄
〇 延安派 ・・・・・・・・・ 金科奉、崔昌益、武亭、許貞淑
〇 ソ連派 ・・・・・・・・・ 金日成、崔庸健、南日、金策、金光侠、許可誼
〇 国内民族派 ・・・・・・・ 曺晩植、宋鎮禹、金性洙、安在鴻
〇 国内進歩派 ・・・・・・・ 呂運亨、洪命薫、曺奉岩
〇 国内共産系 
    ソウル(長安)派 ・・ 李英、鄭柏、崔益翰、李承燁
    火曜会(再建派)・・・ 朴憲永、李観述、金三龍、李舟河
    M・L派 ・・・・・・ 李廷允、申用雨、朴用善
〇 在日アナキスト ・・・・・ 朴烈

 この独立運動における主な国外民族主義グループとしては、中国に亡命政権を樹立し蒋介石の中国国民党の支援の下に独立運動を展開した右派民族主義者の金九、中道派の金奎植が率いて上海、重慶などで活動していた大韓民国臨時政府(亡命)政府、アメリカで朝鮮委員会を組織して外交活動をおこなっていた李承晩らの在米グループ、また中国共産党と連携しながら中国亡命組織として活動していた 金科奉、武亭(金武亭)、崔昌益らの延安グループ、ソ連国内に亡命居住していた許可誼などのソ連系朝鮮人グループ、コミンテルンの指導下に満洲において活動していた金日成らの共産主義者グループ(ソ連派)等があった。

 また、これらの武装闘争路線にもとづく軍事組織としては、とくに右派では大韓民国臨時政府が編成して、中国国民党軍と連携しながら抗日戦を戦った光復軍司令部の戦闘部隊、また、共産主義グループでは、コミンテルンとソ連極東軍の指導下で満洲において抗日遊撃戦を展開した金日成らパルチザン・グループ、中国共産党の支援のもとに大陸において抗日戦を闘った 金科奉、武亭、崔昌益らの朝鮮独立同盟軍(延安派)などの武装部隊、あるいはソ連に亡命移住した在ソ朝鮮人でソビエト赤軍に入った朝鮮人軍人の一群などが有力であった。
 一方、朝鮮国内での民族主義グループとしては、国内での日本による統治政策での制限下において穏健な活動を行い、のちに韓国民主党に結集した金性洙、 宋鎮禹らを代表とする有産階級による保守派のグループがあった。また、左派民族主義系の流れとしては、のちに南朝鮮国内で朝鮮人民共和国を結成した呂運亨を中心とする建国同盟などのグループがあった。
 また、かつての生活苦にもとづく日本支配下での抗日運動では、その民族感情と独立への願望が容易に共産主義思想とむすびつきやすい時代状況もあった。その潮流の、すなわち無産階級と当時の進歩的知識人の民族感情を吸収したのは、おおむね朝鮮共産党の流れをくむ国内共産主義者グループ等の系統であった。その民族としての皮膚と、血に訴える自覚運動、民族闘争と、日本の侵出資本主義に結びついている朝鮮財閥地主を打倒しようとの階級闘争をも唱える流れは、朝鮮共産党の内部分裂後も、執拗に朝鮮国内における苛酷で残忍な弾圧状況下での地下活動を継続し、後に南朝鮮労働党を結成した 朴憲永を中心とする国内共産主義者達のグループの系統として深く朝鮮市民の間に潜行していた。

(三) 分派的風土と政治的求心力の欠如
 しかし、これらの独立運動の各グループ、また亡命政府や組織、あるいはその戦闘部隊は、その抗日民族解放運動を一貫して継続的な活動を長期にわたって展開してはいた。
 だが、各政治勢力は自力によって祖国解放を成し遂げたのではなかった。結局、第二次大戦の日本敗北の結果として、他力による朝鮮解放の日を迎えることになった。そのため、各政治勢力は、その運動の経緯と解放への貢献度においても、また組織内容と規模、政治理念と実際的能力においても、そのバックグラウンドとなる外国勢力との関係においても、以後の解放朝鮮の統一的中心勢力となるほどの正統性や基盤は、どの勢力も弱かった。また、抗日民族解放運動の時代に左右合作による民族統一戦線の樹立に失敗し、深刻な内部対立を展開した経緯もあった。さらに国内諸派の運動は、日本政府官憲の徹底的な弾圧のため、統一的な連携がと創り出せる状況ではなかった。つねに組織的な弾圧を受けて、それぞれ各派の独自の路線のまま孤立的な潜行活動をする状況であった。
 そのため、解放後朝鮮半島における統一的国民一致的な受け皿となるには、どの諸派ともに、組織的・内容的な脆弱性を常に内部に含んでいた。このような解放前の独立運動の諸派閥が内包していた路線対立の矛盾は、やがて8月15日以後に、逆に深刻化することになった。

 その1945年8月から年末までの決定的時点において、国内で沈潜していた国内派が政治の全面に飛び出し、また国外の諸グループ、亡命政府、諸軍事団体が国内に還流してきた際に、各派がその活動舞台としていた国内の諸階級や、依存していた外国勢力とのイデオロギーや利害などとの関連もからんで、やがて各派の相互矛盾が一気に噴出することになった。
 すなわち彼らが忌み嫌った36年におよぶ日本統治の収奪と抑圧から解放された1945年において、朝鮮の以後の統一政治的な中核として、国内的にも国際的にも認められるような公的な政治思想的・政体的な受け皿が存在せず、以後の朝鮮の政情がどの方向に向かうのかを予測できるものはほとんどいなかった。そして、以後の朝鮮半島政権は、米ソの戦後対立の圧倒的な影響もからんで、また、朝鮮の伝統的政治風土である党争、派閥主義、党派性の問題もからんで、極めて複雑な軌跡を辿ることになった。

 (四)日本降伏と建国準備委員会
 1945年8月15日正午、ポツダム宣言受諾を告げる天皇の無条件降伏放送がソウルの市街にも流れた。これは36年に及ぶ、苛酷な他民族支配の終焉と朝鮮民族の解放を意味するものであった。この日、夜半遅くまで「マンセー」の歓声がソウル市街や全国にどよめいた。そして一般の朝鮮市民にとって、日本の敗戦による戦争終結は朝鮮の即時独立を意味するものであった。
 すなわち、1919年3月1日のいわゆる「三・一万歳事件」を頂点として、日本統治下で絶え間なく独立地下活動につとめてきた朝鮮人民族主義者たちは、1945年8月15日の日本の無条件降伏によって、過酷な植民地支配から解放されたが、その時にあたって彼等のほとんどが朝鮮が即時独立し、朝鮮人の自由意思によって、民族国家の樹立、その政府および政治形態の決定をなし得るものと解釈した。
 だが、この時期の国際政治においては、すでに43年11月でのカイロ宣言において、「やがて朝鮮が自由かつ独立のものとなることを決定した」という一項があり、また45年7月26日のポツダム宣言の第8項で、「カイロ宣言の条項は履行される……」とあって朝鮮半島は「やがて独立の国家」となることが確定していた筈であったが、この「やがて」という表現「in due course」の具体的な内容は、この時点では米英中ソの戦勝四大国の合意として確立されていなかった。だが、一般的意味としては、それは米ソ等の戦勝大国により、彼らの定める期間、朝鮮を国際的信託統治の下に置くという連合国間の諒解を含んでいた。これは、一般的には朝鮮市民には想像もつかないことであり、朝鮮解放は、無条件な、即時独立として受け止められていた。

 一方、現地朝鮮においては、朝鮮総督府の日本人官僚達が日本敗戦後の対策に苦慮していた。当時のソウルの朝鮮総督阿部信行や政務総監遠藤柳作などは、ソ連極東軍の総攻撃による満洲駐屯関東軍のパニック的崩壊、あるいは民間人を見捨てての政府・軍関係者の急速逃亡などの状況、ソ連第二十五軍隷下狙撃師団の朝ソ国境突破南下、あるいはソ連太平洋艦隊所属海兵部隊などの北朝鮮東海岸港湾地帯への強襲上陸作戦の実施、またすでに東京政府のポツダム宣言受諾方針の探知等により、日本敗戦後の混乱を予測して、その対応策をとろうと試みていた。
 一説によると、8月9日、日本軍武装解除後の朝鮮の治安(朝鮮総督府関係者・日本人保護)のため、東亜日報前社長の宋鎮禹に降伏後の朝鮮の治安維持(安全保障)を依頼した。だが、保守派の民族主義者である宋鎮禹は、①朝鮮における政権の樹立は、まず連合国の承認を待つべきこと ②朝鮮の正統政府は重慶で亡命活動中の臨時政府(大韓民国臨時政府)であり、これを帰国させて統治権を委譲すべきであるとして、両三度にわたる朝鮮総督府日本人官僚の懇請を拒絶したともされた。
 一方、政務総監遠藤柳作は、8月15日の早朝に進歩派の民族主義者で、朝鮮市民に声望のある呂運亨に降伏後の治安の維持を委嘱した。遠藤は呂運亨に「日本は戦争に負けた。今日か明日の敗戦が発表されるだろう。そうなったときに治安を守らなくてはならないが、これから先の日本人の生命はこれにかかっている」と述べたとされる。呂運亨は、もし朝鮮独立に備えて秩序を維持するための何らかの委員会を組織して治安維持協力をしてくれるなら、新聞やラジオ、その他の交通機関の運営を委ねるという遠藤案を受けて、呂は次の五条件を示した。

① 全国の刑務所から全ての政治犯と経済犯を即時釈放すること、
② 8月、9月、10月の三か月間の食糧供給を保障すること、
③ 治安維持と独立準備のための朝鮮人活動に干渉しないこと
④ 学生の訓練と青年の組織にも干渉しないこと、
⑤ 労働者と農民を組織し訓練するのに干渉しないこと。

 すでに、ソ連軍の朝鮮半島全面占領が目前とされていた状況下で、朝鮮総督府日本人高官たちには選択の余地がなく、これを受諾した。そして呂運亨はこれを受けて「建国準備委員会」を結成することになった。すなわち、直ちに自宅に何人かの指導的人物を召集し、連合軍が進駐し、海外にいる亡命政客が帰国するまでの過渡的行政組織を樹立する構想を提示して、ここで建国準備委員会(建準)を組織することを決定した。
 こうして彼等は、基本的に政治的混乱をふせぎ法と秩序を維持し、国民の希望に合致した朝鮮政府を樹立するために、総督府の権限が委員会に渡されるよう総督府に提案した。総督府は現政府は解体されず、日本人の軍人および文官が職にとどまるのを妨げられないという了承の下に、これを承諾した。
 この建国準備委員会(建準)の委員長は呂運亨、副委員長は安在鴻および許憲(後に参加)、組織部長には鄭柏を推して、民主主義独立国家の建設準備に邁進するとともに、また、当時の朝鮮総督府とも治安維持に協力するという条件の下に、事実上総督府の権限移譲を受けたかのような具体的活動を行うに至った。
 翌16日、建国準備委員会は、ラジオを通じて具体的な建国方針を朝鮮市民に訴えた。この呼びかけに応じて、朝鮮各地では続々と各地の準備委員会が組織され、会社・工場・学校・新聞社・警察署などを接収して、急速に朝鮮市民自身による自治、自主管理が推進されていくようになった。また、解放から旬日も経たないうちに、朝鮮全土の道、府、市、郡、面から洞・里(部落)にいたるまで、民衆の手で建国準備委員会の下部組織と保安隊が作られた。
 また、すでに8月15日の翌日、朝鮮のすべての刑務所から膨大な数にのぼる政治犯、思想犯、独立運動の闘士たちが一斉に釈放されていた。こうして、長い他民族支配下での政治的抑圧と弾圧の暗雲が突如として晴れ、朝鮮半島は、その津々浦々まで政治熱に沸き立つことになった。また、無数の地方組織、政治集団、政党、労働組合、各種委員会や同盟、独立運動の地下組織等が連日のように、地下潜行から表舞台に飛び出して再建され、また新しく産声をあげていった。
 このような8月15日以後の朝鮮政情において、その後の数ヶ月間、南北朝鮮政治の中心となったのが、呂運亨の指導する建国準備委員会と、日帝警察にとってかわった治安隊・保安隊なのであった。

 (五) 左翼政治活動家の大量出獄
 しかし、この建国準備委員会は、当初は中道左派的な名士中心の中央組織であり、呂運亨自身も自由主義的な左派であった。だが、8月16日に数千人の独立運動の闘士、朝鮮人政治犯が日帝の監獄から釈放されたため、その強力なエネルギーが建国準備委員会各支部に急激に注ぎ込んだ。
 また、戦前・戦中の独立運動家には、とくに植民地主義・帝国主義反対の立場から左翼的な活動家が圧倒的に多かった。そのため建国準備委員会は、これらの強力な、古い活動歴を持つ独立闘士たちが主導権を握るようになり、北朝鮮においても、南朝鮮においても、たちまち左傾化していくことになった。
 また逆に、右派的な立場にある者は、国外亡命によって、独立運動を行い軍事組織より抗日戦を行っていた者は別として、一般にブルジョア階級に属して保守的立場にあった。あるいは日帝時代に、朝鮮総督下級官吏あるいは朝鮮人警官として雇用されており、結果として対日協力者として反民族的立場に立っていた経歴の者も相当に多かった。したがって、日本敗戦による解放直後の政治活動の前面からは、民族反逆分子として糾弾され、排除される場合が多かった。そのため、この時期の朝鮮政情は、国民感情からも、民族主義の立場からも圧倒的に左派が優勢であり、容易に左傾化した。
 このような政情の傾向の結果、共産主義グループは8月末くらいまでには、建国準備委員会のある程度の部分を掌握した。そして9月3日には、古くからの社会主義指導者である許憲を建準副委員長に就任させる経緯となった。しかし、そのため同委員会はその後の活動過程において、やがて急進派と穏健派間に意見対立が生じて、その右派である建準副委員長であった安在鴻は、9月1日脱退した。この流れの勢力は、韓国民主党および朝鮮国民党などの新党を組織する方向に進むことになった。
 だが委員会にとどまった急進的な左派は、呂運亨、許憲を中心として再出発。当時の南朝鮮政情において、極めて顕著な組織的活動を示した。
 この解放直後朝鮮政情の中心であった呂運亨の指導した建国準備委員会とその傘下の各地の地方委員会の系統の政治勢力は、やがて9月9日のアメリカ朝鮮派遣軍(第二十四軍団)の仁川上陸の前々日の9月6日には、ソウルで「朝鮮人民共和国」としての国家樹立宣言を行い、以後、1945年夏から晩秋にかけての数ヶ月の間に、当時の南北朝鮮最大最強の政治組織として、事実上の国民政府としての影響力を南北両地域におよぼすことになった。

 (六) 建準から人民共和国樹立
 すなわち建国準備委員会は、アメリカ軍先遣隊の仁上陸が二日後に迫った9月6日に、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、全国人民代表社会を開催した。これには、北朝鮮の代表も参加した。その結果、建国準備委員会を発展的に解消して、南北朝鮮を合一して社会主義的傾向を有する「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議した。
 翌7日、朝鮮人民共和国臨時組織法を上程採択して、その成立を宣言した。また、中央人民委員会を組織して中央執行委員会12名、人民委員55名、候補委員20名、顧問12名が選任された。さらに9月14日には、共和国政府の組閣完了を発表した。これには南北朝鮮、左右両派、内外の有力な人材の名を連ねてあって、主席には当時アメリカに滞在中の李承晩、副主席呂運亨、国務総理許憲、内政部長金九、外交部長金奎植、軍事部長金元鳳、財政部長曺晩植、保安部長崔容達、文教部長金性洙、宣伝部長李観述、その他司法、経済、農林、保健、逓信、交通、労働の各部長を決定し、書紀長には
李康国が就任することになる。
 また、その建国初期政府の組織、政綱、施政方針を決定した。その発表された閣僚名簿は、つぎのようなものであった。 

主   席 李承晩
副 主 席 呂運亨
国務総理 許 憲
内務部長 金 九 ・・・代理 趙東祐 金桂林
外交部長 金奎植 ・・・代理 崔謹愚 姜進
財務部長 曺晩植 ・・・代理 朴文奎 姜炳郁
軍事部長 金元鳳 ・・・代理 金世鎔 張基郁
経済部長 河弼源 ・・・代理 鄭泰植 金泰植
農林部長 康基徳 ・・・代理 柳丑蓮 李珖
保健部長 李万珪 ・・・代理 李延允 金占権
交通部長 洪南杓 ・・・代理 李舜根 鄭鐘根
保安部長 崔容達 ・・・代理 武亭、 李基錫
司法部長 金炳魯 ・・・臨時代理・許憲、代理・李承燁、鄭鎮泰
文教部長 金性洙 ・・・代理 金台俊、金起田
宣伝部長 李観述 ・・・代理 李如星、徐色錫
通信部長 申 翼 ・・・臨時代理・李康国、代理・金錣洙、趙斗元
労働部長 李胄相 ・・・代理 金相赫、李順今
法制局長 崔益翰 ・・・代理 金竜岩
書 記 長 李康国 ・・・代理 崔星煥
企画部長 鄭 柏    

 つまり、かつての抗日独立運動が、反日という一点において、容易に共産主義運動と一致した歴史的経緯もあり、この「朝鮮人民共和国」の政権構想と閣僚編成は、名目的には在アメリカの李承晩、在重慶の金九らの右派民族主義指導者から、国内、国外の共産主義者まで網羅されていたが、実質的には、呂運亨ら国内中道左派指導者と、朴憲永ら国内共産主義者、とくに長安派共産党系が連合して、やがて、その実権を掌握していたとみられた。

 

 
 

 

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