ひめゆり学徒隊の女生徒の手記を読むと、日本の戦争が、単なる戦争ではなく、世界に例のない異常で残酷な戦争だったのではないかと、あらためて思います。
敗戦間近で、あらゆる物資が不足していた上に、日本周辺の制空権や制海権を失っていたため、負傷した兵の治療がままならず、未成年の女生徒までもが戦場に狩り出されることになったのでしょうが、下記の久田祥子さんの手記を読むと、ひめゆり学徒隊の女生徒が体験した沖縄戦が、まさに「生き地獄」であったことがわかります。
身動きできない負傷兵が多く、傷口にウジ虫がわく状態で放置されており、女生徒たちは、不眠不休で、そうした負傷兵の世話や治療にあたったのです。
でも、当時の日本軍の上層部は、沖縄戦に限らず、それぞれの戦場がどういう酷い事態に直面しているのか、ということについては、ほとんど考慮せず、戦争を進めていたように思います。それは、個々の戦場で日本の兵隊や住民が、どんなひどい状況にあり、どんな思いで過ごしているのかは、問題にはならない国だったからだと思います。
「皇国日本」は、武器を手にして戦う兵隊ではない女生徒も、卒業式で、”海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ”というような恐ろしい歌を歌う国だったのです。
だから私は、なぜ、日本がもっと早く「降伏」しなかったのか、ということについて、「皇国日本」の思想や考え方の問題として、きちんと検証し、後世に伝えることが、とても重要な問題だと思うのです。
1941年、当時の陸軍大臣東條英機が示達した戦陣訓(陸訓一号)の「序」には
”夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。”
などとあります。当時の日本人は堅く”皇軍の道義”を持つことを強要されたのです。そして、
”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”(「第八 名を惜しむ」)
ということで、降伏することが許されない状態におかれました。だから、下記の手記にもあるように、大勢の女生徒や引率教師、沖縄住民が、追い詰められて、そうした教えに基づき自決しました。
垣花秀子さんの手記には”神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ”とありましたが、自決という痛ましい歴史的事実は”皇軍の道義”が生んだ人命軽視の考え方によるものだと、私は思います。
そして、当時の日本軍や政府の指導者が、”生きて虜囚”となったことも忘れられてはならないことだと思います。当時の日本国民は、”大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布”することが使命であったはずであり、それができず、現人神=天皇に敗戦の「玉音放送」をさせることになった当時の日本軍や政府の指導者は、「皇国日本」の教えに従えば、当然その非力と「負け戦」の責任を取らなければならなかったはずだと思います。
日本の戦争指導層が、連合国(敵国)の裁判を受け、戦争犯罪人(戦犯)とされることは、”皇軍の道義”に従えば、”生きて虜囚の辱”を受けることではなかったのかと、私は思います。
兼城喜久子の手記には、佐藤三四次部隊長(6月23日未明、牛島司令官とともに摩文仁で自決)が経理部全員に解散を命じたとき、
「いたらぬ私のために、みんなにご苦労をかけとおしてすまない。靖国の社でお待ちします」
と愛情のこもる最後のあいさつをしたので、”みんなはすすり泣いた”と書かれています。
同じように、日本軍や政府の指導者も、自ら現人神としていた天皇に対して、また、沖縄をはじめとする戦場で戦死したり、自決した将兵や住民に対して、敗戦の責任があるのではないかと思います。
ところが日本では、GHQによって公職を追放された戦争指導者が、その後の情勢の変化によって公職追放を解除され、再び日本の政界や経済界その他に復帰し、活躍しました。
そして、それが現在の日本国憲法を改正しようとする動きや「大東亜聖戦大碑」の建立、やりたい放題の安倍政治などとして、今に続いていることを見逃すことが出来ません。
自決すべきだとは思いませんが、戦争指導者の裏切りや無反省は許されないと思います。
下記は、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)から抜粋しました。
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陸軍病院の日々
十三 生き地獄の兵器廠
久田祥子の手記
十号壕に配置されてから二週間がたったころだった。私は美里キヨさんや糸数看護婦などと、照屋の兵器廠勤務を命ぜられた。天願(テンガン)軍医に引率されていった。南風原製糖工場前の道路には直径3メートル、深さ2メートルぐらいの弾痕があった。そのそばに軍服のまま兵隊がうつぶせになって、手足がちぎれ飛んでいるのに肝をつぶした。兵器廠に到着しないうちから、何かしら陰惨な気配を感じた。はじめての壕であり、ようすも全然わからなかった。私たちは軍医について壕に入り、さっそく治療をはじめた。入口の地べたに大勢の患者が重なりあっていて、足の踏み入れ場もなかった。ほとんど重傷患者ばかりであった。入口の左側にこれでも生きているのだろうかと思われる、顔面総つぶれの患者が虫の息で横たわっていた。傷ついてから長く治療もしなかったのであろう。顔面のほうたいは膿で黒くよごれきって悪臭が鼻をついた。
「ああきのどくに。こんな患者から早くみてやらなくては」
とさっそく消毒にかかった。いままでうめきつづけていた患者たちは、軍医が来たというので、静かに治療を待った。身動きができないほどぎっしりつまっていた。とこどき患者を踏みつけては大声でどなられた。患者は砂糖キビがらの上に横たわっていた。百人近くの患者をおおざっぱに治療をすませ隣の壕に移った。右側の壕は、くの字形の壕で、そこにも五、六十人ぐらいの患者がいた。左側の壕が小さく、二十人ぐらいの患者が収容されていた。ひととおり治療をすませると、もう夜が明けてしまった。軍医は本部に帰り、美里さんと二人は百名収容のまん中の大きな壕に配置された。糸数看護婦と、もう一人の看護婦は、各々左右の小さい壕に配置された。私たちはまず壕内の清掃からはじめた。患者を元気づけ、すわれる者にはすわってもらい、場所をかえてキビがらをかたづけた。二十センチぐらいもつもっているキビがらを空襲のあいまあいまに、外へはこびだすことは容易なことではなかった。
「どうしてこんなにたくさんのキビがらが積もっているの」
と患者にきくと、
「この壕はいつもほったらかされて、三日も四日も食事がないのだ。軍医も来ないし食事も来ない。ひもじさのあまり壕をはい出て、外の畑からキビを折ってきてかじっとるんだ」
という。五十メートルほどの壕内の清掃を終ったころは、すっかりくたびれてしまった。
三日めの夕方本部から軍医と看護婦二人が来て治療にかかった。糸数さんたちも手伝いに来た。仕事の分担をきめ、超スピードでほうたいを交換した。私はほうたいをとく係にまわった。膿が上まであふれて寝台の上にもたまっていた。
足をやられている患者、胴に傷のある患者、手をやられている患者、いずれもいっぱい膿をためている。手の骨をぐちゃぐちゃにやられている患者に、ちょっとハサミを入れると、悲鳴をあげる。いやな臭いと思ってハサミを入れてひらくと、ほうたいとほうたいの間をくぐって、膿の中からウジがむくむくとはい出る。胸がむかつくのをやっとがまんしてひらく。悪臭がぷうんと鼻をつく。頭からスーと血の気がひいて、患者のほうたいがしだいに見えなくなった。これではいけないと足を踏んばっていると、やっと正気づいた。つぎつぎと治療を進めているうちにまた気が遠くなる。昨夜からの不眠不休もたたったのか貧血しつづけた。
ほったらかされていた患者は、私たちが来てからは、大よろこび であった。
「女学生さん 便器」
「女学生さん 尿器」
とほうぼうから呼びつけられる。食事の世話から百名の患者のせわのいっさいを美里さんと二人でやらねばならなかった。夜どおし、
「女学生さん、女学生さん!」
と方々から呼びつづけられて、一睡もできなかった。三日二晩不眠不休で看病しつづけて、とうとう疲労は極に達した。今晩はどうにかして睡眠をとらねばと思ったが、寝所がなかった。中央の階段になっているところに荷物をおいてあった。そこにすわって寝ようとしたが、うとうとすると、
「女学生さん、女学生さん!」
と呼び起こされる。とうとう三晩の徹夜をつづけた。
明けがたになって、石垣兵長が来て、入口に梱包を横にして寝台をつくってくださった。不安定な梱包の上でやっと睡眠をとることができた。
壕の端と端では声が届かない。それで暇なときは、いつもまわっていなくてはならなかった。
「女学生さん、尿器」
という声に、カン詰カンを持っていこうとすると、途中でいきなり、
「水をくれ!」
と飛びつき、カン詰カンを奪いとろうとする者が出た。
「これは便器ですよ。水はありません」
とはらいのけると、
「水をくれないのか。看護婦は何をしていやがるんだ。水を汲んでこなければ、ここを通さぬぞ」
とたちはだかる。
「何をするんですか!」
私もかっとなった。
「今、真昼だということはわかって? 飛行機がブンブン飛んでいますよ。いくらなんでも砲弾の中に飛びこんでいって水を汲んでこいとおっしゃるの」
負けずに反抗したら、相手もだまってしまった。あとでわかったがそれは脳症患者だった。
兵器廠に来て四、五日たってから着弾は近く激しくなった。治療班はまわっても来ないし、交替の日になってもかわりは来なかった。夕方になり砲弾がとだえると、製糖工場の近くに水汲みに出かけた。
いれものがないので、患者の水筒をいくつも肩にかけて汲みにいった。一日一度しか水の配給はできなかった。かわききっている患者は餓鬼のようにガブガブ飲んだ。三回も四回もかよって、やっと一通りの配給がすんだ。食事用の水を汲むところからは、また夜の砲撃がはじまった。向かいの丘陵に砲弾が炸裂し、ズシンズシンと地ひびきが伝わったかと思うと、もう井戸の近くで炸裂する。ブルンブルンと耳もとをかすめ、ブスンブスン足もとに飛んでくる。前後左右に破片が不気味な音で風をきってブスブス土にささる。ほうほうのていでやっと壕に逃げ帰った。
本部の壕とはずいぶん離れているので、飯あげはいっそうつらかった。百名もの患者がいるので、飯はいつも不足がちだった。
着弾の激しい日であった。一晩中飯あげにも出られず、明けがた近くになってやっと出かけていった。ところが炊事場にいってみると、飯は各壕に配られてほんのわずかしか残っていなかった。それだけではとても二食分はなかった。とうとう朝食はぬきにして昼ごろ配ることにした。おにぎりにすると直径三センチぐらいのおしるこダンゴぐらいだった。
空腹をかかえてご飯どきばかり待っている患者に、一日たった一食、しかもこんな小さなおにぎりである。どうして配ることができよう。私には配る勇気がなかった。その日は兵隊さんにお願いして配ってもらった。もちろん私たちは翌朝まで空腹をこらえた。
入口近くにいた破傷風患者は、顔面をやられ背をそらしてはブーッと口から泡をふいていた。食事もとらず同じことをくり返して。もだえ苦しんでいた。もう一人の患者は久米島出身であった。背中がそり、アゴがあかなかった。美里さんはいつも親切にこの患者の食事のせわをしてあげた。
中央のまがり角から、
「女学生さん、女学生さん」
しきりに呼びつづけるのでいってみた。
「こいつがあばれまわっていたくてたまらないのですよ。つまみとってください」
と訴えている。肩の傷をひらいてみるとウジであった。
向う側の入口近くでおどけたように抑揚をつけて、
「ねえ、看護婦さん、看護婦さん」
と黄色い声で呼んでいる。
「どうしたの?」
と近づいてみると、土壁に向いた患者が、
「看護婦さん、看護婦さん、このハンカチは、この赤いハンカチは、私が満州にいったときにもらったものですよ」
やさしい声でいっている。かわいそうに脳症患者であった。数えてみると、十人の脳症患者がいた。通路にころげこんでいた一人の患者が、
「この沖縄戦において諸君はよく奮闘してくれた」
と軍隊口調でしゃべりはじめると、そのそばから、
「ほれほれ早く早く、ゆかんか、波止場さしてゆくんだ。あれ船がでる、船が、カンナを持って、ノコギリをかついで早く早く」
と早口調でいう。なれてしまうと、脳症患者もあいきょうがある。ところが上の段にいる脳症患者が小便をたれる。
「女学生さん、上の奴、おしっこをたれやがった。なんとかしてくれ」
と訴える。狂暴の脳症患者のそばにいる患者はたまったものではなかった。
「あいたたた! こいつ移してくれ、女学生さん頼む」
とせがまれても、ぎっしりつまった壕にはどこにも移す余地はなかった。
この壕に来てから一週間目の昼ごろであった。壕のはしっこで仕事をしていると、壕の中に一種異様な臭いがただよい、煙が反対側から流れこんできた。
向こう側でざわめいている。こんな真昼に炊飯をしているのだろうかと急いでいってみると、大勢たかってがやがやいっていた。
「ちくしょう、何のために陸軍病院などに来たのだ。バカヤロウ!」
とどなっている。
「どうしたんです? 」
とおそるおそるのぞくと、破傷風患者が、出口のほうで顔面をやられて、うつぶせになり、真っ赤な血が流れていた。右手は手のひらから吹き飛ばされ、五本の指の骨ばかりが残っていた。
「ばかですよ、信管をぬいていっちゃったんだ。危ないと思った瞬間、身をかわして、パッとふせたつもりだったが、傷ついた足が台の上に残り、左足はこれこのとおりまた傷ついてしまった。小さい破片がだいぶはいってしまった。こんなことで傷つくなんてばかばかしい」
とぶつぶついっていた。この兵隊は京都出身の吾妻という人だった。自決した患者を夕方になって埋葬した。腸が飛び出ていた。あまりの苦しさにたえかねたにちがいない。これが私の埋葬したはじめての患者であった。自らの手で命をたたねばならぬ苦痛。ああ感傷などにふけっているときではない。その日は患者の持っている手榴弾を残らずとりあげた。
そのころから糸数さんの壕から死人がつぎつぎに出て、私たちも埋葬の手伝いにいったが、多いときは十ニ、三人もいた。壕の前に弾痕ができたので、四、五人いっしょにほうりこんだりした。
兵器廠に来てから十日もたったのに、治療班はやって来なかった。本部連絡に石垣兵長についていった。うす暗い八号の本部壕にはいってゆくと、上原婦長がおられた。
「兵器廠から連絡にまいりました」
「ああ久田さんですね。ご苦労様でした。兵器廠はご飯もなく、寝るところもなかったそうですね。さあ、ご飯をうんとおあがり。今日は私の寝台にぐっすりお休み」
毛布を敷き、私の手をとってすわらせ、シイタケと肉のはいった大きなおにぎりを二つくださった。私は婦長の手をにぎりしめた。いままではりつめていた気がゆるみ涙がとめどもなく流れた。おかあさんのお顔が浮かんだ。これほど慈愛に満ち、実感のこもった”ご苦労様”ということばを私はこれまで聞いたことがなかった。兵器廠の苦労もすっかり忘れた。連日の疲労が一時に出たのであろう、その夜から四十度の高熱にうなされ、とうとう立てなくなってしまった。
陸軍病院はどの毫も陰惨ではあったが、兵器廠の壕ほど陰惨をきわめた壕は少なく、全くこの世の生き地獄であった。
その後、しばらくして吾妻という兵隊もとうとう自決したということを聞いた。
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