真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の戦争指導層公職追放解除とアメリカの外交戦略とメキシコ革命

2022年09月14日 | 国際・政治

 先日の朝日新聞デジタルに、注目すべき記事がありました。
 大阪府泉南市の市議会定例会の一般質問で、添田詩織市議が、市が採用している国際交流員について、「市民目線でいえば、中国籍の方が就くのは大丈夫か、ありえへん、怖いという声がある」と述べたというのです。国際交流員は市内の小中学校に通う外国人の児童・生徒への通訳や異文化交流の授業を担当するのだそうですが、その4人のうち1人が中国出身だので、それを問題にしたようです。その発言を、中国人に対する差別的な発言であり、市議会が謝罪と反省を求める決議をしたということですが、添田氏は、「決議の手続きは市議会規則に反しており違法だ」として、市議会の広報誌に決議内容を掲載しないよう求める仮処分を大阪地裁に申し立てたというのですから、少しも反省していないということではないかと思います。
 ”怖い”というような声があったら、適切な指導をするべき市議が、自身の発言について「市民の懸念を代弁したに過ぎない。市民の暮らしと安全を守るためのもので、差別やヘイトというのは筋違いだ」と主張したともいいますが、私は、恐ろしい考え方だと思います。
 ユネスコ憲章に、下記のようにあります。
”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。”
 文部省の検定に基づく教科書による教育や自民党政権の政治、また、さまざまなメディアの報道などによって、日本の若者の心の中に、すでにこうした中国との戦争が生まれてきているように思います。

 また、沖縄県の知事選に勝利した玉城デニー氏が、沖縄の基地問題に関して、”平和的な外交努力が最も重要。しかし有事を想定して住民の分断を煽り、合意すら得られていないミサイル基地の整備や、計画ありきのその状況が進んでいくという事は、これは沖縄県としても到底認められない”と語ったことを受けて、”有事の想定さえしない。県民の命など守る気なし。国防意識、危機管理ゼロ。”などとツイッターで呟く人や、それに同調する人たちも少なくないのが現状のようです。
 世界大戦で、大変な戦争犠牲者を出して生まれた「国際連合憲章」に、
すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
 と定められたことなど、すでになかったかのような深刻な状況になっているように思います。

 さらに先日、在日コリアンが多く暮らす、京都府宇治市のウトロ地区の空き家などに放火した有本被告は、求刑通り懲役4年の実刑判決受けたということですが、取材した東和香奈記者に、「韓国人は悪。そうした思想があることは否定できません」と語ったといいます。
 でも彼は、実際には在日コリアンと接触はなく、在日コリアンの「特権」の問題に関する事実確認などもきちんとしてはいなかったといいます。だから、日本社会に存在する在日コリアンに対する偏見や嫌悪感に影響されて、事実上一人で、韓国との心の中の戦争を実行にうつしたといってもいいと思います。
 京都地裁の「在日韓国人の出自を持つ人に対する偏見や嫌悪感からの身勝手な犯行動機は悪質。酌むべき点はない」との判決や、求刑通りの4年の実刑判決は当然だと思いますが、見逃してはならない問題は、どうしてこうした偏見が生まれ、嫌悪感を抱く人たちがいるのかということだと思います。

 私は、戦後、日本の政府が真摯に歴史の事実に向き合わず、歴史を日本に都合よく修正したこと、そして、その修正された歴史が、日々子どもたちに教えられていること、さらに、自民党政権の中国や韓国を敵視するような日々の外交姿勢、また、政府見解に沿ったさまざまなメディアの報道などによって、日本の若者の心の中に、中国や韓国との戦争が生まれてきているように思います。

 だから、私は、控えめ過ぎるように思いますが、東和香奈記者の
ヘイトクライムについての法整備を欧米諸国のレベルにまで持っていく必要はあると感じましたが、それだけではなく、そもそも「差別はいけない」といった部分や正しい歴史認識について、日本の教育はまだ伝えきれていない部分があると感じました。法整備と教育、どちらも進めていく必要があると思います
 という結論は正しいと思います。

 そしてその”法整備と教育”が進まない原因の一端が、過去の戦争指導層の考え方を受け継いでいる自民党政権の歴史修正主義にあることを、私は見逃してはならないと思うのです。
 たとえば、今回「国葬」が問題視されている安倍元首相の主導で進められた、2015年の「慰安婦問題日韓合意」なども、明らかに歴史修正主義に基づくものであり、日本に都合よく、「慰安婦問題」を歴史から葬り去ろうとするものであったと思います。
 それは、この「慰安婦問題日韓合意」が、当事者を脇に置いて、日韓両国の政治家によって合意され、公式な条約としてではなく、また国際的なルールに基づく文書の交換などもすることなく発表されたことにあらわれていると思います。
 そうした歴史修正主義の考え方は、「あいちトリエンナーレ2019:表現の不自由展・その後」での《平和の少女像》展示阻止の動きなどとして表に出てきたこともありました。
 河村たかし名古屋市長は、《平和の少女像》の展示を”どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの”と発言しましたが、それは歴史的事実をなかったことにするような主張であり、明らかに歴史修正主義の立場の発言だと思います。そうした発言が、若者に韓国に対する偏見や嫌悪感を抱かせることになっているように思います。

 日本政府のこの歴史修正主義は、自民党政権が過去の戦争指導層の考え方を受け継いでいることを示していると思います。そしてそれは、アメリカが戦争指導層の公職追放を解除した結果、広まった考え方だと思います。
 だから、現在の自民党政権は、過去の歴史を都合よく修正し、子どもたちに歴史の真実を伝えようとはしていない面があると思います。
 また、日本がアメリカに対して、法や道義道徳に基づく正当な要求をすることができず、主権を放棄しているかのように隷従するのも、戦争指導層がアメリカによって公職追放を解除され、政界や経済界などに復帰して、政権中枢を支えることになったからだと思います。

 最近の日中関係や日韓関係、また、国内のさまざまな差別問題が、アメリカの対日政策に端を発するものであるを、私は、アメリカの対外政策や外交政策と関連して考えるべく、今回は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)にあたりました。
 そうしたら、やはり下記のような記述がありました。
この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人(当時のマデロ大統領夫人)に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。

いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである

 アメリカは、ラテンアメリカに限らず、いたるところで、独裁政権を支援したり、軍事政権を誕生させたりしていますが、日本における戦争指導層の公職追放解除は、そうした対応と同じようなものであると思います。
 アメリカが、独裁政権を支援したり、軍事政権を誕生させたりするのは、独裁政権や軍事政権の方が、影響力を発揮しやすく、利益を得るのに好都合だからではないかと思いますが、アメリカにとっては、戦争指導層の考え方を受け継ぐ自民党政権は、独裁政権や軍事政権と同じように、ひそかに支配下に置くとができ、好都合なのだろうと思っています。
 下記は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)からの抜萃ですが、いつものように、漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したりしています。
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                   第一章 大農園主の革命

 アメリカ大使の陰謀と軍事政権
 堀口大学は、事件発生の数日前ウエルタに会っている。

 私が初めてウエルタ将軍を見たのは2月1日のことだった。彼はその数日前に、北辺の反乱を平定して凱旋したのであった。彼と彼の軍隊の入市式は市民を狂喜させた。2月1日には大統領がこの凱旋将軍の名誉のために、チャプルテペック宮殿に於いてレセプションを催して上流人士や外交官一同を招いたのであった。その日大統領はウエルタ将軍の手を取って客中をまわって「これが私の英雄です」と云って自ら人々に紹介してゐたものであった。ウエルタ将軍は、苦虫を噛みつぶしやうな顔をした一癖も二癖もありさうな黒眼鏡をかけた大男だった。嫌な手をしてゐた。
 この「英雄」が、その日からまだ20日とたゝぬうちに、マデロ大統領をおしこめて、裏切って、反軍に通じたのである。

 マデロの人のよさと、煮ても焼いてもくえぬウエルタの性格のちがいを堀口大学はちゃんと見抜いているが、この頃すでにウエルタにはマデロにふくむところがあった。
 オロスコの反乱を鎮圧するために派遣された部隊の軍費から3万ペソの使途不明金が発見され、そのことをマデロに追及されたウエルタは、「わしは帳簿係なんぞじゃない」といって誤魔化したものの、面目を潰されたとして怒っていたのである。
 大統領として権力を握ったウエルタは、政府官僚と軍に忠誠を要求、これに同意しないマデロ派の一掃にのりだし、数日間で百人以上を逮捕、処刑してしまった。そして、その後もウエルタ政権に協力しない政治家、議員たちの逮捕、銃殺が続いたが、それも面倒になったのか最後には批判的な下院議員130名のリストを作り、一斉逮捕を命じている。うち84名が逮捕され、他はいち早く雲隠れしてしまった。こうして上・下院は解体され、裁判所も閉鎖、ウエルタの軍事独裁制がしかれることになった。クーデターの発案者であるウエルタと取り引きして次期大統領となる野心を燃やしていたフェリックス・ディアスも、老練なウエルタに太刀打ちできず、グスタボ・マデロにかわる親善大使として体よく日本へ追っ払われる始末だった。
 この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。彼は典型的なドル外交の信奉者であり、帝国主義者、革命ぎらいの共和党の超保守主義だった。ワシントン州の共和党の幹部である兄のジョン・ロック・ウイルソンを通じて、アメリカ実業界と密接な関係があり、兄自身の投資先の会社がメキシコに製鉄所を所有。それがマデロ一族の所有する製鉄所と競合関係にあり、なにかとマデロ政府の存在が目ざわりだった。
 しかし、そうした個人的利害以上にアメリカそのものがメキシコに莫大な権益を保持、その権益を守り抜こうという強固な国家意思をもっていた。1910年まで、アメリカ資本が最も多く投下されたのがメキシコであり、アメリカ資本は、メキシコの鉄道の三分の二、鉱山の76パーセント、製鉄業の72パーセント、石油の58パーセントを支配、またゴム園、農園、牧場、森林の68パーセントを所有するなどして、メキシコの富の半分以上を支配していたといわれる。
 自身が新興民族資本の一員でもあるマデロの自国民、自国資本優先の民族主義的政策は、アメリカにとって不都合だった。また、地方の反乱に悩まされたリ、たえず方針が変わるマデロ政府の不安定さは、メキシコでのアメリカ企業の経済活動にとって障害だった。ウイルソンは、そこでアメリカに都合のよい強力な政府の出現を画策、クーデター計画を後援したのだが、それは別にメキシコにかぎったことことではなかった。いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである。
 銅山に巨額の権益をもっていたアメリカが軍部と共同でアジェンデ大統領を殺害、民族主義的な人民連合政府を倒したチリの1973年の反革命はあまりにも有名だが、この当時、19世紀末から20世紀はじめにかけてのアメリカ政府のやり方はもっとも露骨だった。
 もともとアメリカという国は、白人入植民が先住民インディアンの土地と富(野牛など)を奪うことで出発、さらにフランス、スペイン、メキシコなっどと戦争するたびに領土を拡張、そして、その後、工業化に成功すると工業製品の市場を獲得するため、また工業化で蓄積した膨大な資本をとうかしてさらに利益を上げるため投資先を求めて、カリブ海諸国から中南米諸国へ帝国主義的な支配を強め、それで強勢化していった国である。
 インジアナ州選出の上院議員アルバート・ピヴァリッジは1897年、公然と「アメリカの工場はアメリカ人が使用しうる以上の製品を製造している。アメリカの大地は国民が消費できる以上の作物を生産している。われわれがとるべき政策は定まっている。世界の通商はわれわれのものでなければならず、また、そうならせることになろう」と表明、事実、その言葉通りになった。
 たとえば、キューバの独立を援助することを名目に始まった1898年のスペイン・アメリカ戦争では、「スペイン国旗がキューバの空から引き降ろされる前から、早くもアメリカの実業界は進出を始めていた。商人、不動産業者、株屋、山師、その他のあらゆる金もうけの計画をかかえた商売人たちが何千人となくキューバに群がってきた」という有様だった。そして数年のうちに三千万ドルのアメリカ資本が投下され、ユナイテッド・フルーツ社はキューバの製糖産業に進出、エーカーあたり20セントで190万エーカーを買収、また1901年までキューバの鉱石輸出の80パーセントがアメリカ人の手に、主としてベツレヘム・スチール社に握られてしまっていた。
 そして、この権益を守るためキューバ占領中のアメリカ軍は、合衆国議会を通過したプラント修正条項をキューバ憲法制定会議にむりやり押しつけた。その修正条項とは「キューバの独立を保全するため、また、生命、財産、および個人の自由を保護するのに適切な政府を維持するために介入する権利」をアメリカ合衆国に与え、さらに特定の地点に石炭補給地もしくは海軍基地をアメリカ合衆国が獲得することを定めたものだった。
 同様のことが、プエルトリコ、ドミニカ、ハイチ、そしてメキシコに起こった。アメリカ政府は自国の権益を守るため、砲艦で脅し、海兵隊を上陸させ、軍の反乱、陰謀に手をかし、植民地としたり、保護領としたりして、意のままになる政府をつくろうとした。反革命成功直後、ウエルタはそうしたアメリカに迎合する電報を合衆国大統領ウイリアム・ハワード・タフトに打っている。
「私がマデロ政権を打倒したことをあなたにお知らせできるのは光栄です。国軍は私を支持しており、これより平和と繁栄が回復されるでしょう」
 
 ウエルタはアメリカ大使と組んでできたこの新政権が、どの国よりも先にアメリカ政府に承認されると信じていた。ところがアメリカは最後まで承認しなかった。反革命直後の1913年3月、共和党出身のタフトにかわって民主党出身のウッドロー・ウイルソンが新しく大統領に就任、共和党支持の超保守主義者ウイルソン大使との関係が悪化、承認がのびていたところにアメリカ海軍がベラクルス港市を占拠するという事件が起きてしまったからである。また、ウエルタがタフトに約束した、メキシコの平和と繁栄の回復も反古になってしまった。平和と繁栄が回復されるどころか、メキシコ始まって以来の大規模な内戦と破壊が始まってしまったからである。
 国立宮殿の一室に逮捕監禁されていたマデロに対して、アメリカ政府はウエルタを支持していると告げて観念させ、大統領辞任に踏み切らせたのはアメリカ大使だが、そのあと見舞った親しいキューバ人外交官にマデロはこう語ったという。
 「もし、もう一度政府をつくることができたら、自分の周囲には果敢な実行力のある者たちを集めるつもりだ。……私はとりかえしのつかない失策をおかしてしまった。……が、ときすでに遅しだ」
 理想主義者マデロは「自由」と「民主主義」を説きはしたが、そのために必要な改革を実行することができなかった。それを実行力のない側近たちのせいにしているが、彼自身が、サパタが怒ったように、統治能力に欠けていた。指導力も欠けていた。にもかかわらず革命の最高指導者の地位にまつりあげられてしまったところに、マデロの悲劇があった。
 彼はもともと大農園主の息子であり、有産階級出身の良心的な改良主義者、伝統的な自由主義者にすぎなかった。社会改革家でも、革命家でもなかった。ところが、マデロには不思議なカリスマ性があり、そのカリスマ性が、30数年におよぶディアスの長い独裁の反動として人びとが解放をいっせいに求めたこの時代にあって、マデロを一気に革命の英雄、革命の最高指導者にまつりあげさせてしまったのだ。
 マデロのカリスマ性は、長くしいたげられてきたメキシコの貧しいインディオ・農民の心に発したものであり、マデロが彼らとは無縁の生活を送ってきたにもかかわらず、彼を心から敬愛させてしまった。おそらく人びとはマデロの禁欲的で純粋な性格の中に、他の支配階級の誰も持っていない自己犠牲の精神を見たからだろう。そして、その自己犠牲の精神をもって、マデロが自分たちインディオ・農民の悩み、苦しみ、窮状に耳を傾けてくれるものと信じたのだ。
 ところが、マデロは、確かに禁欲的で人道主義的だったが、インディオ・農民のおかれた窮状、困難、矛盾を正しく理解したり、同情を示したりせず、またできなかったのである。1911年、かつての同志リカルド・フロレス・マゴンが「マデロは、自分の大農園のペオンの汗と涙で信じがたいほど財産を増やした富豪である。そしてマデロ一派はアメリカ合衆国と同じブルジョアジーの共和国をつくるため戦っている」と手厳しく批判したように、マデロは根っからの大農園主であり、資本家だった。インディオ・農民のために自分の土地を解放するような自己犠牲の人ではなかった。
 マデロは、くりかえし民主主義の確立と個人的自由の保障、生命、財産の保護を訴え、そのことの重要性を国民一人一人が自覚できるようになるための教育制度の充実を重要な政策とした。が、貧しいインディオ・農民が生きていくための「今日のトルティーリヤ(パン)」と「明日の土地」を保障する改革には冷淡だった。むしろサパタに対してそうであったように抑圧する側にまわった。
 マデロが望んだのは革命でも、改革でもなかった。彼が望んだのはメキシコの近代化であり、メキシコ経済の繁栄だった。そのためには、政治活動の自由、経済活動の自由さえ回復すれば、あとは自動的にうまくいくと考えた。
 ところがマデロ革命の勢いとマデロが約束した自由は、それまで独裁下で抑えられてきたあらゆるエネルギー、不満、怒り、夢を一気に解き放ってしまった。パンと土地を求める農民、権利と保護を求める労働者、自由競争を求める新興商工階級、復権を夢見る大農園主、カトリック教会、特権を守ろうとする外国資本、義勇兵を排除しようとする国軍幹部……そのどれにもいい顔をしようとしてマデロはどの階級、どの階層にも失望感を与えることになった。そのためサパタの反乱、オロスコの反乱、レイエスの反乱、ディアスの謀反などがつぎつぎ起こり、マデロ政府の威信は地に落ちていた。そして最後に、軍部の反乱からウエルタの反革命を招き、マデロは鶏の首をひねるように殺された。
 殺されたとたん、しかしそれまで八方美人で優柔不断、無能な男と悪しざまに言われていたマデロが、不思議なことに雄々しくよみがえってきたのである。人がいいばかりで、メキシコ人好みの「男らしい男」のかけらもないと言われてきた男が、再び英雄として、民主主義の犠牲者、革命の殉教者として、あれよあれよというまにインディオ・農民たちにまつりあげられていったのである。
 ニ年前、大農園主の息子でありながら、インディオ・農民から改革の夢を託されたように、今度もまた改革の抑圧者でありながら、マデロは虐殺されることで革命の殉教者としてインディオ・農民の心に長く生きつづけることになったのである。メキシコ革命でマデロほどその実体とイメージとがかけ離れた人物はいないかもしれない。
 しかしそんなことにおかまいなく、メキシコ各地で、マデロの死に報復を叫ぶ農民、マデロに栄光あれと喚声をあげるインディオがぞくぞくと立ち上がり、それがしだいに大きな波へ、大きな渦へと勢いを増していった。首都から遠く離れたチワワ州の山村で、ソノラ州の漁村で、ユカタン半島の密林の村で、オアハカの谷の村で、死ぬことで雄々しくよみがえったマデロのために革命の継承を誓って人びとは歌った。

奴らは打ちのめした
気絶するまで 
残酷なやり方で
彼を辞任させた。

しかし すべては無駄だった
なぜなら強い勇気は
むしろ死を選んだからだ
その偉大な心意気!

それが命の終りであった
救済者マデーロの
インディオ共和国と
全ての貧乏人の救済者の。(「反乱するメキシコ」)


 

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