日韓関係の悪化を乗り越えるためには、やはり歴史の事実をしっかり踏まえることが欠かせないと思います。歴史認識の溝を埋める作業なしに関係改善を図ることは難しいと思います。
したがって、浮島丸の沈没事件を闇に葬るような姿勢は、改める必要があるのではないかと思います。
浮島丸の乗組員その他の関係者の証言や記録を読むと、様々な情況証拠によって、帰国を望む多数の朝鮮人徴用工や朝鮮人家族を乗せた浮島丸が、舞鶴港で意図的に沈められた可能性が大きいと考えざるを得ないのです。
「浮島丸釜山港へ向かわず」(かもがわ出版)の著者・金賛汀氏は、いろいろな関係者の証言を取り上げているのですが、その一人、元海軍上等兵曹国藤八郎の下記の証言にも、見逃すことのできないことがあります。
「私は舞鶴港で浮島丸が沈没した時、船体に体をたたきつけられ、そのまま海に落ちまして。漁船に助けられ海岸に上がった時は気絶したまま意識不明だったので、死体と一緒に並べられていたんです。気がついて声を出したのですぐ海軍病院に運び込まれたんですが、声を出していなかったら、あのまま御陀仏ではなかったですか。その時足をケガして、以来不自由になったんですよ。
あの航海がなかったら、私も元気に五体満足な体で復員できたでしょうに、日本敗戦後の負傷ですから何か腹が立ってしかたがないんですたよ。
七年ほど前、NHKが浮島丸の沈没を扱った『爆沈』というドキュメンタリーを作り放映しました。その時、NHKの人たちの取材にも応じたのですが、仲間たちは、あんまり何でもかんでも話していいことはないから適当にしとけよ、と忠告してくれたし、私も何もかも言う気持ちはないので、うんうんとその忠告を聞いていたんです。
それが、『爆沈』を見てものすごく腹が立ったことがあるんですよ。それは大湊警備府司令部の首席参謀の言動です。
我々に釜山まで朝鮮人の輸送を命令した当人の、首席参謀の永田茂元大佐が『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』と言い張っている姿を見てものすごく腹が立った。何だ、お前らの命令で出航した俺は足を失ったのに、それが何の責任もないとは何だ。そう思ったとたん、海軍の名誉のために海軍を悪くいわれるようなことはできるだけ黙っていようという気持ちなんか、なくなってしまったんですよ。
……俺なんか、舞鶴で足に大ケガをして使えなくなったから、働くにしても人より苦労が多かったし、そんな苦労をしてもちょっとも生活が楽にならなかった。そんな気持ちはあったが、それを外に出して人に言ったりすることもあまりなかった。
けど、『爆沈』の放映や、浮島丸沈没の原因にいろいろ不審な点があるという雑誌なんかの記事を読むと、そんな苦しい生活を強いた原因──浮島丸の沈没原因はきちんと知りたいと思うようになりましてねえ……」
・・・
「正直いって『爆沈』の取材・放映の時──1977年まで、浮島丸の沈没が乗組員による自爆なんてことは考えたこともありません。発表されたとおり、”触雷”沈没だと思っていました」
・・・
「さあ──。俺はずーっと触雷だと思っていたし、自爆なんてNHKの放映の時、そんな噂があると初めてしったぐらいだから……よくわからないな。おかしいことはいっぱいあったんだが……」
国藤上等兵曹の仲間が、「あんまり何でもかんでも話していいことはないから適当にしとけよ」と忠告したのは、なぜなのか。浮島丸沈没について、いろいろな噂があることを考えれば、沈没原因をはっきりさせるために、知っていることは全て話した方がよいと、なぜ考えないのか。
また、触雷沈没であれば、事実を語ったほうが、責任を免れるために有利なはずなのに、首席参謀はなぜ、『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』と主張するのでしょうか。やはり何か、語りたくない、あるいは語れない事実があるのではないでしょうか。
・・・
下記の証言にも、いくつか考えさせられることがあります。
”不沈特務艦”浮島丸
・・・
その「不沈特務艦」が敗戦の玉音放送を聞いたのは、津軽海峡を航行中のことである。
「戦争は終わったんだから、すぐ復員できる、故郷に帰れる、というのが全乗組員の気持ちだったと思うのです。浮島丸は一人も職業軍人が乗っていない艦なので、艦長以下全員が、母港に帰ったら復員だという気持ちになっていました。
大湊に帰ってきたのはたしか18日です。
乗組員たちは復員できると考えていたので自分の荷物を整理し、いつでも復員できるようにしていたのですが、次の日、召集解除という予想とは違って、朝鮮半島の釜山に向かって出航という命令が下っていたんですよ。
そんな命令が下っているとは知りませんでしたが、どこからともなく噂になって浮島丸は釜山に行くんだという。真偽がはっきりしない。それで、艦長に聞こうということになったんだ。私は艦長と同じ千葉県の出身ということで親近感があったから聞きに行ったら、釜山行きの命令が出ているというんだ。
そんな馬鹿な、と兵隊たちが騒ぎ出した。戦争が終わっているのに何で朝鮮まで行かなならんのか、ソ連が参戦していて朝鮮もソ連軍に占領されとるだろう、そんなところに行ったら俘虜になる、とかいろいろ言うんですよ。理屈はいろいろ言っていましたが、本当のところは戦争で沈められることもなく命びろいしたのに、何でまた出航しなならんのか、早く復員したいという気持ちですよ。
その日から、兵隊は出航しないというんで各分隊ごとに会議を開いて皆、強固に反対したんです。敗戦の日から、乗組員を縛っていた強い軍隊秩序は少しずつ崩れてきていましたが、この時には絶対的な命令関係や秩序は半分くらい崩れとったんですわ。皆、これからどうなるかわからない状態ですし、軍の秩序で痛めつけられた兵隊たちの反軍機運がみなぎっていましたからね。
分隊ごとの討議でも反対者が圧倒的でした。
そんな時、憲兵が乗り込んできて、反乱だ、命令違反だとか脅かしながら、軍法会議に回すとか言って、発言を全部記録したりしているんですよ。
大湊警備府は何としても命令を実行させようとする。乗組員は士官も含めて反対という状況で、艦内は騒然としていました。
私は甲板班長でしたが、部下の若い者の中には、『班長! 私は脱走します。止めないでください』なんて宣言して、脱走していく者もいました。たしかそんな兵隊が三名いたと思います。戦争中だったら考えられないことです。
え─私ですか。私も出港に反対でしたよ。復員するつもりでいましたから。ただ、私は艦長を信頼していましたので、艦長が行くと言えば行かないかんだろうとは考えていましたが。とにかく艦内は騒然としていました。
乗組員は全員出港反対ですから、大湊警備府でも手を焼いていたんでしょう。たしか8月21日だったと思いますが、総員集合で集まれというので全員が参加した席上、大湊警備府の参謀が『出航は命令である。最後の御奉公だから朝鮮の釜山まで行け』ということを言っていました。たしか千島から転属してきたので兵隊から千島参謀と呼ばれている参謀でした。
それでも皆が納得しないので、千島参謀が質問を許すと言ったんです。すると何人かが手を挙げて『終戦になったのに出航することはないのではないか』というようなことを言ったとたん、参謀が軍刀を抜いて『命令違反者は俺がたたき斬ってやる、前へ出ろ』とわめくので、皆黙ってしまって……。
そんなことで、結局その次の夜10時頃、浮島丸は大湊港を出港しました。
大湊港を出て沿岸ぞいに航海しましたが、敗戦で兵隊の気分が相当荒れていて、指揮・命令・秩序は崩れていました。特に下士官の中には戦時中、かなりひどく兵隊に”気合い”を入れていた下士官
もいたので、そんな下士官は恨みを買っていましたから、航海中に何人も兵隊から集団リンチを受けていました。
・・・
帰国する朝鮮人は船底から甲板まで満載でした。彼らが暴動を起こして船を乗っ取るのではないかということも言われていましたので、その暴動に対する備えとして、武装した兵隊の見張りも出していましたが、そんな気配もなくおとなしくしていました。
そのうち誰いうともなく、船は新潟に入港するのではないかという噂が流れました。が、新潟には入港することなく航行していました。その後、米軍から24日4時以降には航海をしてはいけないという命令が入ったというので、舞鶴港に入港することになったというわけです。
舞鶴に入港したらそこで朝鮮人も降ろし、自分たちも復員するのだというので、艦内は下船支度で雑然としていました。
入港する前に舞鶴港と連絡はとってあり、機雷は掃海ずみだから入港して良しという許可をもらっていたと聞いています。それに私たちの前を二隻の海防艦が入港して行きましたので、その後を従うように入港していったのです。
私は入港したら舞鶴からすぐ千葉県の故郷に帰るつもりで、手荷物を全部持っていました。湾内に入ってしばらくしたら、突然ドカーンときて、私は船体のどこかに足を強打され、海になげだされていました。……」
・・・
まず、浮島丸乗組員が、玉音放送を聞き日本の敗戦を知ったのが8月15日、そして大湊に戻ってきたのが8月18日、そして、復員を望み、声をあげる乗組員たちに、大湊警備府の参謀(千島参謀と呼ばれた人)が、軍刀を抜いて『命令違反者は俺がたたき斬ってやる、前へ出ろ』とわめき、浮島丸の釜山行を命じたのが8月19日です。でも、朝鮮人徴用工の徴用解除は8月21日です。だから、敗戦後に、それも朝鮮人徴用工の徴用解除前に、軍中央から釜山行の命令が下りてくることは考えにくいですし、もし、そうした命令があったのであれば、命令下達の経緯や内容を伝えれば、乗組員を脅す必要はないのだと思います。また、首席参謀は、”参謀なんて何の権限もない。責任もない”と主張するのであれば、浮島丸釜山行の命令の経緯や内容をを明らかにすべき責任があると思います。
さらに、大湊海軍警備府司令長官・宇垣完爾中将及び、参謀長・鹿目善輔少将が東京の軍司令部に出頭していて、大湊を留守にしていたというのですから、その後のことについては、首席参謀永田茂元海軍大佐は責任を免れることができない立場であったと思います。
やはり、浮島丸釜山行の意志決定は、首席参謀永田茂元海軍大佐を中心として、大湊海軍警備府参謀たちによってなされたと考えざるを得ないと思います。
また、釜山行を命ぜられているにもかかわらず、釜山に向かう航路をとらず、なぜ、沿岸ぞいを航海したのかということも疑問です。さらに、乗組員が復員する準備を整えていたことや、船は新潟に入港するのではないかという噂が流れたということなどから、何か隠されている事実があるのではないかと考えざるを得ません。
浮島丸機関長・野沢忠雄元少佐の証言も、航海のコースや沈没とのかかわりから見逃すことができません。
「18日か19日か記憶にないが、大湊の警備府の参謀から釜山だか鎮海だが、朝鮮に朝鮮人労務者を運んで行け、と命令が出た時、戦争は終わったのに朝鮮なんかにいけるか、というのが正直な気持ちでしたよ。
それは私だけなく、乗組員のほとんどがそう思っていたんじゃあないかな。
戦争が終る前はおとなしかった兵隊が、酒を飲んで『朝鮮に行くもんか』とわめいていましたからね。
戦争中の軍律だと考えられないことですが、艦内の軍律もだいぶ秩序を失っていたのと、それに今、朝鮮に行ったら帰ってこれないというせっぱ詰まった気持ちだったんじゃないかな」
・・・
「士官たちも朝鮮への航海は反対しておりましたからね。航海長(倭島定雄大尉)とは話し合って、エンジンや舵などの船の重要な部分を壊し、航海できない状態にしようと相談しました。
ただ大湊入港中にエンジンなどを故障させても、警備府から修理に来て、すぐ故障個所はわかりますから。それに船が航海できないほどの故障ということになると、それを故意に壊したということが発見できないようにするにはそんなに簡単ではないですからね。いずれにしろ、出港してからというようなことを、航海長と話したことは記憶しているんですが…」
鳥海艦長とともに、司令部に乗組員の一致した意見を伝えにいった木本与市上等兵曹や後藤兵曹長の話をまとめると下記のようになるという。
警備府から出港命令を受けた鳥海艦長は、直ちに出航するという返事ではなく、帰艦して浮島丸が出航できる状況にあるかどうか調査をしてみるというような返事をして、浮島丸に帰ってきた。
浮島丸では航海長、機関長らと協議したが、海図の不足、燃料の問題、特に機雷にひっかかり沈没する危険が強調され、艦長に出航は不可能であると進言、それらの士官の意見を持って鳥海艦長は再度司令部に出頭した。
鳥海艦長に出航を命じた大湊海軍警備府の参謀は、清水善治機関参謀(海軍少佐)と大熊通信参謀であった。
出航不可能を訴える艦長に、二人の参謀はさらに強く「天皇陛下の命令」と出航をせまる。艦長は兵隊たちの出航反対の気運をも説明するが、兵、下士官を説得せよ、と逆にその不服従を責められる羽目になる。
司令部からの出航命令を再々度浮島丸に持ち帰った鳥海艦長は、機関長、航海長、古参の士官ニ、三名、そして兵の代表として古参の下士官ら三人を呼び、士官室で司令部の命令についての協議を行った。
その協議の結果は、やはり「出航できず」である。
日本海軍の敷設した機雷海域や米軍の投下した機雷情報を記入した機密海図は8月15にに焼却されており、また、燃料の重油も不足していて、大湊に残っていた重油をすべていれても片道分程度の燃料しかなく、釜山に行ったら、帰れなくなるという心配があって、乗組員が出航できないと言っているにもかかわらず、参謀たちは触雷の危険を承知で、『危険があるからといって陛下の命令を拒否するのか、軍法会議にかけるぞ』と脅した、といいます。そして、『自分たちも戦争が終った以上、早く残務を処置し、復員したい』というようなことを言ったといいます。戦争責任を問われる前に逃げ出したいという思いだったようです。
神定雄元上等兵曹は、乗組員の思いを無視した参謀の姿勢を受けて、
「津軽海峡で(出航後に)機械を壊してしまおうではないか──。船が動かなくなるんだから、これは士官にもわからないから……」と証言しているといいます。
さらに、そうしたこととは別に、
”特に下士官の中には戦時中、かなりひどく兵隊に”気合い”を入れていた下士官もいたので、そんな下士官は恨みを買っていましたから、航海中に何人も兵隊から集団リンチを受けていました。”
というような軍隊内の問題も、浮島丸沈没の経緯に、何かしらの影響を与えていたのではないかと考えさせられます。
また、船底から甲板まで満載だったという朝鮮人が
”暴動を起こして船を乗っ取るのではないかということも言われていましたので、その暴動に対する備えとして、武装した兵隊の見張りも出していましたが…”
という証言は、浮島丸釜山行命令の真相を暗示するものではないかと思います。なぜなら、朝鮮人徴用工を奴隷労働といわれるような状態で酷使し、抑圧し、差別してきた日本の軍人や事業主に、報復を恐れる心理が働いても不思議ではないと思うからです。抜刀した参謀の強引な浮島丸釜山行の命令の背景に、そうした心理が働いていたのではないかと思うのです。
内務省警保局の『特高月報』1945年6月『流言飛語取締状況』には、日本人の朝鮮人についての流言として、「朝鮮人は空襲時に敵機を誘導するため火を発しているというもの」「B29には朝鮮人が乗って敵機を誘導しているそうだというもの」「朝鮮人は米兵歓迎用としてモーニングや背広を買いあさっているというもの」などがあったことを記しているといいます。朝鮮人を酷使し、差別し、抑圧したものほど、朝鮮人の報復や暴動に脅える心理が強かったのではないでしょうか。
大湊寄港──復員への期待
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横浜市の新興住宅街、港南区に浮島丸の操舵長・斎藤恒次上等兵曹を訪れたのは、台風が房総沖を去った初秋の晴れた午前中だった。
「敗戦の玉音放送は、青森港から函館港に乗客を乗せて運んでいる航海中に聞きました。
青函連絡船が全部沈められたので、浮島丸がその代わりの運航を命ぜられていたのです。青函連絡船の代役ですよ。民間の人をギューギュー詰めに乗せましてね。一航海に4000人以上も船底に詰め込むんですよ。だから船内は大変な混乱で、盗難騒ぎは序の口で、ひどいのになると強姦事件まであるという混乱ぶりです。
函館で客を降ろすのも、桟橋をやられていましたから、艀を艦に横づけして客を降ろすという状態でした。
函館に三~四日停泊して、それから母港の大湊に帰ったのですが、その時は乗組員はもう復員だというので、その準備をしていました」
この証言では、復員に関する思いとともに、”船底に4000人以上を詰め込”んだという証言が重要だと思います。また、当時、大湊警備府は、本土決戦に備えて大湊軍港を中心にした”下北半島の軍事要塞化”のため、大規模な防空壕や、地下倉庫の建設を急いでいたので、数千名の朝鮮人労働者が朝鮮各地から強制連行され、大湊に連れて来られていたという事実も、沈没による死者数を考えるときに忘れてはならないことだと思います。
無法・無秩序な大量連行
・・・
横浜地方復員残務処理部が作成した『浮島丸死没者名簿』には、浮島丸に乗せられ死没した朝鮮人労務者の所属名が記されている。最も多いのは大湊海軍施設部の徴用工員であり、その他の民間の土建、運送会社名が萩原組、地崎組、東邦工業、菅原組、宇佐美組、佐々木組、木田組、斎藤組、竹内組、鉄道工業そして日通大湊支店、と記されている。
・・・
上記の記述で、数千名の朝鮮人が働いていたということも納得できます。
六 意図=何のための送還
敗戦の衝撃による秩序の崩壊
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当時、大湊で小学校の教諭をしていた秋元良治氏は、
「海兵団にいた知人の中尉が日本の敗戦を知らせてくれた時、『自分たちは──少なくとも将校クラスは捕虜となって豪州あたりにやられるのは確実らしいですよ』と悲痛な顔をして話していたのが印象的ですね。若い将校クラスは皆、米軍捕虜となってひどい待遇を受けると考えていたようですよ」
と語り、大湊航空隊勤務だった予備学生出身の中尉、大山順道氏が「士官以上は全員死刑となり、その家族も米軍に処刑されるという噂が広まったので、私は脇野沢村に一時家族を隠したことがある」と語っていたことも話してくれた。
この証言は、前稿で触れた厚生省引揚援護局業務第二課長、中島親孝氏が発表した「浮島丸問題について」の中の
”終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した。”
という部分が事実に反し、”連合軍の進駐を恐れた”のは、実は日本の軍人や事業主など、朝鮮人を使役した日本人であったことを物語っているのではないかと思います。
また、日本の政府は敗戦後すぐに、終戦対策処理委員会を設置して、異境にある同胞をいかにして内地に帰還させるかの協議を重ね、8月30日「外地及び外国在留邦人引揚者応急措置要綱」を決定していますが、それとは逆に、祖国への帰還を求める多数の朝鮮人を放置できず、下記の「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置の件」を定め、 全国の地方長官に通知しました。それが、9月1日です。
したがって、敗戦3日後の浮島丸釜山行の意思決定は、やはり現地、大湊警備府の参謀たちによってなされたと考えざる得ないと思います。大湊警備府の参謀が『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』などということが、乗組員に受け入れられるとは思えず、国藤上等兵曹の怒りは当然だと思うのです。
さらに、日本政府も、敗戦によって仕事がなくなった土建労務者の輸送を先にしたり、平穏に待機するよう指導することを指示しているのは、やはり朝鮮人徴用工の集団による報復や暴動を恐れていたことを物語っているのではないかと思います。
下記の資料は、手書きの「朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件」(国立公文書館アジア歴史資料センター NO2 レファレンスコードA06030086000)の旧字体の漢字を、新字体に直して打ったものです。
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警保局保発甲第三号
昭和20年9月1日
厚生省勤労局長
厚生省健民局長
内務省管理局長
内務省警保局長
地方長官殿
朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件
一 関釜連絡船ハ近ク運航ノ予定ニアル、朝鮮人集団移入労務者ハ次ノ如ク優先的ニ計画輸送ヲナス 尚石炭山等ニ於ケル熟練労務者ニシテ、在留希望者ハ在留ヲ許容スルコト。但シ、事業主ニ於テ強制的勧奨セザルコト
(1)輸送順位ハ概ネ、土建労務者ヲ先ニシ、石炭山労務者ヲ最後トシ、地域的順位ニ付テハ運輸省ニ於テ決定ノ上、関係府県、統制会、東亜交通公社ニ連絡ス
(2)所持品ハ携行シ得ル手荷物程度トシ、有家族者ノ家族モ同時ニ輸送ス
(3)内地輸送中ノ弁当ニ付テハ考究中ナルモ可及的多量ニ携行セシメルコト
(4)釜山迄ハ必ズ事業主側ヨリ引率者ヲ附シ、釜山ニ於テ引渡シノコト
(5)目下ノ處輸送能力僅少(一日平均千名以内)ナルヲ以テ輸送完了迄ニハ相当長期間ヲ要スル見込ニ付其ノ間動揺セシメザル様指導スルコト
(6)帰鮮者ノ世話ハ地方興生会ヲシテ極力之ニ当ラシムルト共ニ下関ノ宿泊施設ニハ中央興生会経営ノ移入労務者教養施設ヲ利用セシムル方針ナルコト
ニ 帰鮮セシムル迄ハ現在ノ事業主ヲシテ引続雇傭セシメ置キ給与ハ概ネ従来通ト為スベキモ8月15日以降差当リ左ノ如ク措置スルコト
(一) 従前通就業スル者ニ付テハ事業主ヲシテ
(1)賃金ニ付テハ賃金規則ニヨリ従前通給与シ得ル如ク計算ヲ行ハシメ置クコト
(2)賃金ノ支給ニ付テハ当座ノ小遣トシテ必要ナル程度ノ現金ヲ本人ニ手渡シ残額各人名義ノ貯金トナシ事業主ニ於テ保管シ置クコト
(3)右措置ハ鮮内トノ通信杜絶ニ依ル已ムヲ得ザルモノニシテ将来帰鮮ノ際貯金ハ必ズ本人ニ渡ス旨ノ周知徹底ヲ図ルコト
(ニ〉休廃止工場事業場及操業工場事業場ノ移入朝鮮人労務者ニシテ就業セザルニ至リタルモノニ対シテハ事業主ハ差当リ標準報酬日額ノ六割以上ノ休業手当ヲ支給シ宿舎食糧等ニ付従来通リ取扱ヲナスコト
(今後ノ状勢ニ依リ右休業手当ノ支給ニ要スル費用ニ就テハ国家補償ノ途ヲ構ズルコトアルベキコト
(三)家族送金(補給金ヲ含ム)ニ就テハ別途指示ス
三 集団移入労務者ニシテ遊休ノ儘事業主ニ雇傭セラレアル者ニ対シテハ地方庁ニ於テ適宜道路工事・焼跡清掃其ノ他臨時作業ニ集団労力トシテ稼働セシメ差支ナキコト但シ此ノ場合ハ従来ノ事業主ト労務者ノ関係ハ其儘トシ一括之ヲ使用シ稼働場所ハ概ネ同府県内ニ止メ之ガ掌握困難ニ至ルガ如キ方面ヘノ転用ハ差控ヘルコト
尚此ノ場合ニ於ケル給与ニ付テハ昭和二十年七月三十日附ケ勤発第八四八号・二十管局第一ニ九号厚生省勤労局長及軍需省管理局長通牒「勤労協力ヲ為ス者ノ給与」ニ依ラシムルコト
四 一般既住朝鮮人ノ帰鮮ニ就テハ帰鮮可能ノ時機ニ至ラバ詳細指示スルニ付ソレ迄現住地ニ於テ平静ニ其ノ業務ニ従ヒ待機スル様指導スルコト
尚集団一般朝鮮人労務者ニ対シテハ可及的従来ノ雇傭主ヲシテ引続キ雇傭セシメ食住等ハ従来通ノ取扱ヲナサシメ就労先ナキ場合ハ可及的一括(組又ハ飯場毎ニ)他ニ転換セシムル様指導スルコト
以上
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